Saturday, April 12, 2014

教養主義の罠

先日、柄谷行人+浅田彰他の編者による「必読書150」という本を読んで、いろいろと考えさせられたことを備忘録代わりに。

この本、いわゆる「教養主義」の本なんですよね。一応ことわっておくととても面白いです。一度読んだ本についても「おお、そういう視点があったか」と思わせる紹介があってとても刺激になる。


で、こういった本をまとめて紹介しているというのはつまり、そういった名著を読め、ということなのですが、そのように強く主張する柄谷さんの論拠が奇妙で「こんなものすら読んでいないのはサルである」ということなんですね。サルでいるのがイヤだったら読め、とまあそういうことらしいのです。

この一節を読んでまず思ったことが、こういった名著を読んできたことで、本人たちに言わせると「サル以上の何者か」になった著者+編者の皆様の「生」が、どれくらい善く、充実したものになっているのだろうか、という点なんですが、それがどうもよくわからないんですよね。

例えば浅田彰さんという人は、80年代に「構造と力」でセンセーショナルなデビューを果たしましたけど、率直にいってその後、処女作に匹敵する様なインパクトを結局は出せなかった、という印象を持っています。有名なのは某週刊誌に連載している某元県知事との対談ですが、なんというか、揚げ足取りの難癖に終始しているようにしか見えない。この社会をどうやったらより善いものにしていけるのか、という論点に真っ向から取り組んだ考察というのは、結局生涯で一つも出せなかった人だという印象を持っています。

柄谷さんについても同様で、「哲学の起源」とか「世界史の構造」なんかを読むと、迸る様な知性に満ちあふれていてとても面白いのですけど、その教養が、社会と本人にとって一体なんの役に立っているのか、というのが今ひとつわからない。

面白いですよね。浅田さんという人はポストモダニズムの騎手として颯爽と思想界に登場したわけですけど、ポストモダンというのは言ってみれば「反教養主義」だったわけですからね。保守教養主義という巨大な敵がいたからこそ、それに対する反力としてポストモダニズムというものが存在し得て、その中心に居たのが浅田彰さんだったわけですけど、反力を生む保守教養主義自体が力を失って功利主義・プラグマティズムが本流になってしまったら、今度は自分が教養主義者になって功利主義を攻撃しているという、そういう反転構造がここに見えます。本人は気付いてんのかな。まあいいけど。

こういったことをツラツラと考えていくと、「教養が大事だ」と主張する教養人たちのアウトプットと人生が、とても貧困なものにハタからは見えるということが、教養主義が廃れてしまった最大の原因じゃないかしら、と思うわけです。

「教養のあるサル以上の何者か」になるより、「教養がなくても幸福で充実した人生を歩んでいるサル」のほうが僕はいいと思うし、多くの人もそうなのじゃないかな、ということです。

役に立つか立たないか、という判断軸がおかしい、という指摘もあるかも知れないけど、僕はその点についてはこだわりたいんですよね。大学の教養課程は英語ではリベラルアートと言われますよね。リベラルアートのもともとの語源は新約聖書福音書の「知は自由にする」という言葉に由来してます。つまり、教養というのは人をして自由ならしめるためにあるわけで、とても功利的な成り立ちをもともとはもっているということです。訳が悪いんだよね。リベラルアートを「一般教養」なんて訳してしまったから、功利主義的な側面がこぼれてしまって、なんか花嫁修行の一種みたいなニュアンスになってしまったんですね。

でね、ここで自分を振り返ってみると、最近は自分も教養主義に冒されつつあるということがわかって、これは危ないかも知れないなあと思っています。僕自身のいままでを振り返ってみると、人から与えられるカリキュラムを徹底的に無視して、自分が大事だと思うものにのみ時間を使って読む・聴く・観るをやってきた結果が、いまの自分の血肉になっているということは明白なので、これはつまり「教養主義」を徹底的に排除してきた、ということなんですよね。

カリキュラムというのは、他人が「これはとても大事」ということで編集・編成したものですけれども、これはつまりそのまま「教養主義」に通じますよね。テレビ局や雑誌と同じで、自分のところに編成権・編集権がないわけです。で、僕はその点、つまり「自分で編成権を持てない」というのがとても嫌で、ほとんど学校に行かず、ひたすら図書館で自分が面白いと思う書籍は選んで読む、面白いと思う映像を借りてきて観る、ということをやっていたわけです。経営学もビジネススクールに行かずに独学したしね。つまり、子供の時からずっと、他人がなんといおうと、僕が面白いと思うのが「善い本」であって、そうでないものは「悪い本」なのである、ということを強く信じているんです。でもね、そういう態度を貫き通せた20代前半までの時期に比較して、いまはずいぶんと「これは読め」というアドバイスというか、余計なお世話に従順になってしまっているなあ、と思ったんですよね。

教養主義というのは一種の罠だと思っています。

はまってしまうと、不思議な序列システムのなかに絡み取られてしまって、幸せになるためのシンプルな本質がよく見えなくなってしまう。自分の置かれている文脈に沿って必要な知識こそ、大事な知識であって「これを知らないのはサルと同じ」といった主張に踊らされて、教条主義的なコンテンツを仕入れるのに時間を使うことのないように気をつけよう、と思った44歳の春なのでした。







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