第一六話:その姿はまるで女神のよう
微妙にグロい描写があるよ
そこに広がっていたのは、言うなれば四方を銀色で覆い尽くされた鉄と機械の『群れ』。
『群れ』としか表現できないぐらいに、その部屋は鉄と機械が所狭しに空間を占領している異質な空間であった。
管と思われる鉄のチューブが部屋の至る所に設置され、天井や地面、壁の奥へと消えてはまた中に戻ってきている。僅かな曲線を描く長方形のガラスが機械の中に組み込まれ、その傍にはスイッチらしき装置と、良く分からない計器がズラリと並んでいる。
機械に伸ばされた幾つかのパイプは、半透明のガラスケースに繋がれており、そこには不可思議な色合いの液体が満たされている。山吹色、否、黄土色……土埃のこびり付いた表面を拭い取れば、その液体が黄金に近い色合いであることが見て取れた。
全てが、目に移る全ての物が、何の用途で使われるのかが分からない。予想すら立てられない。マリーが見てきた『機械』とは決定的な何かが違う。
それをどう言い表せればいいのか分からないぐらいに、目の前の光景はマリーの理解の範疇を大きく逸脱していた。
ふよふよと空中を漂う光球が、室内のあらゆる物を照らしている。その中で目を輝かせるナタリアが、まるで玩具を前にした子供のように室内のあらゆる機械に顔を近づけ、イシュタリアからたしなめられていた。
……無理も無い。そう、マリーはナタリアを見て思った。
過去の英知である失われた文明の一端を前に、あのサララですら呆然と佇んでいる。この異質な空間に圧倒されているのか、それとも興味が無いのか……それはマリーには分からなかったが、少なくとも己に意識を向けられない程度には心を奪われているのが、マリーには分かった。
「……なんていうか、言葉が出て来ねえ……目に移る全部が何の機械なのかさっぱりだぜ」
「まあ、分かったら大したもんじゃな。というか、分かったらお主天才じゃと思うぞ。もちろん、良い意味の方じゃ」
「こんなので天才と言われても嬉しくねえなあ」
「そうかのう……さて、それじゃあちょっと私は色々と機械を見てみるとするのじゃ。今の所さっぱり使い方が思い出せぬが、いくつか記憶に引っかかる物が見当たるから……多分、おそらく、なんとかなるのじゃ」
「分かるのか?」
「まあ、昔似たような場所で暮らしていたからのう……電源を入れるぐらいのことは出来そうじゃな」
そう言うと、イシュタリアは難しい顔をしながらひと際大きい機械を観察し始める。「おう、頑張ってくれ。今の俺はお前のその記憶が頼りだからな」その姿にマリーは軽く頭を下げ……ふと、並び置かれたガラスケースに視線を向け……目を瞬かせた。
「……すげえ、ここまで透明でなめらかなガラスを見るのは始めてだぜ」
物入れと思われるガラスケースの数々が、鉄の机に置かれている。様々な色合いの薬液で満たされた瓶が収められており、うっすらとケースの表面には表面に霜が降りていた。興味を引かれて手を伸ばせば……氷のようにガラスケースは冷え切っていた。
「開け口どころか繋ぎ目すら見当たらない……なんだこれ、どういう物なんだ、これって?」
軽くケースを持ち上げようとしてみるが、床と机とケースとが一体になっているようで、扉と同じくビクともしない。軽くノックしてみれば、思いのほか頑丈な手応えが伝わって来る。どうやら、地上で使われているガラスとは何かが違うようだ。
「……これは、いったい何なのでしょうか?」
遅れて室内に入って来ていた焔が、マリーの横に並び立ってケースを覗き込む。マリーと同様にケースに触れて、その冷たさに目を白黒させている……焔も全く見当がつかないようだ。
コン、コン、叩いた反響音と光の加減から見て取れる感じでは、そこまで分厚いモノでは無い。ようやく復帰を果たしたサララが「マリー、何をしているの?」そそくさとマリーの傍にやってくる……そして、二人と同じように首を傾げた。
「何これ? 冷蔵庫か何か?」
「分からん。とりあえずガラスのケースだということと、中に何かが収められているのは分かるんだが……それ以上はさっぱりだ」
「――何々、何を見ているのよ?」
両手を上げて降参するマリーの後ろから、ナタリアが顔を出す。その額がほんのりと赤くなっているのは、つい今しがたイシュタリアから『いいかげん、喧しい』とお叱りの拳骨を食らったからであった。
こいつ、こうしてみると見た目相応なんだけどなあ。
そんな視線を向けるマリーを他所に、焔が簡潔にケースについて説明をする。それをいちいち大げさに頷いていたナタリアが、しばしの間何かを考える様に顔を伏せ……顔を上げた時には、見事なほどに輝いていた。
「だったら、割っちゃえばいいのよ」
「――はっ? いや、ちょっと待――」
マリーが静止の声を上げた時には遅かった。殺人的な威力を持つ腕力から放たれた小さな拳が、ガラスケースの真上から振り下ろされ――。
ぺきん、と意外なほどに軽い音を立てて砕けた。
「――あれ?」
……ナタリアの拳が、だ。
衝撃に耐えきれず砕けた骨が、皮膚を突き破ってなおさらに砕け、ガラスケースを真っ赤に濡らす。飛び散った鮮血に、「ちょ、おま、きたねえなあ!」思わずマリーたちはのけ反った。
「いきなり破壊しようとするやつがあるか!」
「え、そこなんですか!? ナタリアさん、右手が物凄いことになっておりますよ!?」
目の前で起こった突然事態に狼狽する焔に、マリーは気にしなくていいと語気を荒げた。
「いいんだよ、どうせすぐに治るから……それよりも、だ。これ以上騒ぐんなら外に叩き出すぞ! 分かったか、ナタリア!」
マリーから本気で怒鳴られたナタリアは、ようやく己のやったことを理解したのだろう。目に見えて肩を落とし、落ち込んだ。
「ごめんなさい、ちょっとはしゃぎ過ぎたわ」
「……ほ、本当に傷が治っていくのですね……」
見る間に右手の傷が塞がっていく様子を見て、焔は一歩退く。そういえば、と、ナタリアが扉を殴りつけて拳を血だらけにしていたことを、今更ながらに思い出す。
マリーの隣で平然としているサララに、思わず「あ、あの、いつもこんな感じなのですか?」尋ねてみれば……。
「うん、だいたいこんな感じ」
答えはとてもあっさりしたものであった。
「帰ったらエイミーたちの手伝いをうんとするんなら許してやろう」
「うん、分かった」
「寝る前の菓子とジュースは少し減らせ」
「うん」
「後、ちゃんと歯磨きも忘れずにしろよ、朝晩の二回はするんだぞ」
「うん」
「よし、なら許そう」
「うん、ごめんなさい」
大人しくなったナタリアの頭を撫でるマリー。その姿はまるで将来が楽しみな美人姉妹……妹を叱りつけた姉という言葉がしっくり合う光景であった。
「……あ、あの、本当に――」
「だいたいが、こんな感じ。何もおかしいところは無い」
はっきりと言い切るサララに、焔は「そ、そうですか……」何も言えなかった。というか、怖くて言いたくなかった……色々と。
「イシュタリア、これは何だ?」
専門の人に聞けば一発だろ。そう結論付けたマリーが、イシュタリアを呼ぶ。しばらくして、機械の『群れ』の中から、ひょっこりとイシュタリアが身体を起こした。
「呼んだかのう?」
「このガラス、何か分かるか?」
マリーの、何とも分かりにくい質問の仕方。イシュタリアも2、3度程首を傾げた後……ああ、と手を叩いた。
「その手のケースは確かFRP……繊維強化プラスチックの一種が使われていたと思うのじゃが、すまんのう。さすがに思いだせぬのじゃ」
……えふ、あーる、ぴー?
聞き覚えの無い単語に、マリーはもちろん、その後ろで聞いていたサララたちも一様に首を傾げる。それを見たイシュタリアは、ああ、と苦笑した。
「お主らにも分かりやすいように言い換えれば、鉄より固くて木材よりも軽く、様々な耐性が付いた特殊なガラス……と言ったところかのう」
……何ともまあ凄いモノではないかと、マリーは目を瞬かせた。そういった方面に関してはド素人のマリーですら、その凄さが理解出来るぐらいに凄い。
シャラや海松子が聞けば、跳び上がって加工だ、実験だ、と騒ぎ出しそうな代物だろうか……そう思ってケースを見やるマリーの様子に、イシュタリアは苦笑を零した。
「驚いているところ悪いのじゃが、その血で汚れたケースに霜が降りているのが私の方から確認出来るのじゃが……もしかして、中はかなり冷やされているのかのう?」
「まあ、冷えているな。触ってみたが、まるで氷みたいに冷たかったぞ」
「そうか、それは良い事を聞いた……つまり、まだ電源は生きておるのかもしれぬか……不思議な話じゃのう」
その言葉と共に、イシュタリアは再び機械の『群れ』へとその身を滑り込ませる。かちん、かちん、と何かをしているかと思ったら……バチン、と飛び散った火花の直後、「うひゃあ!?」ネズミのように隙間から飛び出てきた。
「び、吃驚したのじゃ……久しぶりに心臓が止まるかと思ったのじゃ……」
「お、おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫なのじゃ。感電は洒落にならん激痛なのを思い出して、少し冷や汗が出ただけなのじゃ。主に雷的な意味で……」
額に浮かんだ大粒の汗を拭うイシュタリアの背中を、駆け寄ったマリーが優しく摩る。その男とは思えない手触りに、イシュタリアはふう、と体の力を抜いた。さすがに不思議なところで嫉妬心を覗かせるサララも、今回ばかりは何も言うつもりは無いようであった。
しばらく背中を摩ると、イシュタリアはもういいと手を振ってマリーから離れる。そして、機械の中でも最も大きな機械に視線を下ろし……ふむ、と頷くと、その内の大きなレバーに手を掛けた。
「とりあえず、これでメインコンピュータの電源が入ると思うのじゃが……万が一のことを考えて、少し機械から離れていてくれぬか?」
当たり前のようによく分からない単語を使うイシュタリアの指示に、マリーたちは大人しく従う。説明されたところで理解出来そうにないし、今はいちいち説明を聞いている時では無い。
とはいえ、従うといっても不用意に機械にお尻がぶつからないよう、身を寄せ合ったぐらいなのだが。
「それでは、いくのじゃー」
気の抜けた掛け声と共にイシュタリアの白い手が……ゆっくりと、レバーを下ろした。
……。
……。
…………。
…………?
一分、二分、三分。何時まで経っても変化が起こらない機械を前に、首を傾げるマリーたち。ここまで来て故障か、と嫌な予感を覚えたその時――。
フッと、計器に光が灯った。同時に、それまで動きを止めていた機械が、まるで息を吹き返したかのように活動を始めた。
「あっ」
驚きのあまり、そう声を上げたのは意外にもサララであった……輝きは一つだけに留まらなかった。
瞬く間にあらゆる計器に光を灯し、機械の中に埋め込まれていたガラスのいくつかが青い光を放ち、画面へと変わる。そして、イシュタリアの視線につられてマリーたちの視線がそこへ吸い寄せられ――。
『…wait a moment please, system starts.』
突如そこに表示された記号に、マリーたちは目を瞬かせる。魔術文字とも違うし、マリーたちが普段から使用している文字とも違う……いったい、何の意味をあらわしているのだろうか。
「ミスター・マリー。画面に表示された文字は、『システムを起動しているので少し待っていてください』、という意味です。何事も無ければ、無事に起動が行われるでしょう」
イシュタリアに聞いてみるべきか否か。でもなんか真剣な顔しているし、邪魔するのもどうかなあ……っと考えていたところに飛び込んできた説明に、マリーはテトラへと振り返った。
「――お前、分かるのか……っていうか、なんだその『みすたー』ってのは?」
驚いたマリーが尋ねれば、今までほとんど沈黙と不干渉を保っていたテトラが、相変わらずの無表情のまま静かに頷いた。
「二つの質問を承認。一つ目の質問の答えは、『分かります』、です。二つ目の質問の答えは、男性に対する敬称を表した『英語』です」
「……『英語』? なんだそれ?」
もう何度目かになる聞き慣れぬ単語だ。「え……おと、え、男……え、え?」一人だけ混乱の極みに達しようとしている焔の姿があったが、テトラは気にすることなく「質問を承認。ただし質問内容が抽象的の為、望む答えとは差異が生じます」話を続けた。
「かつて世界中で使用され、他の言語と比べて比較的理解がしやすいことから、世界共通語として利用されていた言語になります」
へえ……マリーたちは目を瞬かせた。
「私の頭脳ディスクには現在、ディグ・源やあなた達が日常的に使用している『日本語』の他にも、8ヶ国語の翻訳プログラムが搭載されています。どうです、凄いでしょう?」
へえ……それしか、感想が出なかった。
「俺たちの話している言葉って『日本語』っていうのか……え、なに、俺って『東京』からそんなに離れたことないけど、もしかして『北海道』とか、『九州』とかにはその『英語』が使われていたりするの?」
共に、『東京』から最も離れた場所にあると伝えられている都市の名前である。マリーは名前ぐらいしか覚えておらず、サララに至っては初耳な言葉であった。
「質問を承認。答えは、『使われていないわけではない』、です」
「……なんかあやふやな言い回しだな」
「質問を承認。『英語』は確かに他の言語と比べて覚えやすいとされていましたが、習得には個人差が有り、誰しもが覚えられたというわけではありません。当然、英語を覚えられなかった方も大勢おられました」
ふーん。マリーたちが納得に頷いている中、ナタリアが「へえ……それじゃあ、何か『英語』で喋ってみてよ」笑顔と共にそう提案する。叱られたばかりだというのに……密かに目を細めるサララをしり目に、テトラは「要望を棄却」あっさりと首を横に振った。
「ディグ・源より受けている命令は、『あなた達の手助け』です。現状、最低限知り得ておいた方が良い情報を取得させたとこちら側で判断しました。申し訳ありませんが、『ディグ・源』より受けている命令によって、これ以上の協力は不要と判断致します」
「……ああ、そういえば、お前は源の『人形』だったな。お前の見た目が見た目だから、すっかり忘れていたぜ」
「ご理解が早く、こちらも説明が省けて助かります」
そうである、テトラは、源の『人形』なのだ。つまり、命令の最優先権は源であり、いくらマリーたちが懇願しようとも、テトラにとって源の命令が絶対なのである。
やっぱ見た目がいくら人間であっても、中身はどこまでも『人形』なんだな。
そんなことを思いながらマリーがテトラから視線を外す……ふと、真剣な面持ちで何時までも画面を見つめ続けているイシュタリアに、目が留まった。
「おい、イシュタリア」
名前を呼ぶ……しかし、反応は無い。変わらず、ジッと画面に視線を向けている。珍しい……ここまでイシュタリアが何かに意識を傾けているなんて。
「イシュタリア! 聞こえているか! おーい!」
「……ん、んん、何じゃ、呼んだか?」
「呼んだかって、呼んだからお前が反応したんだろ」
再三の呼び掛けで、ようやく気づいたイシュタリアが振り返る。そのぼんやりとした表情を見て、マリーはカリカリと頭を掻く。何をそこまで見ていたのかと思って、何気なくイシュタリアが見ていた画面に顔を近づけた。
『“Welcome to Noah”』
表示されていた記号は、ソレであった。当然のことながら、マリーには理解出来ない。それをイシュタリアは表情から読み取ったのだろう。「ノアへ、ようこそ。そう、書いてあるのじゃ」囁くようにマリーへと意味を教えた。
「……で、それがお前の興味をどうやって引くんだ?」
「おや、気になるかのう?」
「茶化すなよ……それで、何を思い出していたんだ?」
一瞬の、間が空いた。
直後、ポーン、と室内に響いた聞き慣れない音に、マリーは肩をびくつかせる。駆け寄って来たサララを手で制した途端、パッと室内に照明が灯る。その光は強く、鉄と機械の『群れ』はもちろん、マリーたちをも明るく照らした。
「……昔のことじゃよ。うんと、うんと昔の日々を思い出しておったのじゃ」
フッと、空中を漂っていた光球が消えた。不要と思ったイシュタリアが消したのだ。
「なんだ、もしかして思い出の品ってやつかい?」
「違う。どちらかと言えば、その思い出の中で見た光景の一つ――」
イシュタリアの声を遮る様に、『システムチェック・オールグリーン。全電力の安定供給を確認』、その無機質な音声が穏やかに室内に響いた。
『緊急治療用薬液精製装置の制御コンピュータの起動を確認いたしました。案内は応対AIの『金剛』が行います』
「――き、機械の中に人がいるぞ!?」
青い画面に浮かぶ人の顔に身構えるマリーたちを見て、イシュタリアは「ああ……前にも似たようなことを言った覚えがあるのじゃ」軽く苦笑を零した。
「ほらほらお主ら、何も怖がることはない。これはただの音声ガイドなのじゃ。その顔は、ただの映像じゃから気にしなくてもよいぞ……んん、おほん、えへん……『初めまして、金剛。私の名前はイシュタリア……あなたに用があって来たわ』」
『初めまして、イシュタリア。本日はどのようなご用件でしょうか?』
一つ、イシュタリアは咳をすると、あの聞き慣れない言語で会話を始めた。それを見て首を傾げるサララたちに説明をするマリー……考えれば、イシュタリアがこの良く分からない言葉を使うところを直接見たのは、マリーとドラコだけだ。
元々そういったことを口外しないドラコに加えて、マリーもあの時の会話をいちいち誰かに話したりはしない。あの後にマリーがサララたちに行った説明は、せいぜいが『ナタリアがどこからか持って来たアレは実は爆弾で、イシュタリアはそれの使い方を覚えていた』……ぐらいである。
なので、焔が驚くのはもちろん、サララやナタリアが、驚きに目を瞬かせるのは仕方が無い事であった。
『病気に掛かった人が居るから、薬を作ってもらいたいの……何かしらのウイルスに感染しているって話らしいのだけれども、出来るかしら?』
『可能かどうかを調べる為に、感染者である患者の血液が必要となります。患者が今この場におられるのでしたら、画面右側の装置にて採血を行いますので、御着席願います』
「『分かりました』……ふう、よーし、マリー。ちょっとこっちに来て、ココに座るのじゃ……後、お嬢ちゃんは何を見ても口出しするのではないぞ。これはれっきとした治療なのじゃからな」
なかなか不安を覚える呼びかけだ。
しかし、ここまで来て何もしないわけにはいかない。
ちょいちょいと手招きされて、マリーは言われるがままにイシュタリアの指差した小さな椅子に腰を下ろす。隣には2メートル近くある巨大な装置の塊が鎮座しており、何とも不気味な印象をマリーは覚えた。
そして、マリーの眼前には錆がほとんど見られない銀色の小さな机が置かれており、U字型の金属棒が前後に並ぶようにして設置されていた。
「こっちに腕を伸ばすのじゃ……そう、その間に腕を置いて……」
「こうかい?」
伸ばした右腕が、前後のU字にすっぽりと収まる。見た目とは裏腹の暖かな感触に、どうなっているのだろうかと内心首を傾げていると……U字の先端がにゅうっと狭まり、マリーの右腕と手首が拘束された。
「――えっ?」
何だ、とマリーが驚くと同時に……隣に有る巨大装置の上部が開かれる。そこからスルスルと金属の触手……注射器のような形をしている一本が右腕に忍び寄ると――。
『患者の固定を確認。採血を行います』
迷うことなく、ぶすりとマリーの腕にそれが突き刺さった。「――いっ!?」突然の痛みに目を白黒させるマリーをしり目に、注射器は順調にマリーの血液をくみ上げる。
「どうどう、お嬢ちゃんちょっと落ち着くのじゃ……大丈夫、ちょっと検査をするだけじゃから、そう驚くものではないのじゃ」
イシュタリアがそう言い終わってすぐに、これまた迷うことなく針が抜かれる。プツリとこみ上げた血の玉を押し留めるかのように、そこへ白い粉が吹きかけられて……痛みが消えた。わけが分からず頭の中で疑問符を浮かべるマリーを他所に、満杯まで血を溜め込んだ注射器が機械の中へと引っ込むと……にわかに、機械が異音を立て始めた。
『識別と照合を行っています。識別と照合をおこなっています。終了まで、約20秒……少々、お待ちください……』
「今この機械の中でお主の血液を使って、お主の身体を苦しめておるウイルスがどういうものなのかを調べておる」
『……検査終了、識別及び照合が終わりました。この採血を行った患者の体内には現在、『タナグラ・ウイルス』と呼ばれるウイルスが確認されました。当装置にて対応できるウイルスに該当します……ワクチンの生成を行ってもよろしいでしょうか?』
『ええ、お願いするわね』」
『了解いたしました。ただ今よりワクチン生成プログラムを起動します。完了まで1分、その間の命令は受け付けられませんので、ご了承願います』
そう機械が言い終わった直後、フワッと機械が熱気が排出し始めた。右腕を押さえていたO字がU字へと形を変え、拘束から解放されたマリーは首を傾げながらも椅子から降りた。
「……せめて、何をするかだけでも教えてほしかったぜ」
何が何だか分からない……それが、マリーの正直な感想だ。駆け寄って来たサララに腕を絡められながら、マリーは振り返って稼働し続けている機械を眺めた。
「それは私の落ち度じゃな。まあ、よいではないか。後は生成されたワクチンをお主に投与すればよい。それが終わったら、このくそったれな場所にオサラバといこうではないか」
それには、マリーも同意であった。離れたところで申し訳なさそうに俯いている焔の姿があったが、知ったことでは無い。よく分からん化け物に襲われたり、あの大男に襲われたり、依頼主の関係者の手によって不本意な扱いを受けたり……ココに来てから散々な目に遭い過ぎて、マリーとしても帰りたい思いで一心であった。
『――ワクチンの生成が終わりました』
そして、ワクチンが出来上がったようだ。先ほどと同じように伸ばされた鉄の触手が、小さな小瓶と注射器を机の上に置いた。ほのかに黄色い薬液が、一杯にまで満たされていた。
おや、と、イシュタリアは軽く首を傾げた。
「『ついでにあなたの手で投与はしてくれないの?』」
『血液内に、症状を緩和する為の抗ウイルス剤の成分が確認されています。今すぐ投与しても構いませんが、互いの成分が中和反応を起こす例が、過去13件確認されております。ワクチンの確実な効果を期待する為には、後2時間程時間を置いてからの投与が望ましいと判断しました』
「『……なるほど、分かったわ。色々とありがとう』」
『お大事に……』
音声が、プツリと止まった。それと同時に静かになっていく装置にイシュタリアは頭を下げる。「どうした?」とマリーに尋ねられて顔をあげると、困ったように微笑んだ。
「薬の二重投与は止めた方がいいのじゃと。残念じゃが、そのワクチンが打てるのは二時間後だそうじゃ……仕方がない。また二時間後に私が注射してやろう」
「おう、ありがとう」
素直に有り難いことなので、マリーはイシュタリアに頭を下げる。「やめい……お主にそう何度も頭を下げられると、妙にくすぐったいのじゃ」何故か肩を竦めるイシュタリアは、話題を変えるかのようにワクチンが入った小瓶に視線を向けた。
――瞬間。
しゅるりと上から伸びた桃色の何かが、小瓶を呑み込んだ。にゅるりと光沢を帯びたそれは天上から降りてきており、何時ぞやの触手を連想させた。
「――は?」
何が起きたのかマリーたちが反応するよりも早く、その桃色の何かは素早い動きで天井へと跳ねる。しゅるしゅるとその身をくねらせたかと思ったら、瞬く間に天井に空いていた小さな穴へと姿を消した。
……。
……。
…………。
…………!?
マリーたちの理解が追い付くまで、数秒の時間が掛かった。そして、マリーたちが『薬を盗まれた』と理解した時には……もう、先ほどの桃色の何かは影も形も無くなっていた。
「――ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
一息で天井へと跳躍したナタリアが、穴の中に腕を突っ込む。しかしナタリアの表情は晴れる様子も無く、あっという間に肩口にまで押し込んだ指先を、精一杯伸ばして奥を探る……しかし――。
――おい小娘共! 緊急事態だ! 今すぐこっちに戻ってこい!
部屋の外から飛び込んできた声に、マリーたちは反射的に振り返る。一番扉に近かった焔が、血相を変えて扉へと駆け寄り――。
『当施設の傍にて、暴動行為並びにそれに準ずる有事に発展する可能性を確認。職員と患者の安全を確保する為に緊急安全プログラムを起動……一時、封鎖致します』
『金剛』の声が部屋に響いた瞬間、イシュタリアは叫んでいた。
「『待って! 閉めては駄目!』」
「――危ない!」
焔の手が扉へと届く前に、寸でのところで追いついたサララが焔の身体を引っ張った。直後、あれほど動かなかった扉がメキメキと音を立てて閉まり始め、思わず耳を塞いでしまうぐらいの異音を立てたと思ったら……ピタリと、その動きを止めた。
『……扉のジョイント部に損傷を確認。これ以上扉を閉めることが不可能と判断……職員並びに患者は速やかに扉から離れ、遮蔽物に身を隠してください』
静まり返った室内に、その音声が響く。イシュタリアの命令がギリギリ間に合ったのか、それとも間に挟んだ石のおかげなのかは分からないが、扉が完全に閉まりきることはなかった。
しかし、その隙間の広さは先ほどよりも明らかに狭い。この場では最も小柄な部類に入る焔やナタリアですら通ることは不可能で、せいぜい腕を入れるのが関の山という程度の広さしかなかった。
――おい、何があった!? 扉が閉まったぞ!
無憎の声に、事態の深刻さに思い至ったサララとイシュタリアが、慌てて扉の隙間に手を掛ける。共に持てる力をフル活用して顔を真っ赤にするが……扉は、一センチも動く気配は無い。遅れてナタリア、テトラ、焔の三人も加勢するが、結果は全く変わらない。
「――だ、駄目! び、ビクともしない!」
焦りと踏ん張りが、サララの顔中に大粒の汗を噴き出させる。テトラを除いた全員の顔が紅潮し、床に大粒の汗が落ちた。
――どうした、テトラ! 扉が閉まったが、何があった!
「――ディグ・源。緊急事態です。緊急安全プログラムが作動したようで、通行できるだけのスペースが確保できません。実質、私たちは閉じ込められました」
――なに!? なんとか開けることは出来ないのか!?
源の叫びが、部屋の中にも届いている。「出力フルパワーで対応に当たります」と言って、テトラも力を込めているが……やはり、結果は同じであった。
「『金剛! 今すぐ扉を開けてください!』」
青い画面に浮かぶ人へと、イシュタリアは命令する。
『命令は受諾できません。私は職員と患者の安全を最優先しなければなりません』
しかし、『金剛』の返事は無情であった。それにいら立ちを隠さずに舌打ちをしたイシュタリアは、続けて命令をする。
「『私たちは戦闘員であり、外で起きている有事を確認する必要があります! 今すぐここを開けなさい!』」
『命令を承認。確認の為に、軍兵ナンバーの直接入力、あるいは口頭入力を行ってください』
「『今はそんなことしている時間はないの! いいから今すぐ開けなさい!』」
『命令を拒否。軍兵ナンバーの直接入力、あるいは口頭入力を行ってください』
「『このままではその有事がさらに拡大する恐れがあります! それを防ぐためにも、いますぐ扉を開けてって言っているでしょ!』」
『例外は認められていません。軍兵ナンバーの直接入力、あるいは口頭入力を行ってください』
「『こ、この、分からず屋!』」
真っ赤になった顔で、イシュタリアは唾を飛ばして罵声をぶつける。しかし、AIである彼には悪口など効果はない。例え、100万回の罵詈雑言を叩きつけられたとしても、意味は無い。
『例外は認められていません。軍兵ナンバーの直接入力、あるいは口頭入力を行ってください』
彼は同じ答弁を繰り返す。そう、彼が望む返答が行われるまで。彼が安全だと判断するその時まで、決して彼は扉を開けようとはしないだろう。
それを理解したイシュタリアは最後にもう一度舌打ちをすると、扉の向こうにいるであろう仲間の名を呼んだ。
「――ドラコ! 何があったのじゃ! 簡潔に説明するのじゃ!」
――あの大男が、現れた。しかも複数体……微妙に顔が違うが、似たような臭いと気配を放っているから間違いない。
扉の向こうから聞こえてきたドラコの言葉に、イシュタリアたちはギョッと目を見開いた。急いで隙間から外の様子を確認し……「な、なんということじゃ……」外で起こっている現実に、思わず言葉尻を震わせた。
確かに、外にはあいつに似た大男がいた。しかも、ドラコの言うとおり一人では無い。隙間から見える範囲でも2人で、その後ろに1人。計3人の大男がこちらへゆっくりと迫ってきているのが見えた。
……無憎の実力が如何ほどかは知らないが、さすがに一人が一人を相手にするのはあまりに危険で分が悪い。一刻も早く、ここを出て加勢しなければならない。
「――退いて! 私の息吹で粉々に砕いてやるから!」
埒が明かないと思ったナタリアが、扉の前に立って大きく息を吸う。しかし、「止めるのじゃ!」イシュタリアが待ったの声をあげた。
「扉の分厚さを考えよ。とてもではないが、お主の息吹では力不足……下手すれば、こちらに跳ね返ってくる危険性があるのじゃ」
「で、でも――」
「それに、マリーに投与するワクチンをまた生成する必要がある! 万が一この機械が壊れでもしたら、取り返しがつかぬのじゃ!」
……そう言われてしまえば、ナタリアとしてはどうしようもない。何も出来ない情けなさに力いっぱいの地団太を踏むと、再び扉に手を掛けて歯を食いしばった。
サララが、イシュタリアが、ナタリアが、焔が、テトラが、力を合わせ、タイミングを合わせて力を込める。イシュタリアとナタリアに至っては、力の入れ過ぎで指先が変形を起こし始めているが、構うことはない。
それで、扉を開けることが出来るのなら……それでいい!
その一心で歯を食いしばっているサララたちの耳に……その声が届いた。
「……はあ、やれやれ。こうなっては仕方がねえ……ぶっつけ本番のお披露目といこうじゃねえの」
それは、マリーの独り言であった。「ま、マリーは、おとなしくしていて……!」力を入れながらも、マリーが無茶をしないように釘を刺すサララ。
「いや、そういうこと言っていられる状況じゃねえだろ」
しかし、マリーはその釘を引っこ抜いた。そして、大きく息を吸って、吐いて、吸って、吐いて……魔力コントロールを行う。
「使い方は頭の中にあるから分かっているんだ。ただ、どうも違和感というか、変な感じがしてなあ……魔法術を使うのって、毎回こんな感じになるのかい?」
その言葉に、イシュタリアの目が大きく見開かれた。そうだ、そういえば、確かマリーは『女』から魔法術を習得させられたはずだ……!
「――っ、お、お主、その身体で魔法術を使うつもりか……や、止めるのじゃ……!」
「いやいや、止めるわけにもいかんだろ……いちおう、俺だって男だぜ?」
その言葉と共に、マリーは静かに……魔力を練り上げる。
「女の為に命の一つや二つ張れないで、何が男か。それに、あいつにはちと恨み辛みがあるのさ」
「――マリー、止めて!」
飛び出したサララが、マリーを止めようと手を伸ばす。
しかし、その手が届く前に……魔法術が、発動した。その直後、マリーの身体は光を放った。
「きゃぁ!?」
不可視の何かに弾き返されて、サララの身体が床の上を滑る。慌てて抱き留めたナタリアを他所に、突如として現れた熱気を孕んだ霧が、瞬く間にマリーの全身に纏わり始める。
螺旋を描いて厚みを増していく霧は、見る間にマリーの身体を完全に覆い隠す。マリーの身体から放たれた光も霧の向こうにかき消され、中の様子が全く分からなくなった。
呆然と、サララたちは霧の塊となったマリーを見つめる。集まった霧が、むく、むく、むく、と縦に伸び、一回り大きくなり……音も無く、霧が弾けた。
「…………」
その瞬間、サララたちの心が……叫びが、一致した。声も出せずに呆気にとられているサララたちの前に、それは姿を現した。
立ち籠る熱気によって、ふわりと揺らぐ艶やかな銀白色。目を瞑っているからこそ余計に引き立つ、一点の曇りも無い顔立ち。すらりと伸びた鼻筋は、見ているだけでその美しさを予感させてしまう。
ドレスから伸びる手足はどこまでも白く、ゆるやかに乗せられた柔らかさと、胸元を押し上げる膨らみはあまりに魅力的で……その姿はまるで黄金のように輝いて見えた。
ともすればむしゃぶりつきたくなるような唇から、重苦しいため息が零れる。そんな些細な所作に、思わず胸を高鳴らせた者が……その名を呼んだ。
「ま、マリー……?」
その問いかけに、ゆっくりと開かれる瞼。露わになった赤き瞳が、一つ一つ、何かを確かめる様にサララたちの顔を順々に見回していく。その視線が、思い出したように自身の身体へと向けられる……そして――。
「……さて、魔法術ってやつの力、どんなもんか試させてもらうぞ」
普段の中性的な声色とは違う、高めの完全な女声。頭一つ分……いや、一つ分半は背丈が高くなったマリーは、女になった身体を気にする様子も無くニヤリと笑みを浮かべた。
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