1951年、京都に初めてパチンコ店をオープンさせた人物は、在日韓国人の鄭詔文(チョン・ジョムン)氏だった。15年にわたりパチンコで大金を稼いだ鄭氏は、日本の「国民的作家」司馬遼太郎氏を訪ねた。日本の中の韓国文化に関する雑誌の創刊について相談するためだった。そのときのことを回想し、司馬氏が残した文章がある。「私は心の中で『パチンコ屋のおやじが出す雑誌なのだから、うまくいって3号出るかどうか』と思った」
司馬氏の見当は外れた。雑誌『日本のなかの朝鮮文化』は13年続き、50号まで発行された。その当時、韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた人や文化が日本の古代国家出発に決定的な影響を及ぼしたという話は、口に出すこともできなかった。しかし鄭詔文氏は、日本全国をくまなく探訪し、文化伝来の経路を裏付ける実物の証拠を探し出した。鄭氏がそれらの証拠を突き出すと、多くの日本人はうなずいた。
鄭詔文氏は、6歳のときに家族と共に日本に渡った。小学校は3年通っただけで中退し、織物工場の職工、人力車の車夫、埠頭(ふとう)・土木工事の労働者に至るまで、きつい仕事を手当たり次第にやった。貧困と差別の中で、いつも「私はなぜ朝鮮人に生まれたのか」と嘆いていた。どうにか食べていけるようになった1955年、鄭氏は京都の骨董(こっとう)品店で不思議なつぼと出会った。朝鮮白磁だった。鄭氏は、白磁の絶妙な色合いと美しい線のとりこになった。当時としては大金の50万円を月賦で支払い、つぼを手に入れた。
鄭詔文氏にとって恨みがましいものだった朝鮮文化は、それ以来、誇らしいものになった。鄭氏は、神戸の田んぼに高麗の石塔が転がっているのを見て、誰も手を付けないように田んぼを丸ごと買い取った。鄭氏は「日本人と本当に向き合うということは、金で成功することではなく、まさにこういうことだと思った」と語った。およそ30年かけて汗と涙で買い集めた韓国美術品の数は1700点。鄭氏は、自分が探し集めた祖国の誇りを、同胞たちと分かち合おうと考えた。そこで88年、京都に建てたのが高麗美術館だ。その4カ月後、鄭詔文氏は世を去った。
ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館には、韓国の展示室がある。しかし海外で韓国人が独自に建てた美術館となると、高麗美術館しかない。この美術館が最近、運営上の困難に直面しているという。日本でパチンコ事業がうまくいかず、美術館職員への給与支払いが苦しくなり、特別展も減らさなければならないというありさまだ。一時は、京都市に運営を任せる案まで検討したという。海外に流出した文化財を韓国に取り戻すことも重要だが、現地に根付かせて「文化使節」として活用することも必要だ。国もできなかったことをやり遂げた鄭詔文氏の遺産が輝き続けるように、支援する方法はないのだろうか。本当に残念だ。
※この鄭詔文さんのご兄弟の鄭貴文さんや、金達寿さん、李進熙さん、上田正昭先生と 日本の中の朝鮮文化 の定例会でご一緒させて頂いたことがあります。いろいろ書きたいので詳細は下記を参照されたし。
↓
※この鄭詔文さん、自分で汗水流して稼いだお金で高麗美術品を蒐集された立派な方です。京都市に運営を任せる案まで と、相変わらず上から目線の『朝鮮日報』です。個人の蒐集品に市民の血税投入なのに、任せてやる?
韓国政府か、在日韓国人が支援するのか筋でしょう。
韓国政府は、日本にある朝鮮文化財は、全て 日帝とその手先が略奪したもの と断じ、無償返還が当然だと考えています。
あっ、倭寇も!
無償返還させたうえ金を出させる、薄汚い意図ミエミエ。
韓国人は文化財にお金をかけたくないのです。
鄭貴文さん、鄭詔文さんが、草葉の陰で泣いています(´・_・`)。
※ 先ず、前提からして嘘です。雑誌『日本のなかの朝鮮文化』運動を推進したのは、在日韓国人ではなく、在日朝鮮人です。金日成万歳以外の文化活動を認めない朝鮮総連の妨害を受けつつ。当時、民団を中心とする在日韓国人は、こんな活動に無関心でした。
※ 司馬遼太郎氏が、「私は心の中で『パチンコ屋のおやじが出す雑誌なのだから、うまくいって3号出るかどうか』と思った」と回想しているのは、事実です。私自身読んだことがあります。しかし、これは、友人同志としての愛情の発露であり、司馬氏は、50号の終刊まで、ずっと、この雑誌に顧問として協力し続けました。
「国民的作家」が、「パチンコ屋の親父の雑誌」と見下し、「3号も続かない」と馬鹿にしたのを見返して、50号まで続けた!と書き、雑誌への関わりを書かないのは、司馬氏へ侮辱です。事実誤認ではなく、意図的な捏造です。鄭氏の文化活動を称えるなら、それを雑誌顧問として支えた司馬氏に感謝してしかるべきです。これが、 恩を仇で返す 朝鮮日報です。回想文という「証拠」があるから言いくるめられる、といういつもの手口です。私は、雑誌『日本のなかの朝鮮文化』を何号も持っています。金泰翼(キム・テイク)論説委員にお貸しましょうか?
いや、司馬氏の雑誌『日本のなかの朝鮮文化』に対する功績を百も承知のうえで、意図的に司馬氏を貶めているのでしょう。
日本の国民的作家を見返してやった「在日韓国人」の物語は、韓国人、在日韓国人に受けますから。
※ 鄭詔文氏は、実業家・パトロンであり、文化運動は学究肌のお兄さんの鄭貴文さんが担っていました。私は、実際に定例会で接しました。
http://homepage3.nifty.com/fujino/koyu/teisyobun2.html
に、当時運動を担った方の証言もあります。
全てを鄭詔文氏の功績に帰するのは、何らかの意図があると思われます。協力した多数の日本人も無視しています。
2003年の上田正昭先生の回想もあります。
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?newsid=2020
この雑誌は鄭貴文、鄭詔文兄弟が中心となり、作家の金達壽さん、歴史学者の李進熙さんが協力して発行された。そして司馬遼太郎さんと私が顧問となった。第1号から座談会がはじまり、第50号までつづくことになる。この座談会が評判となって、やがて中央公論社から『古代日本と朝鮮』(中公文庫)ほか4冊(司馬・上田・金編)が、そして掲載された論文をまとめて新人物往来社から『日本文化と朝鮮』(朝鮮文化社編)が刊行された。座談会は湯川秀樹先生をはじめとする方々が、執筆者には末川博先生ほか代表的な人物に加わってもらった。
※ 雑誌『日本のなかの朝鮮文化』運動の功績は、その当時、韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた人や文化が日本の古代国家出発に決定的な影響を及ぼしたということを日本人に認めさせたこと、ではありません。盛り過ぎです。韓国の現在の「起源論」を投影しているだけです。古代渡来人が大陸文化を伝えたことを日本人に認知させる功績はありました。
※ 雑誌『日本のなかの朝鮮文化』終刊後も、『三千里』などで文化運動を続けていた金達寿氏らの在日朝鮮人文化人は、80年代前半に韓国に接近し出しました。『対馬まで』『釜山まで』等のエッセイを金達寿氏が書いた頃です。金石範氏の離反を招き、総連の機関紙『朝鮮新報』で悪行雑言が浴びせられました。
※ 鄭詔文氏がこの頃 「在日韓国人」になられたのかも知れませんが、だからといって
雑誌『日本のなかの朝鮮文化』運動が、在日韓国人のものになるわけではありません。
現在の立場を投影した歴史の歪曲
いつもの手口です。
2014年03月03日
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