解決済みのQ&A
チンギス・ハン=源義経って嘘?本当?…理由と共にお答え下さい。
チンギス・ハン=源義経って嘘?本当?…理由と共にお答え下さい。
- 補足
- 期待したより賛成派の勢いがありませんね。nakanochurchさん。残念ながら貴方のご投稿は義経=チンギス・ハンの根拠になってません。投稿前段は単に《ある一族が大陸との交渉があった》だけの論旨です。弱い傍証でしかありません。後段に至っては義経=チンギス・ハン説の傍証にさえなってません。《軽々しく否定するのは禁物》というより、白紙答案を出されても採点のしようがありませんよf^_^;
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- 質問日時:
- 2010/11/14 18:59:40
- ケータイからの投稿
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- 解決日時:
- 2010/11/20 12:27:50
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- 閲覧数:
- 780
- 回答数:
- 7
ベストアンサーに選ばれた回答
d7301qeさん
「チンギスハン=源義経説」の大元は室町時代中期に書かれたと言われる御伽草子「御曹子島渡り」と言われています。
御伽草子と呼ばれるように完全な創作の話ですが、鎌倉時代~江戸時代にかけて約300年間おとぎ話として伝承されていて、今日のような「チンギスハン=源義経説」となるのは江戸時代以降です。
江戸時代に入り、幕府の蝦夷地政策とともに「義経蝦夷地渡航説」が流布したと言われています。
その為、岩手県から青森、北海道南部にかけては「義経北紀行」の足跡が残されていますが、大陸に渡った形跡は今もって発見されていません。
蛇足ながら他の人が水戸藩編纂の『日本史』に「"チンギスハン=源義経説"が掲載されている」と言ってましたが、「日本史」にはそのような記載はありません。
水戸藩編纂の「日本史」をベースに林春斎の書いた歴史書「本朝通鑑」に「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島共遺種存干今」と記述がありここから発生した誤解だろうと考えられます。
それから、水戸藩が「日本史」を編纂するに当たり、日本各地から儒学者を集めてますが、その中に"近江右衛門義綱"なる人物がいます。本名を"沢田源内"と言い、偽系図や偽の歴史書を書いていた男で、彼が水戸藩に提出した史料(全くの偽の史料)に「チンギスハン=源義経説」が書かれた『金史別本』があります。
『金史別本』はそれから「金史列将伝」「金小史」等と名前を変えて後世に伝えられます。新井白石等も「一度読んでみたい」と「折りたく柴の記」に記しています。
つまり、「チンギスハン=源義経説」は江戸時代に入ってから突然出てきた説話だと言う事です。
シーボルトが「チンギスハン=源義経説」を自身の著書『日本』で紹介しているのは事実ですが、あくまで噂話の一つとして紹介しているに過ぎません。これが仰々しく広まったのは伊藤博文の娘婿、末松謙澄がイギリス留学中に匿名で発表した論文が始めです。これは架空の参考文献を捏造する等かなり怪しい代物ですが、さらに明治18年(1885年)に内田彌八がこの論文を訳述した『義経再興記』、明治21年(1888年)には清水米州が編述した『通俗義経再興記』が刊行されています。
『義経再興記』は論文の和訳ながらチンギスハンから清王朝に至るまでの(デタラメの)系図が記載されたりと偽造されていて、『通俗義経再興記』に至っては訳文と言うより小説に近い内容になっていて、史料としては信憑性のあるものではありません。
ちなみに、小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』、高木彬光『ジンギスカンの秘密』のネタ元はこの「通俗義経再興記」と言われています。
「吾妻鏡」「愚管抄」の記述等、義経の死亡の経緯には(生死も含め)疑問があるのは確かですが、一足跳びに"チンギスハン"に結び付けるのはどうかと思います。「チンギスハン=源義経説」の論拠も信用出来るもの(モンゴル語と日本語の相似、源氏傍流の旗印等)はほとんど無いですし。
蛇足ながら、清水米州『通俗義経再興記』、小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』は双方とも当時大ベストセラーになっています。これは双方の結論が『日本人賛美』として書かれていたからです。
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- 回答日時:2010/11/15 14:10:41
ベストアンサー以外の回答
(6件中1〜5件)
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yaikomaeさん
100%無いです。ウソです。
●他所の国からやって来た人間が「ハーン(大王)」に
なれば、それは大事件であり、もう少し「歴史書」に残るはずです。
モンゴル人が横綱になるだけで、この騒ぎなのに
日本人がハーンてっあ~た。
●逆の例で鎌倉~江戸時代まで日本にやって来た
外国人は多くが記録され中には武士となった人間も居る。
元王朝やモンゴルに日本の武士が渡れば、同じく
何らかの資料に残してもらえるはず。
少なくとも朝鮮、ベトナムの戦士はそういう扱いを受けている。
●元王朝は多くの異国人からなりそれらは
全てが記録にあるし部下として資料もある。
●当時から日本~宋~元王朝を行き来する人間は
多く、それ等の人々は、しっかりと記録されている。
●元王朝から日本に来た使節や人物の記録は
しっかりと日本にも元王朝にもある。
●もし源義経が「チンギス・ハーン」なら
もう少しアピールするであろう。
●「義経=チンギスハーン伝説」の資料は
全てが明治期に書かれており、どうみつくろっても
虚実の塊というか小説家などのドリーム。
●モンゴルでこれを唱える学者は居ない。
どう思います?「源頼朝は朝鮮人ニダ」とか
言われて信じます?
●信頼できる資料が1つも無いのに
「居る」とはできない。無理。
「幽霊の存在を証明しろ」と同じレベルです。
以上です。
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- 編集日時:2010/11/15 07:13:10
- 回答日時:2010/11/15 05:26:21
● 補足に: この大問題、字数制限で書けぬ
嬉しいじゃありませんか! 私の作文の最後にも
述べましたが、「面白いと感じて、歴史学者になった
東大教授の例」を、お考え下さい。
我々は別に受験勉強の正解を探してるのでは無くて
発展性を優先させたいねー!
大体、モンゴル語らしきもので書かれた蒙古史は
唯一つ「元朝秘史」です。 元来は、所謂「西夏文字」で
書かれていて、それを漢訳して我々が読めるようにして
下さったのは日本人(奥州・盛岡人)です。
井上靖の小説「蒼き狼」はそれを小説化したもので、
別に、彼が研究した訳では無い。
なお、回答者中d さんが縷々、述べられている
小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』著作とその
反論(何故、あんなに激しいのかな?)の数々、殆ど全部、
所持して読んで居ります。 一応、付け加えます。
そんなつもりで以下をお読み下さるよう、お願い致します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「嘘?本当?」…半々でしょうね!?
先ず、反対論者の方は、案外、不勉強で、基本的に
「そんなこと、あるかよ!」的な反対論ですなー。
例えば、今回の回答者中の bird さんかな? 奥州・
藤原秀衡さまを藤原秀郷と混同する程度の歴史素養なのかな?
また、秀衡公の息子の半数は「鎌倉怖さでもたついた」ようですが、
半数、即ち「三男・泉三郎忠衡、五男・頼衡」は、秀衡公の遺言
に忠実に、義経を応援しました。 芭蕉翁の「奥の細道」に話題
が幾つも出て来ますよ。 また、四男・本吉四郎隆(高)衡は、
偽首を鎌倉に運んだ本人ですが、頼朝の死後、間もなく、鎌倉
幕府に反乱を起こして居ます。 さらに、北条家に苛められて苦労
した梶原景時の一門を救って、自分の本領・(仙台の近くの)本吉
郡にかくまいました。 現在、この本吉郡には梶原一門の集まる
特異地帯があります。 その結果・梶原一門には名士も多く、
最近では、岐阜県知事を四期も務めた梶原拓氏が居られる。
鎌倉軍と戦って長男、藤原・西木戸国衡は戦死したが、
次男で総大将の藤原泰衡は、蝦夷地を目指して逃亡した。
これは、義経の北行伝説ルートと殆ど同じであった。
殆ど成功しかけたが、秋田の十三湊の近くの比内で、
家臣・河田某の寝返りによって、殺されて仕舞った。
同じコースでも、義経・弁慶らの一統ならば、団結が固い
からそんな事は無かったであろう。 そもそも、十三湊付近
には、義経ゆかりの「金売り吉次」の弟の吉内などが居った
のだ。
元来、奥州・藤原氏の勢力範囲は、津軽海峡から蝦夷地
の南部(渡り島と呼ぶ)に及んで居たのだから、義経でも泰衡
でも、そちらを目指すのは当然の事なのである。
津軽海峡の北、函館空港の東端付近の旧称・銭亀沢では
昭和47(?)年頃、大量(約40万枚)の古銭の入った甕が発見
されました。 日本一の量です。 殆どが、中国(China)の
貨幣で、最も多いのは「宋銭」かな?! 驚きですね。
また、秀衡の祖父・藤原清衡は熱心な仏教信者で、「一切経」
を、宋の国(中国、チャイナ)から買うために、莫大な奥州の砂金
を、送ったと云われる。 この事が宋の国の公文書として流布し、
それを知ったマルコポーロが、その著「東方見聞録」に、「黄金
の島ジパング」として紹介したのであった。 ジャパンの名前の
起こりですなー! 従って、源義経と応援団・奥州・藤原一門が、
大陸に渡ったとしても、格別、不思議では無い!
大体、その後、間宮林蔵や松田伝十郎らの徳川幕府の下級・
役人が、間宮海峡を渡り、黒竜江を遡って、清朝の役所のあった
デレンまで行きついて、情報を取って来ているのだ。
その報告書を見て、長崎に来ていたオランダ(ドイツ人)医師・
フランツ・シ-ボルトが、その大著「ヤーパン」の中(第1巻と第6巻)
で、詳しく、源・義経の大陸行き伝説を書き、ヨーロッパに紹介
したのであった。 それと、同じことを、水戸光圀公の「大日本史」
も記事にしているのだ。
だから、本件を否定するならば、それ相当の覚悟を持ってなされませ。
東大・国史学の教授・黒板勝美先生と云えば、有名な大家です。
たとえば、「百済」を日本では何故「くだら」と読むか?(韓国では
ペクチェ)。 旧・帝大の国史の先生に尋ねると、正直な方は、
「黒板教授の書いた日本書紀の中での、振り仮名による」と返答
される。 その日本書紀は昭和18年初版の岩波文庫です。
では、それ以前はどう読んでいたか? 「万葉集」の中でも、実は
同じく「くだら」です。
さて、この黒板先生が国史の専攻を目指した理由は何か?
それは、源義経の大ファンだったからです。 そして、日本書紀を
書く以前の大正年間には、なんと「義経伝」を書いて居られます!
大体、蒙古の歴史は「チンギス・ハン」に始まり、それ以前には
存在しない。 これを、「元朝秘史」と呼ぶ。 この翻訳の最初は
日本人だと云われる。 しかも、奥州の人だ!
(まー、軽々しく、否定は禁物でしょうな!)
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- 編集日時:2010/11/18 17:21:52
- 回答日時:2010/11/14 23:34:21
birdea37さん
源義経が率いた日本最期の軍勢は衣川?とかいう
ところで、そこは敵の軍勢にネズミ1匹抜け出せないほど
包囲されており、げんに放火されるまで弁慶を はじめ
義経の側近たちは、ほとんど討たれて死体も敵は
確保しており、まず脱出とか替え玉を持ってくることは
敵の藤原兄弟がわ、でチョンボでもしない限り無理で
藤原兄弟が、そんなチョンボをする義理はない。
藤原秀郷は義経を支援したが秀郷の息子たちは義経が
きらいで、実際、義経を攻撃して、これが義経の首で
ございますといって首を鎌倉に送っている。
名前が間違っていたのを訂正ありがとうございます。
でも、下記の記述は軽率ですよ。
>また、四男・本吉四郎隆(高)衡は、
>偽首を鎌倉に運んだ本人ですが、
あの首が偽が本物か分らないのに何で偽と
断定できるのですか。その証拠を出さない
限り、この人の説は空回り、でしょう。
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- 編集日時:2010/11/18 13:13:47
- 回答日時:2010/11/14 19:45:59
sfmqw057さん
私も以前、似たような質問をここでしました。
結論としては、嘘です。
そもそもチンギスハーンは生まれも育ちもはっきりしてます。
モンゴル部族の勇者エスゲイの長男です。
義経の入る余地はこれっぽっちもありません。
義経と彼の、馬を使った戦術が同じと言う人もいますが、
全く違いますので。
チンギスハンはモンゴル文字を使わずに
漢字を使っていたことを理由に挙げる人もいますが
この時期にはまだモンゴルに文字はありませんでした。
フビライの時代にパスパ文字が採用されたのが最初だとか。
どうしてこんな説が出てきたかと言うと、
戦前、モンゴル人に世界征服なんかできるわけがない、
そんなことができるのは日本人だけだ、という
何ともアホな俗説が出てきたからです。
こういうのって人気が出るんですよね。
歴史の教科書にまで載るほどに一般化しましたから。
あとはどこの国にもある、悲劇の人物の落人伝説ですね。
義経以外にも安徳天皇とか
豊臣秀頼とか西郷隆盛とか明智光秀とか。
海外じゃジャンヌダルクとかヒトラーとか。
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- 回答日時:2010/11/14 19:31:14
質問した人からのお礼