どうも空しさが漂う。STAP細胞という大発見の立役者から一変、不正の烙印(らくいん)を押された小保方さん騒動である。

 反論会見には300人以上が詰めかけ、テレビも中継した。これほど関心を集めたのは発見の真偽に加え、「30歳の割烹(かっぽう)着を愛用するリケジョの星」という当初の鮮やかな登場が人々の興味をかき立てたからだろう。

 確かに、経済が滞り、対立と閉塞(へいそく)感ばかりが強まる日本で、軽々とホームランを放ったような若い女性は、存在そのものが希望の明かりをともした。

 それを誇らしげに強調したのは、彼女が所属する理化学研究所だった。研究費獲得にしのぎを削る現実の中、看板となるスターを押し立てたかったのではないか。研究をくるんだ「包装紙」にメディアも目を引かれ、注目度は高まったが、肝心の論文はずさんだった。

 前に見たものとどこか似ている。交響曲を「全ろうの被爆2世作曲」という包装紙で包んだ佐村河内氏騒動。ホテルやデパートがブラックタイガーを「車エビ」という包装紙で包んだメニュー偽装事件――。いずれも中身より外観に振り回された。

 足元がぐらつく思いだ。不景気な時代を生き残るには、何を売るかだけでなく「どう見せるか」が大切なのはわかる。それがいつのまにか、見せ方の方が主導権を握っている。

 一連の騒動はひとごとではない。消費社会は行き着くところまで行っているが、それでも買ってもらおうと、売り手も買い手も見せ方、見え方に傾きすぎて刹那(せつな)的な消費を繰り返す。

 その中で、じっくりと腰を据えた愚直な仕事が置いてけぼりになってはいないか。

 仕事の成果を世に問うとは、原点に戻れば、人に役立つモノや発見、サービスを生み出して喜んでもらい、お礼をもらうことだ。それを見失った「あおり」競争は誰をも豊かにしない。いくらお金が回っても、「だまし」「だまされ」の空虚な取引に終わりかねない。

 きれいごとで経済は回らない。だが騒動を機に売り手も買い手も、そして運び手であるメディアも、それぞれ原点に立ち返ることは無用ではあるまい。

 小保方さんは、いつかSTAP細胞が人の役に立つ日を夢見て来たと語った。上司の笹井芳樹さんもきのう、「発見」は今なお検証に値すると強調した。ならば、真実の解明に全力を集中してほしい。

 包装紙よりも、中身の価値にこそ細心の注意を払う。そんな心眼をもつ社会でありたい。