「本当の自分」なんてそもそもないんだよ

「自分が無い」と感じることについて - ゆーすとの日記

 読みました。

 出たな、自分探し!いいですね。若いという感じがする。かく言う僕も若くてですね、自分探しは好きですよ。ええ。おそらく過去に何度も何度も繰り返し考えてきた問題です。だからそれなりに思うところもある。暇なのでその「思うところ」を文字に起こしてみよう。

 結論から言えば、「本当の自分」なんてものは、そもそもない。

 ゆーすと (id:syuraw)さんが言う「自分を持ってる」人というのはどのような人を指すのか。
 以下に引用。

「自分を持ってるな」と感じる人が多用する表現がある。それは

「自分は(僕は/私は)~で~だから、こういうとき~なんだよね」

という言葉だ。

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2014/04/10/212654

何か見たり聞いたりしたものに対し自分の考えを表明するとき、彼らは自分の「内部要因」を一番大事にしているように見える。「自分が何を感じたか・考えたか」を正確に認識する能力に秀でており、それを大切にし、それを貫くことを厭わない。

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2014/04/10/212654

 一方で「自分が無い」人のことを以下のように書いている。

一方自分が無い人は、そもそも自分の感情・思考に対して鈍い。自分の抱く思考・感情にコンプレックスがあってそれを無理に押しこめているか、あるいは「外部要因」を重視しすぎているか。人の目・意見を気にしすぎるあまり自分を抑えることを繰り返していると、気づいたときには他人の意見に振り回され、ふらふらと流れされるばかりの自分が出来上がっている。まさに「自分が無い」状態だ。

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2014/04/10/212654

 まず自分の考え方や感じ方を認識出来ていること、そしてそれらを率直に表現・保持できることに基準を置いている。自分が何を考え、何を感じるのかを周囲に流される事なく持ち続け、必要であれば表現することが出来る。そういう人こそが「自分を持っている」人なのだとか。逆に、自分が何を考えているのか、感じているのかがわからないし、わかっていたとして自信がないからすぐに流されてしまう人は「自分が無い」人、ということのようである。

 なるほど。ある意味でこれは正しいかも知れない。確かに、自分が何を考え、何を感じるのかは、その人の本質を表すものだろう。それを上手く認識出来なければ自分には本質がないように、つまり自分がないように感じてしまう。でもそれだけだ。そんな風に感じているというだけのことでしかない。あるいは、(ゆーすと (id:syuraw)さんも書いてるけど)何を感じるにしても考えるにしても対象が必要なわけで、その対象についてはぼんやりとした考え方や感じ方しかできないというだけのことだ。人それぞれに興味あるものごとと、ないものごととがある。全てに対して何かしら意見があるわけじゃない。何を聞かれてもきちんと答えられる方がそもそもおかしい。そんなのは就活の面接試験だけで十分だ。それを表に出すかどうかも同様。表に出すかどうかが望ましいかは、そうすることによる効用によって決定される。考えがあるからといって、それを全て表に出せばいいということではない。あたりまえのように。

 んで、考え方とか感じ方って要するに癖なんですよね。スキーマとかって呼ばれる。習慣と言えばわかりやすいだろう。そういうものは、初めからあるようなものではない。そうした癖とか習慣とか傾向というのはそもそもあるものではなくて、徐々に身についてくるものだ。そして今あるスキーマが過去移ろい続けてきた結果のものであるのと同じように、今後もまた変化し続ける。そういう仕組みになっている。その流動的なものの瞬間的なあり方だけを切り取って、これが「本当の自分」だと言いはることにどれだけの価値があるだろう? それを主張した次の瞬間にはその時「本当の自分」だったものは、既に「本当の自分」ではなくなっている。

 考え方の癖や傾向が流動的なものであるのは、同じく流動的である環境に適応して生きていくためだ。主体的な選択でなんでもかんでも選びとることが出来ると考えている人は多いと思うけど、実際にはほとんどの選択肢は環境的・身体的に潰されている。だから、主体として取捨できる選択肢は制度的に与えられたものでしかない。そしてその中での選択が持つ価値もまた、事後的に作られたものでしかない。そもそもの価値や意味というものは、初めから存在しない。畢竟、「本当の自分」だと思っているものは、ほとんど、あるいは全く「本当の自分」ではない。

「自分が無い・わからない」人はたぶん、変化することもできない

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2014/04/10/212654

 ゆーすと (id:syuraw)さんはこう書いているけれど、そんなことはない、と僕は思う。もともと生存戦略として流動的であるものを固定的に捉えようとすることが悪影響を及ぼすのは言うまでもないだろう。常に適応し続けなければならないのに、その適応に歯止めをかけることになってしまう。しかもそうしたところで、いつまでたっても「本当の自分」に到達することはない。そもそもありもしないものを追い求めてもどこにも辿りつかないし、それどころか本来乗るべき流れに取り残されてしまう。そのことに気がつくのが遅くなるほど、手元に残るのは致命的な虚しさだけになってしまう。人は埋没費用にそこまで寛容になれない。

 だから、「本当の自分」なんてものはそもそもないし、あると思わないほうが良い。それを追求することに意味は無いし、あるのは悪影響だけだ。極端な話、「本当の自分」は極力なくしたほうが良い。幻想の影を追い続ける徒労は極力遠ざけておいたほうが身のためだ。

 でもゆーすと (id:syuraw)さんが言うこともわからないでもない。言うまでもなく「傾向」は傾向なのだから、当然変化はあると言ってもそれは緩やかなものだし、ある程度の幅でなら掴み取ることが出来る。だけど問題なのは前提として流動的であるものを固定的な自分の本質として捉えてしまうことや、その志向性だ。偏屈だったり頑固だったりする年寄りが多いのは、年をとればとるほどその傾向が掴めてきて、「そういうものだ」と思ってしまうからだ。あるいはそれもまた自身の価値観を身辺的な共同体に反映させる事による個としての生存戦略であったり、自分ではなくより若い世代にリソースを割くための種としての生存戦略であったりするのだと思うけど、どうせそういう方向へシフトしていくからこそ自ら変なハンドルのきり方をしないほうがいい。何度も言うけど、「主体的な選択」だと思っているものは所与的なものでしかない。んで、「自分探し」なんてのはその中でもかなり恣意的に組み込まれてるものの類だろう。意思が介在すれば必ず自然な流れには歪が生じる。その結果自分が何を得、何を失うのか。それはどこへ移動するのか。そういうことを考えておくべきだろう。

「上手い自分探し」があるとするなら、さっき述べた「歴史を紐解く」ことのほかに(あるいはその手段もかねて)、何かしらのアウトプットは必須だろうと思う。自分の考えをこうして文章にすることでもいいし、何かやりたいことがあるならやってみるのがいい、経験してみるのがいいと思っている

これもわかるんだけどねえ。確かに文章にしてみれば自分がどういうふうに考えるのかがわかる。書くという動作をフックにして考えることを誘発出来る。その点では本当に有意義なことだと思う。他の行動にしても。だけど、こうして僕も今自分の考え方を書いているわけだけど、これって主張と行動がまるっきり矛盾しちゃってると思うんですよね。やはり言葉にしてしまうと、どうしてもその言葉に自分が囚われてしまう。自分が書いた言葉や口にした言葉をテンポラリなものとして意識しようとしても、必ず言葉はそれを乗り越えて影響を及ぼしてくる。古くは「言霊」なんて呼ばれたり、他の文化圏でも似たような土着信仰があるようだけど、そういうものって必ずあると思うんですよね。間違いなく。だから、何かを言葉にするときは常にそのことを意識しておいたほうがいい。今書いているようなものならばそう悪い影響はないだろう。だけど、そうではない言葉は必ずある。呪詛的に働く言葉だけは、たとえ思っても口にしないほうが身のためだろう。