内藤 朝雄さん(明治大学文学部准教授)
80年代以降、マスメディアに頻繁に取り上げられるようになった学校におけるいじめ問題。ときに自殺に追い込むまでの執拗さと残忍な手口で被害者を追いつめる。近頃では、加害者が逮捕されることからもわかるように、れっきとした犯罪行為である。だが、事件発覚後の報道や識者、教育関係者の発言からうかがえるのは、いじめを犯罪行為として捉え、対処する観点ではなく、あくまで命の大切さを訴えれば、是正されるはずという教育への期待だ。そうした論調を真っ向から否定するのが社会学者の内藤朝雄さんだ。内藤さんは「優しさや気持ちの通じ合いを強調するからこそいじめが絶えない」という。いじめ発生のメカニズムについてうかがった。
ヒューマニズムを説くことでいじめが改善されると期待する人がいます。けれども、そもそもヒューマニズムは心や気持ちの優しさと関係ありません。ヒューマニズムとは、「気持ちが通じ合う」とか「共感しあえる」、「優しい気持ちになれる」というものとまるで異なります。気持ちの問題ならば「大好きな人だから優しくする」ということでしかありません。
教育関係者にも気持ちの通じ合いとヒューマニズムを混同している人が多いのですが、ヒューマニズムは、気持ちの通じ合いとは別の水準の、人間の普遍的な尊厳にもとづくものです。それは、自然感情からすると時に不自然なものでもあります。
親でも恋人でもいいですが、「この人が心から私のことを愛してくれているから、私は幸せだ」と思えるような人を想像し、その人の命の重さを感じてください。
次にあなたのことを嫌っていて、いつもいじわるするような人を思い浮べてください。そういう人がもし病気で死んだら、内心では「ざまあみろ」と思うかもしれません。
さて、ここで質問です。では、あなたにとってどちらの命が重いでしょう? 恐らく親や恋人のほうを重く感じるのではないでしょうか。
しかしながら、ヒューマニズムに基づく普遍的な人間の尊厳や人権概念からすれば、人の命はコミュニケーションの積み重ねによる好き嫌いとまったく関係なく、普遍的に尊いとされます。
つまり、両者の命はイコールで結ばれます。それが普遍的な尊厳という意味でのヒューマニズムであり、人権なのです。これは優しさや気持ちの通じ合い、共に生きる中で感じられる命の手応えとは、まったく別のものです。
いまの学校は気持ちの通じ合いや優しさを軸に運営されています。その中で子どもたちは生きています。「みんな仲良くしましょう」という考えは、「この人とは仲がいいから優しくする」になると同時に、「優しい気持ちになれないあの人には何をやってもいい」という理屈を生みます。気持ちの通じ合いを強調する論理からすれば当然の結果です。
普遍的な人権や法で対処すべき問題が、仲良しや優しさという気持ちの問題にすり替えられている。
嫌いだろうと、心が通じ合わなかろうと、他者を殴ってはいけないのです。「あいつなんて死ねばいい」と心の中で思うような相手でも、痛めつけ、その苦しみを確認することで喜びを感じるようなことはしてはいけない。それが普遍的なヒューマニズムです。
そうです。「みんな」の気持ちが通じ合うノリが規範の準拠点になり、「ノリは神聖にして犯すべからず」だからこそ、「みんな」から嫌われている(とみなされる)人は、「いじめられてもあたりまえ」になってしまうのです。
また、一部の評論家や学者は「人の気持ちがわかれば、いじめはしないはず」、「思いやり能力を育てましょう」などというけれど、本当に人の気持ちがわからない人、思いやりのない人には、そもそも「いじめをする能力」がありません。思いやりがあり、人の気持ちがわかるからこそ、いじめることができるのです。
加害者は、他人の苦しみを実感し、「あいつは苦しんでいる」ということを理解できるからいじめるのです。
いいえ、どこの国でも起きていることですし、日本で特にいじめが多いといえるかどうかわかりません。
基本的に長時間にわたり赤の他人同士を狭いところに閉じ込め、しかもその場で形成される人間関係をすべての主導原理・規範の準拠点となし、普遍的なルールより気持ちの通じ合いを尊ぶ空間にすれば、いじめは蔓延して当然でしょう。
狭い空間内で気持ちの盛り上がりによって人が統治される状態をつくれば、いじめは、どこの国でも起きることだと思います。
まず、学校の制服について言えば、外科医が手術着を着、警察官が制服を着るというような機能的な意味ではなく、身分的な従属を示しています。つまり生徒らしくあることを心の底から受け入れ、そのことを形に表すためにあると思います。
「制服を着なくなったら学校が壊れてしまう」というような秩序感覚の主な担い手は教員たちです。
ところが、彼らはたとえば中学校の卒業段階で、分数の計算をできない生徒がいることをもって、学校秩序の崩壊とは思わないのです。
学校とは、もともと学習を支援するところです。計算のできない生徒を卒業させるとは、手術のできない外科医を輩出し、走らない車をつくり、腐った食べ物を売るようなことと同じです。学校本来の業務遂行という意味で崩壊しています。
しかしながら、それを学校秩序の崩壊と思う教員はいない。むしろ生徒が茶髪に染めたりピアスをしたりすることに崩壊を感じる。
そういう思いは学校で仕事をしている人たちの勝手につくった幻想に過ぎず、健全な市民社会のメンバー育成という点から言えば、非常に大きな害をなしていると思います。
学校はあくまで学習支援業務を行う場所であって、生徒を頭の先からつま先まで生徒らしくするところではありません。生きるために必要な知識を獲得させるため、税金による無料サービスを行う場所です。
全人教育などという神様きどりの思い上がったことをしようとするから、いじめが蔓延します。もちろん、全人的な教育といっても、実態はたまたま同じ地域で生まれた他人同士を狭い教室に押し込め、朝からベタベタとした付き合いを強制させているだけです。
公的教育において力を入れることができるのは、あくまで学習支援という領域に過ぎません。全人的な成長なるものは、世界にひとりしかいない個人それぞれが内発的に行い、獲得すべきことであって、他人が指図できることではありません。何に喜びを感じ、生き甲斐を感じるかを教育できると考えるほうがおかしい。
何を善しとして生きるかは、人に害を加えない限り自由ですが、教室では、そういうことが許されません。その場の響き合いに同調しなくてはいけないからです。それが「学校では仲良くしなければならない」ということ。違う音色を奏でることは許されないのです。
好きではない人に対し、優しい気持ちになれないのは、自分が悪いからだ。「人間関係がすべて」とされると、そういう罪悪感を抱くようになります。
ちょっとした目配せや挨拶の返事のわずかな遅れが意味しているものを知り抜いている女子のほうが人間関係に敏感なだけに、表面的には見えないいじめの酷さを知っています。コミュニケーション操作系のいじめによって、地獄に落とされる気分を味わうことが多い。
そういういじめは30~40人程度の学級で最も起きやすい。これが100人や1000人単位だったら、「あいつは嫌なやつだ」と思ったら、近づかないし、もっと魅力的な人を求めることができます。
30~40人で人間関係が固定し、おまけに「クラス以外の友だちをつくってはいけない」という教師もいる中では、「私の性格を直すから、お願いだから仲良くして」と、自分を痛めつけて喜んでいる相手に這いつくばるような惨めなことをしなければならないのです。
学校は子どもたちが美しく響き合い、友情を育める場である。大人がそういうノスタルジーとユートピアを投影しているからではないでしょうか。
それを忘れているのです。たとえば、大学の教授会などには「近頃の若い者はすぐキレる」とか「何をするかわからない」などというおじいさんたちがいます。
しかし、そういう人たちが若かった頃の同年代は、ヘルメットを被ってゲバ棒をふりまわし、乱暴なことをやっていた。いまよりもよほど乱暴だった。
統計を見れば明らかですが、若者による殺人の件数は減っています。それにもかかわらず、「若者は昔より凶悪化した」といっている。いい加減なものですよ。
過去の実際の姿は都合よく忘れられ、現実離れしたノスタルジーが学校に投影されて、「学校は本来全人的な教育の理想の共同体であるべき」というイデオロギーが力を持ってしまっています。
いちがいに言えません。たとえば、「うちの子どもを殴ってもかまいません」というような保護者が多い地域であれば、あまりいいように作用しないと思います。地域差が影響するのではないでしょうか。
上からの市民社会化が大切だと思います。暴力や人格的支配の禁止を法律で明確にする必要があると思います。
つまり、学校内に市民社会を生きる上での当然のルールを導入し、暴力や身分支配や人格的屈従を激減させていく。実際、教師や親の説得に反応しなかったいじめの加害者(教師を含む)は、具体的な法的措置が身に降りかかるのを予期すると、ぱったりといじめを止めるものです。
学校はあくまで美しい教育的な共同体関係を育む場であり、それは法よりも優先されるといったことが最初から決められていると、学校外では明らかな犯罪行為として摘発されることが、なぜか話し合いで解決すべきことにされてしまう。それはきわめて不当なことです。教育の論理による学校の無法化が、生徒や教員によるひどいいじめや犯罪やタイトな集団的人格支配を蔓延させてきました。
現在の研究に個人的な体験をそのまま反映させることはありません。あくまで論理の整合性や事実をもって説得することを自身の仕事上の倫理としています。ただし、いまのような道を選んだのは、高校での体験が影響しているでしょう。それに加え、父親との関係が強く響いていると思います。
いまにして思うと、父は親として成熟しておらず、子どもが思い通りにならないと被害感を覚え、子どもに復讐をはかるような人でした。
当時の愛知県の県政は保守派が主導していて、軍隊的な教育を行う学校を新設しようとしていました。そのモデル校が東郷高校です。東郷高校は、教員によるいやがらせや暴行、軍隊のような規則や集団行動で有名でした。私は絶対に行きたくなかったのですが、父は東郷高校に進学するか、中卒で働くかを選べと迫りました。
私はそんなことを選択させられるような落ち度はないと思ったので、「どこが悪いのか言ってくれ」といったら、父は「そういうことを言うのがそもそもいけないのだ。おれの気分がよいようにしなければならない。おまえの「強すぎる自我」を徹底的に潰して、そこから別の人間に生きなおさせる」と答えました。そして、高校では教員とグルになって「チームワーク」で痛めつけてきました。
つまり、「自分のことをないがしろにする(と感じさせる)」息子に復讐するために、東郷高校の教員集団による息子への侮辱と暴力と罵声を最大限利用したのです(このあたりの経緯については、私のブログ内を「東郷高校」で検索した箇所を御参照ください)。
高校時代の経験が心の傷となったのは確かですが、それが親の醜いやり口から受けた傷と、相乗効果になっていたように思います。赤の他人ではなく、乳幼児期から育てられてきた親からそういうことをされるのは、非常につらいものがあります。
親による虐待が辛いのは、次のような理由によると思われます。親は幼い子どもにとって自分が世界につながっているきずなの源のように感じられ、それは思春期以降も多かれ少なかれ持ち越されます。そのような認識枠組みと、自分を「狩る」恐ろしい。そして、おぞましい怪物に対する認識枠組みが、同一の対象(親)に対して分かちがたく結合しながら活性化します。
この、通常ならば結合するはずがないものの分かちがたい結合には、破壊的な効果があります。こういった傷は、私の場合、生活の破綻や精神的な病として現れず、論理形式を「ひらめく」特殊技能に転用されて、人間の最悪の心理や社会の現象を理論化するのに役立っています。体験が論理形式の「ひらめき」に転写されたといえます。
ただ、それは「ひらめき」あるいはインスピレーションに役立っているだけです。「ひらめき」を整合的に組み立てて作品にする仕事は、地道にコツコツやっています。仕事は、1つのインスピレーションに9つのコツコツした作業の積み重ねです。
言葉でいっても仕方ないことでしょう。ただ、比喩的に言えるとしたら、まずいものを食べたからといって、すべてのご飯がまずいわけではない。まずいものを食べたら、もっとおいしいものを食べようとすればいい、ということです。
「まずい」と思ってしまった感覚は取り消せないけれど、でも、おいしいものは、やはりおいしいと感じるわけです。そこに希望があります。
また、刻まれてしまったマイナスの感覚はあったにせよ、それを現実的にうまくつかって生きていくことも、できるかもしれません。
大人になると、「大きいなあ」と思っていた、子どもの頃によく遊んでいた公園や建物が小さく見えるものです。
それと同じように、頭にこびりついて離れない、とてつもなく大きく見えた過去の傷が、存外ちいさく感じられ、それ以外のことに忙しくなり、忘れている時間が増えていくものです。
さらに太古の動植物の死骸を後世の人が石油資源として利用するように、過去の傷をカラカラに乾燥させた「物体」を、苦しんでいる他の人たちのために加工して役立てることもできます。この技を使うときは、カラカラに乾燥させるのがコツです。乾燥が足りずにベトついていると、人に迷惑をかけることもあります。
[文責・尹雄大 撮影・佐藤類]
Asao Naito
内藤 朝雄
東京生まれ。愛知県立東郷高校中退。東京大学大学院総合文化研究科博士課程を経て、現在、明治大学文学部准教授。主な著書に『いじめの構造』(講談社現代新書)、『“いじめ学”の時代』(柏書房)など多数。
【内藤 朝雄さんの本】
『いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか』
(講談社現代新書)
『“いじめ学”の時代』
(柏書房)