町田米軍機墜落事故:遺族と元救急隊員、50年ぶり再会

毎日新聞 2014年04月10日 23時11分(最終更新 04月10日 23時34分)

救急隊員だった山西金寿さん(左)と対面した被害者の吉田治さん。山西さんが示すのは事故後に消防署長から救助活動の活躍をたたえられて贈られた賞状=東京都町田市で2014年4月10日、青島顕撮影
救急隊員だった山西金寿さん(左)と対面した被害者の吉田治さん。山西さんが示すのは事故後に消防署長から救助活動の活躍をたたえられて贈られた賞状=東京都町田市で2014年4月10日、青島顕撮影
墜落現場で救出作業に当たる人たち=東京都町田市原町田で1964年4月5日撮影
墜落現場で救出作業に当たる人たち=東京都町田市原町田で1964年4月5日撮影

 東京五輪の開会式を半年後に控え、高度経済成長が本格化する1964年4月、東京都町田市に米軍機が墜落する悲劇があった。この時、現場で救出活動に当たった元救急隊員が10日、自らの手で病院へ搬送した男性の自宅を訪ね、半世紀ぶりに再会した。互いの健在を喜び合ったが、男性は「毎月墓参りをしている。ただそれだけです」。心の傷は今も癒えていない。【青島顕】

 訪ねたのは、事故当時町田消防署に勤務し、今も町田市に住む山西金寿(かねとし)さん(77)。迎えたのは、同市の当時の国鉄原町田駅前で精肉店を営んでいた吉田治さん(80)。自宅兼店舗に機体が直撃し、妻ツネ子さん(当時28歳)と、生後9カ月の長男が亡くなった。

 吉田さんによると、家族でテレビを見ていた時、突然衝撃とともに畳ごと天井まで持ち上げられ、次の瞬間、家の下に掘られた防空壕(ごう)跡に落ちた。山西さんは、救出に当たる近所の人たちに「まだ1人いる」と言われ、現場で待機。間もなく吉田さんが救助された。意識はなく、顔や耳の中の泥をぬぐったのを記憶している。吉田さんは「気を失っていたから、初めてお目に掛かります」と改めて感謝の言葉を伝え、山西さんは仏壇に焼香した。

 吉田さんは、無事だった当時3歳の長女を世話するため、1カ月後に無理に退院したこと、その長女も小学6年生の時、米兵が運転する車にはねられ死亡したことなどを語った。「(事故は)もう忘れています」と、思い出すのがつらそうな様子も見せた。

 吉田さんの思いをよそに、記憶の風化は進む。しかし、事故からちょうど50年となる今月5日、市民グループが犠牲者を追悼する集いを市内で開いた。参加者が集会後に事故現場を訪れた際、山西さんが通りかかり、吉田さんが健在であることを知らされた。

 山西さんは「消防士生活で、あんな現場はほかになかった。お会いできて、感激です」と話した。

 【ことば】町田米軍機墜落事故

 64年4月5日午後4時28分ごろ、沖縄から神奈川県の厚木基地に向け訓練飛行中の米海軍偵察機が、東京都町田市の商店街に墜落。死者4人、重軽傷者32人を出した。操縦士はパラシュートで脱出した。機は故障できりもみ状態となり、上空約1800メートルから急角度で地表に激突。店舗など4棟が一瞬で吹き飛び、機体の破片が半径50メートルの範囲に飛散した。駐車場になった現場には今もエンジンが埋まっている。

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