セシル・ローズと円卓会議グループ
セシル・ローズ(1853-1902)は大英帝国の目的において主要な人物でした。
植民地のアフリカにおいて彼は"巨像"でした。
ローズはデ・ビアス・ダイアモンド帝国を設立しました。
そして彼の利益のために積極的にアフリカを利用しました。植民地ローデシアは、一度彼の名前を突き通しましたが、今ではジンバブエとして知られています。
セシル・ローズはジェームソンの襲撃を経て、第2次ボーア戦争(1899-1902年)を挑発したことにも責任があります。
ジャン・スマッツ - 陸軍元帥
このグループが活動した主要な方法の一つは、プロパガンダを通していました。1895年にジェームソンの襲撃を策略し、1899-1902年にボーア戦争を引き起こし、ローズ基金を設立、運営し、1906-1910年に南アフリカ連合を造り、1908年に南アフリカの期間的な国家を設立しました。(キャロル・クイグリー著”英米国による支配体制”)
この残虐な戦争は、英国が発明した強制収容所を初めて使用しました。
この戦争は4つの領地の合同体を南アフリカ共和国に導きました。
しかしながらセシル・ローズは、他の英国のエリートと共により大きな目標を持っていました。それは世界連邦を設立することです。
ローズは彼の目標を追及するために秘密結社を設立しました。ミルナー卿、ウイリアム・ステッド、ロスチャイルド卿を含む選りすぐられた数人が計画の中に入っていました。今、南アフリカを誕生させたこのグループは全世界を形成させているかもしれません。
ローズは有名なローズ奨学金を設立するための基金を残しました。
ビル・クリントン-ローズ奨学生としてオックスフォード大学へ留学、1968年
しかし秘密裏にローズは円卓会議グループを設立し、選りすぐられた新加入者をオックスフォード、ケンブリッジ大学から引き抜きました。
クイグリー教授によれば、ローズは、ローズ奨学金の設立を要求した最後の遺言の前の5つで、秘密結社を設立することを要求しました。
1890年代の半ばまでにはローズの個人所得は、年間100万ポンド(約500万ドル)あり、彼の謎めいた目的のために自由に使われました。彼の望みは英語圏の人々を連合させたり、世界の住むのに適した場所を全て彼らの支配下に置くことでした。
彼のオックスフォードでの恩師であるジョン・ラスキンが望んだように、英国の支配階級の伝統を英語圏に広めるために、彼の巨大な遺産が残され、オックスフォードにおけるローズ奨学金が設立されました。(”悲劇と希望”130-131ページ)
彼は遺産を3番目の遺言の中において、大英帝国の拡大を追及するのに助けとなる仲間であるロスチャイルド卿の手中に残しました。
オックスフォードにおける円卓会議グループやその支部の主要な内部の仲間は、次の人々を含んでいました。
ウイリアム・T・ステッド、ロスチャイルド卿、レジナルド・バリオル・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー卿、カーディナル・マニング、アーサー・バルフォア卿、アルバート・グレイ、ハリー・ジョンストン卿、アルフレッド・J・トインビー
ライオネル・カーティス、フィリップ・カー、ジェフリー・ドーソン、T・E・ロレンス
パル・アルワリア、アミタヴ・バネルジ、テリー・バリンジャー、リチャード・ボーン、スティーブン・チャン、スティーブン・コックス、アレクサンダー・エバンス、ポール・フレイザー、デヴィッド・フレンチ、アメリア・ハドフィールド、メレディス・フーパー、
デレク・イングラム、デヴィッド・ジョビンス、アレクサンドラ・ジョーンズ、ピーター・ライオン、クレール・マーティン、ハンフリー・モード卿、アレックス・メイ、ジェームズ・マヤル、マイケル・マクウィル卿、スチュアート・モール、
マーティン・ミリガン、アレイスター・ニヴェン、マーク・ロビンソン、プルネラ・スカーレット、ヴィクトリア・スコフィールド、ティム・ショー、ニコラス・スィムズ、ティム・スラック、カヨデ・ソインカ、ロバート・ワデゲ卿、ジェニファー・ウェルシュ、アンドリュー・J・ウィリアムズ
クイグリーが著書”英米国による支配体制”(未邦訳)で提唱したように、
家族の背景や高水準の政府における地位という条件にもかかわらず、円卓会議の多くの構成員は、
王立国際問題研究所(RIIA)や外交問題評議会(CFR)の分派を通して、
主要なメディアを操作したり、影に隠れて政策を指示することで、
より秘密裏に目標を達成できると思いました。
アルフレッド・ミルナー卿
まさにそこに存在しています。そして国際的な親英派のネットワークによる、極右が共産党員の仕業だと信じる方法でのある程度の操作が、一世代の間存在してきました。実際、円卓会議グループは、共産主義者やその他のグループと一緒に協力することへの嫌悪感を持っていないし、何度もそうしてきました。
私はこのネットワークの操作について知っています。なぜなら、1960年代初期には、20年間にわたってネットワークによる操作を研究しており、そして2年間その書類と秘密の記録を調べることを認められていました。
私はそのネットワーク、あるいはその目的の大部分に嫌悪感を持っていません。しかし一般的に、私の主要な意見の違いは、そのネットワークは知られないままでいたかったのに対し、私はそれが歴史の中で果たした役割は、皆に知られるべきほど重要であると信じたことです。(”悲劇と希望”、950ページ)
ライオネル・カーティス - 円卓会議と王立国際問題研究所の創設者
ライオネル・カーティスは、ミルナー・グループの中で一番重要な構成員の一人です。もしくは、構成員の一人として、まさに彼が源泉であると表現できます。突飛な声名に聞こえるかもしれませんが、そういう苦情に対し強力な防御があります。カーティスが大英帝国のためにやるべきだと考えたことが、一世代後に起っているのです。私はここに最近の例を2つだけ挙げます。
1911年にカーティスは、陛下の領地の名前を”大英帝国”から”共和国”に変えられるべきだと決意し、これは1948年に公式に成されました。また1911年頃に、カーティスは条件が許す限りできるだけ早く、インドには完全な独立政府が与えられるべきだと決意しました。
これは1947年に実行されました。このように、これらは単に偶然の出来事ではなく、カーティスにおいては、背後で働きながらも、現代の共和国の主要な建築者の一人でした。(”英米国による支配体制”、63ページ)
1914年の終戦に、このシステムの組織化は大いに拡張されなければならないことが明確になりました。ライオネル・カーティスは、英国とそれぞれの領地で、既存の地方の円卓会議への前線組織を設立しました。この王立国際問題研究所を呼ばれる前線組織は、その核として、既存の隠された円卓会議グループをそれぞれのエリアに持っていました。
それはニューヨークでは外交問題評議会として知られており、とても小さなアメリカの円卓会議グループと関連のあるJ.P.モルガン社のための前線でした。アメリカの組織者は、多くがモルガンの”専門家”により独占されていました。
機関紙”円卓会議”は(1961年まで)何年もの間、オーモンド・ヤードのチャタム・ハウス・グランド(王立国際問題研究所の本部)の裏口から編集され、電話はチャタムハウスの配電盤を通ってきていました。(”悲劇と希望”、951-952ページ)
T・E・ロレンス - またの名を”アラビアのロレンス”
第一次世界大戦へのロレンスの主要な貢献は、アラブのリーダーたちを説得し、彼らの反乱を英国の興味を引くものに調整したことでした。
デヴィッド・リーンの映画が何度も示すように、ロレンスは普通の英国人ではなく、彼の指令は、英国のルールの下に世界を連合させようという政策を持つ秘密の円卓会議グループに起因しています。
セシル・ローズはこれら全ての秘密グループの創始者で、世界政府のための議題の重要な連結部分です。
製作:アレックス・ジョーンズ 脚本、編集:アーロン・ダイクス