(cache) 鄭詔文さんの思い出

鄭詔文さんの思い出 その2(完)




 朝鮮文化社の遺跡めぐりに同行して忘れられない思い出に、鄭さんと金達寿氏の喧嘩がある。それは1970年代後半のある年のことだった。上田正昭さんと金さんが臨地講師となって、福井県敦賀市の遺跡めぐりに行った。渡来人ツヌガアラシトを祭神とする気比神宮を訪ねたり、気比の松原を散策したりした。前夜、私は東京から敦賀に駆けつけ、鄭さんらが泊まっている宿に挨拶に行った。部屋に入ると、鄭さんと金さんが大声で怒鳴り合って険悪な雰囲気だった。
 同席していた上田さんが私の顔を見るなり「藤野さん、ここで見たことはオフレコでっせ」といきなり言った。私は何のことかわからず「はあ」と答え、部屋を出るべきかどうか迷っていた。しかし、だれも席を外してくれとは言わない。それで2人の口論をそのまま聞き続けた。

 喧嘩の原因は、今となってみればはっきりとは思い出せないが、雑誌「日本のなかの朝鮮文化」の編集部員の1人が辞めて郷里に帰ることになり、その退職金のことだったと思う。それが少ないので、もっと出してやれというようなことを金さんが鄭さんに求めたのである。しかし、当時は不況でもあり、鄭さんにしてみればそれは難しかったようだが、その理由を鄭さんは言わない。最初は静かな話し合いだったようだが、2人はしだいに激昂してきて、ついには互いに口を極めてののしり合うのである。考えつくかぎりの相手に対する悪口、罵詈雑言は、聞いていてだれも手のつけようがないくらいであった。朝鮮民族が激昂するとものすごいとは聞いていたが、これには正直驚いた。

 翌日、京都へ帰る電車の中でもそれは続き、京都駅に着いても喧嘩は終わらず、京都ステーションホテルのレストランに入っても続いた。そばで見ていた上田さんが私にも、いっしょにステーションホテルに行こうという。私はその日、京都から山陰線で郷里の豊岡に帰る予定になっていたが、時間に余裕があったので、みんなについてレストランに入った。2人のほかには上田さん、考古学者で当時明治大学講師だった李進煕氏も同席していた。ほかにだれがいたかは覚えがない。それぞれ自分の意見を話した。李さんは金さんの肩を持つ。上田さんは鄭さんに同情しているが、立場上中立風である。

 発車の時間が近づいてきたので、私は「私にも意見を言わせてください」と言った。鄭さんは雑誌を出すために膨大な金銭を負担している。編集会議には金さん、李さんも毎回、東京からやって来て加わる。上田さんは京都在住だからよいが、東京から来る2人の旅費や宿泊費、日当など謝礼、会議後の食事代やバーの飲み代まですべて鄭さんが負担していた。もちろん2人の編集部員の給料も。2人の編集部員は金さんらが紹介した人だった。退職する編集部員が何年間勤めたのか知らないが、一定の退職金を払うことを決めるには、鄭さんにはそれなりの理由があるはずである。それに折からの不況は鄭さんの事業にも影を落としていた。

 鄭さんは事業家だから、朝鮮文化についての学識はないが、そういう人がこういう活動を始めたことの意味は非常に大きい。金さんらにとっては一種のパトロンでもあっただろう。また在日朝鮮人として同胞に民族的な誇りを自覚してもらおうという鄭さんの願いもたいへん意義深いことであった。もっと言えば、朝鮮総連からの攻撃を受けてまで続けてきたことはさらにたいへんなことだと思われた。総連の攻撃に対しては、上田さんの陰からの支援もあったが、鄭さんは1人で立ち向かっていた。

 金さんら在日の知識人たちはこの頃、総連の官僚支配に対して、公然と批判していたから、金さんにとっては総連からの攻撃は今に始まったことではなく、立場を公にすれば、ある意味で日本の知識人社会の力を背景に超然としていられる面もある。しかし、鄭さんは事業家であり、総連の内部の人間でもあるから、超然としてはいられない。そういう難しい立場にありながら、活動を続けているのである。

 そこで、私は鄭さんが口を極めてののしられるべきだとは思わない。ここはむしろ、せっかく鄭さんが始めたこの活動を、前向きに進められるように考えるべきではないのか、というような意味のことを話して席を立った。しかし、このころから鄭さんと金さんとの間はきしみ始めていたようだと、今になって思う。

 それからしばらく後、韓国の舞台演出家・呉泰錫氏が日本で自作の演劇「草墳」を上演するというので、私は彼にインタビューして記事で紹介した。そうして、呉氏の日本公演に日本側で協力した在日韓国人の李三郎さんと知り合った。その彼が1981年3月、ソウルで開かれる「第3世界演劇祭」に在日同胞として演劇グループを組織して参加するので、私に同行しないかと私に誘ってきた。

「私は韓国政府のブラックリストに載っているのでビザは下りないだろう」と言ったら、彼は「僕が何とかしますよ」という。彼がどういう手を回したのか知らないが、出発直前になってビザが下り、在日韓国人演劇団とともに、私はソウルを訪問した。光州事件から10カ月後のことである。

 全斗煥軍事政権はこの演劇祭を政治的に利用しようとして開催したことは明白である。韓国も第3世界の一員であり、それらの国に対して文化的に開放していることを強調することで、前年の光州事件の強圧的で暗いイメージをぬぐい去りたいと考えたのである。
 ソウルではロッテホテルに泊まった。このホテルには演劇祭に参加する各国の代表といっしょだった。名著「シェークスピアはわれらの同時代人」で有名なポーランド出身の演劇学者ヤン・コットも来ていたし、米国からはニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェー「ラ・ママ」の名プロデューサー、エレン・スチュアートも参加していた。
 海外からの招待者を招いてのパーティーが連日あり、韓国放送公社社長主催のパーティーに出たら、ホストの社長は、なんと私のビザを拒否した李元洪元韓国大使館文化担当公使であった。彼は全斗煥大統領によって東京の韓国大使館公使から韓国放送公社社長に抜擢されていたのである。私が李社長に挨拶し、ビザ拒否事件について口にすると、彼は思い出してにっこりし「見たことは何でも自由に書いてください」と言った。李氏も元新聞記者なのだった。

 ソウル滞在中のある日、新聞に「在日僑胞の左翼文士が訪韓」という大見出しの記事が出た。金達寿氏ら在日朝鮮人作家が韓国を訪れたのである。そのときの話は、このホームページの「交遊閑語」「中上健次の思い出」でも書いたので、ここでは繰り返さない。全斗煥政権は金達寿氏の訪韓についても、政治的に利用しているのは明らかであった。それに金さんは盟友である鄭さんに今回の訪韓について事前に話してはいなかった。
 それに近い話は、訪韓前に紀州の司馬遼太郎さんの別荘で、司馬さんや鄭さん、金さんらが集まった際に出たらしい。鄭さんの立場は明確で、金さんが将来、軍事政権下の韓国に行くのに反対であった。そのことで司馬さんの別荘でもだいぶ議論をしたということを後で鄭さんから聞いた。それで金さんは、いよいよ訪韓する段になって、事前に鄭さんには相談しなかったのである。
 しかし、韓国での報道に日本の新聞の特派員らが反応し、金さんらの訪韓は日本でも大きく報じられた。それは訪韓した彼らを批判する論調であった。のちに司馬遼太郎さんに会ったとき、彼は「金さんは四面楚歌ですね」と感想を漏らした。

 この訪韓事件で鄭さんはついに金さんと袂をわかった。私は帰国後、鄭さんに会うと、彼に金さんらの韓国での様子を話した。それを聞く低さんの表情は非常に悲しそうだった。裏切られた思いもあったのだろう。
 このころ、雑誌「日本のなかの朝鮮文化」は40号を過ぎたばかりで、50号まで出すと決めていたから、雑誌だけは出し続け、予定通り50号で終刊することになった。雑誌は2年半後に終刊した。

 ソウル滞在中、私は折から韓国で小説を書いていた中上健次さんと何日かをいっしょに過ごし、韓国の伝統芸能パンソリを日本で公演する企画を話していた。私の帰国後まもなく、中上さんも日本に戻り、パンソリ公演は具体化した。文化部の同僚の中村輝子記者も興味を示し、韓国の人間国宝であるパンソリの第1人者といわれた金素姫さんを日本に招いて、東京は池袋西武百貨店のスタジオ200と、ほかに静岡、大阪、京都で公演することになった。静岡や関西での公演は、それぞれ地元の韓国・朝鮮人グループが引き受けてくれた。

 パンソリは日本の説経節や歌祭文に近い語り芸である。「春香伝」や「沈青伝」が有名な演目だ。パンソリといっても初めての日本人にはわからないので、公演に際してステージトークを加えることにした。これには中上さんのほかに、パンソリに関心の深い作家の大江健三郎、文化人類学者の山口昌男、民族音楽学者の草野妙子の4人にステージで解説がてらパンソリの面白さを語ってもらった。東京では2日にわたって公演したが、いずれも満員の盛況で、会場に入れない人が出るほどだった。4人のステージトークの内容は、雑誌「世界」に掲載することになっていた。当日、金達寿さんが姿を見せ、ステージトークを彼が中心になって出している雑誌「季刊三千里」に載せさせてくれないかと言ってきたが、断らざるを得なかった。会場には鄭さんも京都から駆けつけ、終演後、池袋の朝鮮料理店で鄭さんは、中上さんや私をねぎらってくれた。その席には李良枝さんもいた。

 1984年夏、私は大阪支社文化部に転勤した。その直後に、映画「泥の河」いらい付き合いのあった映画監督の小栗幸平さんが第2作「伽耶子のために」を完成した。在日朝鮮人作家の李恢成さんの同名の小説が原作である。この作品は、小栗さんから相談を受けて、私が友人である李恢成さんに映画化権の交渉をして実現したものである。
 在日朝鮮人が主人公であったから、これを在日の人が多い大阪で上映したいというので、転勤したばかりの私がその上映実行委員会を組織することになった。私は知り合いの大阪在住の詩人金時鐘さんに相談した。金時鐘さんは鄭詔文さんとともに、私がもっとも敬愛する在日朝鮮人であった。
 上映する大阪三越劇場で試写会を開き、金さんはじめ関西の文化人に見てもらった。金さんがどういう感想を持ってくれるかが、私には鍵だと思われた。試写が終わった後で、簡単なパーティーを開き、そこには小栗さんも来ていた。そこで金さんにスピーチを求めて、感想を聞いた。
 金さんは「在日朝鮮人である私が見て、この映画に描かれている朝鮮人には違和感を抱かなかった」と言った。これほどの賛辞があるだろうか。これで私は「伽耶子のために」の大阪上映は成功すると確信した。

 金さんは彼を慕う関西の若い在日朝鮮人の何人かを集めてくれた。そして、「伽耶子のために」関西上映実行委員会がスタートした。大阪、京都、神戸の3つの上映運動グループができ、それぞれの地で小さなイベント集会を開き、学校や労組、市民団体などに前売り券を配る活動を続けた。大阪では金さんが副校長をしている大阪文学学校で上映実行委員会の旗揚げイベントをし、京都では上田さん、鄭さんの協力もあり、京都大学の楽友会館で李さんらの講演会と「泥の河」の上映会を開いた。岡部さんには「伽耶子のために」を見てエッセーを書いていただいた。神戸では、金正郁さんが友人の主宰しているシアター・ポシェットで小栗さんを迎えて集会を開いてくれた。関西のテレビや新聞、業界紙、それに在日向け新聞も積極的に取り上げてくれて、この上映運動は大きなうねりとなっていった。

 関西の興行界では、われわれ素人の運動に高をくくっていたが、その動きの大きさと上映が始まってからの実績に驚異の目を見張らせた。ある業界紙は「映画は『伽耶子のために』だけではない。ほかにもある」などと書いた。大阪上映は3ヵ月間だったが、大阪三越劇場開場以来の観客動員を収めた。東京では岩波ホールで半年間上映したが、大阪の方が観客動員は多かった。翌年、「伽耶子のために」はベルリン映画祭に出品されたが、受賞はしなかった。だが、フランスのジョルジュ・サドール賞を受賞した。この賞は「世界映画史」で有名な映画評論家ジョルジュ・サドールを記念して、新人映画監督の第1作か第2作に与えられるものである。ドイツは韓国・朝鮮人の在住者が多い国である。映画祭に出席した小栗監督には、在独韓国・朝鮮人たちが取り囲み、大変な人気だったとも聞いた。

 1986年夏、私は2年間の大阪勤務を終えて東京に戻ることになった。その送別会を上田さん、岡部さん、金時鐘さんらに京都の貴船で開いていただいた。夏の貴船の鮎料理などを楽しんだ後、出雲路の岡部さん宅に移り、2階の和室に上がりこんで2次会となった。実に楽しい会であった。その夜は岡部さん宅から近い鄭さん宅に泊めてもらった。これも忘れられない思い出である。

 雑誌「日本のなかの朝鮮文化」が終刊すると、鄭さんは自分の生きるよりどころを高麗美術館の設立に求めるようになった。鄭さんの朝鮮伝統美術品のコレクションは千数百点に上っている。李朝白磁や高麗青磁の陶磁器のほかに、金工、木工品、家具、民画や軸、古書、絵図面から、日常の生活用具など、ジャンルは多岐にわたり、一見手当たりしだいといった感じであったが、磁器などには国宝級のものも含まれていた。しかも、これらはすべて日本国内で収集されたものだった。

 朝鮮のこうした美術品や工芸品は、とくに1910年の朝鮮植民地化の後に日本人が国内に持ち込んだ、いわば“収奪品”であった。鄭さんは、日本人によって奪われ、日本に持ち込まれたそれらの品を、個人の力で買い戻していたのである。
 これらを展示する美術館をつくりたいというのは鄭さんの長年の夢であった。それを在日の朝鮮人子弟に見せることによって、朝鮮民族の芸術性の高さ、美意識の繊細さ、民族文化の高さを認識してもらいたいというのである。

 この計画には、彼を支援する司馬遼太郎さんや上田正昭さんらが側面から助けた。朝鮮文化社の忘年会などで先生方が集まると、美術館をどのように実現するかがいつも話題になった。鄭さんは京都市内に用地を求め、計画は何度も具体化したが、そのつど、いろんな理由で挫折してきた。百万遍の朝鮮文化社と鄭さんが経営する商事会社が入っているビルに展示ロビーをつくることも考えた。
 だが、鄭さんは小さくても立派な独立した美術館をつくりたかったようだ。曲折の末、最終的に北区上岸町の自宅を美術館に建て替えて、1988年10月25日に開館した。館長は林屋辰三郎京大名誉教授。看板は司馬遼太郎さんの揮毫である。美術館だけでなく、朝鮮美術や歴史を研究する高麗美術館研究所も立ち上げ、これは左京区岩倉に研究棟を置いた。所長には有光教一京大名誉教授が就任した。開館式はこれらの先生方も出席して立派に行われたが、開館してまもなく鄭さんは病のために倒れ、翌1989年2月23日に鄭さんは逝った。高麗美術館を建てたいという鄭さんの生涯の夢の実現を待っていたような死であった。

 私はこの開館式にも葬儀にも参列することができなかった。開館のときは昭和天皇の容態が悪化していて、会社から東京を離れることを禁じる禁足令が出ていたからであった。葬儀は1月7日に死去した昭和天皇のご大葬で、これにも出席できなかった。そして、そのことを私はずっと心の中に残しながら、4年が過ぎた。

 この間の1990年3月、上田正昭京都大学教授が定年を迎え、それを祝う会が京都大学会館で開かれた。私はこれに東京から駆けつけた。スピーチを求められた私は「上田さんの学問的な業績については素人なのでコメントできないが、上田先生の人間的な面について話したい。この場に鄭詔文さんがおられないのを非常に残念に思う。鄭さんと上田先生の友情を長年、私はそばで見てきて、2人の友情のすばらしさを教えられた」と話した。

 1969年に鄭さんが季刊誌「日本の中の朝鮮文化」を創刊するにあたって、もっとも頼りにしたのは上田さんであった。朝鮮総連から攻撃を受けた際には、一時避難のために、コレクションの主だったものを上田さんが預かったりもした。
 上田さんが大学紛争中に京都大学学生部長になり、全共闘学生らと大衆団交を行ったときには、鄭さんは会場の隅に陣取って、もし学生が上田さんに暴力をふるったりすれば、自分が出て行って取り押さえようと思っていたとは、のちに鄭さんから聞いた。
 朝鮮文化社の遺跡めぐりでは、ほとんど毎回、上田さんと金達寿さんが臨地講師を担当したが、鄭さんがこの活動にかける情熱を、上田さんは心底支持し協力しようと心に決めていたからであった。草津市の「ひぼこ祭り」や、滋賀県高月町の雨森芳州庵の建設にあたっても、上田さんが訪れるときは必ず鄭さんが同行した。雨森芳州は高月町出身の江戸期対馬藩の儒者で、朝鮮との善隣友好を説いた学者として名高いが、これは上田さんが高月町で発見し調査して芳州の著書を世に出したからであった。

 1993年のある日、私は京都の岡部伊都子さんに「来年は鄭さんが亡くなって5年になります。私は高麗美術館の開館式にも葬儀にも出られなかったのが心残りです。亡くなって5年を記念して『鄭詔文さんをしのぶ会』をやりませんか」と手紙を書いた。
 岡部さんはそれをたいそう喜んで、上田さんに話してくれた。そうして、1994年2月に「鄭詔文さんをしのぶ会」が上田さん、岡部さん、林屋さんに私の呼びかけで開かれた。
 会場は朝鮮文化社の忘年会で懐かしい祇園の「富乃井」にした。当日は朝、高麗美術館に集合して、鄭さんの墓にもうで、美術館の展示を鑑賞した後、富乃井に移った。
 林屋さん、上田さん、岡部さんらのほかに、鶴見俊輔さん夫妻、大阪の詩人金時鐘さん、神戸の陶芸家金正郁さんら40人以上が集まった。所要で欠席した司馬遼太郎さんからは花が贈られてきた。

 この会に金達寿さんを招くかどうかが、準備の段階で大きな問題になった。話し合った末に招待状を送ったら、「出席したい」との返事が来た。当日朝、高麗美術館に姿を現した金達寿さんは、杖を突いていて、足元が危なかった。大きな頑丈そうだった体も老いのために痩せが目立っていた。それでも彼は鄭さんの墓にもうで、線香を手向け、朝鮮式の礼をして墓石に額づいた。富乃井で金達寿さんは鄭さんと袂をわかったことに触れ「ずっと気にかかっていた。この会に招かれてほんとにうれしい」と語った。これで鄭さんと金さんは和解できたのだと私は思った。

 1995年夏に私は京都支局長として赴任した。3年間の勤務であった。本社へ帰任した1998年は高麗美術館創立10周年にあたっていた。96年2月に理事を務めていた司馬遼太郎さんが、98年2月には館長の林屋辰三郎さんが相次いで亡くなった。上田さんが後を受けて館長になった。その直後のある日、私は上田さんと岡部伊都子さんに岡部邸に近い洛北の中華料理店に呼ばれた。
 上田さんと岡部さんは、高麗美術館開館10周年の記念事業をやりたいのだが、協力してくれないかといった。私に異存はなかった。どんなイベントを行うかを、3人に美術館研究所研究室長の金巴望さんを加えて考え、準備を始めた。シンポジウムや講演会、特別展示などに加え、私は「日本のなかの朝鮮文化」が出ていたころの「遺跡めぐり」をもう一度やってみてはと提案した。
 「遺跡めぐり」の行き先は、かつても訪れたことがあり、朝鮮通信使ゆかりの地である岡山県牛窓と広島県福山市の鞆ノ浦に決まった。臨地講師は上田さんである。宿泊は映画監督小栗康平さんの友人の会社が所有する牛窓町の対岸にある前島のカリヨンハウスにお願いした。
 8月29日朝、新幹線で岡山駅に70人が集合した。7月に本社に戻っていた私はこれに駆けつけた。バスで牛窓に向かい、通信使ゆかりの遺跡を訪ね、夕刻、船で前島に渡った。瀬戸内海の風に打たれ、翌日はまたバスで鞆ノ浦を訪ね、対潮楼から瀬戸の風景を眺めた。かつて鄭さんが健在なころにいっしょにここを訪れたことを思い出しながら、彼をしのんだ。鄭さんの長男鄭喜斗さんが幼い子供を連れてきていた。詔文さんの若い頃そっくりのその姿が、かつて天橋立にいっしょに海水浴に行った頃の鄭詔文さんを思い出させた。

 10周年記念事業は特別展「高麗・李朝の美」のほかに、10月には高麗美術館所蔵の「刺繍花鳥図十曲屏風」への修復基金の募集もした。特別講演会も2度にわたって開き、上田正昭館長のほかに仲尾宏京都芸術短大教授、表千家の久田宗也宗匠、森浩一同志社大学教授らが、渡来文化や朝鮮の伝統文化について講演した。
 11月には岡崎の京都市国際交流会館で「現代と李朝の芸術性融合」と題して金正郁さんの作陶展が開かれた。金さんは鄭さんが目をかけ、折に触れて励ましてきた若手の在日陶芸家である。この展覧会には現代李朝白磁では第1人者といわれる竹中浩さんも賛助出品した。金さんが有望な新進陶芸家といっても第1人者の竹中さんと同じ場所に作品が並ぶとその差が歴然としてしまうのではないかと危惧していた私は、会場に脚を踏み入れてびっくりした。
 なんと竹中さんの作品と拮抗する力強さ、気品があるのである。
 あとで金さん、竹中さんと会食したときに、竹中さんは「金さんがもう一皮剥けると、私は超えられてしまいますね」と言った。それほどに金さんの作品はすばらしかった。私は展示されていた白磁総藍刷毛塗大皿を求めた。女性の作とは思えない雄渾な感じの大きな作品で、金正郁さんのそんな作風に私は魅せられていたからである。

 記念事業のイベントの最終日11月7日に久田宗匠による茶話会と講演会が国際交流会館で開かれ、私は光栄にも岡部伊都子さんといっしょに講演をさせていただいた。
 そこで私が「鄭詔文さんと私」と題して話したのは次のような内容だった。

 全国に朝鮮の李朝白磁や高麗青磁を展示する美術館や博物館はたくさんある。高麗美術館の所蔵品にも国宝級のものもあるが、他の美術館にはないものがここにはある。それは5歳で朝鮮から日本に渡ってきて、その生涯を異郷の地、京都で過ごした鄭詔文という1人の朝鮮人のすべてがここにあるからだ。
 高麗美術館の所蔵品はすべて、在日朝鮮人である鄭さんがひとりで、しかもすべて日本国内で収集したものである。鄭さんも朝鮮から日本に流れてきた人なら、ここの所蔵品も同じように朝鮮から流れてきたものである。それは略奪に近いものであったかもしれないし、買い叩かれて日本に渡ったものかもしれない。

 これらの朝鮮の芸術作品や工芸品に、鄭さんは自分の運命を重ね合わせて見ていたのは間違いないと私は信じている。だから、この美術館にあるのは、白磁や青磁だけではなく、朝鮮に関係するものなら書画から生活用具まで何でもあるのは、そういう理由による。日本人は芸術的な価値のある焼きものには関心を示すが、ほかのものには目もくれない場合が多い。だが、彼は朝鮮人の生活のすべてに関心を持っていた。だからちょっとした日常雑器から古い布切れまでが鄭さんのコレクションの対象になった。その意味で、高麗美術館は鄭詔文という1人の在日朝鮮人の姿そのものなのだと思う。こういう美術館はほかのどこを探してもないだろう。(完)

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Last Update:2004/09/02
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