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キラリと光る高麗美術館 オープン15周年を迎えて〈下〉(03.10.15) |
| 高麗美術館所蔵の逸品 冊架図(19世紀) | | 高麗美術館所蔵の逸品 白磁壷(朝鮮朝) | 高麗美術館館長 上田 正昭(京都大学名誉教授)
日本全国から観覧者…研究講演も87回(8月末)数える
高麗美術館のスタートしたおりの館長、理事、評議員の錚々(そうそう)たるメンバーをみて驚く人々が多い。なぜこのようなメンバーが顔を揃えることになったのか。そこには1969年の3月に創刊された季刊雑誌『日本のなかの朝鮮文化』の果たした役割があった。
この雑誌は鄭貴文、鄭詔文兄弟が中心となり、作家の金達壽さん、歴史学者の李進熙さんが協力して発行された。そして司馬遼太郎さんと私が顧問となった。第1号から座談会がはじまり、第50号までつづくことになる。この座談会が評判となって、やがて中央公論社から『古代日本と朝鮮』(中公文庫)ほか4冊(司馬・上田・金編)が、そして掲載された論文をまとめて新人物往来社から『日本文化と朝鮮』(朝鮮文化社編)が刊行された。座談会は湯川秀樹先生をはじめとする方々が、執筆者には末川博先生ほか代表的な人物に加わってもらった。
1972年の3月、奈良県明日香村桧隈の高松塚古墳からあざやかな壁画が検出されたことも、この雑誌の評価を高めた。なぜならいち早く古代の日本の歴史と文化が東アジアとりわけ朝鮮半島と密接なつながりをもっていたことを主張してきたのは、季刊雑誌『日本のなかの朝鮮文化』であったからだ。
1973年の2月24日、東京の中央公論社ホールで「日本の中の朝鮮文化を励ます会」が開かれたおりには、谷川徹三、松本清張、竹内好、中野重治、岡本太郎、陳舜臣、有吉佐和子、永井路子の皆さんや歴史学者の和歌森太郎、旗田巍、井上光貞の各氏ら多数が参加された。金達壽さんと私とではじまった朝鮮文化の遺跡めぐりも、第1回の河内飛鳥を皮切りに32回までつづいた。
こうした実績を背景としての高麗美術館のオープンであった。1989年の11月10日からは考古学界の権威であり長老である、有光教一先生が当館付設研究所の所長に就任された。私は1997年の4月1日より林屋館長のあとをうけて2代目館長となったが、常設展はもとよりのこと、春・秋の企画展も毎回好評をえて、観覧の方は北海道から沖縄に及び、時々は韓国からの見学者もある。
金巴望研究室長、各研究員によって、『研究紀要』も3号まで発行し、1989年の1月1日からの『高麗美術館館報』もこの9月で60号を数える。本館主催の研究講演も順調に回を重ねて、2003年の8月末で87回となった。
10周年のさいには特別企画展、特別講演会、作陶展、朝鮮通信使ゆかりの地をたずねるツアーなどを実施したが、15周年には特別企画名品展、講演と音楽の集いなどを計画している。
にがい思い出もある。1998年の11月13日未明、10周年の特別企画展の逸品15点が盗まれた。許せない暴挙であった。捜査関係者の尽力で10点がもどった。この盗難事件をひとつの教訓として、館の警備の強化をはかった。
開館の翌年2月23日、鄭詔文初代理事長は享年73歳で昇天されたが、15周年を迎えた今日、そのこころざしをキラリと活かしたい。
(2003.10.15 民団新聞)
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