以下のいぬじん (id:inujin)さんの記事を読みました。憧れの人から離れるというのはどの世界でも,とても難しいものです。でも「憧れない」という選択の方がさらに難しいとも思うのです。
容易に誰かに憧れないことって、大事だなあと思う。
もちろん、この人はかっこいいな、素敵だな、なんてことはいつも思っている。
そして、彼彼女が、これまでの人生をどのようにして歩いてきたのかをよく知りたいと思う。
だけど、結局、人は自分の道を歩いて進んでいくわけで。
その道のりが僕らを作っていくわけで。
わかっているのだけども。
ただ、その行き先が思った以上に険しい山道だったり、あるいはあまりにも退屈すぎる一本道だったりすると、つい、僕は空を見上げて、憧れの人という便利な乗り物が飛んできて、どこか知らないところへと連れていってくれないかしらと、ついつい夢想してしまうことがある。
日本には守破離という言葉があります。まず守破離とは何か。簡単に引用します。これがいぬじん (id:inujin)さんへの答えになるのか分かりませんが。
わび茶を完成した千利休(1522-1591)の教えを、和歌の
形式にまとめた「利休道歌」 (りきゅうどうか) のひとつに、
「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」、
と言う歌があります。
木造建築に携わる方なら、「規矩」(きく) という言葉が少し
気にかかるところですが、ここでは規範の意味として用いら
れており、「教えを守り続けながらも、いつしかそれを打破り
離れていく事も大切であるが、そこにある基本精神は忘れ
てはならない」 と述べたものです。
特に師弟関係を重んじる芸道や武道の世界では、稽古や
修行の段階を表現するものとして、「守・破・離」という言葉が
よく使われていますが、それはこの歌の中にある三文字を
引用したものだと言われています。
http://www.eonet.ne.jp/~sekikoumuten/columnsyuhari.html
「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、それをしっかりと 身につけることをいう。
「破」とは、師に教えられしっかり身につけたことを自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。
「離」とは、それらの段階を通過し、何物にもとらわれない境地をいう。
修行をする上で、心・技・気の進むべき各段階を示した教えといえる。
私が受けたある大学の講義で,その先生は「守ることと破ることは比較的簡単でした。でも離れることって難しいんですね」と言っていて,その時はよく分からなかったのですが,今ならそれが理解できます。
つまり憧れの人の教えを守る,その人との違いを出すことは比較的容易にできるとは思うのですが,そこから離れて「何物にもとらわれない」ようになるのはとても難しいのです。自分が守り,破るまで固執してきたものですから,たとえそれを破ったとしても,自分の中からなくなるわけではなく,むしろ破ったがゆえに影響力が増していくのかもしれません。
それで最初に戻るのですが,「だったら憧れない方がいい」という選択肢もあるわけですが,自分の内面から湧き出る気持ちは抑えようがありません。ですからもしそのような人に出会ったとしたら,それは苦しくとも離れるまで突き進むしかない。そんな感じなのかもしれません。
ただ憧れの人なわけですから苦しいだけではありません。そこには楽しさも存在しているわけですよね。人ではないですけど,研究でも特にそうで,辛いんですけどやめられない麻薬みたいな効果があるわけです。英語の1次資料を読みながら笑っている姿は第三者から見れば異様です(笑)。
だから憧れたのであれば「離れるまでやってみない?」と言いたい。そこまでやって初めて「憧れの人」がいたと言えるのかもしれないと思ったのでした。
参考リンク
日本古来から伝わるプロフェッショナル論~守破離(しゅはり)の精神 - NAVER まとめ
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