ジンギスカン(チンギス・ハーン、テムジン)は、アレキサンダー大王、皇帝ナポレオンと並び、世界三大英雄の一人として知られています。
ジンギスカンは、元々モンゴルの小さな遊牧民族族長の息子として生まれましたが、小さい頃に父を亡くし、苦難の少年時代を送りました。
成長したテムジンは、無数の部族を統一し、「チンギス・ハーン」即位を宣言しました。
その後、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服し、モンゴル帝国を築き上げ、現在のモンゴル国においては、国家創建の英雄として称えられています。
さて、義経「義経=ジンギスカン説」は、江戸時代の初め、
沢田源内(さわだげんない)という偽の家系図作りの名人が、世間をあっと言わせようと、中国の金王朝の偽の歴史書をつくったのが始まりです。
この偽の歴史書『
金史別本』では、義経は平泉では死なず、北海道から大陸へ渡り、義経の孫が金王朝の騎馬軍団を率いる将軍になったことになっています。
幕末、日本に滞在した
医師シーボルトも、義経=ジンギスカン説について書き残しているので、明治以前から既に広く知られた話だったようです。
ちなみに、義経が衣川で死んだことを語る文献は『
吾妻鏡』しかないようです。
『吾妻鏡』では、4月30日、鎌倉に送られた義経の首が、6月13日に、和田義盛と梶原景時によって確認されているとあります。
義経は炎の中で自刃、「
義経の首」は夏の暑い日に、東北の衣川から、1ヶ月かけ鎌倉に送られました。
届いた首が、もとの首の形をとどめていたかどうかは、はなはだ疑問です。
これがこの物語の始まりです。
さて、「義経=ジンギスカン説」の根拠となったのは
- ジンギスカンが興安嶺という山で家臣を集めて集会を開いた時、掲げていた旗が白旗だったそう です。(白旗は源氏の旗です)
- ジンギスカンはニロン族の出身で父はエゾカイ、母はホエルン・イケであると言われています。
「ニロン」は日本、「エゾカイ」は蝦夷海という日本語がなまっていると言う説。
- モンゴル帝国を創設後、ジンギスカンはこの母に宣懿〈センシ〉皇后という名をプレゼントしました、(ホエルン・イケ・センシ)。
この名を繰り返すと、清盛に懇願し義朝の遺児を救った「池禅尼(いけのぜんに)」の名が浮かんできます。
- 『義経記』の中には、義経は酒が飲めなかったという記述が何カ所か残っています。
一方で、モンゴルの歴史書には、ジンギスカンが「酒は心の平静を失うものである」
として酒を痛烈に批判している記述があります。共に「酒嫌い」という共通点があります。
- 義朝の九男として生まれた義経は九郎と呼ばれていましたが、ジンギスカンは、「九」という数字を大変好んでいました。
地方の王の遺子がジンギスカンに謁見したとき、贈り物を全て九つずつ用意したと伝えられています。
また旧満州では、ジンギスカンのことを九郎と同じ音の克羅(クロウ)と呼んでいたと言われています。
- 義経が幼少期を過ごした鞍馬では、毎年八月一五日に「義経忌」が行われています。
これは義経が衣川で最期を迎えた日ですが、この日はジンギスカンが亡くなったと言われている日と一致します。
以上の理由で、義経=ジンギスカン説が流布されたのでした。
