- >>38771
本来なら大月天さんに対し過去に掲載された フェイクの内容が正しいのか
宿坊さんが黄色い掲示板で述べていた事が正しいのか?
その二律背反的な矛盾点を明快に回答すればいいだけの話でしょ?
だから その点にだんまりだから そこに付け込まれて 叩かれているんじゃないですか
法華講に隙を与えた自爆の結果を愚痴っても 騙されるのは無知な信者だけだよな
- ※仏法義に於いて、原本の有無などは二の次であって、要は、そこに示される文義が
何(いか)に正義であるのか、という判釈こそが重要なのであり、
又、其れだからこそ、写本を含めて成る相伝の意義こそが重要となるので ある。
本より、信心に資するとは、その内容が正義であるから信心に資するのであって、
そこに真蹟原本の有無を挟み込むは、これ邪義と疑判するから原本の有無を持ち出すの
である。つまり、信心に資するとは、そこに示さる内容を正義と判じ、其れを実践する事
であり、その信心に於いて、原本の存在は余事となるのである。本より、原本の有無が
内容の正邪に直結しない事などは、余程の馬鹿でないかぎり、容易に判断出来るであろう。
http://megalodon.jp/2014-0418-1750-08/6238.teacup.com/tsurutaro33/bbs/45109
一ヶ月近くの沈黙を破って第一声がこれとは、日顕宗の教学力も地に落ちたものですね。
仏法義において原本の有無(特に板御本尊の独一性)にこだわってきたのが日蓮正宗
だし、創価学会への教学的批判もほとんどが、「誰が教えたのか!」とか
元(原本)の有無じゃないですか。
学会側につっこまれると「原本2の次」
自分たちが批判する時は、法の源が云々・・
ダブルスタンダードもほどほどにしましょうよ。
寅さんじゃなくても「それをいっちゃおしめぇよ」と言いたくなりますね(失笑)
- ネットが普及し、個人が趣味を通じたコミュニケーションを図ることができるように
なりました。
最初は軽い気持ちで始めておられるのでしょうが、実名・HNを問わず世間に自分の
主義主張を公開している事を意識するのは、第三者からなにがしかの反応(レスポンス)
があった時だと思います。
視点を変えてみれば、自分を売り込んでいるから反応があるといえるでしょう。
不特定多数の方に「自分自身」を売り込むツールとしてインターネットのSNSはより
使いやすいものへと進化してきました。
しかし、現実社会とちがい、直接対面をしないでもコミュニケーションができるという
安心感が油断を生み自己防衛の意識が薄れ、自分をさらけ出しすぎてしまいがちです。
善意悪意にかぎらず、見ず知らずの方が自分に語りかけて来るというのは相手に
なんらかの「意図」があるはずです。
相手もなんらかの「意図」があって近寄ってきているのですが、リアルと違い
ネットではこちら側も趣味や好みといった話題で、コミュニケーションの「意図」を
さらけ出しているので、話を合わせることはさほど難しくありません。
たとえば、貴方が道ばたで絵を描いているならば、第三者からみれば、その方は絵が好き
で向上心がある方だと類推できますよね。
「絵がお上手ですね」と褒めて話しかければ悪い気はしないでしょう。
リアルなら、知らない人から褒められて話しかけられてきたとしても、家庭の事や仕事の
事等プライバシーを聞かれたなら、「なんだこの人?」と警戒するでしょう。
また、リアルで「相談事にのってあげるよ」なんて言いよる人に会ったなら、ドン引きする
のではないでしょうか(笑い)
ところがネットではモニター越しで知らない人とコミュニケーションが取れるために
「対面の警戒心」がものすごく低くなりがちです。
ネットコミュニケーションが未成年者でも容易にできるようになった時代、トラブルに
巻き込まれないように、教育がされます。
その一例となるサイトを紹介します。
情報モラル教材「ネット社会の歩き方」 http://www.cec.or.jp/net-walk/
上記の中に
「ネット上のあぶない出会い」というフラッシュ動画があります。
http://www.cec.or.jp/net-walk/flash/cec_24/index_k.html
是非一度みてください。
(注:再生にはフラッシュプレーヤーのダウンロードが必要です)
内容は、女子学生さんが悩みを相談(共有)するためにネットのコミュニティサイトに
登録したけれど・・・というものですが、同じような目的でSNSに登録されている
創価学会員さんも多いのではないでしょうか。
さて、最近警察や自治体などで「趣味につけ込む商法」という悪徳商法に対して警告を
しています。
「趣味につけ込む商法」とは、趣味に対する心理を巧みに利用し、消費者を褒めて近づ
き、新聞や雑誌の掲載などのを契約させ高額な請求をされるというものです。
さすがに、ネット上の創価学会員のコミュニティでそういった金銭的なトラブルがあった
という事は聞いたことはあまりありませんが、褒める事で接近し、自分のコミュニティに
とりこんでレスを求めるようにしむけたり、作業を分担させるなどの「つけ込み型」の人
がままおられます。
結果として、ネットを優先し、コミュ内では頻繁に交わせている連絡・報告が現場の幹部
に対してはおろそかになったり、遠方のネットオトモダチに逢いにいけても、近隣の
友人宅や学会員さんの家庭訪問がいけなくなったりするならば、信仰の上で「冥罰」
という「高額な請求」を受けているのと同じではないでしょうか。
ネットコミュニケ-ションでは毎日数十個、オトモダチにレスを返すだけのマメさが
あるのにリアルでは「信心は自分の好きな時にホドホドでもいいじゃないか」などという
のは、すでに魔にやられている証拠です。
残念ながら「冥罰」はどうにもならないところまで落ちても当事者は気付きません。
だから「冥」なのです。
同じ学会員というだけで、知らない人からしつこく勧誘されるような場合は
「趣味につけこむ商法」と同じ対処を取る事とおすすめします。
国民生活センターの「趣味につけ込む商法」のサイトを参考に
ネットコミュニケーションの対処法をつくってみました。
(1)ブロガーの説明や褒め言葉をうのみにしない
(2)しつこい勧誘はきっぱり断る
(3)上司と部下のような関係は絶対参加しない
(4)ネットコミュニケーションでトラブルにあったら、現場の先輩に相談する
(5)信心や教学、他の個人的趣味でも注意
(参考リンク)
国民生活センター:高齢者をねらう、短歌・俳句の新聞掲載への電話勧誘-趣味につけ込む商法に注意-
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20100407_1.html
- 我が居住市の東隣には、三春町という歴史のある城下町。
そこに日蓮正宗法華寺という、由緒のある寺がある。
学会創設前からの檀家(旧信徒)が多く、有力檀家の殆どは、
紙幅の本尊ではなく、板曼荼羅の本尊を安置している。
それも、数体在るところが珍しくない。
板本尊を下げ渡されることが、その家の格式が上がることで
あるかのように、周りに板本尊安置の家が増えてくると、
自分の家には、更にもう一体欲しくなるらしく、大枚の供養を
積んで、もう一体下げ渡して貰う。
そうすると、また、その隣の家でも・・・が繰り返される。
寺側は、供養さえ集まればホクホクなわけで、
結果的に、檀家間で板曼荼羅の収集を競うような状況になった。
と、そういう経緯らしい。
勿論、厚き信仰心から起きた現象ではない(田舎長者の見栄)
から、神棚や仏像などは一緒に祀られているところも珍しくない。
御本尊の扱いが、お粗末極まりなく、金(供養)集めの
道具であったことがよく分かる。
これが、学会出現以前の宗門の実態である。
※20年以上も前に、寺の住職や檀家から
私が直接聞いた話である。
- ※いくら「学会員さんの研鑽のために・・」なんて大義を掲げても・・
さらに詳しく説明すると、もともと赤鬼氏は青鬼氏とともに、こちらで掲示版を
運営されていました。
http://megalodon.jp/2011-0217-2240-16/jbbs.livedoor.jp/study/10095/
ポン吉氏(青鬼氏)投稿文内にもあるように二つの掲示板管理ができ
ないとのことで一つに絞られていますが、一番最初は「サイト」の形をとって
2008年に開設されていました。
いまでも痕跡がのこっています。
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/
このサイトの後を継いで、ライブドアブログで無断転載をされているのが現在です。
※このページは、創価学会員の御書研さんのためのページとして作成しました。
※本ホームページの作成にあたっては、創価学会版「日蓮大聖人御書全集」及び、
私の「ホームページ1」に元づき作成しました
(いずれも上記サイトより)
と断っていますが、現代語訳や講義部分は、「日蓮大聖人御書全集」そのままを
無断転載しています
よしりん氏のお書き込み(無断転載?)を拝見し、改めて思い出した。私んちに御板の御曼荼羅こそなかったが、御御影様(おみえさま)はいらした。誰の許可があって祀ってあったか。で、学会員さんの説得(破折?)で撤去した。
勤行すらしない有様。自我偈もろくに暗唱出来ない、長行など考えも及ばない。観念文は改変に改変でどれが最新版なのかも知らない――等々、うちの外祖母は常々もらしていた。で、御板が御安置出来ればいつでも死なれるとも、笑。
実は古い世代の一つの憧れで、質素ながら高品質のお仏壇に、それはそれは立派で、漆黒地金文字の燦然たる仏様、御板の御曼荼羅が当家におわせば末代まで一族の誉れ、の信仰感性は、どこから生まれて来たのか。ちょっと考えれば得心が行く。
まさに形式だけの宗教、特に日顕宗の場合、一方と他方で矛盾したことを信者に常に言い聞かせる反動だろう。仏を供養せよ、寺に詣でよ、坊主を崇めよで煩(うるさ)くなり、俗は、仏様が自宅におわすのを最優先で考えるようになる。
もっと古くは篤信者の「持仏堂」がその代表。で、実に仏壇は寺のミニチュア、縮小版。坊主はいないが、上手くなれば俗でもお経は板について来る。真剣な祈りも実生活があるゆえのことで、法義理解も奴らを上回って来る、てな感じ。
坊主はそれはそれで尊いとしながら、信者の寺離れを見越して、何とかつなぎ止める。中には仏壇を新調するだけで拝みに来て、どうたらこうたらと因縁を含めて金をせびるようになる。まずもって信者の自主性は二の次に扱われる。
私が聞いた話しをそのまま述べると、御本尊の謹刻は元来当家、拙宅の慶事中の慶事。有縁の皆で祝儀を出して祝う。信心が深まり境涯が開け、財力がついた証拠――そうとらえてしかるべきこと。が、今の寺と坊主は逆に悪心を抱く、笑。
特に祖道の恢復とやら以降、日顕宗が江戸の寺請け制度を復活、継続させるのは、信者の信仰心の現代的な錬成、深化を阻害すると言う矛盾に気づいてもいない。篤信者、篤志家が在俗の伝統美風を守るのが、逆に破門への一里塚になるほどだ。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- http://tomotiyoo.exblog.jp/21809944/
会った事も無い人にたいして、字面だけで勝手に偶像をつくる人は
困りものですね。
大野武士さんの時のように、褒めちぎることで他人を籠絡していくのだともいえますが
「ちよ」さん自身が、いわゆる“いい人”を演出するためにするという一面もあります。
過去の自分を反省しているようにみせれば、情にうったえる事もできます。
しかし今の自分はその「過ち」を克服しているのかといえば、それは別問題です。
「いい人」である事をテキストのみのコミュニケーションの上でアピールするには
ちょっと引いたスタンスが好まれるでしょう・・というか、頑固系オヤジの習性として
愛想よく自分を褒めてくれる異性には弱い。
私は、普通に愛想良くするだけで、良い人だと褒めるような人は、怖いです。
勝手に想像上の「良い人」というモデルを造り上げておいて、その「偶像」をおしつけて
くるのですから自分の意にそぐわないと判断されると、手のひらを返したように、ロク
でもない人間として攻撃されかねません。
自分が「いい人」であろうとするために、相手を褒める人はややこしいです。
相手を褒める=いい人だ と信じきっているので「技巧」を凝らし相手にとりいれられ
ようと自分を偽っている人もいるのですから。
(参考リンク:哲学者が薦める「いい人」に嫌われる生き方)
http://toyokeizai.net/articles/-/18281?page=2
- 「ちよ」さんのブログに直接、コメントを書き込むと、
http://megalodon.jp/2014-0416-1520-44/tomotiyoo.exblog.jp/21801800/
わざわざ、「ちよ」さんが
赤鬼氏のブログに
1. ちよ
2014年04月16日 15:56
読んだら消してください
私のところに、あべひさんから来てますが、消していいですか?
2. 赤鬼
2014年04月16日 16:14
よろしくお願いします。このコメもあへびさんの書き込み消去確認後消去します。
(赤鬼氏の無断転載ブログでのコメントのやりとり抜粋)
http://megalodon.jp/2014-0416-1622-22/blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1783574.html
こういったやり口はいかがなものでしょうね。
公明新聞の4/12付けの「ネット世代のいじめ」というコラム記事の中に
批判のコメントを受けた場合の対処法が書かれていました。
要約すると
どこがいけなかったのかを、じっくり考えてみる
その上で、問題となった文章を正しい内容に修正し誠意ある謝罪文を載せる。
その際はコメント欄を閉鎖したり、削除するなどの行動に出ると、炎上する。
ブログの炎上は、実生活にも影響してしまう・・・
という事でした。
ついつい、自分の失態を隠そうとしたり、共闘して対応をしていると、相手にまで迷惑がかかることを
知るべきではないでしょうか。
それ以前に、誰でも閲覧できるが故に、載せた記事内容などには責任を負わなければいけない事を
知らなければならないでしょう。
////////
福島の壮年さん
※てっきりご自身が研鑽された成果を公開されているのか
いいえ。
ほとんどが創価学会が聖教オンライン等を通じて出版している「日蓮大聖人御書講義」を
そのままテキスト化したものです。
ときおり大白蓮華の講義も丸写ししていますね。
昨今STAP細胞の論文の話題にもなりましたが、記事や画像等の無断転載は
それをやった人間の信用をがた落ちにしてしまいます。
いくら「学会員さんの研鑽のために・・」なんて大義を掲げても、盗作に類するもの
であり、ましてや第三者から感謝されるような事でもありませんよね。
- 先のNo.38741
一部訂正。
誤)てっきりご自身が研鑽された成果を後悔されているのか、
↓
正)てっきりご自身が研鑽された成果を公開されているのか、
- >>38740
>>ブログ村創価カテゴリー内でのコミュニケーションに
>>動きがありました。
>>3~4年前にこちらで「無断転載」の指摘をさせていただいた
>>http://goo.gl/no64bV
>>inaeの赤鬼氏が
そうなの?
講義集の丸写し?
まあ、各記事タイトルは、まさに『講義集の見出し』
そのもののように見えるけど、
ブログの紹介が
『創価学会一壮年部が作成した御書講義研鑽のブログです』
だから、
てっきりご自身が研鑽された成果を後悔されているのか、
素晴らしいと思っていましたが・・・。
(個人的研鑽は、学術研究ではないので、
「研究成果」とは言わない)
そっくり丸写しを個人ブログ上に、都度・記事にしていく
意味と意図が理解できないですね。
ま、余り興味は沸かなかったんで(各タイトルが難しすぎる)
立ち寄りもしませんでしたが。
- ブログ村創価カテゴリー内でのコミュニケーションに動きがありました。
3~4年前にこちらで「無断転載」の指摘をさせていただいた
http://goo.gl/no64bV
inaeの赤鬼氏が、ちよさんの世間話ブログを通じ、マメにコメントをいれる
ことで自分のブログへの誘引を図っているようです。
どうりで赤鬼氏のブログが上位にくるわけですね。
http://philosophy.blogmura.com/sokagakkai/index.html
- (発行=14.04.15)
盟友で宿敵の死に苦悩する日顕
日顕と死亡した久保川法章の共通点を探る
大御本尊を否定、相承詐称で本仏気取り
極悪坊主の日顕が最近は心身共に弱っているという。宗門関係者によると、先月末
、幼馴染の久保川法章が死んだことで、日顕は相当、ショックを受けていたとのこと
である。それは久保川の死を悼んでの心労からではなく、日顕自身も己の死が近いの
ではないかと苦悩してのことのようだ。
久保川の生まれは大正十二年五月二十日で、日顕より半年ほど遅い。二人は、かつて
盟友の間柄であったが、久保川が正信会に走り、その中心的な存在になったので宿敵
にはなったものの、二人には共通点が多い。
まず、日開の弟子であった二人は自己顕示欲が強く相承を詐称した。私生活では酒色
を好み、よく歓楽街を飲み歩いていた。そのため久保川は日顕の遊蕩ぶりを熟知していた。
例えば、昭和十八年十一月二十日、日顕と久保川は浅草の小料理屋で酒を飲み、久保川
は砂町教会(後の白蓮院)に帰ったが、日顕は吉原遊郭に泊まって遊女と戯れていたため
、父・日開の死に目に会えなかった。
この事実を暴いたのが久保川であった。かつて山崎正友が日顕に宛てた密書の中で
「(日顕の)お若いころのスキャンダルの出所は、すべてあの人(久保川)です」と
書いていたように、日顕の淫らな女性問題なども久保川は把握していた。
日顕は若い頃から大石寺塔中坊の娘、秋田県の旅館の娘、深川・熱海・大阪の芸者
やホステス、京都の芸妓、売春婦等々、手をつけた女性は枚挙に暇がない。
久保川の女性関係は日顕ほど数多くはないようだが、胃癌だった妻の死から間もない頃
、女性信徒を出家させて尼僧にして同居。周囲の目を誤魔化すために愛人を出家させた
のだが、若い僧も信徒も離れていった。
一方、信仰面では日顕が日達法主から相承を受けたと詐称したのに対し、久保川も
「日開上人から血脈相承を受けた」と、似たようなウソをついていた。
また日顕が「大御本尊は偽物」と鑑定したことが河辺メモに明記されて有名になった
が、久保川も大御本尊を否定し、しかも日顕と同様に〝生き仏〟〝本仏〟気取りで周囲
の者に「日源上人」と呼ばせていた。
これも日顕が「猊下じゃなく御法主・日顕上人と呼べ」と学会最高幹部に強要した
のと酷似している。
日顕の〝盗座〟を非難していた久保川が、大聖人の歯骨と言われている御生骨
(御肉牙)について面白い解説をしていた。
「御生骨は全体が金色に輝いて見え、御肉と歯を明瞭に区別出来なかった」
「然るに阿部信雄(日顕)が偽法主となっての代替法要の時、拝観した御生骨は全体
がどす黒く変色していた。これには当の阿部及び周囲の僧侶が吃驚仰天し、
ヒステリックな声をあげて照明を暗くさせ、信徒に見えないようにしてしまった」
久保川は昭和四十年に蓮華寺の住職になり、正信会に移った後も居座り続け、
平成十八年十月二十八日、維持費がかかるとの理由で宗門に返還。法源寺に尼僧
と二人で住んでいた。
晩年の久保川は奇声を発しながら本堂の畳の上を這いずり回っていたと、二月一日
付「慧妙」は書いていた。似たような悩乱坊主の日顕も、こんな悲惨な末路を辿るのだろう。
- 投稿者、正信掲示板氏の投稿は、他掲示板からの第三者の投稿文転載であり、
当掲示板のルールに反するコピペアラシ行為と考えます。
おそらく、こちらをアク禁になった者が、自前投稿を自動削除される事への
イヤガラセの為に転載をしているのではないでしょうか。
削除をお願いします。
五座三座、十分(充分)条件でもありません、笑。
絶対(必要)条件でもない?――ええ、やるか、やらないか、だけです。
御本尊様に題目さえ唱えられれば百万力です。勿論内得も同じでしょう。o(*^▽^*)o~♪
>>38731
>>
>>[11863] 言い訳 Name:よしりん New 2014/04/15(火) 03:10
>>今から一時間ほど、うたた寝すると
>>寝過ごして
>>聖教新聞、配達遅れるとエライこっちゃ!
>>
ご苦労様です。有難うございます。
ロウ・ゴク(牢獄)様ですと、昔、皆で冗談言っていました、笑。
>>
>>[11867] おまけ Name:よしりん New 2014/04/15(火) 10:45
>>そういえば、長行ってみんな、してないようですね。
>>
>>かく言う私めも滅多に?しませんが。
>>
>>学会葬のときの導師、みんなヘタクソになりました。(合わない)
>>
>>ひと昔は暗唱できたのだが、今は無理。あったなぁと思い出します。
>>
長行、ボクも忘れました。あれほど一生懸命だったのに、、、爆笑。
で、もっと小さい頃、譬如良医~のあと、
是好良薬(本門の本尊)、今留在此(本門の戒壇)、汝可取服(本門の題目)、
で、鈴一打と同時に低頭させられていました(うちの寺の古式だとか)。
やらなくなって「絶対条件でない」とつくづく感じます。
ああ、沖浦さんのように、もったいなくも御本尊様のことでなく
(ボクは死んでもそんなこと思いません、笑)
勿論「五座三座」のことですヨ。。。 マグマグo(*^▽^*)o~♪
=== 結 論 =====================
942 名前:沖浦克治 投稿日: 2014/04/13(日) 19:57:23
マグマグさんや・・・・
>尚、ネット時代に入り、先生の指導、学会の書籍を読みもせず、説文解字的に御書を読み漁り、信心を忘却した論者が横行している。まして御本尊不要、非絶対条件なる邪義まであるが、我々は騙されてはいけない。マグマグo(*^▽^*)o~♪
この邪義を実践している人が、貴方方ですね。
創価学会下付のご本尊を持ちながら、拝まず祈らず戦わず、結果として功徳も書けず、ハンネで虚しいままごと遊びの人材ごっこをするだけの人。
更には、私共創価のご本尊を持ち、祈り、戦い、功徳を出す、本物の創価人を誹謗中傷する怨嫉謗法を犯し続けています。
御本尊への信の欠片もない、貴方方フジボーで蠢く、ネットの破和合僧の大謗法人達。
因果の理法を恐れなさい。
=== おわり ======================
つまり「御本尊は絶対条件でない」は創作、ウソでしたと、
沖浦さんが認めたと言うわけです。
まあ、ちょっとやり方がスポーツ・マンに似つかわしくなく、
アン・フェアが過ぎますがね。。。爆笑。
時々いますでしょ。自分が悪いのを全部他人のせいにする人が。
でも、認めたことにかわりはありません。お気の毒様でした。
そして、認めて下さって、有難うございました。
以上、皆様にご報告申し上げます。マグマグo(*^▽^*)o~♪
読者諸賢も是非とも本書をお読み頂きたい。ネットで色んな議論があるように見えるが、我々の日常、実際の現場、学会指導にそんなことはない。「御書の世界」にこうある。
――名誉会長 戸田先生の広宣流布の一切の原点は、御本尊から出発したということです。その広宣流布の黎明は、出獄の日である7月3日(1945年)の深夜。恩師の部屋から始まった。/略/この日のことは、戸田先生から幾度となくおうかがいしました。本当に嬉しくて嬉しくて仕方がなかった、と語られたいた。(第2巻234~235頁)――
池田先生は本段に先立って、戸田先生の誓願は牧口先生のご遺志、学会の信心の血脈を正統に継承したものと示し、またそれは大聖人の御本尊図顕の一大快挙に呼応したものとの、ご自身の信心の大確信を披瀝されている。
――日蓮大聖人滅後七百年間、誰人も成し遂げえなかった未聞の御本尊流布が拡大していった原点が、ここにある。/この御本尊で民衆を救っていこうとする誓願があればこそ、日蓮大聖人の御精神が世界に広がったのです。(同236頁)――
御本尊流布が原点。ただ民衆救済のためが学会の存在の本質、目指すもの。ところが魔僧日顕出現後、かつての日蓮正宗はそれを放棄し、学会出現前よりも暗愚で不遇の状態に後退した。これは歴史の証明するところでもある。
――「観心本尊抄」の結論に仰せのように、御本尊は御本仏の慈悲の当体です。広宣流布の実践なくして御本尊を拝しても、真実の仏の大慈悲は通ってこない。「日蓮と同意」「日蓮が一門」という、大聖人と同じ広宣流布の決意に立った時、大河のごとく、日蓮大聖人の大慈悲が滔々と流れ伝わるのです。(同頁続き)――
ここで大事なのは、本尊抄の結論として、先生が大聖人を御本仏と拝し、御本尊が御本仏の慈悲そのものであると指導されていること。日蓮と同意、日蓮が一門の信心の血脈なくして御本尊の真の意味は見出せないと拝される。
――御本尊の功力は無限大です。汲めども汲めども尽きることがない。皆がこれまで受けてきた功徳でもまだ比較することのできない、無量無辺の広大な功徳がある。/その最大の功徳が、人類の宿命の転換です。/その功徳を引き出すのが、創価学会の信心です。(同頁続き)――
では、御本仏の大慈悲の当体で、御本尊に無量の功徳があるから我々が拝すかと言うと、それでは小さい。学会の境涯は人類の宿命転換をなすほど大きい。大聖人を御本仏と拝すればこそ、我々は小功徳に甘んじていてはいけない。
尚、ネット時代に入り、先生の指導、学会の書籍を読みもせず、説文解字的に御書を読み漁り、信心を忘却した論者が横行している。まして御本尊不要、非絶対条件なる邪義まであるが、我々は騙されてはいけない。マグマグo(*^▽^*)o~♪
――927 名前:沖浦克治 投稿日: 2014/04/12(土) 06:04:53/貴方は文章の理解能力に乏しいですね~~!/私は一度としてご本尊が要らないと言ったことはございません。そう言う事は大聖人も、戸田先生も言われません。池田先生の指導をお読みなさい。簡単に理解できます。/小学生でもわかりますよ~~・・・・(後略)――
いいえ、ご自分のお答えをお教え下さいね。
あなたに御本尊が必要でも、あなたがかつて書き、現在も書いておられる
「御本尊は絶対条件でない」
ってどう言う意味なのですか?簡単な質問ですよ。
歴史初、世界初の言い出しっぺのあなたが、お答え下さいね。マグマグo(*^▽^*)o~♪
――923 :沖浦克治:2014/04/11(金) 21:35:40/略/言葉使いではなく、必要条件と表現しても、絶対条件と書いても、それは同じ意味で使用しておりますし、その程度の判断は、中学生程度の文章の理解力で理解出来ます。マグマグさんや、今後は弁えておきましょうね。(沖浦板)――
では、中学生程度でも、御本尊は必要条件でなく、絶対条件でもなくて、あってもなくてもいいもの、と言う意味ですか?
条件設定はどうでもいいのです。皆様のところ、あなたのところにはちゃんと御本尊がおわす。で、要る、要らないを、あなた、沖浦さんにうかがっているわけです。
今度はちゃんとお答え下さいね。中学生程度の問題でしょうから。マグマグo(*^▽^*)o~♪
色々と引用があるが、どこに「御本尊は絶対条件じゃない」と書いてあるのか。沖浦さんの読み方ならばそうかもしれないが、私はそんなことを聞いていない。あなたの解釈はどうでもよい。御書、人間革命、先生の指導にあるかないかだ。
お気づきの読者諸賢も多いだろう。彼が言う「絶対条件」は数学で言う必要条件、十分条件と別もの。混同されず、単純にお考え頂きたい。また上述の通り、学会内部でも未聞のこと、誰も言っていないのを沖浦さんが逆に証明している。
この辺に沖浦さんの信仰観があろう。また海外の例を出して来ても、内得信仰への基本理解も乏しい。現実に御本尊の有無によらず唱題が大事はそうなのだが、なければならないの前提がないと、反対に内得そのものは成り立たない。
この微妙な違いを彼が知るよしもなかろう。率直に言って、海外でも車は左、人は右と思っている人では分からない。で、その人の環境や条件に応じて信心をすすめるのは必要だが、原理、原則を曲げていると、その内に別ものになってしまう。
信心そのものに民族や国情の違いはなく、同じ人と人の間で教え、教わるもの。一粒種が育ち、拠点や会館が出来、御本尊を皆でいつでも拝める条件が整えば、必要最低限のことは揃ったことになろう。で、内得はその通過点に過ぎない。
原理、原則とは何か。御本尊がなければならないでなく、御本尊を受持した人がいなければ何も始まらない。内得は御本尊受持の形式の一つで、受持した人のところで拝め、同志から信心の話しが聞かれ、指導を受けられれば条件を満たしたことになる。
つまり原理は、御本尊と拝む人が一対の存在で、そこから信心の波動が広がり、一から二、二から三、十から百へと人が増えて行く。御本尊を増やす増やさないでなく、信じる人が増えれば御本尊が自ずと増えるとも言える。当たり前のこと。
原則はもっと簡単で当たり前。あなたや私がしっかりと御本尊を受持するだけ。信心、現実の日常にも国境はない。日本と同じに純信に強盛に、地元で指導を受けながらしっかりやるだけのこと。自分の宿命転換、人間革命なくして広宣流布はあり得ないのだ。
多分だが、沖浦さんは誤解している。内得信仰が正規の信心でなく、何だか日陰者のようなイメージか。そうならば完全に間違っている。特に一神教で偶像崇拝を否定する宗教風土のところでは、内得の方がそこにあったあり方の一つと言える。
御本尊は大聖人が御命を墨に染め流して顕わされた、仏の慈悲の賜物――であるからこそ、その御存在が間近、身近にいらっしゃると感じるだけで信心が喚起され、学会指導の通りに唱題し、功徳の体験を生む人が海外に多い――それだけのこと。御本尊は絶対条件でないなどと、何を寝ぼけたことを言っているのか。マグマグo(*^▽^*)o~♪
※この人材とは社会で大成功し、世の中に大きな影響力を持つ人の事です。
でないなら、わざわざ創価教育の学校を作る必要などございません。
世間で勝ちあがってこその地涌の菩薩です。
(沖浦さん談 2014/4/11)
世間で勝つというのは、なにも世間で名聞名利を追えというのではありません。
社会で大成功をしなければ地涌の菩薩ではないという理屈もとおりませんね。
どんな立場であれ、御本尊を受持し、学会活動にはげみ、弘教に挑戦をし続ける
かたが、地涌の菩薩の本眷属(日蓮大聖人の本弟子)と指導されています。
創価教育の学校の卒業生が世の中でおおきな影響力をもつ立場になられる
場合もありますが、それとて、沖浦さん個人のスポーツチャレンジの目標とは
まったく違うようにおもいます。
また創価教育の学校を出たところで、優秀な人材になるかどうかは未知数です。
ちょうど、本日付けの聖教新聞三面に池田先生の長編詩が掲載されています。
◎ 家庭にあっても
地域にあっても
職場にあっても
自体顕照の輝きをもちて
心から慕われ、信頼され
社会の平和と繁栄のために
貢献していくことこそ
信仰の本義なのだ
「信心即生活」の軌道なのだ
【長編詩:「若々しく未来に光る国」より抜粋引用 1988年2月 マレーシア訪問時】
また同日の社説には池田先生の指導が引用されています。
◎「『法』のために、また悩める人々のために尽くしていただきたい。
やはり自分の幸福のみを追求する行き方だけでは、エゴとなるし、
自らも成長できないからである」
【社説:平和の光放つヤング・ミセス より抜粋引用】
沖浦さんの発想は、まず自分が幸せにならなければ、実績をださなければ地涌の菩薩
ではないという「結果論」です。
だからこそ、日々の小功徳を羅列し、過去の実績にこだわり、自分を飾らなければ
光れないとおもっておられるようですね。
日蓮仏法ではあるいみ「エゴ」を変革する教えだと思います。
自体顕照とは、自分自身を名誉や肩書を得て光らせるという意味ではありません。
みずからを磨きながらも、信頼を得ることで、社会の平和と繁栄に貢献できなければ
ならないのです。
たとえ世界チャンピオンになっても、その肩書や利権で人が集まってくるだけで
信頼を得ているとまではいえません。
それよりも、世界タイトルはなくても、信仰で磨いた飾らない人間の魅力で人を
助ける事に喜びを感じ弘教にむけて日々活動されている人こそが自体顕照になるの
ではないでしょうか。
どっちでもよくなって来た、笑。学会の講義や指導にないことを信じる必要もないし、沖浦さんがどっちでも勝手になさって下さいで、いいでのないかと思う次第。が、間違いは間違い。彼が学会を続けるならばなおのこと。
――更に、大聖人自らご自分の人間としての立場は迹だと仰せです。本地は南無妙法蓮華経如来。一切衆生も大聖人と同じと仰せですから、大聖人をお手本にして、私共も人間としての姿は方便で迹。本地は久遠の南無妙法蓮華経如来です。これが大聖人仏法の極意なんですよ。(2014年4月10日、沖浦板)――
いいえ、それを言っておられるのが日寛上人です。で、あなたはそれでも「人本仏迹」をご主張。一体全体どっちがご真意なんですかあなたの。何だか最近、人本仏迹をご否定のようですが、もう相当遅いんじゃないでしょうか。
――『本因妙法蓮華経の本迹 全く余行に分たざりし妙法は本唱うる日蓮は迹なり、』(百六箇抄)/書いてあるでしょう。御本尊は道具ですよ。ですが、自分の命の次に大事なんです。無い方が良いなどと、私が言いもしない事を書くと、因果の理法によって、ご本尊の無い所で生活する羽目になりますよ。そろそろ、怨嫉謗法おやめなさい。(同続き)――
あなたと寛師はこの部分で違います。しかし寛師、いや、学会の信心で大聖人と御本尊は一体。それと確かにあなたは「御本尊がない方がいい」と言っておられません。「絶対条件でない」(2009年2月)でしたよね、確か。
絶対条件って何でしょう。大聖人も御本尊もあればあるでいいってことですか。もしもそうならば、人本仏迹の「沖浦本・大聖人迹」がよく理解出来ますよね。あなたが大聖人にとって替わるって言う変な仕組みが。
で「御本尊は道具」と言っているのは、あなただけです。御本尊不敬、否定は大聖人への不敬、否定です。それがあなたの最大の謗法でしょう。大聖人、御本尊、そして学会から見捨てられますよ。あなたがこしらえられた悪因によって。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- ※私が何故勝ちたいか?
創価の信心と、池田先生の正しさを、身を持って証明したいからです。
世間の名聞名利を、その武器に致します。
(沖浦さん談 2014/4/3 談)
http://megalodon.jp/2014-0410-1721-43/jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9645/1388390456/863
師匠が個人として世間の名聞名利を追う生き方について、何度も指導されています。
それを紹介すると
※私は現在功徳をドンドン出しております。
創価の信心の功徳をネットで実況中継することが、私の書き込みです。
そう言う極々簡単な事実を認識致しましょう。
http://megalodon.jp/2014-0410-1722-49/jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9645/1388390456/907
一言に功徳・罰といっても池田先生は「冥益」「冥罰」が法華経の本質的なものだと
指導されています。
あえて引用はしませんが、聖人御難事の御書解説の部分に明白です。
いくら金持ちになろうが、人気者になろうが、結果的に学会活動から離れてしまったり
会合に適当に顔をだしておけば、学会員としての誓願が果たせていると考えるのは
本末転倒ではありませんか?
沖浦さんの名聞名利を追う生き方が正しいとしましょう。
それについてくる人がいなければ、ただの独善ではないでしょうか。
例えば、あなたが学会員としてスキーのインストラクターになって10人の初心者
生徒をもったとしましょう。
基礎的レクチャーをしてから、上級者になるためには上級者コースが一番だと
10人の生徒をゲレンデの上から下まで先導しながら降りてきました。
1人がインストラクターについて来て技術上達した事がみられましたが、7人は
途中で脱落しリフトで降りてきました。
残りの二人は、ゲレンデで迷子になってしまっていました。
さて、このインストラクターはそれなりの競技成績も過去残しており
1人の生徒は技術上達したともいえるのですが、残りの9人には上級者に
最後までついてくるのが上達のコツだと強弁しますか?
まずこのインストラクターは、スキースクールの指導員から外されるでしょうね。
人間的な魅力を、皆さんはどこに感じるでしょうか。
親切にしてもらうことで魅力を感じますか。
自分にはないものをもっておられる事に魅力を感じるでしょうか。
人が他人に感じる人間的な魅力とは、人によって様々でしょう。
ある意味「財(たから)」に人は魅せられてしまうものではないでしょうか。
日蓮大聖人は、人間には三つの財があると述べられています。
地位・財産の物質的な「蔵の財」
健康・長寿の肉体的な「身の財」
それ以上に、最も大切だとされているのが「心の財」ですよね。
自分には過去の功徳の実証があるから、どれだけ批判をしても謗法に
ならない。
でも、相手の功徳の実証が感じられないから、自分を批判するのは謗法だと手前味噌
な自己弁護をする人がいます。
どんな人にも仏性が必ずあると説くのが、釈尊の教えであり日蓮仏法です。
また、末法において、お題目を唱え、御本尊様を受持できたことだけでも、大功徳があり
折伏弘教に励むのなら大果報があるとも言われています。
「同志」が功徳を得ていることを自分に納得させてくれない限り信じられないのは
「法」ではなく「自我」に基準においているからではないでしょうか。
現場でもネットでも同じことです。
小説 新・人間革命激闘15にこう書かれていました。
※
たとえば、災害に遭って周りの人たちが苦しんでいれば、自分は無事でも、
幸せを感じることなど、できないではありませんか。
ゆえに大聖人は、自分だけが題目を唱えていればよいというのではなく、折伏・弘教
の実践を、仏道修行の要諦として示されているんです。
つまり、エゴイズムに安住するのではなく、人びとの幸福のために正法を弘めるなか
に、自身の最高の幸福があるんです。
言い換えれば、日蓮大聖人の仏法は、折伏・弘教を掲げた広宣流布の宗教であることが、
大きな特色といえます。
(2014/4/7付け 聖教新聞より抜粋)
個人の魅力を磨くつもりが、他人の目を気にする“どす黒い”自我(エゴ)を造り上げ、
自讃することで「法」を下げてしまうという愚行はくれぐれも慎んでほしいものです。
自分の都合ばかりで申し訳ないが、連続投稿をお許し頂きたい。読者諸賢はNHKの朝の連続ドラマ「ごちそうさん」をご覧だったろうか。私は面白いし、好きだった。あるかどうか分からないが、続編も見てみたいと思っている、笑。
で、ご覧でなかった向きはちょっとご辛抱頂きたい。このドラマはジャンルで言うと何に入るか?――お考え頂きたい。時間の流れは速い。明治末期、大正、昭和の敗戦直後までと、東京から大阪への約40年をたった半年で走っている。
この間「食生活」を通じて、それぞれの時点での社会情勢、一般庶民の暮らしぶりを描いているが、ドラマのジャンルは料理や食文化でない。そうでなく、食生活に関わることの多くを、ドラマに取りいれて描いているとは言えよう。
戦争が起こって次男が出征し、帰らぬ人となって泪する母親の心情にもらい泣きした視聴者もいるだろう。で、これは反戦ドラマかと言うと違う。その次男の戦死で、戦後進駐軍の米兵に反感を覚えるが、これは反米ドラマでもない。
焼夷弾の雨の中、駅員を口説き落とし、地下鉄で九死に一生を得た主人公らだが、また防空防火訓練の最中、そのやり方に異を唱え、公職を失って旧満州へ追いやられた夫だったが、これは反政府ドラマかと言うとそれも違う。
家庭料理を通じて家族愛、隣人愛と庶民の生活実感を描いた秀作だと私は思った。諸賢はどうだったろう。つまり生活ドラマだったが正解では。ところで、中にはこう言う人がいる。旦那さんのあのお姉さん、めい子の小姑が好き、と。
自分が強く生きるために「いけず」になり、めい子を強く生かせるために「いけず」をするお義姉さん――大阪の、いけずのオバハン面目躍如の闘魂ドラマだったとの感想も。いや、部分観だけで全体を判断してはいけないゾ、笑。
たかがドラマ、されどドラマ。どこかで現実を反映しているが、現実そのものでない。毎日見た子どもは先入観から、あなたは大阪のオバハンなのに「いけず」しないのか?と、大阪のご婦人がたに恐怖を抱くようになるだろうか。個人的に、少しばかり分かる気もするが、笑。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- 中島恵さんの「抗日ドラマ」についてのコラムを興味深く読ませていただいた。
マグマグ殿も深夜ドラマのいわゆる抗日系番組を見たかどうかを、聞くつもりは
ないですが、良い子が見られる時間帯の番組ではなさそうですね(笑)
井出記者の希望的観測は、取材をおこなったものではなく、ただの主観である
としましょう。
10歳も満たない子供が抗日ドラマを見て、日本の民間人に「私を殴るの?」と
聞くでしょうか。
そうなると、日本人に対する恐怖を植え込んでいるのは「反日教育」という
ことになるのでしょうが、反日教育として抗日ドラマを見せているとか、
抗日ドラマごっこでも流行しているほど文化的に浸透でもしていなければ
冗談でも民間人に「私を殴るの?」とは聞かないでしょう。
中国のテレビ事情はよくわかりませんが、ケーブルテレビを通じた多チャンネル
放送が主になっているようですね。
※中国のテレビ放送の変貌と現状
http://www.china-watching.com/ura/07.htm
中島さんが「どこかのチャンネルでやっている」といわれたのは、当然こういった
テレビ事情が背景にあるのだと思います。
日本でも同じようにジャンルに分けられたチャンネルが数多くあるでしょうし
「ドラマ」ということで過去に作成された番組をリアルタイムでみると、さも
いま流行しているかのように感じるかもしれませんが、まずもって再放送です。
一時期韓流ドラマがブームになっていましたが、「抗日」をテーマとした
ドラマが中国国内で一定の娯楽番組として確立しているのと、そういったドラマが
多チャンネルで放送されている事を驚いている日本人との「ミゾ」があの記事を
書かせているのではないでしょうか。
日本在住の外国人が、日本ドラマのチャンネルをみて、今でも日本人が「葵の御紋」
にひれ伏しているなんて思わないでしょう。
「錦の御旗」や「菊の紋」の好きな方は一部おられますが(笑)
阿部日様でお楽しみいただければ幸いだ。ところでその「抗日ドラマ」だが、もう少し調べてみた。中国のテレビ・ドラマはネットで見られる。放映中のものも同一歩調で放映される。多くの中国語学習者にもって来いの教材だろう。
超大手サイトで扱っているドラマは90年代から現在の3,663部。連続もので少なくて10集、多くて100集をこえるものもある。ジャンルは歴史、戦争、青春、お笑い、家庭、倫理、犯罪、推理、恐怖等々、よりどりみどりだ。
で「抗日もの」の分類はない。戦争ものは上の総数の内859部あり、抗日のタグがついているのは161部。全体に対する割合は順に23.5%、4.4%で、抗日だけをみると戦争ものの中で18.7%。意外に少ないと思われないだろうか。
ポイントは「抗日タグ」で、主題として取りあげているのは、上の161部の中で数十部(しっかりと数えられない、笑)。ほとんどのものが、抗日戦時代を歴史背景とし、悪く描かれる日本の軍人や民間人は端役で登場するもののはず。
頼りない表現で申し訳ないが、のはず、の言い方は、全部を見たわけでない(見られない、大笑)ので確信が持てないが、の意。ところが日本のジャーナリストは自信ありげで、真実だと疑わない模様。ほぼ共通した定義と評価を与える。
――抗日ドラマとは、主に日中戦争を時代背景として、中国人の日本軍に対する抵抗がテーマ。通常、日本軍や日本人は「極悪非道」に描かれ、中国でどれほどの悪事を働き、中国人をどのように痛めつけたかを、さまざまな演出で見せるものだ。/略/私の個人的な印象でも、中国でテレビをつけると、毎朝毎晩、どこかのチャンネルで放送しているように感じていた。/略/日本人にとっては驚くことだが、それほど中国のテレビ界で、抗日ドラマは「不動の地位」を確立している。(2013年10月24日、中島恵「抗日ドラマ?けっこう楽しんで見ているわ」)――
私は中島さんに対して元々違和感が少ない。とても素朴に主張を述べ、特に中国の人々への気づかいが深いのに好感さえ抱いている。しかし、このように「さまざまな演出で見せつける」となぜ言い切られるのか、とんと合点がいかない。
再々中国へ来る女史が、現地の友人を通じてこれらを知り得たとすると、第三者に対する説得力はむしろ減少するだろう。尚、不動の地位を確立しているならば、私はテレビをまったく見ていないことになる。いや、そんなことないです。結構見てますよ、字幕と格闘しながらですが、笑。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- (発行=14.04.08)
御書に照らし「日顕宗は法華経の敵」
虫払い法要の初日に雹、春季登山は春の嵐
祈祷抄「法華経の敵を霜雹となりて責む」
日顕宗では恒例の虫払い法要を今月六・七日の両日、大石寺で行なった。初日の
六日、大石寺の周辺には物凄い稲妻が走り、雷鳴が轟く中、大粒の雹(ヒョウ)が
叩きつけるように降ってきた。この雹に直撃された登山者もいて、それを見ていた
人は「痛そうで可哀想だった」と語っていた。
日顕宗の行事の時は豪雨、強風、地震、大雪、霙(みぞれ)などに襲われる。
先月末の春季総登山の時も大変な〝春の嵐〟で大雨の中、車椅子で移動していた
人などがズブ濡れになっていた。このような大石寺への登山会や日顕宗の行事には
参加しないに限る。
特に〝雨坊主〟〝魔僧〟の異名をもつ日顕が動くと天候が荒れ狂う。その代表例
が平成五年六月、日顕が早瀬日慈(日如の実父)の葬儀に出るため、東京・池袋の
法道院へ着いた時だった。日慈は六月二十日午前七時過ぎに順天堂病院で死亡。
この日、日顕は金沢市の妙喜寺で説法した後、日慈の死を悼むどころか、山中温泉
の高級旅館「胡蝶」で豪遊し、翌二十一日の正午前、羽田空港に到着。
午後一時五十分頃、法道院に着いた。
日顕が動くと悪天候に
日顕の到着とほぼ同時刻、法道院上空の一点から黒雲が広がって真夜中のような
暗黒が真昼の東京を包んだ。
間もなく強風が吹き始めて横殴りの豪雨が降り出し、雷鳴が轟き、ピカッと閃光
が走って約一センチ大の雹までも降ったのだった。
日顕の行く先々での異常気象は、平成四年十一月の関西親教でも快晴が一転、
暗雲に覆われて周囲は真っ暗になって大荒れ。翌五年一月の九州親教の際には
異常寒波で日顕の到着直前に黒く汚れた雪が舞っていた。
宮城県・徳妙寺、北海道愛別町・法宣寺、大阪府・経王寺など行く先々で雨を
降らせた日顕が平成九年十一月、所沢市の能安寺に行った時は豪雨、強風、雷に
加えて震度3の地震までも起こるなど荒れ狂った。
日顕と悪天候の例は枚挙に暇がない。忘れられないのは平成二十年四月二十九日
、法華講の北海道決起大会の際の気候の急変だ。
日如と日顕が上陸する前日まで温暖な日が続いていたが、二人の到着に合わせて
旭岳は猛吹雪に見舞われ、渡島半島ではビー玉大の雹も降り、霜と雹で農産物は
大被害をうけた。
この霜と雹について日蓮大聖人は「祈祷抄」に次のように記されている。
「かかるなげきの庭にても法華経の敵をば舌を・きるべきよし・座につら(列)
なるまじきよしののしり侍りき、迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜雹となる
べしと誓い給いき、爾の時仏は臥(が)よりをきて・よろこばせ給いて善哉善哉
と讃め給いき」(御書一三五一ページ)と。
これは釈尊の入滅を前に、その場に集った門下が「法華経の敵」への対応を述べ、
迦葉童子菩薩は「法華経の敵の国には霜(しも)や雹(ひょう)となって責(せ)め
ます」と誓った。
その時、釈尊は起き上がって「善きかな、善きかな」と喜んだということだ。
この日蓮大聖人の御金言に照らし、今の日顕宗こそが「法華経の敵」であることは
明白である。
- はた京阪さん。拙ブログの記事の感想ありがとうございました。
宿坊殿の掲示版でも、おなじ記事を紹介させていただいたのですが
「苦境を克服してから」というのではなく、「進みながら強くなる」という
趣旨は理解できても、それが「他への働きかけ」との関連性が解らないようでした。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/8073
同じ文章を読んでも、信仰のいかんによって受け取り方がちがうというのは
御書においても経文においても同じです。
だからこそ、師匠が必要なのだと私は思います。
正直、自称学会員さんに対するアドバイスで、池田先生の講義や指導を列挙
するよりも、自分の言葉に変えて表現したいのですが、どうも「人を侮る」系の
方は、指導よりも我見を優先させることも多く、バランスが難しいです(笑)
はた京阪さんのブログ記事を拝見しました。
◎“燈” ~わがハンデとともに。 そして、尊きご同志Kさんへ。
http://fanblogs.jp/hatakoh/archive/152/0
※貴方の「障がい者さんへの力になりたい」というお気持ちは「正しい」。
でも、アプローチは 「?」
私も貴殿の主張は理解しているつもりです。
モチベーションは正しいけれど、俯瞰してみればやり方がおかしいというのを、
『戦術成功、戦略失敗』と言いますね。
熱原の公演も同じような「根」があります。
学会活動の場合、目先の目的達成に力量や時間を注いでも、現場が活性化しなければ
失敗の因になっているというような感じですね。
とりあえずこなしておけば、どうにかなるさ。。では戦略は、ないに等しいです。
学会員さんならば、聖教新聞啓蒙とかがわかりやすいでしょうか。
部数契約の目標が達成できていたとしても、紹介者が「仏法対話」をしていなければ
広宣流布など進みません(笑)
////////////////////////////////
マグマグ殿
最初のご返答の時には、今ひとつ私の意図が理解されていなかったかと思いましたが
◎「日本人、殴らないで!」は本当か?
追記編レポートを拝見し、マグマグ殿らしい切り口でとてもおもしろかったです。
「海賊版の販売」はよくきいていましたが、抗日ドラマ(?)ビデオソフトの販売が
あるかどうかが気になっていました(笑)
さて紹介させていただいた記事について、「?」と思ったのはおおむね三つ。
*なぜ「日本人は殴る」と思い込んでいた子供が、店員の子供らしい「小学校一年」
という漠然としたキャラクターなのか。
*中国語を理解し「なぜそう思うの?」と聴けるぐらいの語学力がありながら
その少女の返答が「不思議そうに尋ね返してくる」としたのか。
*「抗日ドラマ(?)」との関連性が希望的観測でしかない。
ようするに現地の人間との会話の中での話なのだから、記者が再度取材をしなおせば
良い所を、奥さんから聞いた話を膨らませただけじゃないの?という事です。
こんな記事ならいくらでもかけます(笑)
最後の結論が「少女の話」から、日本の対中国政策へと論理飛躍をするのも滑稽
で、素人のブログを見ているような感じがします。
当板№38694の阿部日様のお問い合わせに対し、№38698で私の疑問を書かせて頂いた。昨日までの清明節連休の間、頭を離れなかった。どうしても気になったので、学校の先生に聞いてみた。そんなことはないと笑われた。
笑われただけでなく、怒る人もいた、笑。今日、職場でふたりに聞いてみた。中国在住10年の日本人、日本留学7年の中国人だ。怒ったのは日本人のほうで、子どもではなくてオトナから言われたんだろうと、別の意味で憤慨していた、笑。
留学生君(今はもちろん社会人)は、いや、この人(井出さんの奥さん)は、中国語が出来るようで出来ないんでしょうと軽く受けとめた。逆に、あなたは「日本人なのに、なぜ殴らないの?」と中国語でどう言いますか?と私に質問されて、答えに困った。
それもそうで、会話の中の微妙なニュアンスの違いを私は分からない。日本人・な・の・に・って日本語でもおかしいじゃないと言われて、井出さんの奥さんが・そ・の・よ・う・に・理解しただけなのじゃと、新たな疑問もわき出した。
留学生君は更に面白い答えを出した。曰く、中国育ち(北京っ子)の自分で、日本語の微妙なニュアンスは分からないことが多いが、「日本人なのに」と中国語でどう言うかもちょっと思い浮かばないと話してくれた。
やはり私の焦点は、井出さんの記事にある「小学一年生」が本当かどうか。それと北京市中心部繁華街のDVDショップがどこにあるのかも。2008年の五輪以前と状況は大きくかわっている。かつての海賊版ばかりの店はもうない。露天ならあるにはある。
その実、今あるのは大きな書店のDVD売り場か、音楽や映像の専門店だが、そんなところに店員の家族と思しき子ども、しかも抗日の小1がたむろしているかどうか。どの場面設定も、そこにいなかった他のオトナの常識や経験でピンと来ないから、とても不思議だ。
そして井出さんにおうかがいしたい。「抗日ドラマ」って何ですか?題名をお教え下さい。私も見て勉強します。もちろん私が抗日派になるためじゃありません、笑。あなたまさか、戦争時分のことをドラマ化したもののすべてが「抗日」だと、お思いじゃないでしょうね。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- あべひさんの最新ブログ記事、
【過信とうぬぼれ】を読ませて頂きました。
http://captivated.exblog.jp/19650987/
4月6日付 「名字の言」にこうありましたね。
(抜粋)
>「完璧主義で、強くなってから進もうと考えて下準備ばかりしていたのでは、強くなったと思ったときには、もうすべてが終わっている」
>自分も苦悩を抱えながら、悩める他者のために動き、語り、自他共の成長へ進む。「強くなってから進む」より、「進みながら強くなる」のが創価の生き方である。
記事中の「かの御仁」は、
この「名字の言」に照らせば、きっと臆病なのでしょう。
世間でよくありますね。
「肩書きでしか話せない人」等々。
そういう人は、ある意味、生身の自分に自信がないと言えるのではないでしょうか。
卵が先か?、ニワトリが先か? じゃありませんが、
「苦境を克服してから折伏」とでも言うのでしょうか?(笑
たぶん、「かの御仁」は功徳(この場合、困難の克服)をせぬ者は、証明になっていない」とでも力説することでしょう。
でも、誰も「苦境を克服したくない」とは言っていませんよ。
その「戦い」をまさに「やっている」んです。
ここんとこが、まるでいつも御仁は噛み合っていないのです。
たとえ今まさに「苦境の自分」であったとしても、勇気を用い、
まさにその“法華経の兵法”を貫くことこそ、
このたびの「名字の言」から読み取る肝心ですね。
結局、「かの御仁」が重きを置くのは、ただの「世間のパワーゲーム」であって、
信仰の兵法(即ち、法華経の兵法)ではないんですね。
あ、そういえば「かの御仁」は言ってましたっけ?
『聖教新聞の言っていることは真実ではなく、会員向けのリップサービスです。』(趣意・笑)
やはり!(笑
- ちょうど今月号の大白蓮華21ページ(質問会から)に、甘えや気取り、反感といった
感情を指導されている箇所があります。
○○さんのために・・とか、創価学会のためにというスローガンは、ややもすると
その方の「気取り」や「甘え」からでている場合があります。
一念三千ですから「こういっておけば批判されないだろう」とか
「自分の評価がよくなるにちがいない」という他人あわせの臆病の心がある場合です。
自分がすでに縁に紛動されているからこそ、指導をされることを嫌い反感を感じる
ものなのです。
でも、実際には私心なく「○○さんを幸せにしたい」とか「創価学会のために」と
時間を工面して活動されている明るい学会員さんもおられます。
なにが違うのでしょう。
少々長くなりますが、池田先生の指導を引用させていただきます。
◎すなわち、広宣流布、仏法実践につながる作業にあっては、何事であれ、
えり好みなどすることなく、常に心の底から積極的に取り組んでいく姿勢と
行動を、忘れてはならないという結論になるのであります。
しかも、人の言葉のままに盲目的に突進するのではなくて、自分自身の
責任感のうえから、知恵を尽くして体当たりしていく。
だれのためとか、彼のためとかではなくして、純粋に法のためであり、
社会のため、自分自身のためという見地から、そのように行動していただきたい。
それが「勇猛精進」すなわち、「全力をあげて戦う」ということであると、
私は思います。
【「文化的なる精神の再建を」昭和49年1月15日・東京創価文化会館
学会指導集・壮年部への指針 より抜粋引用】
つまり学会活動といえど、「仏法」を規範としたうえで、社会のため、自分自身の
ためという大目的が、まず成立してなくてはならないということではないでしょうか。
仏法実践となる価値的な活動は、ネット上でもできる可能性を私は否定しません。
しかし、あくまで「全力をあげて戦う」精神がなければならないでしょう。
個人的な癒やしのため、都合上の不便の解消を求めているだけでは同志利用に通じます。
甘えや気取りなどない「修行」をさせてくれるところこそが、善知識の集まり
ではないでしょうか。
- 菊川さんが、興味深い記事を公開されていました。
※ただそれだけのことで 御書拝読のアプローチができない‥
これを放置してはならないというのが 私の考えです。
過去、私は 御書全集を隅々まで 三度 拝読しました。
その感動を、その喜びを、自分のものだけにできません
(創価の森通信 2014/3/14付の記事より抜粋引用)
これが「ひらがな御書」を作成する意義だということです。
菊川さんが自我肥大(自意識過剰)を起こしていることがよく分かります。
自分が得た感想と他人に感じて欲しい感動が、難解な御書を聴聞するだけで
得ることができるとおもっているようですが、それは思い込みではないでしょうか。
何度御書を読んでも、自身が日蓮大聖人の振る舞い、歴代会長の振るまいができて
いなければ、その「意」を会得したとはいえません。
本当に感動(歓喜)があるならば、日々の地道な学会活動に邁進しているはずです。
また自分が感動しているというだけなら、単なる天界どまりの荒凡夫です。
御書は基本「古文」であり、たとえ全文を音声ソフトで再生できるようになったと
しても、現在の仮名使いや文法的用法とちがう部分も多々あります。
門下に当てられたお手紙の中にも現在創価学会で行われていない儀式等あり、
仏像、社寺のとらえ方も等予備知識がなければかえって困惑する内容もあるのです。
まず菊川さんは御書を総花的に「感動の書物」としてしか表現できていないことに
気がつくべきでしょう。
近所の念仏の檀家さんに、お経のカセットテープを仏壇の前で流して日々のおつとめ
とされている方がおられました。
それと同じように、ただ御書を音声で流すことができれば、その内容も会得できるか
のようにするのは間違いではないでしょうか。
聞き慣れるのと、会得することは全く違うからです。
それが証拠に「ひらがな御書」作成以前に千早さんは御書全文が読めずとも、
大白蓮華等の創価学会が出版するテキストをつかって個人で研鑽をされていた
ではありませんか。
菊川さんはサポートをするつもりで始めたかもしれませんが、その後千早さん
みずからが個人で研鑽されるといった記事が激減しました。
結局、相手の成長も阻害してしまっているのではないのでしょうか。
あくまで教学は日々の活動の上で、共に学び合う姿勢が大事になってきます。
そうでないと、我見の解釈をしがちになるのが凡夫です。
足りない物をいくら与えたところで、本人に依存心を芽生えさせ、解説もない
「ひらがな御書」の完成をただひたすら待たせている状況なら、いったいなんの為
に現場での活動や御書学習会があるというのかということになってしまいます。
本人がちょっと勇気をだして努力するだけで、現場でもできることを「ネットで代替」
する事がどれだけ「感動を自分のもの」にしているというのでしょうか。
菊川さんは「自分が感動」するために、お仕着せのシナリオをつくり、それに
遠方の障がい者さんにネット経由で近づいただけではないでしょうか。
なぜ身近な障がい者さんに対して心の中でエールだけを送り、自分が近づいて
いった障がい者さんをネタに誇張ぎみの「有益性」を解き、固執するのでしょう。
聞けば佐村河内氏の「言い訳会見」の影響で、障がいを持っているタレントさんに対し
「病気はウソなんじゃない?」と心ない言葉をかける人もいるそうです。
善意の押しつけで、他人が感動するはずだなんて思い上がりは、自分の為にも
相手の為にもなりません。
- ***法華経の智慧 第五巻P168*** ×
***法華経の智慧 第六巻P168*** ○
失礼しました。
- 先生の遺言です。
***法華経の智慧 第五巻P168***
広宣流布を支え、広宣流布の団体・創価学会を支えてくださっている方々が、諸天善神です。諸菩薩です。如来の使いです。
それを忘れて、何か同志以外の人だけを大切にし、同志を軽んじるような風潮が起こったならば、本末転倒です。
学会員が大切なのです。
学会員が最高に尊貴なのです。
世間の地位がなんですか。財産がなんですか。
法華経に照らせば、広宣流布をしている学会員以上に尊貴な方々はいないのです。
何度でも私は、このことを言っておきます。私の遺言と思ってもらいたい。
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世間の地位や名声を築く事、自身の財産を作る事・・・・からは早く卒業して、学会員さんを守っていける境涯を築いていこう !