第7話:波乱の予感
3人がラビアン・ローズに到着した時、既に太陽は西の方へと傾いていた。
「……つかぬ事をお聞きするが、俺の目の前にあるこれは、娼婦館なんだよな? 実は娼婦館という別名の付いた廃墟じゃねえよな?」
思わず、といった調子で漏らしてしまったマリーの本音に、マリアは苦みのある笑い声を零した。その横で、サララは無表情に首を傾げていた。
「素敵な感想をありがとう。嬉しいことに、マリーくんの目の前にそびえ立っている建物は、廃墟でも無ければ捨てられた館でもないわ……まあ、マリーくんの感想は私自身最もだと思っているから、それは不問にしておくわね」
「そりゃあ、どうも……それにしても、広さだけはかなりのもんだなあ」
「マリーも、そう思う? 凄く、家は広いよ」
マリーの言葉に、サララが喜びに表情を綻ばせた。マリーの頬が引き攣った。
「……ごめん」
なんで謝るの、と言わんばかりに首を傾げるサララの姿に、マリーはもう一度頭を下げた。
表通りを抜け、裏通りを進むこと数十分。見覚えのない通りを進み、見覚えのない橋を渡り、見覚えのない風景を横目にする。両手で抱えた袋に、すっかり手汗がしみ込んだ頃……ようやく足を止めた二人に倣って立ち止まり、顔をあげた。そして、飛び出した言葉が冒頭のそれであった。
それなりにこの町のことを知り尽くしていたと自負していたマリーは、目の前に佇む館を前に、ため息を零した。視線の先にある建物は、少なくともマリーの少ない語彙では擁護出来ない程に酷いものであった。
すっかり塗装の剥がれた、錆びてない部分が見当たらない格子門。そこを抜けてすぐに広がる中庭は、雑草で埋め尽くされており、地面がまるで見えない有様だ。辛うじて、館に繋がる通路だけは手を入れているが分かるが、それが逆に全体の粗末さを表しているようで、見ていて気の毒な思いすら覚える。
建物の至る所にはヒビらしきものが見られ、外壁の至る所が変色していた。塗料が剥がれているからなのだろうが、剥がれている部分が多すぎて、もはやどっちが剥がれた跡なのか分からなかった。場合によっては、もはやそれが模様にすら見えた。
館の設計者は、おそらく洋館をベースにイメージしたのだろう。漢字の『山』のような形をした3階建てのそれは、『昔は』さぞかし豪華絢爛だったのだろうと思わせる状態であった。
マリアが、格子に手を掛ける。ぎい、と耳障りな音に鳥肌を立てるマリーを他所に、マリアはくるりと振り返った。
「まあ、何はともあれ荷物持ちありがとう。マリー君が力持ちで助かったわ……やっぱり見た目はそうでも、中身は立派な男なのね」
マリアの賞賛に、マリーは苦笑して答えた。残念な話だが、今のマリーは見た目相応の力しか出せない。魔力コントロールによって、身体能力を底上げしている状態であることは、黙っておくことにした。
さっさと中へ入っていく二人を見つめる。マリーはもう一度館全体を眺めた後、荷物を抱え直し、二人の後に続いた。格子門を足で閉めると共に発生する異音に、二度目となる鳥肌を立てた。
館の広さに合わせて設計された玄関は、おおよそ数十組の靴を並べても余裕がある程に広かった。正面に続く階段は上階に繋がっており、年月によって古ぼけた絨毯が段に合わせて敷き詰められていた。壁に等間隔で設置された照明は、細微まで装飾が行き届いたガラス製だ。
玄関を上がって、左右に伸びた廊下の奥を見やる。玄関向かって右側に伸びた通路には、大きな扉が一つ。左側には、いくつかの扉が確認出来、用途不明の台が等間隔で設置されているのが見えた。なんだろうかとマリーが首を傾げるそれは、せいぜいマリーの腹部ぐらいの高さしかなく、そのどれもが床と一体になっているのが分かった。不用意に動かせないようにしているようだ。
これで上に『綺麗』が付けば、さぞ見ものであったのだが……チラリと、マリーは照明に被った埃を見つめた。さすがに、広すぎて掃除が行き届かないのだろう。普通の館なら気にならない程度の汚れだが、こういう建物の場合、そうはいかなかった。
「ただいま帰ったわよー」
左側の廊下を進みながら、マリアは大声で帰宅を告げた。その横で「ただいま」と小さく発したサララの言葉がかき消されるぐらいに大きかった。
(そっち側に行くのか)抱え直した荷物が、音を立てる。二人の後を追いかけながら、背後へと振り返る……と、通路の奥にある大扉がかちゃりと開いた。扉の奥から、ぬっと赤い髪の女性が顔を覗かせた。あっ、とマリーが立ち止まると同時に、女性の顔がくるりとマリーへと向いた。
女性の顔に、驚きの色が浮かび、すぐに笑顔を形作った。声を掛けるべきかどうか悩んでいるマリーに向かって、手をひらひらと振ると、するりと扉の陰から姿を出した。
(うわっ、でけぇ……ていうか、エロい恰好だな、おい)
女性の全身を見たマリーは思わず、心の中で呟いた。遠目からでも分かるぐらいに立派な胸部の膨らみが、シャツを押し上げている。程よく脂肪の乗った四肢が、すらりと伸びており、四肢の長さが強調されている。
シャツとショーツだけという恰好のせいで、色々と目のやりどころに困る姿だ。何をしていたのかは知らないが、シャツやらショーツやらの色が濃くなっているのが分かった。
鼻の下が伸びてしまいそうな光景に、マリーはどうしていいか分からず、女性から視線を逸らせない。けれども、女性が歩き出したのを見た瞬間、マリーの興奮は瞬く間に静まった。
(この女……足が……)
マリーの視線が、女性の右足に向けられる。引きずるとまではいかなくても、不自然な右足の運び……右足に力が入っていないのが見て取れる。不自然ながらも、よどみない足の動きを見る限り、満足に動かせなくなってから、長いのだろう。うっすらと、太ももに傷跡があるのが見えた。
(すげえ美人……可愛いっていうか、格好いい系の美人だな)
そう、マリーは女性を評価する。ゆっくりと、マリーの前までやってきた女性は、ふう、と息を吐いて立ち止まった。改めて対面する女性は、マリーよりも二つ分は頭の位置が高い。へたな男性よりも背丈がある。
張り付いたシャツによって浮き出た肉体のライン……膨らみの先端に浮き出た二つの存在を、マリーは見て見ぬフリをした。
「こんにちは。私の名前はシャラ・ミース。もしかして、あんたがサララの言っていたマリーって男の子かい?」
女性にしては低い、ハスキーボイス。とりあえず、マリーは女性……シャラの問いかけに頷いた。シャラの笑顔が、さらに深まった。
「ああ、やっぱり。あんたのことはサララから聞いているよ。良くしてくれているみたいだね……サララはどうしたの?」
「あっ……」
シャラの言葉に、マリーは振り返る。一番手前の扉が開きっぱなしになっているのを見て、マリーはため息を吐いた。置いて行かれたのかと思ったが、行き先が分かったので安堵する。
振り返って、マリーはシャラを見上げた。
「なんでそんな恰好してんだ?」
「ああ、これかい?」
シャラは自らの肌に張り付いたシャツをつまんで、引っ張った。そのせいで、さらに目のやりどころに困る部分が浮き出た。
「風呂掃除していたんだけど、うっかり石鹸を踏んでしまってねえ。桶をひっくり返して、このざまってわけさ。散々な気分だったけど、少しは気が晴れたよ……どうだい、目の保養にはなっているかい?」
そう言うと、シャラは両手をあげて胸を反らし、ポーズを取った。実に目に優しい光景に、マリーは素直に頷いて、若干腰を引いた。途端、シャラは声を出して笑った。
「あはは、素直な子は好きだよ。見た目がそうでも、中身は立派な男の子なんだな……ちょっと安心したよ」
ぐしゃぐしゃと、シャラの手がマリーの銀白色の髪を掻き毟った。抵抗を覚えたマリーがさっとその場を引くと、シャラはまた笑い声をあげた。ぐさりと、己のプライドに笑顔が突き刺さる音を、マリーは聞いた。
見た目のせいで色々と侮られ、からかわれることが多いが、そういった雑言よりも、こういった態度が一番堪えるとマリーは思った。
男と見られないのは、まあ、仕方がないことだと納得はしている。女と見られることも、嫌ではあるが理解はしている。
(やっぱり今の俺は、どこから見ても子供なんだろうなあ……)
だが、子供として見られることに関しては、今でも強い抵抗を覚えた。シャラに、そういった意図が無いことは、マリー自身分かっていた……分かっていたが、胸中の奥底に根付いている自尊心を、鼻で笑われたかのような気分に陥ってしまうのを、マリーは抑えられなかった。
「マリー君、どうかした……あら?」
背後から掛けられた声に、伏せていた顔をあげる。振り返れば、困ったように苦笑するマリアの姿があった。
「……どうしたのよ、その恰好?」
シャラは頭を掻いた。
「風呂掃除だよ。今日は私が当番だからな。いっそ徹底的に綺麗にしてやろうと思って、朝から頑張っていたところだよ……まあ、もう終わったけどな」
「あら、朝から浴場に籠っているかと思ったら、掃除してくれていたの? ありがとう。でも、今日はシャラの当番じゃなかったはずだけど?」
目を細めるマリアの姿に、シャラは困ったように視線を逸らした。
「そうは言っても、交代で掃除しているっていっても、非力なやつらばかりだからな。普段掃除できない所とかは、手が空いている私が掃除するのが効率的だろ?」
「掃除してくれるのは有り難いけど、駄目よ、ちゃんとルールは厳守しないと……脚立が確か物置に無かったかしら?」
「脚立なら前に壊れたよ。ほら、窓を拭こうとしたときに……」
シャラの言葉に、マリアは首を傾げた。しばらくして、ああ、と頷いた「そういえば、そうだったわね。でも、脚立ぐらい買えば済む話でしょ」その言葉に、シャラは苦笑した。
「確かに、買えば済む話だけどさあ……今は、そんなもん買う余裕は無いだろ。1セクトでも金が欲しいっていうのに、脚立なんて買っている場合じゃねえよ」
そうシャラが口走った瞬間、マリアの顔色が変わった。目に見えて強張った表情で「――っ、シャラ!」と叱責すると、シャラはハッと唇を閉じた。次いで、チラリとマリーへと視線を向けた後、申し訳なさそうにマリアへ頭を下げた。
「ごめん、余計なことを口走った……」
マリアは、何も答えなかった。ただ、マリアも同じような表情を浮かべて首を横に振った後、マリーへと視線を下ろした。何が何だか分からないマリーは、思わずシャラとマリアへ交互に視線を向けていた。
「……マリー君、荷物をこっちに持ってきてくれないかしら? それと、シャラの分のお茶も淹れるから、着替えたら来なさい……ほら、マリー君はこっちよ」
「え、あ、ああ、いいよ……」
先ほどまでにあったフレンドリーな笑顔はどこにいったのだろうか。幻であったのかと考えてしまうぐらいに顔をこわばらせたマリアは「ついてきて」とだけマリーに言うと、さっさとその場を離れ始めた。他所の家の事情に首を突っ込むのもどうかと思ったマリーは、とりあえずマリアの後を追うことにした。
けれども、マリーの中で、尋ねたい欲求がむくむくと湧き上がってくるのを抑えることが出来ない。しかし、どう考えても気軽に尋ねていい雰囲気ではなさそうで、もやもやとした感情が口の中に充満する。口を開くと我慢できなくなりそうなので、マリーが無言のままマリアの背中を見つめた。
(金が欲しい……ねえ。多少は融通してやってもいいんだけど、俺もそんなに余裕は無いしなあ……かといって、知らぬ存ぜぬというのもなあ……)
ふと、マリーは振り返った。シャラの背中が見える……握りしめられた手が、白くなっていた。遠目からでも分かるぐらいに、力が込められているのが見えた。
なぜか、マリーの背筋に悪寒が走る。なにやら大変な事態が近づいているのではなかろうか……そんな予感をマリーは感じていた。
マリーの予感は、的中した。
「クソ娼婦共! 取り立てに来てやったぞ!」
一声聞いただけで胸糞が悪くなってくる。そんな罵声がマリーたちの元に飛び込んできたのは、休憩も終わろうとしていた頃であった。そろそろ本来の用事を済ませようかな、という具合に椅子から立ち上がったマリーが、驚きに振り返る。再度聞こえてきた罵声に、マリーは声の主が外にいることを悟った。
「なんだ、どうしたんだ、いったい?」
困惑に首を傾げるマリーが、事情を求めて席に座る3人へと視線を向けて……動きを止めた。見れば、一緒に席についていたマリア、サララ、シャラの三人の顔色が、わずかに強張っていた。
「……ど、どうした?」
おずおずと、マリーは3人へと声を掛ける。ハッと我に返った3人は、互いの顔を見合わせると、無言のまま椅子から腰をあげた。厳しい眼差しでマリーの横を通り過ぎて、廊下へと出ていく。
当然のことながら、誰が尋ねてきたのか、それをマリーは知らない。知らないのだが、3人の顔色を見た限り、声の主が招かれざる客であることは推測できる。しかも、女性陣全員の顔色を悪くさせる程の、嫌な客であるということが……。
「ちょ、おい」
「マリー、駄目」
二人の後を追わんとしていたマリーの手を、サララが掴んだ。自らの手とそう変わらないサイズの、少しまめが出来た手の感触に、マリーの足がピタリと動きを止めた。軽く力を入れるも、それ以上の力で引っ張られる。
振り返ったマリーの目を見つめたサララが、静かに首を横に振った。サララからの、無言の意志に、マリーはしばらくサララを見つめた後、深々とため息を吐いた。
「……あまり立ち入ってほしくない事情か?」
「そう」
サララは頷いた。味気ない返答に、マリーの目じりが吊り上った。
「なあ、俺らって、友達だよな?」
「友達だからこそ、だよ」サララは、わずかに声を荒げた。初めて見るサララの苛立ちに、喉元までせり上がっていた言葉を、マリーは飲み込んだ。
「友達だからこそ……友達だから、言いたくないし、頼りたくない。マリーには、関わってほしくない……分かってほしい」
「……それじゃあ、俺のこの憤りはどうすれはいい?」
そうマリーが尋ねると、サララは顔を伏せた。そして、静かに首を左右に振った。マリーは、握られたサララの手を両手で握り返し、サララの頭を見た。
「さっきのやつも、取り立てって言っていたけど、金がいるのか?」
「…………」
サララは、答えなかった。顔をあげようとしないサララに構わず、マリーは唇を開いた。
「いるんだな、金が……いくら必要なんだ?」
「…………」
「なあ、サララ……教えてくれ、いくら必要なんだ?」
「…………」
ギュッと、サララの手を握りしめる。か細い声で「痛い」と零したサララの言葉に「す、すまん」マリーは慌てて手を離す。そして、今度は優しくサララの手を両手で包む。
マリアとシャラが戻ってくるまでの間、マリーは黙ってサララの手を摩っていた。少しでも、サララの胸中に宿る何かが、薄れてくれるように……。
+注意+
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