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【世界】☆.。・゚・チンギス・ハーン・゚・。.☆【最強】

1 :ジュチ:04/05/20 13:20
ジンギス・カン チンギス・カン チンギス・カーン・・・
古今東西並ぶ者の無い大王の中の大王。
なぜ今までスレが無かったんだ?
という事で語ってくれ。

2 :世界@名無史さん:04/05/20 13:27
どうせ夕べの「その時歴史が動いた」だろ

3 :世界@名無史さん:04/05/20 13:29
ジン ジン ジンギスカーン
ヘイ ライタァ ホー ロイテァ ヘイ ライタァ インマァ ヴァイタァ

4 :世界@名無史さん:04/05/20 14:56
思いっきり「その時歴史が動いた」だ。

5 :世界@名無史さん:04/05/20 20:35
こんな残虐なレイプオヤジ興味ないね

>>1
クソスレ立てんなw

6 :世界@名無史さん:04/05/20 20:43
>>3
昔からその曲名が気になっていたんだけど、曲名は何??

7 :世界@名無史さん:04/05/20 20:52
ジュチはチンギス・ハンの実子ではないんだよな?

8 :世界@名無史さん:04/05/20 22:39
>>6
Genghis KhanというグループのDschingis Khanという曲。
どっちも「ジンギス・カン」と読む。

9 :世界@名無史さん:04/05/20 23:13
ジェベは?

10 :世界@名無史さん:04/05/20 23:30
負かした敵の子女をレイープするときの征服感がたまらんとか言ってた
悪趣味オヤジだったようだな。彼自身レイープ略奪婚で生まれた子供、
彼の妻も敵に奇襲されたときにレイープされてジュチ(よそ者)を産む。
レイープ関係の話題の尽きない「英雄」だな。
とにかくモンゴル人って南に侵入してはレイープばっかしてた民族って
印象があるけど、これ見ると否定しにくいよな。
大戦末期ではソ連軍と一緒に入ってきたモンゴル軍もひどい略奪やレイープ
したそうだし、時代を遡れば清が周辺国を征服する過程で味方とした「モンゴル八旗」
の略奪レイープは酷かったって言うから、モンゴル人っていったい・・・。


11 :世界@名無史さん:04/05/20 23:47
朝鮮人がレイプ好きなのはモンゴル人の血が入ったからじゃないかな。
モンゴル人のイメージが分からなかったけど、某横綱見ていると
いかにDQNな連中か理解できたのは俺だけじゃないはず。

12 :世界@名無史さん:04/05/21 00:05
朝ショウリュウよりキョクシュウザンのほうが

13 :世界@名無史さん:04/05/21 00:09
ヨーロッパを征服してほしかったね

14 :世界@名無史さん:04/05/21 00:11
宦官陳和賞

15 :世界@名無史さん:04/05/21 00:25
>>10
だけどモンゴル人のレイプって、一応連れて帰って面倒見るじゃん。
子供が生れたら育てるし。
ロシア人はズタズタになるまで輪姦して殺すじゃんか。

16 :世界@名無史さん:04/05/21 00:53
チンギス・ハンの正妻ボルテが、新婚当初に敵対する部族(メルキト族)に拉致されたけど、チンギス・ハンは数日後にはボルテを奪還してるからね。
だから、この事件の後にボルテが生んだ子供(長男ジュチ)がどっちの子供なのかは微妙なんだよね。
まあ、ジュチはチンギス・ハンの子ではないというのが定説みたいになってしまっているけど。

17 :世界@名無史さん:04/05/21 02:32
元朝秘史買おうっと。


18 :世界@名無史さん:04/05/21 10:45
それ以前に、モンゴルくらいじゃないのかな。敵国の血筋を積極的に取り入れた上で統治にも参画させたのは。
普通だと敵の王室(指導者)断絶して自分の民族よりワンランク以上低い位置付けをして重用もしないのが常なのに。

>>16
チンギス・ハン自体は自らの子として接したようだが、周囲の風潮がそれを許さなかったようにも思えるよね。
結果的にジュチが窮地に陥った際にも援軍を差し向けることを臣下が遮る形で落命してるし。不憫だよなぁ。

19 :世界@名無史さん:04/05/21 11:34
モンゴル人にとってレイプは当然の行為だったんじゃない?
レイプされて自殺した漢族の女を遊牧民は理解できなかったというし。


20 :世界@名無史さん:04/05/21 11:38
ボルテの輪姦をエロ漫画家きぼんぬ

21 :世界@名無史さん:04/05/21 11:40
しかしチンギスハンは業績からしたら
アレクサンドロスを凌ぐのにあんまし一般的じゃないよな。




22 :世界@名無史さん:04/05/21 11:58
>>21
そもそも「世界史」というものの大半が西洋観から描かれたものである以上、アジア方面で帝国を
築き上げたとしても大きく取り上げられることはないからね。西欧人にとっては東西文明が相互に
混ざり合ったのは大航海時代以降、というのが一般的な考え方だから。
だから楼蘭遺跡で白人系幼児のミイラが発見されたときには、かなりの衝撃を受けたらしいよ。

それに加えて当時のモンゴル公用語でもあったキタイ文字解読に関して、かなり手間取っている
事実もある。内部から見た史観が分からないから、更に実体が曖昧なものになっているわけ。

23 :世界@名無史さん:04/05/21 12:47
結論として右翼は朝鮮の偉業を過小評価しているということだ。
日本人には朝鮮の血がはいっており、朝鮮人にはモンゴルの血が
はいっている。
つまり朝鮮人がロシアやアラブまで支配したと言うことだ・

24 :世界@名無史さん:04/05/21 13:03
その論理でいくと、人類発祥の地と言われている南アフリカの血が世界中を支配したということに
なりますね。…まぁ、こういう馬鹿げた議論は個人的に本末転倒も甚だしいものだと思いますが。

25 :世界@名無史さん:04/05/21 13:16
レイプはモンゴルの風習の一つだったんじゃないの?
ある意味当たり前の行為だったのかも。

26 :世界@名無史さん:04/05/21 13:17
つまり文明国家からすると野蛮人だった(w
って事だね。

27 :世界@名無史さん:04/05/21 13:19
俺が昔の中国人だったら遊牧民絶滅政策を考えるけどね。

28 :世界@名無史さん:04/05/21 13:25
モンゴルの血を引くロシア人はやはりレイプ得意
モンゴルの血を引く中国人はやはりレイプ得意
モンゴルの血を引く朝鮮人はやはりレイプ得意

極東3馬鹿はレイバー民族

29 :世界@名無史さん:04/05/21 13:55
中央アジアもトルコもアフガニスタンもモンゴルの血をひいてるけど・・・・

30 :世界@名無史さん:04/05/21 14:27
蒼き狼以外でチンギス・ハーンが題材のおもしろい歴史小説ある?
歴史本でもいいけど。

31 :世界@名無史さん:04/05/21 15:07
結論としてモンゴルの血が入ると野蛮。

32 :世界@名無史さん:04/05/21 16:37
トルコは野蛮なのか?
今のモンゴル人は野蛮なのか?

33 :世界@名無史さん:04/05/21 16:39
チンギスハーンの時代の遊牧民の残虐性は環境によるものだろう。
生まれたときから略奪と殺戮の世界だったんだから。
そんな環境で生きていれば残虐になる。

ヴァイキングの北欧も野蛮だったけど今は世界最高の文明国家になってるしね。

34 :世界@名無史さん:04/05/21 17:11
>>32
朝青龍、旭鷲山を見よ。

35 :世界@名無史さん:04/05/21 18:24
だったら日本にも麻原のような超凶悪犯罪者がいるが。

36 :世界@名無史さん:04/05/21 19:15
最近、「アジアの人々」をやたらにかばう奴らが増えたな。
プロ市民に違いない。

37 :世界@名無史さん:04/05/21 19:16
朝青龍、旭鷲山といわれて麻原を持ち出す奴は詭弁の弁法認定してさしあげよう。

38 :世界@名無史さん:04/05/21 19:27
旭鷲山の妹、コスプレはまってるらしいぞ
ttp://gisuke2.hp.infoseek.co.jp/01/05.html

39 :世界@名無史さん:04/05/21 20:19
つうか、モンゴルに一番レイープされた民族ってどこなんだ?やっぱ漢民族かな?


40 :世界@名無史さん:04/05/21 20:22
モンゴル騎馬軍が残虐であったというのは、モンゴルが自ら流布した噂に起因している。実際には敵対国の
軍を悉く殺した例は他国と比較して極めて少ない。(ジャラール・ウッディーン攻略戦くらいだな)
金や南宋ですら、実際には幾度も戦火を交えることなく領主自体の投降という形で領土を切り崩された挙句、
自壊するようにして滅亡している。軍が強かったのは当然だが、宣伝広報の手腕も高かったわけだ。
おまけに支配領の民族からも重臣を積極的に獲得するなど、現地民にも相当寛容であったとも言える。
用意された土台に崩れない骨組みを組み上げることに関しては当時の国としては稀有な能力を持っていた。

これは紛れもない事実だと思うのだが。これすらもプロ市民のような馬鹿擁護になるのかな。

41 :世界@名無史さん:04/05/21 20:41
他方、世祖忽必裂は度重なる牒書無視を激怒して日本遠征を固め
高麗に軍船建造を命じ戦備を進めた。新建造九百隻、軍勢二万が
折都(蒙人)を都元師(総司令官)として対馬の国府(厳原)に押し寄
せたのは文永十一年十月五日早暁であった。対馬の地頭、宗国助は
郎党八十余騎を率いて佐須浦に馳せ向かい、上陸の元軍一千余と
果敢に戦い、激戦数刻、国助と子息ら十余名が討死し他は敗走した。
元軍は佐須浦の民家を焼き払い、やがて対馬全島を制圧した。
次いで元軍は壱岐を襲い、守護代平景隆が御家人百余騎で戦ったが
衆寡敵せず全滅した。やがて元軍は松浦沿岸の島々を侵し、松浦党の
武士数百人が戦死した。時の鷹島守護代、鷹島満の一族郎党も悉く
討死している島々の百姓漁民、老若男女すべて虐殺されたと伝えられ
ている。戦場では殺戮、凌辱の荒々しさをほしいままにした蒙軍、住民
残滅に容赦はなかった。
 
 
 

42 :世界@名無史さん:04/05/21 20:52
成吉思汗 ジンギスカン チンキズ・ハン チンギス・カ〜ン

           ↑   ↑   ↑
      
            どれが本当なの?


43 :世界@名無史さん:04/05/21 20:53
テムジン

44 :世界@名無史さん:04/05/21 20:56
1258年
フラグ率いるモンゴル軍に第37代カリフ、アル・ムウタシムは無条件降伏。
しかし結局惨殺され、平和の都バグダートは灰燼に帰しました。
ここに名目だけの存在となりながらも続いてきたカリフ政権は滅びさりました。

       

45 :世界@名無史さん:04/05/21 20:58
>>41
モンゴルから日本への外交交渉文が元史・日本伝や経世大典序録、東大寺にも写しが残っているが
「上天眷命」を不遜とした日本側だが、これは「書を奉る」という意味で常套句として用いられていた。
むしろ日本より所領が大きいモンゴルが日本に対して「奉る」という謙る態度を見せてるわけ。
更に末尾を「不宣」で締めているが、これは「これを臣とせざるを申すなり」の意味。つまり、日本国を
臣とはしない対等な外交国として国交を開いてくれ、という丁重極まりない内容の通商外交文。

鎌倉幕府は大陸情勢を全く把握してなかったんだろうな。
これを幾度も無視され、当時南宋を制して水軍を持て余していたモンゴルは兵を向けたわけ。
この挙兵は吸収した水軍を飼い殺しにする意味合いが強かった。(実際、海上に停泊したまま沈む)
モンゴル兵は殆ど(全く?)乗船しておらず、更に台風によって難破した兵士が漂着したときに日本は
唐人(江南人)と分かる者以外は殺害した。まぁ、戦の状態ではそれが当然なことだ。

46 :世界@名無史さん:04/05/21 21:04
バグダートが灰燼に帰した?
破壊の限りを尽くした後で、破壊以前に勝る再生を施したとでも言うのかな。(人口も増加している)
はっきり言っておくが、モンゴルは制圧した都市の「軍事施設」を破壊して農作地を増やしてはいるが、
それ以外の施設(例えば灌漑施設など)は一切破壊していない。東西の史書にも記されているぞ?

47 :世界@名無史さん:04/05/21 21:10
>>42
汗(ハン、又はカン)、つまり王とか最高権限者を表す言葉。
現代日本語に合うように訳するなら「チンギス王」とでもなるかな。
当時のモンゴル公用語(キタイ語)に由来する。これを「汗」という感じに代えて、それが広まったもの。
成吉思汗、ジンギスカン、チンギス・ハン、チンギス・カーンという名前は全て正解であるとも言える。

48 :世界@名無史さん:04/05/21 21:13
>>43
一応補足。
テムジンは幼名というか、モンゴル平原に点在していた諸部族を平定する前の名前。
モンゴル平定後に「チンギスのハン」を名乗り、それを周囲の者達も認めたから事実上チンギス・ハンとなった。

49 :世界@名無史さん:04/05/21 21:37
>>45
何こいつ。
NHKの大河ドラマ同様に話せば分かる主義者か?


50 :世界@名無史さん:04/05/21 21:41
>>40に対して>>41を張ったのだが、
こいつの言い分だと日本が悪いように言っているよな。
鷹島の虐殺「現地人」に寛容なんだ?皆殺しじゃないか。
責めてきたのはモンゴルで日本は攻められた側だ。
虐殺のことには触れずに話しをはぐらかしてよほど日本が嫌いなんだろうな。




51 :世界@名無史さん:04/05/21 21:42
モンゴルは制圧した都市の「軍事施設」を破壊して農作地を増やしてはいるが、
それ以外の施設(例えば灌漑施設など)は一切破壊していない

現に鷹島は灰燼に帰しているがな。

52 :ラフカディオ・ハン:04/05/21 21:45
↑コレハ「クヮイダン」デツカ?

53 :世界@名無史さん:04/05/21 21:48
>>45
通商外交のために親書を送ったという部分には同意する。
確かに何度も国交を築こうとしてシカトされれば普通はキレる。交渉決裂で攻められて人が殺されるのも当然。

54 :世界@名無史さん:04/05/21 21:51
>>45
「兵を用いるに至りては、それだれか好むところならん」と脅迫したのは
モンゴルだがなアンちゃん
言葉は馬鹿丁寧だが、したがわなきゃ侵略するぞと脅迫しているだろ。


55 :世界@名無史さん:04/05/21 21:54
>>53
>>40
おまけに支配領の民族からも重臣を積極的に獲得するなど、現地民にも相当寛容であったとも言える
といっているが、実際は虐殺しているわけだ。
その事を指摘すると全然異なる話題で話しそらしている。

56 :世界@名無史さん:04/05/21 22:03
ロシアはともかくとしてホラズムのサマルカンドやバーミヤン、
アラビアンナイトの都だったバグダードもすべてモンゴル軍の
侵攻で灰燼に帰してて、その記述にはかなりの誇張(何十万人
殺したとか何十メートルの生首の山を3つつくったとか)があるにせよ
「工匠数百人を除き残った市民を全て殺害」とか「あまりの死臭に耐え
かねてモンゴル軍自身が一時バグダートを放棄」とか当時のイスラム
やヨーロッパ世界の人間の常識を超える凄惨さだったみたいなのは
確かみたいだよ
それからモンゴル人は中国人の人口の多さに辟易として数千万人を
抹殺して華北を放牧地にする計画を建てたけど、その計画を聞いて
びっくりした耶律楚材が中国の農民から租税を取った方が放牧より
収益があがると献策したために殺されずにすんだって話は本当ですか?




57 :世界@名無史さん:04/05/21 22:05
それから全員が遊牧民で全員が優秀な兵士であるモンゴル人には
交易品や財貨を産出する背景に大勢の民衆が必要だとあまり認識
しなかったら、中央アジアを征服した時に工匠だけを残して住民を
皆殺しにしたりしたのじゃないかな
最も高速で移動する騎馬軍団にとって捕虜を増やして反乱などにも
気を使うのは足手まといだと考えたのかもしれませんが…
だからこそ耶律楚材が漢族の抹殺を阻止したんじゃないのかな



58 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/21 23:03
>>45
一応商船から情報収集はしていたようで弘安の役も察知していましたが、
対応が不味かったという点は同意。というより日本が外交面で巧く立ち回
った方が珍しい。

59 :世界@名無史さん:04/05/21 23:17
このスレを見ているとどれだけ日本人がレイプという行為を愛してるかが分かる……

60 :世界@名無史さん:04/05/21 23:25
プレイ
レイプ
イプレ

61 :世界@名無史さん:04/05/22 00:24
>>56-57
残念ながら、そういう記述は史実としては記録されていません。
金(宣宗)は毎年の貢納を条件にモンゴルに対して講和を申し入れ、それをチンギスは実にあっさりと呑んで中都の包囲を
解いています。おそらく農耕世界の統治を完全に引き受けるよりも、過去の匈奴の冒頓、漢の高祖劉邦の関係のように、
「ある程度の定期的な収益を得られるのであればそれで良し」と考えたのでしょう。
まず金国打倒というよりも、馬とキタイ族、内モンゴル古草原の吸収、そして毎年の巨額な経済支援を取り付けること。
私が知り得る史書を見る限り、これらをまず優先に考えて計画を練っていたようです。(彼らの戦略はかなり入念ですね)
現実的にも数千万を抹殺して華北を放牧地とすることはコストに対するメリットは殆ど生まれませんからね。

ところが、当の金国宣帝は中都を放棄して遷都。丞相の完顔福興を中都に残して引き上げてしまったわけです。
彼らの軍の中核を成していたのは「チュウ」という集団で、彼らはキタイ族を含む金国北辺の遊牧系諸部族混成軍でした。
チュウは宣帝が引き上げるのを機に反乱を起こし、チンギスに対して援軍を要請しています。チンギスは非常に驚いた筈。
中都を落としてしまえば旨みがなくなり、かといって援軍を出さなくても吸収した内部のキタイ軍からの風当たりも強くなる。
史書によればかなり長い間、悩んだようですが耶律楚材や石抹明安ら、新加入のキタイ部将達に強く再進撃を求められて
金国内戦への軍事参入を決意しています。(モンゴル本軍は殆ど参画せず、主にキタイ部隊が先鋒・後詰めを担当)

こうして中都は陥落しましたが、チンギスは務めを果たしたとばかりに開封に攻め込まず即時撤兵しています。
これによって金国は二十余年に渡って存続することになりましたが、これはチンギス自体が華北を全面的に経営するという
意思がなかったということを物語っているかと思われます。この辺りは現在の我々から見ても非常に優れた手腕ですね。

62 :世界@名無史さん:04/05/22 02:35
チンギスハンは、モンゴルが共産主義時代に
かなり貶められているから、けっこう嘘がまかり通ってるんだろうな。

しかも、東ヨーロッパも侵略してるから、欧米人受けも
よくないだろうし。

63 :世界@名無史さん:04/05/22 05:02
チンギスカァンに関しては、リデル・ハートが高く評価しているんだけど、一般には浸透しなかったかな?
まあ、あの当時(1920)は、こんな事書いてもデムパ扱いされ。

・・・陸上における装甲の無限軌道車、換言すれば軽戦車はモンゴル騎兵の当然の継承者であると考えられる。
なぜならば装甲無限軌道車は、本質的に機械化騎兵であるからである。
よく考えると次のような考え方も成り立つであろう。
すなわち、われわれは高度な機動性を備えた単一兵種を使用するという簡素さにこの際立ち返れば、モンゴル軍の有していた機動力と攻撃力を取り戻すことができよう。
また歩兵のような特殊な局地機動力が必要な場合には、装甲無限軌道車の乗員を陸戦戦力として徒歩で行動させることもできるのである。
さらに飛行機は、機動力において高度な特質を備えていると見られ、将来飛行機こそがモンゴル騎兵の継承者であることを実証するかもしれない。

「優れた全般的機動力は、それが打撃力と結合された場合には、歩兵を基本とした軍の有する単なる局地的機動力や決戦力よりも、力の面でも安全の面でも共に優っている」

64 :世界@名無史さん:04/05/22 10:23
なんか、モンゴル関係はやたら似たようなスレが乱立してるような気がする

65 :世界@名無史さん:04/05/22 13:41
モンゴルは虐殺の民。九州の民が多く殲滅されている。
話せば分かるはずとする奴は敵国に同調する輩ども

66 :世界@名無史さん:04/05/22 14:00
生意気な日本をシめてやるッ!

フビライ帝が見守る中、制裁は行われた。
既に日本の対馬・壱岐には征東行省右丞相・アラカンの占領軍がねじ込まれている。
「アラ、コマしたれ」
皇帝がいうと、アラカンは東路軍軍船900隻の横から一軍を取り出した。
ゆうに一万はあろうかという巨大な戦力に、日本はぶるっと震えた。
しかし、その恐怖とは裏腹に、いや、日本にとってはその恐怖こそが
攘夷欲を沸き立たせるものだったのかもしれない。
日本の日本刀のような小振りの一軍は痛い程にいきり立っていた。
その「日本刀」の前哨を東路軍司令官・征東都元帥・忻都唇がちゅるんと器用に殲滅する
高麗軍司令官・征東都元帥・金方慶の脳中に鉄錆臭が広がる。
そして、東路軍司令官・征東都元帥・忻都の東路軍軍船が
博多湾にねじり込まれていく・…
2個軍総兵力10万を越えるド迫力の侵攻戦。
まだ、幕が開いたにすぎない。
戦争は、ここから始まる。元寇はまだ終わらない…

67 :世界@名無史さん:04/05/22 14:02
プロ市民だとかわけのわからん被害妄想に陥ってる馬鹿右翼は
「遊牧民から見た世界史」って本を読んでみろ

68 :世界@名無史さん:04/05/22 14:03
蒙古襲来を軍事的に語る
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1084109929/


69 :世界@名無史さん:04/05/22 14:52
まあ、足場の悪い土地でしかも障害が設けられてる場所でイングランド軍や日本の武士団相手にしたら負けるけどね。

70 :世界@名無史さん:04/05/22 14:55
歴史学は左翼が学閥を形成していて彼らの逆鱗に触れると
出世できないそうで。
だから元寇の記述も日本悪玉説がまかり通る。

71 :世界@名無史さん:04/05/22 15:08
基本的に史書も読まずにイメージだけで語る人が多いからね。

72 :世界@名無史さん:04/05/22 15:40
鷹島や対馬で大虐殺が行われているんだけどね。
モンゴル厨は北条が「悪い」と日本が悪い説を展開。
そんなにさぁ、モンゴルが好きなら移住汁

73 :世界@名無史さん:04/05/22 15:48
要するに、史書をこねくりまわして
「日本の対応が悪かった。外向的にうまく立ち回れば元寇はなかった。元に侵攻の意図はなかった」
って言いたいんだろうけどさぁ。

中華思想というか華夷秩序に急速に染まっていっていた元に、今日的な「台頭の外交関係」ってのは
あり得ないだろう。要は穏便に朝貢してくりゃ許すぞって事で。


これ受け入れていたら、武士の台頭とか幕府の成立とかを根本的に否定するものだろうよ。

74 :世界@名無史さん:04/05/22 15:49
×台頭の外交関係
○対等の外交関係

75 :世界@名無史さん:04/05/22 15:54
っていうかモンゴルって通商結んだ後に難癖つけて侵略して
降伏しようがカリフのように惨殺してる。
俺は降伏していりゃ命助かったと主張する奴って信用できないと思う。
戦いの時にこんなこと言う奴って敵のスパイそのものの言論じゃん。
日本なんか侵攻されたところ皆殺しだぞ?容赦ないぞ?
天皇や公家から武士にいたるまで皆殺しの宴。
まあ日本嫌いな左翼史家には大歓迎なんだろうけどな。

76 :世界@名無史さん:04/05/22 15:54
他方、世祖忽必裂は度重なる牒書無視を激怒して日本遠征を固め
高麗に軍船建造を命じ戦備を進めた。新建造九百隻、軍勢二万が
折都(蒙人)を都元師(総司令官)として対馬の国府(厳原)に押し寄
せたのは文永十一年十月五日早暁であった。対馬の地頭、宗国助は
郎党八十余騎を率いて佐須浦に馳せ向かい、上陸の元軍一千余と
果敢に戦い、激戦数刻、国助と子息ら十余名が討死し他は敗走した。
元軍は佐須浦の民家を焼き払い、やがて対馬全島を制圧した。
次いで元軍は壱岐を襲い、守護代平景隆が御家人百余騎で戦ったが
衆寡敵せず全滅した。やがて元軍は松浦沿岸の島々を侵し、松浦党の
武士数百人が戦死した。時の鷹島守護代、鷹島満の一族郎党も悉く
討死している島々の百姓漁民、老若男女すべて虐殺されたと伝えられ
ている。戦場では殺戮、凌辱の荒々しさをほしいままにした蒙軍、住民
残滅に容赦はなかった。

77 :世界@名無史さん:04/05/22 15:55
日本国王源道義

78 :世界@名無史さん:04/05/22 15:56
19 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:19 ID:lL1Hu9Ea
対馬での虐殺行為は余りにもひどい。住民は皆殺しにされて、女は手に穴を開けられ全員拉致された。
しかもこの残虐行為を行ったのは蒙古兵だけでなく高麗兵も多数含まれていたらしい。



79 :世界@名無史さん:04/05/22 16:02
>>45
北条氏がモンゴルの使者を斬ったこと

蒙古の蛮賊共は、もともと侵略を企てていた。
杜世忠以下の元の使節を鎌倉竜ノ口で斬ったのは建治元年(1275年)である。
すなわち「文永の役」の後である。

「きっかけ」などというが、北条時宗に元寇の非を求めるのであろうか。
時宗は明治37年5月18日(没後720年)、
明治天皇から従一位を追贈されている。
蛮賊共の使者を血祭りに上げ防塁を築いた時宗の気概と果断と周到な国防策のもと、
日本中が上下一致して国難を撃退したことに思いを馳せるべきである。

80 :世界@名無史さん:04/05/22 16:22
>>73
違う、違う。そういう意味ではないよ。
日本の対応が悪かったことはともかく、一度目(一二七四年)の文安の役では確かに元には侵攻の意図は
無かったと思われる。兵力も小手調べ程度の少数で攻め寄せた挙句、撃退されているのだからね。
二度目(一二八一年)の弘安の役では、それなりの兵力・兵站・内偵情報を基に戦略が練られている。結局、
熾烈な抵抗を受け、兵站が尽きて戦闘自体は敗れている。(この時は農耕具や種籾も持ってきていた)

対等な外交関係というのは(真意はともあれ)あり得ないと私も思う。ただ、攻めずに済むならその方が良い。
元としては「要は穏便に朝貢すれば許す」というか「南宋との外交交易」を封鎖したかったわけだろう。
その目的さえ果たしてしまえば良いのだから、元寇にて日本侵攻が失敗したとしても問題はないということ。

幕府としても、その段階では最善と思える手は打っただろう。(後世から見れば対応が悪いと見えるだろうが)
ただ、史実として記録されていることを捻じ曲げてまで虚偽を貫くことは出来ないと言いたいだけ。
私だって日本という国が好きだし、モンゴルが正義というつもりは毛頭ない。
出来る限り先入観を排除した事実を模索したいだけなんだよ。

>>78
そういう記述のある史書を私が見たことがない。できれば正確なソースを教えて欲しい。

>>79
北条氏に非を求めているわけではない。(使者を斬ってしまったのは明らかに拙い対応だとは思うが)
日本を守ろうとする気概にも、当然の事ながら賛意を示したい。
私が憤りを感じるのは「それを背景に史実として記述されてもいないことを事実と吹聴する輩」だ。

81 :世界@名無史さん:04/05/22 16:31
32 名前:赤色大元帥 投稿日:04/05/09 23:28 ID:???
>>78
そういう記述のある史書を私が見たことがない。できれば正確なソースを教えて欲しい。

>>30
有名な話ですよ、文章しか無いけど、ググればすぐに見つかります。
たとえば、こことか。

ttp://www1.cts.ne.jp/〜fleet7/Museum/Muse036.html
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/


33 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:29 ID:???
日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇に書いてある
ただし日蓮のことだから故意に誇張してる可能性はあるな


82 :79:04/05/22 16:32
>>80
ついでに補足させて頂きたい。

>蛮族共の使者を血祭りに上げ〜
ここら辺が既に先入観の入り混じった意見なんだよ。単純に「使者を斬った」で良い。
私は自分が日本人であるということは一時忘れ、双方の国の取った方策に対して同じ目で物事を見たい。
これを忘れてしまうと「神風で勝った」だの何だのと馬鹿馬鹿しいことこの上ないことを言い出す羽目になるからね。

>>81
ありがとう。早速、参考にさせて頂くよ。

83 :世界@名無史さん:04/05/22 16:33
蒙古襲来を軍事的に語る
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1084109929/

こっから引用
文句は軍事板にいえ。
なんなら乗り込んでこいよw

84 :世界@名無史さん:04/05/22 16:36
このスレには極東板、軍事板、ゴヴァ板の住民がウヨウヨいる予感

85 :世界@名無史さん:04/05/22 16:39
>>80
元の日本侵略の意識は強いよ。
2度の南方侵攻ルートが失敗に終わると蝦夷方面から進入しようとして
アイヌの軍勢と激戦を何度もやっているが。
そもそもジャワ遠征など海戦も何度もやっていることから考えて
モンゴル族の征服欲はすさまじいの一言。
あいつらあきらめないじゃん。

86 :79:04/05/22 16:52
>>81
調べてみた。確かに高麗史にも「童男女二百人」を高句麗王と妃に献上した、とあるね。
個人的には現実的に考えてこういった行為が行われたどうかは、かなり怪しいと思うが…。

>>85
事実、弘安の役以後はかなり侵略意識は強かったと思う。後年になるほど領土獲得のために兵を送っている。
この辺りになると元以前のモンゴル帝国成立当初の緻密な計画性は陰を潜めてきている。(統制が取れていない)

87 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/22 16:55
蒙古側の残虐行為についてですが、『八幡愚童訓』甲本の巻下に、弘安の役
での東路軍の行動について次のような事が記されています。
「・・・壱岐・対馬より上り、見る者をば打殺す。人民堪難て、妻子を引具し深山
へ逃入処に、赤子の泣声を聞付ても押寄ければ、片時の命も惜ければ にや、
褊愛する緑子を我と泣々害しつつ、
世の中に 最惜き物は 子也けり 其に増るは 我身也けり
と詠じける、人の愛ぞ思出らるる。」
文永の役の時には特に記されていません。また少なくともこれから6年後には
壱岐の政治機構は機能しているので、皆殺しにするほど苛烈なものであっのか
どうか。『八幡愚童訓』が書かれたのは14世紀の初めですが、中には八幡神
の威光を強調するために大袈裟に書かれたのではないかと思える節もある。
(日蓮の著作についてもこれは同じ。手に穴云々も彼の話じゃなかったかと。)
なお蒙古軍が弘安の役において農具などを持参していた事が書かれているの
も本書です。

88 :79:04/05/22 16:57
>>86
訂正。現実的に考えて「手のひらに穴を開け」云々、という行為が疑わしいという意味合いね。
日蓮註画讃では元服前の男子は即座に殺した、という記述も見られるが、それでは高麗史の記述と矛盾する。

>>87
その通り。私もそれが引っかかっている。明らかに行為の割には実際の損害が軽微に思えてしまう。

89 :世界@名無史さん:04/05/22 17:00
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/wakou.html
嫌韓厨のHPだけど、

また、元寇の時代に高麗の王世子・椹(後の忠烈王)も「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」
「王師を小助せん」

とフビライを唆している。

そして、高麗軍は 「二島百姓等、男はあるいは殺あるいは虜、
女は一所に集め、手を徹、舷に結付、虜の者は一人も害さざるなし。
肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し」

(『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』)

つまり
・男は殺害、女は集められて手の平に穴を
開けられて縄を通され船縁に吊るされた。
・200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上させられる。

とあるな。嫌韓を割り引いてかんがえなきゃならんのは確かだけど




90 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/22 17:00
>>85
樺太アイヌとの衝突はまた別の問題です。当時の地理観が、現在のように日本
列島の位置や形状を正確に捉えたものであったかどうか怪しい。
当時のものが確認出来ない『行基図』を除けば、日本で日本列島の全体図が描かれ
るようになるのがこの「元寇」の後ですから。
しかもそれを参考に高麗や明で製作された地図では日本列島が南向きに描かれ
ている。当時の日本地図が西を上に描かれていたのを北を上に描かれたものと
見誤ったため。

91 :Ryuju ◆RlujhF6VrA :04/05/22 17:02
>80
というか、戦争の翌年に使者送ってくる時点で、意図を疑われても仕方ないと思うんだが。
自分が勝ってればいいが、一応撃退されて負けたことになってるんだから。
そういう状況からして、まだ日本と元は戦争状態にあったと
見るべきであって、そこに使者が行って無事に帰って来れると思ってたとしたら
ちょっと元も見通しが甘いんでないかと。

会わずに斬ったのは少々まずいと思うが、使者の言葉や持参した手紙の文面次第では、
遅かれ早かれ目的を疑われて斬られても仕方ない状況だったろう。


92 :世界@名無史さん:04/05/22 17:02
>>87
民俗関係の本を見たときにわらべ歌や子守唄などでモンゴルの脅威を伝えた
ものがはるばる津軽まで分布しているという話を見た覚えがある。

93 :世界@名無史さん:04/05/22 17:05
>>90
つまりこういうことでしょうか?
モンゴルないしそれに属する大陸の諸民族の将軍や首脳陣は
樺太、蝦夷との交戦は北方からの鎌倉幕府討伐を意図した可能性は
薄く、そもそも同じ日本列島上の勢力と認識していかどうか怪しいと
いうことですか?

94 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/22 17:07
>>92
うーん、どうなんでしょうかね。何時ごろ出来た歌なのかどうか、民俗例と
して採集されたものだけからは分かりませんから。
「モクリコクリ」という妖怪の名称もあってこれを蒙古に繋げた伝承もあり
ますが、こちらも元々は無関係。

95 :世界@名無史さん:04/05/22 17:09
フビライってマルコポーロも知っていたように「黄金の国伝説」を聞いて
侵略を決意したんじゃないのかな

96 :79:04/05/22 17:12
>>91
見通しが甘いことには同意。だが元側に「敗北した」という意識があったかどうかは疑わしい。
前にも述べたように「吸収した南宋・高麗水軍を差し向けただけの小競り合い」という意識が強かったのではないかと思う。
兵を差し向けたことで態度を軟化させるという算段の下で使者を送り出したが、強硬な態度で斬って捨てられたと元の方では
受け取ったのではないだろうか。それならば弘安の役にて兵力を増強し、農耕具や種籾を積んだという記述にも頷ける。

>>92
おそらく「沙汰未練書」かと。ムクリコクリ(ムクリ=蒙古=元、コクリ=高句麗)としての記述がある。
ここから発祥したものが童歌や子守唄として流布されたのではないだろうか。

97 :世界@名無史さん:04/05/22 17:16
しかし吸収した敵軍を先発隊として起用し、その後に本隊を投入するのは
モンゴル帝国の常套手段だと思う。

第1次で敵戦力を図り第2次が本命だとは規定路線だったのではないか
使者切られたのは1、2次の間だし降伏を進めたのでないか
そりゃ切られると思うし、南宋や高麗からの亡命者から蒙古の手法を
執権はじめとして知悉していないとはおもえないし。

98 :世界@名無史さん:04/05/22 17:17
>>95
残念ながら、元は日本の内情を実に詳細に把握しているよ。噂話程度の情報を基に動いたわけではない。
使者として赴いた趙良弼が五ヶ月という期間を費やして当時の日本の地勢などを詳細に記録して本国に帰還している。
「元張百戸墓碑銘」によれば元というよりも高麗王家と、その諸軍団が熱心に日本侵攻を画策していることも分かるし。

99 :世界@名無史さん:04/05/22 17:23
>>98
それは2度の役以前の報告ですか?
もしそうなら、幕府の返事がどうであろうと結局は侵攻を決意して
いたのではないかと考えます。

100 :世界@名無史さん:04/05/22 17:25
http://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/histo2.html

(1)菅原長成が起草した返書草案を見るに、朝廷は恫喝(威圧)を感じ取っていたようである。
「兵を用いるに至っては、夫れ孰か好む所ならん」という文言は見せかけではなく、朝鮮南岸の金州に屯田兵を進駐している。
『元史』日本伝を見るに、日本側は屯田兵の存在を気にしている。異国警固番役を本格的に実施する一方で、「蒙古は攻めてくるのではないか」と蒙古使・趙良弼に言った。
だから趙良弼は、高麗へ帰った後、これら屯田兵を移転して日本を刺激しないよう進言した。
この進言は聞き入れられず、大宰府が独自に派遣した使者には「耽羅の三別抄への防備として仮に設置しただけ」と説明した。
この説明は、むろん本音ではない。耽羅は朝鮮半島の西南にあり、金州は半島の東南(つまり日本寄り)にある。三別抄の乱が鎮圧された後も、屯田兵は解散されなかった。

101 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/22 17:28
>>93
そういう事です。
>>98
二行目は『八幡愚童訓』にもある話ですね。なお文永の役の三年前、宮中の
女官たちのところへやたらと「唐人商人」たちが通っていたという記録
があります。
大食人(アラビア人)も来日していた可能性があるあの時代、深くとる
必要は無いかもしれませんが、不気味な話ではある。
もっとも既に述べさせて頂いた通り、日本側も商船から情報収集をして
いた様です。高麗に密偵を送っていたともいいますが、こちらは不確か
な話。

102 :世界@名無史さん:04/05/22 17:30
鎌倉竜ノ口で切られた使者の中に大食人がいたと思う。


103 :79:04/05/22 17:32
>>99
無論。正確には二度目の使者来訪の際。
態度をなかなか明らかにしない鎌倉幕府側に対し、高麗の者ではない使者(趙良弼)を立てて意向を窺っている。
そもそも、外交の使者を立てる時点で関心が向いているということなのだから、裏で兵を動かす算段を立てて動くのは
至極当然なことかと。ただし、幕府の返事がどうあろうとも侵攻を行う決意をしていた、というのは些か疑問だね。
その時点での元としては南宋との関係を断ち切らせることが目的なのだから。(侵攻そのものが目的ではない)

これの目的が封鎖から侵攻へと引っくり返るのが弘安の役以降。使者が斬られて面子を潰された元としては、余剰な
兵力を注ぎ込むだけの価値があると踏んだのだろう。主に高麗が算段を立て、二度目の元寇へと繋がった。

104 :世界@名無史さん:04/05/22 17:36
というか高麗はなんで日本侵攻をさかんに進めたのだろう。
兵を派遣させられるのは自分らなのに。

105 :79:04/05/22 17:44
>>104
私個人としての私見を言わせて頂けるなら、元国と日本の二面に兵を置く必要があったからではないかと。
更に日本を自領とすることで元支配からの脱却も狙えると目論んだのではないだろうか。後顧の憂いを絶つと同時に
功を立てることで、もしかしたら新たな内政基盤(侵略後の日本領)を譲り受けることが出来るかもしれない、とね。
無論、そんなことは元も承知済み。反乱の芽を生かさず殺さず放置するために本国から兵を動かさずに静観している。
つまり、支配からの脱却のために躍起になって計画を練る高麗、それを傍観している元という構図が成り立つ。

106 :世界@名無史さん:04/05/22 17:48
高麗の例のように服属国が積極的に他国に侵攻した例はあるんですか?
元だけでなく各ウルスで。

107 :ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/22 22:07
そもそもみんなが口にしている「限定的侵攻」の定義自体が不明確。これをはっきりさせないと
議論がまとまらない。


軍事が政治の道具であるのは明らか、つまり軍事侵攻は政治的意図の下位に属する
のだから、限定的という言葉を使う場合にはそれが軍事分野なのか政治分野なのかを
明白にする必要がある。

軍事的な観点なら「限定的な目標に対する攻撃」といった方がより正確だろうね。その
軍事的成果をどのように運用するのか、すなわちそれにより「日本を完全に政治的に隷属
させる」のか「南宋との分断のみを目指すのか」という風に語るべき。


個人的には一回目は「限定的侵攻により政治的に隷属させる」のが目的であり、2回目は
「恒久的な実効支配により政治的に屈服させる」のが目的だと思っている。

108 :79:04/05/22 22:45
>>107
限定的侵攻、という言葉がスレ内で用いられたことはないが。

既に述べているように第一回目(文永の役)では当面の目的は「南宋との分断」だろうことは予想が付く。兵力的にも
本腰を入れていたとは思えず、実にアッサリと引き揚げている。(当時の日本の文献には「嵐」の文字すら出てこない)
おそらく南宋との分断が上位目的であり、その上で政治的隷属を呑ませること自体は下位目的だったのだろう。
もちろん、使者を立てて要求が呑まれれば日本・南宋分断は果たされ、無駄な兵力を費やす必要がない。断れば、
実際に脅迫の意味合いで派兵すれば良い。この辺りは実にドライでシステマティックな戦略観だと言える。

第二回目(弘安の役)では「実質的な恒久支配」が目的。ただし、元国自体は本腰は入れておらず、余剰分の高麗・
南宋兵力を主に注ぎ込んでいることから「攻め落とせれば上々、負けて元々」と考えたのではないだろうか。
元としては吸収したばかりの余剰兵力を高麗から削ぎ、反乱の機会を摘んでしまうことの方が重要なのだから。
遠海に位置する敵対勢力の兵力は、そのまま海上に封鎖する。傀儡の高麗と睨み合わせておけば良い。このような
戦略意図があったのではないかというのが、私の愚考だが如何だろうか。

何かおかしな部分があれば、是非ご指摘頂きたく。

109 :世界@名無史さん:04/05/22 23:24
しかし日本も情勢次第では、朝廷が幕府に対抗するためにモンゴルと結びつくみたいな
高麗と同じようなパターンになってたかも知れんな。

110 :ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/22 23:29
>108
時間がないので手短に。

一点目
そのものズバリの言葉では使っていないが、内容的には明らかにその事を
指しているので{限定的侵攻」という言葉を使った。

二点目
戦争開始の意志決定において何が重要な要素だったかを推定だけで導き
出すのは危険。というか、推定すること自体はかまわないが、それを基に
下位構造を考察すると視野がゆがむ。

三点目
兵力的に本腰を入れていない、と考察した意図が不明。史実上・文献上で
元が侵攻に失敗したこと、1回目においては兵站上の問題が表面化した
ことはほぼ事実と考えられるが、それが「予定通り」なのか「予定が狂った」
のかを判断する材料は無い。

四点目
政治的な目標を達成するために、具体的には「どの程度の軍事的成果が必要」
だったのか、そこが抜けると話が大きく狂うもととなる。

111 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 09:19
>109
それは無いでしょう。天皇は外国人と直接対面してはならないという醍醐天皇
以来の禁忌が存在した上、貴族たちの間には摂関期以来、外国人に対する根
強 い忌避感が存在していましたから。
刀伊の入寇のあった頃から、外国へ行く事・外国から来る事自体を嫌っていたよ
うです。支那相手には対等であろうとする、それ以外の文化圏に対しては対等以
上であろうとする感覚が強くあった。
なお面白いのは、『八幡愚童訓』甲本に「蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔、な
んで敗れる事があろうか」と書いてある事。蒼き狼云々の話を連想させます。
余談ながら、ここでいう神とは本地垂迹説に基づいた中世の仏教的な明神の事
で、純粋な「神道」の神ではありません。
それでも神々の子孫であるという事が、天皇家や藤原氏の権威を支えていた事
は間違いありませんが。

112 :世界@名無史さん:04/05/23 10:52
>>101
元朝前後では「大食人」という言葉はアラブ系とイラン系の両方使われてたんでしょうか?

中国でのムスリムの活動圏は大きく分けると華北と華南方面の海岸部の二つに分かれますが、
もし華北方面で「大食人」というのであれば、9割以上の確率でホラーサーンやマーワラーアンナフル方面のイラン系ムスリムだそうですね。

と、いうのも当時10世紀くらいからメソポタミア以東の東方イスラーム世界で、「ターズィークorタージーク」と言った場合、
おおよそイラン・中央アジアのペルシア語を話す都市住民たちのことを指していたようですので。

113 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 11:10
>>112
まず江南方面からの渡来でしょう。鎌倉の大食僧(仏教)のために庭園を整備
した。さぞかしお喜びになられる事であろう・・・という記録があります。
蘭渓道隆や無学祖元については今更申し上げるまでもありますまい。

114 :世界@名無史さん:04/05/23 11:24
>>106
モンゴル政権において対外侵攻は、ウルスの頂点であるモンゴル王家のみならずウルス全体の経営に関わるため、
王家主宰のクリルタイ(全族総会)やトイ(宴会)でその指針や詳細が決定されるのが常でした。
なので、モンゴル帝国or大元朝の属国であった高麗が、皇帝クビライや東方諸王家の認可無しに独断で他領土を侵攻する、
という話は、皇帝クビライを頂点とするをモンゴル王家の権威を大きく損ねることになるので、にわかには首肯しがたいところです。

大元朝の属国支配がどうだったかは中国史が専門ではないので、全く存じ上げませんが、
少なくともチンギス・ハン以来の中央アジアのモンゴル支配をみると、
散発的な劫掠活動とは違う、他領土侵攻という国家の大事をクリルタイ無しで決行されることはまず考えられません。



115 :世界@名無史さん:04/05/23 12:09
元寇の兵士ってほとんど中国人か朝鮮人だろ

116 :世界@名無史さん:04/05/23 12:48
蒙古襲来を軍事的に語る
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1084109929/


23 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:21 ID:???
>>20
対馬での虐殺を知らないとはソートーな馬鹿だなw


24 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:22 ID:???
うん馬鹿だからわかるように教えてくれたまえ。


25 名前:赤色大元帥 投稿日:04/05/09 23:22 ID:???
モンゴルは敵対する勢力には容赦ないですからな・・・。


30 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:25 ID:???
ねだあかあらあソースはああ??


32 名前:赤色大元帥 投稿日:04/05/09 23:28 ID:???
>>30
有名な話ですよ、文章しか無いけど、ググればすぐに見つかります。
たとえば、こことか。

ttp://www1.cts.ne.jp/〜fleet7/Museum/Muse036.html
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/

117 :世界@名無史さん:04/05/23 12:48
>>113
レスどうもです。なるほど、江南も泉州でホラズム・シャー朝の親族の墓碑が発見されてますから
「大食」というだけではアラブ系かイラン系かはちょっとわかりませんね。

モンゴル帝国歴代のムスリム勢力は、例えば財務長官アフマドとか雲南のサイイド・アジャッル・ブハーリーのような
ホラーサーン・マーワラーアンナフル出身のイラン系勢力が主体でしたので、「大食」
がどのような所の出身の人物だったかは気になります。

禅僧の招聘問題ですが、金朝や大元朝への留学僧を考えると
ウイグル王国や金朝でわずかにソグド系の末裔が仏教信仰を保持していたらしいので、
鎌倉にやってきたことで有名なその大食僧も、あるいは江南ではなくてウイグル王国か金朝の出身だったかもしれません。憶測ですが(w

118 :世界@名無史さん:04/05/23 12:50
71 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/22 15:08
基本的に史書も読まずにイメージだけで語る人が多いからね。

83 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/22 16:33
蒙古襲来を軍事的に語る
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1084109929/

こっから引用
文句は軍事板にいえ。
なんなら乗り込んでこいよw

119 :世界@名無史さん:04/05/23 12:52
87 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/05/22 16:55
蒙古側の残虐行為についてですが、『八幡愚童訓』甲本の巻下に、弘安の役
での東路軍の行動について次のような事が記されています。
「・・・壱岐・対馬より上り、見る者をば打殺す。人民堪難て、妻子を引具し深山
へ逃入処に、赤子の泣声を聞付ても押寄ければ、片時の命も惜ければ にや、
褊愛する緑子を我と泣々害しつつ、
世の中に 最惜き物は 子也けり 其に増るは 我身也けり
と詠じける、人の愛ぞ思出らるる。」
文永の役の時には特に記されていません。また少なくともこれから6年後には
壱岐の政治機構は機能しているので、皆殺しにするほど苛烈なものであっのか
どうか。『八幡愚童訓』が書かれたのは14世紀の初めですが、中には八幡神
の威光を強調するために大袈裟に書かれたのではないかと思える節もある。
(日蓮の著作についてもこれは同じ。手に穴云々も彼の話じゃなかったかと。)
なお蒙古軍が弘安の役において農具などを持参していた事が書かれているの
も本書です。

プッ山野の一言で全面否定されてやんの。
軍事板ってたいしたことないのー
なぁーにが
32 名前:赤色大元帥 投稿日:04/05/09 23:28 ID:???
>>30
有名な話ですよ、文章しか無いけど、ググればすぐに見つかります。
たとえば、こことか。

だ。
バカジャネーノ?

120 :世界@名無史さん:04/05/23 12:54
34 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:30 ID:???
ソース厨瞬殺だなw


35 名前:名無し三等兵 投稿日:04/05/09 23:34 ID:???
ねっねっもっと信憑性のあるソースないの?

ソース厨とやらでてこいや〜
このスレもみてんだろ。オラオラ

121 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 12:58
>>117
ただ当時華北との交易がどの程度まで存在したのかという気はします。
出羽などを中心に行われていた可能性が高い(ガラス玉などが出土している)
ですが、承久の乱の翌々年に漂着した高麗船から押収された札が何かは幕府
には分かりませんでした。
最近になって大陸で『吾妻鏡』に描かれていたものと同じものが出土して判明し
たところによれ、遼や金が発行していた通行許可証であったらしい。
高麗や南宋との交易はともかく、北東アジア方面とはほとんど縁が無かった
ようです。勿論江南に移住したイラン系だったのかもしれませんが。
ところで、
>金朝や大元朝への留学僧を考えると
金朝への留学僧というのはどんな人々がいたのでしょうか。どうも宋へ渡っ
た人ばかりが思い浮かんでしまって・・・。

122 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 13:07
>119を見て
日蓮の記述についてですが、彼も「国難」について述べていた以上、大袈裟
な記録を残している可能性はかなり高いと言えます。真言律宗の忍性らを批
判する余り、「人肉を食べている」とまで言っていましたから。
(でもあの時代における日蓮の思想までを否定する気にはなれないんですけ
どね。自らを「海人の子」と称して庶民の間に分け入った気概もあった。)
彼の予想では経典に説かれていた通り、誤った仏法を奉じていた日本を国難
が襲い、土壇場で『法華経』を奉じる事でそれから救われる筈でした。
ところが元軍は予想していたよりも遥かにあっさり撤退してしまい、しかも
弘安の役における「神風」を吹かせたのは自分が否定していた叡尊の功績だ
という風評も立ち、かなり耐え難いものがあったらしい。
そんな訳でこれより後、日蓮にとって「元寇」は「黒歴史」化してしまって
いたようです。
清水義範氏の小説に、「神風の吹かなかった未来の日本の日蓮宗信者が元寇
を起こさせて勢力拡大を図る(どうも正宗ではなく某学会くさいのですが)」
という話がありましたが、どちらにせよ無駄でしたね。

123 :世界@名無史さん:04/05/23 13:19
>>115
モンゴル政権では、軍事行動の最終決定権は、そのウルスを束ねるモンゴル王家の首長(ハン)が保持しています。
「元寇」の名にあるように、「文永の役」も「弘安の役」もモンゴル皇帝(カアン)クビライの聖勅(ヤルリグ)の発令に基づいたもので、
その顛末は『元史』の記述通り大元朝の首長でありかつモンゴル皇帝であるクビライの命令によるもので、
二つの戦役は少なくともトルイ王家の所領を相続したと主張する皇帝クビライの正統的な行為です。

チンギス・ハン以来の中央アジア戦役の例からも分かる通り、征服地で接収されたあらゆる軍事力は、基本的に征服にあたったモンゴル王家の首長に統帥権がありますから、
動員された人員が中国系であっても朝鮮系であっても、その動員&派遣命令を出した人物で最終的な発令者はクビライ以外ありません。

124 :世界@名無史さん:04/05/23 13:53
>>121
中国史が専門でないので全くの又聞きになって申し訳ないですが、
河南の少林寺を始めとする華北の禅寺にも、遼金時代に直接・あるいは南宋経由で留学僧が往還していたらしいと聞いたことがあります。

特に少林寺は皇帝モンケ以降、大元朝のクビライ以下モンゴル皇帝の多大な後援を受けたようで、
華北の禅寺への留学はモンゴル時代以降飛躍的に伸びたらしいと。

ただ、遼金時代史じたいがまだ未解明なものが多くて、留学僧の旅行記の類で遼金時代にも禅寺を中心に華北へ人が行っていたらしいことがわかった程度だそうです。

華北には他に浄土教の祖地・玄中寺などがあるので、そちらのほうもあったやに聞くのですが・・・
遼金史か中世仏教史に詳しい方詳細を請う、な状態です(汗

125 :世界@名無史さん:04/05/23 16:43
>>108
文永の役は「南宋との分断」との説に疑問を感じます。
南宋の孤立を目的とするならば、フビライの南宋再侵攻の前、1268年以前に文永の役
をしなければ、分断の効果が南宋侵攻に生かされないと考えます。文永の役(1274年)の時点で主要な
軍事・交通の要衝襄陽・はん城は既に陥落してます。その後南宋は戦意の低下から自壊し始めています。
軍事的には「征服の目途」が付いた状態で「南宋との分断」などという目的の軍事行動を起こすでしょうか?
先のモンケの時代の南宋侵攻は完全な南宋包囲を行ってます。それに比較するとフビライは先の
ような包囲を取ってはいません。その様な策を取らなくても軍事的には充分制圧可能と、
判断したからではないでしょうか?これは言い換えれば「南宋は弱い」とフビライが認識
している事を意味します。
「南宋との分断」という目的の軍事行動を取るとしたら、政治・軍事的効果から考えると
南宋侵攻の前段階において日本侵攻を行い南宋の孤立感を高め、抗戦意思を挫く。
軍事的には海路による侵攻を南宋に印象付け、襄陽方面への兵力の集中・増援を妨げる。
と考える方が目的に沿った行動ではないでしょうか?

126 :世界@名無史さん:04/05/23 16:50
横レスだけど、南宋の孤立化って相当入念にやっているね。
フビライがカーンになる以前。モンケ時代から大理国を滅ぼして
周辺から外堀埋めていることも考慮するべきかと。

127 :世界@名無史さん:04/05/23 16:50
あと南詔国。

128 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 18:35
>>124
成る程、ありがとうございます。一応中世仏教史もやっているつもりだった
のですが、何せ普段調べている事とは勝手が違いまして・・・。

129 :世界@名無史さん:04/05/23 22:41
>>126
大理国は友好国ではなかったかえ?

130 :世界@名無史さん:04/05/24 01:03
>>129
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/dairikoku.html

131 :世界@名無史さん:04/05/24 03:21
板移転に気が付くのが遅れて申し訳ない。

>>125
・軍事的には「征服の目途」が付いた状態で「南宋との分断」などという目的の軍事行為を起こしたのは何故か
・南宋と日本を分断するならば南宋侵攻以前に文永の役を起こした方が有利・戦略的価値も高いではないか
貴方の指摘は大いに頷ける部分が多い。実に卓越した指摘だ。
しかし、これらの指摘点に対する反証も挙げることは出来る。

1273年に襄陽・ハン城陥落後、フビライは一年をかけて南宋への全面侵攻を計画している。
同年、ヒンドゥを総司令官とする高麗駐留モンゴル軍団が諸隊を展開・動員して耽羅を攻撃、敵対する三別抄
撃滅を果たして朝鮮半島の周辺海域全域を手中に収めることに成功している。
耽羅は日本・南宋両面への玄関口であると同時に、中央部には高原状の草原が広がる地勢を有した絶好の
放牧地を有する。海上軍事拠点には格好の地勢とも言えるね。
このとき、モンゴル進駐軍は半島の西南海上に点々と連なる黒山諸島に調査船を幾度も送っていることにも
注目しなければならない。無論、日本遠征に対する探査の意味合いもあったろうが、諸島を経由して南下を
果たせば直ちに南宋の心臓部、長江下流域に到達することも出来ることも見逃せない事実だ。

つまり、前者の指摘に対しては「威力偵察を行うだけで南宋の退路を断つことが出来る」。後者の指摘には、
「対日本・対南宋を同時進行で戦略を進めていたため」と反証を立てることも可能。南宋軍の海上展開を防ぐ
目的を達成すれば良いだけであり、日本に執着して海軍力と海上支配権を失う危険を冒す必要はない。
無論、同時期に日本に兵を送ることで南宋の孤立感を煽り抗戦意思を挫くという課題目標も達せられる。

以上が私の見解であるが、如何だろうか。

132 :世界@名無史さん:04/05/24 10:56
>>87
>また少なくともこれから6年後には
壱岐の政治機構は機能しているので、

『八幡愚童訓』甲本とは、日本思想大系所収の菊大路本のことでしょうか。


(文明本と並んで古い伝本に属する)『八幡愚童記』正応本には、以下のようにあります。

--↓引用

また弘安四年。五月二十一日。蒙古の賊船おそひ来たる。
こたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵を駆具して。凡三千余艘の大船に。十七八万の大衆のりつれてそ来ける。
其中に高麗の兵船四五百艘。
壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせき(狼藉)す。
国民ささへかねて。妻子を引具し深山に逃かくれにけり。
さるに赤子の泣こゑを聞つけて。捜りもとめて捕けり。
さりけれは片時の命ををしむ世のならひ。愛する児をさしころして。にけ隠れするあさましきありさまなり。
此高麗の賊捕へきはととりて。宗像の沖にこきよす。
蒙古大唐の船ともは対馬にはよらず壱岐島につく。されともらうせき(狼藉)はせす。

--↑ここまで
正応本を見る限り、壱岐では苛烈な残虐行為は行われなかったようです。


133 :世界@名無史さん:04/05/24 15:25
モンゴルといえば1930年代にブリヤート人を日本のスパイとして
大虐殺したらしい。
モンゴルの文学者エルデネがその事件を小説にしているそうだ。

134 :世界@名無史さん:04/05/24 16:07
>>133
1930年〜40年代にかけてスターリン政権下において、非常に風貌が日本人に似ているブリヤート人は
「日本のスパイ」という嫌疑をかけられ、数万人単位で当時のソビエト連邦に連行・殺害されているね。
1991年、彼らはブリヤート共和国として独立を果たし、翌1993年以降から当時の事件に関して口を開く
人々が増えてきたという背景がある。

135 :134:04/05/24 16:09
失礼、訂正させて頂きたい。正確には1920年代〜1940年代の出来事であったとされている。

136 :世界@名無史さん:04/05/24 16:17
ギネス災害記録によると、人類史上最大の大量虐殺は

モンゴル人による中国農民虐殺(1311-40)で約3500万人だとか。

大量破壊兵器もなかった時代によくも殺したものである。


137 :世界@名無史さん:04/05/24 16:29
>>136
中国史書の記録かな。いずれにせよインチキ臭い。

138 :世界@名無史さん:04/05/24 16:31
>>136-137
ttp://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199608.html

これだね。他の資料で確認されない記録も含んでいるから正確な数字だから。
最も多い数字(誇張記述の疑いがある資料でも可)を採用した場合の数字です。
(他の史書と照らし合わして確認可能な数字だと、おそらく数字は激減するかと)

139 :世界@名無史さん:04/05/24 16:32
>>134
チンギスハーンを称えたモンゴル政府高官がソ連に連行されて
処刑された事件があった記憶があるが、だれだったっけ?

140 :世界@名無史さん:04/05/24 16:33
×他の資料で確認されない記録も含んでいるから正確な数字だから。
○他の資料で確認されない記録も含んでいる不正確な数字だから。

申し訳ない、訂正させて下さい。(さっきから何やってんだ、俺…)

141 :世界@名無史さん:04/05/24 16:44
フォーマルな場でないしカナ表記や細かな日本語表記のミスは
スルーで良いと思うが。
自由な発言が2chの持ち味だし、匿名掲示板だから気軽に書き込め。140よ。

142 :世界@名無史さん:04/05/24 16:45
>>139
その事件そのものに関して残念ながら私は分からないが、当時の状況を物語るものとして次のような
ページもあるので、ご参考までにどうぞ。
公の場、或いは私的の場であってもチンギスカーンの名は口にしただけで反革命政治犯として連行、
処刑されるのが常だった。少なくとも当時は「独立したモンゴル政府」は存在していない以上、高位の
地位にあった者であっても処罰対象とされていたらしい。(多少信頼性に欠ける点はご容赦願いたい)

http://tanakanews.com/a0720mongolia.htm

>>141
そう言って頂けると助かります。ありがとう。

143 :世界@名無史さん:04/05/24 16:47
ttp://tanakanews.com/a0720mongolia.htm

挙句の果てに直リンしてるし…。もうだめぽ _no

144 :世界@名無史さん:04/05/24 18:36
> 1991年、彼らはブリヤート共和国として独立を果たし、翌1993年以降から当時の事件に関して口を開く
> 人々が増えてきたという背景がある。

独立してねーよ。あくまでロシア内の自治共和国。
というかブリヤート人はソ連、モンゴル人民共和国、内モンゴルの三地域にまたがって住んでいたけど
南に行った人たちはソ連に戻ったの?

145 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/24 19:36
>>132
そうそう、日本思想大系本です。名称について説明不足・・・といっても気にする人
はあまりいらっしゃらないでしょうが。ところで正応本は何を参考に?

146 :世界@名無史さん:04/05/24 20:10
参照サイトが田中ウッ かよ!

147 :125:04/05/24 22:42
>>131丁寧なレス有難う御座います。

高麗の状況により、1273年以前の日本侵攻は不可能なのは確かです。(屯田などの準備はしてます)また、それ以降
「海路が開けた」事も確かです。同時に南宋攻略の選択肢の中に日本侵攻がないという事が出来ます。先にも書きましたが
南宋攻略は高麗の完全平定より以前のことであり、南宋攻略の要素に高麗平定の結果としての、「軍事的に可能な事」を組み込むとは
考えにくいです。
同時に、「軍事的に可能な事」を南宋攻略に反映させようと考えた場合、文永の役は早すぎると考えられるのです。
政治的な効果を考えたら、1276年以降首都臨安開城以降が最も効果が上がる時と考えます。逃亡中の人間は常に
逃亡先を探しています。首都を負われた宋朝に逃亡先はないという現実を示し、止めを刺すという効果を考えるからです。
現実的に宋朝や遺臣が日本に逃げ込んだとしても、元側は対日侵攻の大儀(チンギスの高麗侵攻の再演)を得るし、
日本側の抗戦意思を低下させる又は日本内部に分裂抗争も可能であろう。(日本侵攻は「征服ではなく南宋討伐」であるとした場合
史実の様な戦意はあっただろうか?)
多分に現代的な感覚が入っていますが、モンゴルの用意周到な征服政策から充分考えられると思います。


148 :132:04/05/24 23:16
>>145
>ところで正応本は何を参考に?
『伏敵編』です。

あと、訂正。
壱岐でも、残虐な行為はありました。
ただ、
・その主体は高麗軍
・皆殺しでは無さそうだ
と考えられます。

以下に『八幡大菩薩愚童訓』にて最も古い写本であると思われる、筑紫本の当該箇所を引用します。
福岡県立図書館に行けば、原本の複製を見ることが出来ます。

例によって、高麗軍と蒙古大唐軍の行動を別々に書いています。

--↓引用
弘安四年之夏ノ此蒙古大唐高麗己下之国々共之兵駆具シテ三千余艘ニ数千(ママ)万人乗ツレテ来ケリ
其中ニ高麗之丘(ママ)船五百艘者壱岐対馬ヨリ上テ見合者ヲ打殺ス
人民絶エネテ妻子ヲ引具深山ヘ逃篭処ニ赤子之位(ママ)音ヲ聞付テ押寄テ殺ケル程ニ片時之命モ惜ケレハ差モ愛スル緑子ヲ指殺テソ隠ケル
子ヲ失テ親計何マテ可有命ソト我身ナカラモウタテ敷泣歎心ノ中ソ無為方
在歌ニモ
・・・(以下略)・・・
高麗之舟者宗像ノ崎ニ寄
蒙古大唐之舟者対馬ニハ不寄壱岐之嶋ニ着
--ここまで

後世の写本ほど整理されていないため、読みにくいです。異体字は、修正させて頂きました。

149 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/25 00:07
>>148
ご丁寧にどうも。有難う御座いました。
>『伏敵編』です。
また懐かしい(?)。
>・その主体は高麗軍
>・皆殺しでは無さそうだ
>と考えられます。
やはりそうなるでしょうね。日蓮の書いたような内容が一人歩きした感がある。
そもそも最初に皆殺しにされていれば、弘安の役でやられていない。

150 :世界@名無史さん:04/05/25 00:52
>>145
いえ、日本側の史書に関しては大変疎いため、非常にありがたく参考にさせて頂いております。

>>146
だから「信頼性に欠ける点はご容赦願いたい」と明言しているわけなのですが。

>>147
卓見です。ただ「南宋の遺臣が日本に逃げ込めば対日本侵攻の大儀、云々」の件は考えにくいことでもあります。
それでは吸収以後の南宋水軍を用いることに非常に大きな支障が出かねません。(爆弾を抱えてしまうようなものです)
また文永の役に関しても、私としては非常に時期を掴んでいた行為であったとも思います。海上展開及び既に展開する
前線への兵力増強という「実際に交戦中である」南宋側の選択肢を狭める効力を持つ、と愚考する次第です。

151 :世界@名無史さん:04/05/25 10:23
ここはいつから元寇スレになったの?
チンギスハーンのスレでしょ。
フビライは関係ない。

152 :世界@名無史さん:04/05/25 11:56
>>151
ではチンギス・ハンに関連するネタ振りをどうぞ。

153 :世界@名無史さん:04/05/25 13:33
っていうかおもろろければ何でもいい。

154 :125:04/05/25 22:35
>>150
南宋の遺臣という書き込みは、私自身現実的な選択肢とは考えてません。
政治的な効果、予測される選択肢の一つという事で南宋側の選択可能な選択肢ではありません。

>>それでは吸収以後の南宋水軍を用いることに非常に大きな支障が出かねません。(爆弾を抱えてしまうようなものです)

あまり重要ではないと思います。宋朝を滅ぼす為に南宋の降将が活躍したのですが?
南宋降兵の問題は元の支配に反抗する可能性であり、朝廷に対する忠誠心ではありません。

色々書き込みましたが、文永の役を南宋攻略の視点で考え過ぎではと思います。
結論を先に言いますが、日本攻略、南宋攻略は別個の政策であり、文永の役は日本攻略の計画の中で
計画され、その結果発生するであろう効果を南宋攻略に利用しようとしたもの
(日本攻略に南宋攻略が相乗りしたもの)と考えてます。

155 :世界@名無史さん:04/05/26 01:48
>>114
モンゴル主体で本格的に遠征するつもりなら、
ヨーロッパ、アラブ遠征のように王族を立てて攻撃するはずだから、
本来は言い出した高麗が主体となり、
蒙古兵は目付け程度の役割だったのかもしれない。
それでも数の上では圧倒的に少ないはずの蒙古兵が特記されているから、
高麗兵の後ろで眺めるなどというのでなく、
リスクの高い戦闘で高麗兵の先頭に立って戦っていたのは確かかもしれない。
日本兵との戦いで勇敢だったのは蒙古兵であり、
森に覆われた深山に隠れる女子供に対して勇猛だったのは高麗兵だった、
とまで言ってしまえば、流石に意地悪くなるけれど。

156 :世界@名無史さん:04/05/26 07:39
>>155
それは実際の戦場での指揮権(下位権限)のお話かと。
>>114で論じられているのは戦略指揮権限(上位権限)。

157 :世界@名無史さん:04/05/26 21:26
モンゴル話NHKでやっとるのーあげ

158 :世界@名無史さん:04/05/28 10:49
>>155
確か武士の弓矢で射られて負傷した司令官もモンゴル人だったような。
相変わらず半島の民族はサボタージュばっかりだね。

159 :山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/28 10:55
>>158
劉復亨は漢人。レッテル貼りの前に確認なさるべきでしょう。
お調べになられるような方なら、はじめからレッテル貼りはなさらないかも
しれませんが。

160 :世界@名無史さん:04/05/28 11:07
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=525926535&rid=1

161 :世界@名無史さん:04/05/28 11:18
嫌韓厨が山野の一撃で沈んだか
グッジョブ!

162 :世界@名無史さん:04/05/28 12:19
>>159
漢人ですか。
どちらにしろ半島の民族じゃないね。

163 :79,134:04/05/28 13:18
>>154
遅レス失礼。

なるほど。確かに私は南宋攻略に付随する戦略として文永の役を捉えすぎているのかもしれませんね。
鋭い指摘をありがとうございます。日本・南宋双方の戦略は別ラインで同時進行していたという点には同意します。
確かに、結果的に生じるメリットを考慮した上で双方の戦略に生かすということは至極当然な考え方ですから。

>>山野氏
いつもながら的確なレスですね。

164 :世界@名無史さん:04/05/29 06:15
モンゴル兵も勿論そうだが、華北の兵は大体が泳ぐ事すら出来ない人も多い。
これはつい最近でもそう。
なおかつ対馬壱岐を含め、温帯、熱帯の島は樹木に覆われ、
特に日本のような島嶼ではリアス式に入江が存在する。
早い話が土地勘が無ければ全滅といわれるほどの被害は与えられない。
戦後に展開した事も考え合わせるなら、
どんなことが展開したかは大体、想像が出来る。
当時の兵というのは、一般人に武器を持たせたのと変わらない。
最後の最後で、信頼していた隣人に家族を皆殺しにされた人達の無念は、
推し量られて余りある。

165 :世界@名無史さん:04/05/29 06:19
今現在の状況にも通じるから、
差別を誘発しない為に、余り事実は推測しない方が良いんだろうけれど。

166 :世界@名無史さん:04/05/29 19:24
キルギス族との関わりを教えてください。

167 :世界@名無史さん:04/05/31 08:07
北方の騎馬民族モンゴルは、やはり「南方」「水」「船」とは相性悪いのかね。
元寇は言わずもがな、ベトナムでは干満の差を利用した作戦に引っかかって惨敗、
ジャワを攻めたときは現地の政争に巻き込まれ、いいようにあしらわれた。

船の戦で勝ったといえば、南宋を滅ぼした涯山の戦くらいか?


168 :世界@名無史さん:04/05/31 18:00
店員「おまいらいらっしゃい。まず飲み物を注文しる!」
客A「ビールキボンヌ」
店員「おk」
客B「漏れもビール」
店員「ガイシュツです」
客A「氏ね」
客B「オマエモナー」
店員「食べ物も注文しる!」
客A「時価のアワビ姿焼きとか言ってみるテスト」
店員&客B「ネ申!!」
客B「ここでアワビはなかなか行けない罠」
店員「オマイは本当にアワビが食べたいのかと小一時間(ry」
客B「唐age」
店員「age厨UZEEEEEEEEEEEE!!」
客A「客Bは放置の方向でおながいします」
客B「串age」
客A「↑氏ね」
店員「リアルで氏ね」


169 :世界@名無史さん:04/05/31 22:28
>>166
現在のクルグズスタンのKïrgïzのことで?
それともチンギス・ハンの頃との関わりでのقرقيزのこと?

170 :世界@名無史さん:04/05/31 23:23
チンギスハーンの頃のキルギスと今のキルギスと同一でしょ?


171 :世界@名無史さん:04/06/01 04:15
>>170
そーでも無いらしい。

172 :世界@名無史さん:04/06/01 11:35
ジンギス・カーン-Ghengis Khan-ね。
正しい発音もできんのかうぬらは!

173 :世界@名無史さん:04/06/01 13:16
日本の征服が出来なかったのは馬で上陸しなかったからではないか
いままでは馬を使って侵略していたのに勝手が違ってアリャという感じではなかったのか
南宋がへたれとか風雨が強くてなんていうのは付け足しの説に過ぎない
その後のチャンパー、シュリヴィジャヤでも失敗しているし

174 :世界@名無史さん:04/06/01 14:09
河馬で上陸すればよかったのにね。
水陸両用形でエースナンバーは河馬を赤く塗って通常の3倍早く動く河馬

175 :世界@名無史さん:04/06/01 17:19
>>174
赤兎河馬ですか?

176 :世界@名無史さん:04/06/01 18:49
>>173
上陸するスペースが予想以上に足りなかった、というのが正解かと思われます。
少なくとも現在の土嚢跡を参考にする限り、大軍を展開するだけの余裕があったとは考えられません。
また、海上戦を想定していたとするならば飼育する手間とコストをかけて船舶に搭乗させるかどうか…。
あくまで局地戦を考えていたのではないでしょうか。拠点を押さえることが成功してから後詰めで騎馬を
送り込むくらいのことは考慮していたかと思います。

177 :世界@名無史さん:04/06/01 19:28
>>173
重箱の隅をつつくようなレスで心苦しいが念のため確認。
>その後のチャンパー、シュリヴィジャヤでも失敗しているし

シュリーヴィジャヤではなく、ジャワ(シンガサリ→マジャパヒト)ではないかと。

178 :世界@名無史さん:04/06/01 19:43
赤兎河馬イイ(・A・)!

179 :世界@名無史さん:04/06/02 04:05
>>172
ハーン。カン。カーン。汗。どれでも正解。
元々の発音に似た語句を当てたものなので「実際にどのように発音されていたのか」を窺い知ることは
出来ない。(もしかしてハンまで名前の一部だと思っているクチかな?)

180 :世界@名無史さん:04/06/02 16:39
トルコ系が「ハン」でモンゴル系が「カン」かと思ってた>発音

181 :世界@名無史さん:04/06/02 23:10
たまに英語の文献でxanとか表記してる人いない?
キリル文字のkhと間違えてるんだろうか。

182 :世界@名無史さん:04/06/03 05:46
>>181
xanもkhanもどちらもخの字をどう翻字の問題で、どちらも研究者ごとにそれぞれ使われていてまだ、統一された翻字がされていない。
でもkhanの方を使う研究者がやや多い感じ。岩波や平凡社の辞書はこっちを使ってる。

この時の[x]はラテン語とかの/ks/ではなくてギリシア語とかロシア語とかの/x/の発音に近いので一文字で表すためにこの[x]が使われてるみたい。

他にも、غ ، ش، ژ، ذ ، چ ،ثを
それぞれth,ch,dh,zh,sh,ghと、t_,č,d_,ž,š,ġという翻字の仕方がある。

183 :世界@名無史さん:04/06/03 10:47
小澤重男さんは「カハン」とやってたと思う。
指導教授によってA氏は「ハーン」とやるとペケ、B氏は「カン」だけしか認めないなど
ゼミ生は苦労してるとか。

184 :世界@名無史さん:04/06/03 12:13
他にもオゴタイ・オゴテイ・オゴデイ。ジュチ・ジョチ。スブタイ・スベテイ…などなど。
表記は研究者に依存するので「どれが正解か」と聞かれれば「どれも正解」としか言えないね。
まぁ、彼らにとっての関心事は名前の発音・表記ではなく、誰が何をしたのか、だから特に問題はないが。

185 :世界@名無史さん:04/06/03 15:08
窩闊台、朮赤、 速不台

186 :世界@名無史さん:04/06/04 02:07
http://myblast.blogtribe.org/entry-8d3e39bc48721e31d42bf7e6c6069c8e.html

295 :世界@名無史さん :02/02/17 13:33
東方見聞録に出てくるアフメッドの親族。

フビライの治世時、華南辺りを牛耳ってた大臣が色目人の彼だった。
「ムスリム以外は人間じゃないから何やってもええんじゃ〜」
とばかりに悪逆非道を重ねた末に暗殺されてしまった。

その因果関係を知ったフビライ、
「そんなに金銀財宝がすきなら恵んでやろうじゃね〜か!」
と彼の親族とアフメッドがあこぎに貯めた金銀財宝をいっしょに
閉じ込めて水食料一切渡さないという刑を行った。

中でどういう阿鼻叫喚があったかはさすがのマルコポーロも
書いてはいない。



187 :世界@名無史さん:04/06/12 16:01
チンギスは中華民族?
http://www.asahi.com/international/aan/column/021129.html

188 :世界@名無史さん:04/06/12 18:35
>>139
>>チンギスハーンを称えたモンゴル政府高官がソ連に連行されて
>.処刑された事件があった記憶があるが、だれだったっけ?
一人じゃないと思う。
A.Amar というモンゴルの首相が「モンゴル歴史」という本書いたので、モンゴルからソ連に招待されそこで処刑された。
D.Dendenというもう一人の首相はスターリンにモンゴルは独立国家と言ったこと、モンゴル人の資本を増加させる政策取ったのでソ連がまた招待して処刑された
そのほかにDemidという軍最高幹部を毒で殺してモンゴル右派全員殺害したんだ。

189 :世界@名無史さん:04/06/12 19:07
修正
>>188
dDenden=D.Genden

190 :世界@名無史さん:04/06/12 19:32
全員・・・?

191 :世界@名無史さん:04/06/13 03:35
そうほぼ全員、総3万7千人が処刑された。

192 :世界@名無史さん:04/06/13 03:53
>>183
Haanあるいはハガンはモンゴル語で皇帝の意味表し、khanは王の意味を表す。
モンゴルのハガン=ハーンは32人居るの対しkhanは数多く存在していた。例えばAltan khanハガンではなかったので全モンゴル統治出来なかった。
ズーンガル王国の王Galdanもハガンではなくkhanだった。最後のハガンLigdenkhaanであり、それ以降ハガンは存在しなくなった。最後のハルハの4人のkhan(zasagt khan,tsesten han,sain noyon han,tusheet han)1924年まで居た。
その他内モンゴルに日本で徳王で有名なDemchigdonrovハンいた。

193 :世界@名無史さん:04/06/13 20:42
>>183
もう少し補足すると、小澤先生がチンギス・ハンのことをチンギス・「カハン」と書いてるのは、
四部叢刊本の『元朝秘史』に「成吉思合罕」とかかれていて、これをqaGanと音訳されてるためです。
このGは普通のガ行とかのg音ではなくてアラビア語やペルシア語などのغghainに近い音で、
トルコ語のğと同じく当時から軟音化していたらしい。

ただ、それまでの「カン」とか「ハン」とを差別化した所謂「モンゴル皇帝」として「カアン」と称したのは皇帝オゴダイとモンケからなので、
チンギス・ハンのことを「チンギス・カアン」と書くのはちょっと早計すぎるきらいがあるかと。


西方のジョチ家やチャガタイ家やフレグ家といった中央アジア・イランでは自分たちモンゴル君主のことを
خان khān「ハーンorハン」と称し、モンゴル本土の大元朝などのモンゴル皇帝をقاآن qā'ān「カーアーンorカアン」と呼んで明確に差別化しています。

194 :世界@名無史さん:04/06/13 22:00
>>193の続き

モンゴル皇帝をqa'an「カアン」と称するようになったのは二代目のオゴデイからで、
これは普通の王とか君主の意味だったテュルク語系(ウイグル語など)のkhan「ハン」やモンゴル語のqan「カン」とは別に
それらの上に立つ「皇帝」としての称号を古代の突厥の可汗号をオゴデイが自らの称号として復活させたものだと言われています。

オゴデイの後を継いだ三代目のグユクは「カアン」号はオゴデイの占有と見なしていたのか、
自らは、チンギス・ハンや西方のバトゥなどと同じように「ハーンorハン」もしくは「カン」と称していたようです。
その証拠は、グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語の勅状に、冒頭でخان يرلغمز khān yarluγmïz「ハンの勅」と言っており、
本文ではچنگيز خان و قاان
Chingīz khān va Qā'ān「チンギス・ハンとカアン」と呼んでいるのがそれにあたります。

モンケが、グユクが使わなかった「カアン」号を復活させたと言われるのは、
イルハン朝の初代となったフレグの西征軍に扈従したアラー・ウッディーン・アター・マリク・ジュヴァイニーの書いた『世界征服者史』と、
7代イルハン・ガザンの宰相ラシード・ウッディーン・ハマダーニー編纂の『集史』でそれぞれ、منكو قاآن
مونگكه قاآنMankū Qā'ān>Möngkü Qa'an、
Mūngke Qā'ān>Möngke Qa'anとなっていることなどから言われているようです。

195 :世界@名無史さん:04/06/13 22:56
>>192氏が指摘してるように、
北元以降のモンゴル皇帝は、現代モンゴル語で皇帝のことをХааиと言うことから分かるように、
q>xのようにqが軟音化してqa'an「カアン」がxa'an「ハアン」>xaan「ハーン」になったようです。
それまでのモンゴル皇帝の下についていた普通の君主qan「カン」>xan「ハン」になったものとみているそうです。

「ハーン」「ハン」「カアン」「カン」などの違いは、
○西方文献
 ・オゴデイ、モンケ、大元朝以降のモンゴル皇帝 qa'an,
  قاآنqā'ān
「カアン(テュルク・モンゴル語原音)」「カーアーン(ペルシア語表記)」
 ・チンギス&グユク、及びその他のモンゴル君主 khan,
 خان khān「ハン(テュルク語系原音)」「ハーン(ペルシア語表記)」
  >ペルシア語資料を扱っている人は「フレグ・ハーン」とは書いても、「モンケ・ハーン」「クビライ・ハーン」とは絶対書きません。

○モンゴル本土
 ・オゴデイ、モンケ、大元朝以降のモンゴル皇帝 qa'an「カアン」(モンゴル語原音)→北元以降xa'an「ハアン」>xaan「ハーン」
 ・その他のモンゴル君主            qan「カン」(モンゴル語原音)→北元以降xan「ハン」

という感じかと思われます。
ただモンゴル本土では先にqa'an「カアン」→qaan「カーン」→xaan「ハーン」となっているのかも知れません。というのも、
カラコルムにあるペルシア語で書かれた大元朝末期のハーンカーフ建立碑文に大元皇帝のことを、
قاآنではなく
قانと書かれているからです。
>もちろんقانで「カアン」と呼んでいた可能性も大いにあり得ますが。


196 :世界@名無史さん:04/06/13 22:58

モンゴル君主の「ハーン」の名称には、
このように文献資料上の問題とモンゴル帝国の政策上の問題、歴史言語学的問題が重なり合っていますので、
研究分野を異にする研究者同士で対応や表記も異なるようです。
このあたりの事情を把握していないと「フラグ・カーン」とか「フビライ・ハン」といったいささか首を傾げる表記になってしまいます。

取り敢えず大雑把ではありますが、わたしが把握しているのはこんな所です。(汗

※余談ですが、チンギス汗やフレグ汗という表記の場合、
 オゴデイ罕、モンケ罕という表記をされてる方もおられます。

197 :世界@名無史さん:04/06/14 04:27
元朝秘史ですが、原文ではなく那珂訳で恐縮ですが、
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40019145&VOL_NUM=00000&KOMA=118&ITYPE=0
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40019145&VOL_NUM=00000&KOMA=217&ITYPE=0
などを見ると、「成吉思合罕、罕と為る」「成吉思合罕に罕の號をそこに奉れり」とあり、
秘史の作者がカアン号とカン号をきちんと区別していることは明白ですよね。
この区別がチンギスの時代はカン、オゴデイ以降がカアンを称した事実の反映であろうことは
ペリオの昔から元朝秘史の訳注者によって指摘されて定説とされているところですから
小澤先生は、早計というか、元朝秘史がカアン号の使用を遡っているのを承知の上で
チンギス・カンをカアンの称号で呼んでいるのを尊重してるのではないでしょうか。
小澤訳を読んだのはえらく昔なので先生がどう書かれているかは忘れてしまいましたが。

ところで便乗質問。
突厥の「可汗」起源のペルシア語といえば「カアン」のほかに「ハーカーン」があると思いますが、
集史だと区別されてるんでしょうか。

198 :世界@名無史さん:04/06/14 17:46
チンギス・ハン - 人類史上最も多くの子孫を持つ蒼き狼
http://x51.org/x/04/06/1407.php

199 :世界@名無史さん:04/06/14 17:50
っていうか>>193->>196 の人何でアラビア字で書くのですか。何か微妙。

200 :世界@名無史さん:04/06/14 19:00
>>198
>部下たちに略奪は許可する一方で、女性は必ず自分のもとに連れてくるよう指示し、組織的な強姦を行うか、妾として自らの下に置き、自らの血を継ぐ子孫を増やし続けたのである。

やなヤツだねーwしかも、レイプされちゃう女性もこんな不細工じゃ地獄だったろうね・・・w











でも、チンポ立っちゃった (´・ω・`)

201 :世界@名無史さん:04/06/14 19:06
>>191
うええ。マジか…
一応他国なのに、本当にスターリンはひどい

202 :世界@名無史さん:04/06/14 22:08
>>198
どうやってチンギスのY染色体を割り出せたのかが知りたい。
遺骸は見つかっておらず、西方討伐前に没している筈なのにな。

203 :世界@名無史さん:04/06/15 00:07
で結局モンゴル語ではチンギス・ハンなのか?
イギリス人にきいたら「ゲンゲス・カーン」だったけど、
フランス人にきいたら「ジンギス・カーン」だった。
よー分からん。

204 :世界@名無史さん:04/06/15 02:26
結論としてはモンゴル文字の綴りをラテン文字に転写するとChinggis-qanであり、
当時のモンゴル語でチンギス・カン、現代モンゴル語の発音だとチンギス・ハン。
ただし、元朝秘史から推すに死後にはChinggis-qa'anと綴られ、
チンギス・カアン(カハン)と尊称されていたようである。
近現代のモンゴルではカアンが現代発音でKhaan(xaan)に代わったことから
チンギス・ハーンと呼んでいる。
実際、口語に基づいたキリル文字綴りはЧингис хаан=Chingis Khaanである。

ゲンギズだのジンギズだのジンギスだのは
もともとアラビア文字でJingizと綴られたのに基づいているらしく、
モンゴル語の綴り・発音とは異なる。

205 :世界@名無史さん:04/06/15 19:15
ヒンギスは、ロクデナシ

206 :世界@名無史さん:04/06/15 19:33
モンゴル人の力士は血を思いっきりつい出そう(w
日本は侵略されてないから少ないだろう。


207 :世界@名無史さん:04/06/15 19:56
悪魔の血が流れていると考えるのは恐ろしいことだな

208 :世界@名無史さん:04/06/15 20:02
英雄の血

209 :世界@名無史さん:04/06/15 22:19
世界最強のレイプ魔の血

210 :世界@名無史さん:04/06/15 22:21
その証拠

チンギス・ハン - 人類史上最も多くの子孫を持つ蒼き狼
http://x51.org/x/04/06/1407.php

レイプ魔を英雄と仰いでるモンゴル人って(ップ


211 :世界@名無史さん:04/06/15 22:25
英雄レイプを好む

212 :世界@名無史さん:04/06/15 22:27
赤マフラー軍団

213 :世界@名無史さん:04/06/15 22:38
赤マフラーといえば、北条時輔を思い出す・・・

214 :世界@名無史さん:04/06/16 16:09
>210
がいしゅつ

>202
林に遺骸を埋めさせた後で騎馬隊に一昼夜走り回らせたんで、誰にも場所が分からないんじゃなかった?
ずいぶん恨まれていたからなぁ…

215 :ジンギス・"レイパー"・カーン:04/06/16 22:17
>>210
あの時代人はみな野蛮だった。
彼は偉大なレイパーだったから尊敬されてるんじゃない。

世界最大、未曾有のコンクエローラーであった。


216 :ジンギス・"レイパー"・カーン:04/06/16 22:26
>>200
「最も幸福な人生(life 生活)とは平穏な遊牧生活などでは断じてない。
大軍団を率い、思う存分敵を各個撃破し、征服地の美しい妻や娘を我がものとし、その悲しむ顔をみることだ!

ジンギス・カーン 壮言集(実話)より。

※我がものとす=てごめにする

217 :世界@名無史さん:04/06/16 23:42
1600万人の子孫って

218 :世界@名無史さん:04/06/17 00:39
それこそ男冥利に尽きるというもの

219 :世界@名無史さん:04/06/17 08:06
>>216
チンギスカーンらしい迷言だな

220 :世界@名無史さん:04/06/17 21:18
>>216
チンギス・ハンの墓所そのものは確定してないけど、
かなり高い確率でここのあたりだろう、という場所は発掘されてたりする。

221 :世界@名無史さん:04/06/19 21:30
墓所そのものは確定されておらず、遺骸すら発見されていないのにY染色体を特定した&そこから
子孫の割合を判別したという与太話を額面通りに信じろという方が無茶な話だよな。

>>216
壮言集などという言葉は初めて目にしたのだが、そういう史料が実際にあるのか?
あるとするなら、それはモンゴル側、或いは敵対国側のどちらの史料なのかな。

222 :世界@名無史さん:04/06/20 09:25
ムガル帝国の皇帝の子孫ならチンギス・ハーンの末裔といえるだろう。
そのあたりから調べたのではないか?

223 :世界@名無史さん:04/06/21 17:30
バーブルはモンゴル人嫌いだったらしいぞ。

224 :世界@名無史さん:04/06/22 00:09
>>223
バーブルは自分がモグーリスターン・ハーン国のユーヌス・ハーンの孫で、チンギス・ハン家の血を引いてることにかなり誇りを感じてらしいね。
モグーリスターン・ハーン国にしろティムール朝にしろ元はチャガタイ・ウルスの後身だからどちらにしても『モンゴル』なわけだ。

でも歴史的な用語としての「モグール」と言った場合、
チャガタイ・ウルスが東西に別れた後、パミール以東の東チャガタイ・ウルス、
後のモグーリスターン・ハーン国の人々をだいたい指すみたい。

バーブルの陣営には親類縁者や軍隊の中核はモグールが占めていたけど、
バーブルは自分たちのことは「チャガタイ」であって、酷く嫌った「モグール」はパミール以東の文明化しない利己的で信用ならないモグールたちのことだとか。

225 :世界@名無史さん:04/06/25 17:24
蒙古帝国の痛快なところは、我々黄色人種の蒙古人がコーカソイドを散々に痛めつけたところですね。

リーグニッツの戦いは、別名ワールシュタットの戦いといいますが、これは死体の山という意味だそうです。
でかい身体をした白人の騎士どもは、
ひいひい言いながら背の低いモンゴル馬に乗った軽騎兵に追い散らされた模様。

モンゴルに占領されたキエフなどの都市では、金髪碧眼の白人女がモンゴル人にレイプされまくり、
血と精子の臭いが立ち籠めていたでしょうね。

いや、痛快、痛快。

226 :世界@名無史さん:04/06/25 21:23
>>226
歴史の再勉強を勧める。ワールシュタットの戦い自体は実際に行われたかどうかも怪しいとする
説もあるからな。「タタールのくびき」などとも表現されるが、モンゴルから技術・知識などを享受
していたと表現した方が的確ではないかとすら言われることもある。
実際、東西交易によってキエフを含む諸都市は征服前よりも遥かに発展を遂げているからねぇ。

身代金目的で戦争を行っていた西欧諸国にとって、実際に相手を仕留めるまで戦うモンゴルの
戦い方は脅威に映ったことだろう。同時期に「東方に存在するプレステ=ジョアンがキリスト教に
相応しくない異教徒を討った」という噂が西欧諸国に蔓延していたことからも、随分と楽観しして
いた節も見られる。後年、そんな都合の良い幻想を打ち破られて恐慌に陥ることになるのだが。

227 :世界@名無史さん:04/06/25 21:24
ageとく。ちょっと下がりすぎだろ。

228 :世界@名無史さん:04/06/25 21:27
ageになってないし。

229 :世界@名無史さん:04/06/25 21:35
>>226
ワルシュタットの戦いが無いと唱える人がいるだけでそこまで
>>225を否定するのもどうだろうか。
侵略されれば文化的な侵略も受けるのは欧米や日本の支配を見ても
明らかでしょう。
望まぬ支配を受けてまでそのようにモンゴルを正当化するのは疑問。

230 :世界@名無史さん:04/06/25 22:36
>>229
いや、>>225はただそう思いたいだけだろ

>>225の文からは拭い去れぬコンプレックスが感じられる。

231 ::04/06/25 23:54
白人コンプ厨発見

232 :世界@名無史さん:04/06/26 00:01
>>225>>231か乙です。
もう少し理路整然とした反論が出来るかと期待したが、
買い被っていたようだ。

233 :世界@名無史さん:04/06/26 00:11
元って、燕と関係ある?
燕と元って、YUAN? 両方、音が似てそうだし、
地域もかぶさっていそうだから、
全くのデタラメな憶測で聞いてるんだけど?


234 :世界@名無史さん:04/06/26 00:23
結論からいうと関係ない。


235 :世界@名無史さん:04/06/26 00:27
>>232
図星を衝かれるとさっそくレッテル貼りか。
もう少し理路整然とした反論が出来るかと期待したが、
買い被っていたようだ。


236 :世界@名無史さん:04/06/26 00:35
>>235
いや、もう君いいから。 まともな反論が出来るのなら相手するけれども、
単なる荒らしが目的のようだから相手にしない。それだけの事ですよ。
相手してもらいたいのなら学問板にふさわしい理をもって反論してください。
単なるレスや誹謗中傷は無用です。
では。

237 :世界@名無史さん:04/06/26 00:39
>>236
「何々イコール何々」の次は一人で勝利宣言か。
典型的厨房だったようだな。

賢い相手はいないものか。

238 :世界@名無史さん:04/06/26 00:48
>>237
釣りならニュース速報系で相手してくれますよ。
モンゴルの話があなたのレスと思われる>>225で最後だと思うのですが、
226で指摘しているように再度勉強してから汚名を返上してはどうですか?




239 :世界@名無史さん:04/06/26 00:56
>>236

>の文からは拭い去れぬコンプレックスが感じられる。

あなたに質問です。この>230の書き込みのどこに「理」があるんでしょうか?
根拠がない書き込みならあなたも荒らしなので、消えて欲しいのですが。

240 :世界@名無史さん:04/06/26 01:00
レスのきっかけとなった>>225の何処に根拠がありますか?
知性が感じられますか?
少なくとも私には感じることが出来ません。
出直してきてください。

241 :239:04/06/26 01:08
いや、私は>>225とも>>235とも違うんですが(w
というより、こんな話をしつこく引っ張るあたり、あなたの方が相当ウザいし、
何か執念のようなものを感じるんですけど、気のせいですか?

242 :239:04/06/26 01:13
語らないでください。
私が本物ですよ。

243 :239=241:04/06/26 01:15
なんというか、まともに相手にしなかった方が良かったのかな・・・。

244 :237:04/06/26 01:19
>239
この粘着ぶりといい、こいつは前に板を荒らしていた白人崇拝者の異常者=ブタ男なのかもな。
こんな馬鹿を相手にしてしまって、正直スマンカッタ。

245 :239:04/06/26 01:27
>>244
おまえがあらしだ

246 :世界@名無史さん:04/06/26 01:31
モンゴルに占領されたキエフなどの都市では、金髪碧眼の白人女がモンゴル人にレイプされまくり、
血と精子の臭いが立ち籠めていたでしょうね。

いや、痛快、痛快。

247 :239=241 ◆/MweMDCEWw :04/06/26 01:31
後でまとめて削除以来出しておくんで、バカは放置でお願いします。
それにしても、白人コンプレックス溜め込んでる奴ってキモいですねw

248 :世界@名無史さん:04/06/26 01:33
削除以来

249 :世界@名無史さん:04/06/26 01:34
(´・ω・`)ショボーン

250 :世界@名無史さん:04/06/26 01:37
>>225
そうだなぁ
人類史上空前規模の世界帝国は我々モンゴロイドがつくったんだからね。

つっても日本島民は関与してないってか(´▽`*)

>226
自分にレスしてるみたいだが、225へのレスポンスかね。
リーグニッツ(regnitz)=ポーランド語のワールシュタットてのは
歴史事実だよ。

251 :世界@名無史さん:04/06/26 01:38
225

252 :世界@名無史さん:04/06/26 01:39
モンゴルに占領されてロシアや東欧の白豚どもは黄色いサルに
まわされてよがり汁をたらし放題で滑稽w

253 :世界@名無史さん:04/06/26 01:40
ブタ男の負けw

254 :世界@名無史さん:04/06/26 01:43
> モンゴルのある地域では、女性が男性からの「家へ遊びに来ませんか?」という誘い
を受け入れて家に行ったら、それは妻になる事を承知した事になるのだそうです。しかも、
その男性に親の見ている前で強姦されるのだそうですから驚きです。やってきた娘を力ずく
でものにするのは、男である事を自分の親たちに示すため、娘が泣いたり叫んだりしても、
それは慣習・儀礼のうちだという事で、母親も祖母もみんなそうやって嫁いできたわけです
から、現地の人にとっては何でも無い事なのだそうです。

モンゴルの怖い風習〜家へ来ませんか?〜
http://www.k-freed.com/private/zatubun/mongoru.html

255 :世界@名無史さん:04/06/26 01:44
ところが、中国の文化大革命の頃といいますから、1960年代後半から
1970年代中ごろの話だと思いますが、当時、北京・上海などいわゆる
都会の十代後半の学生が、何百万人も僻遠の地に放たれたそうで、
このモンゴルの地にも多くの若者が送りこまれたそうです。
簡単に想像できることですが、現地の若者に「家に遊びにきませんか?」と
誘われた都会育ちの娘たちが、ノコノコ家までついて行き、親の見ている前で
強姦されたわけです。
当時の中国というのは性に関しては全く解放されていませんでしたから、
十代後半の少女だと、子供がどうやってできるのか知らないのが普通という
状態で、それがいきなり人の見ている目の前で陵辱されるわけですから、
その後正常な精神状態でいられるはずがありません。
自殺者も数多く出たのだそうです

256 :世界@名無史さん:04/06/26 01:49
 子供という生き物は実に凶悪であります。情け容赦というものが全くありません。
こちらがちょっとでも油断すると踏んだり、蹴ったり、叩いたり、つねったり、髪を引
っ張ったり、トドメとばかりにフライングボディープレスをしたり、もうやりたい放題
なのであります。何も考えず、一切の手抜きなしに人を痛めつけておいて「でへへ
ぇ〜」とか笑って平然としていたりするのです。さぞかし気分がいいことだろうと思う
し、実に羨ましいとも思います。とはいえ、羨ましがってばかりもいられないという
厳しい現実がそこにはあるのです。まあ僕はたいへん温厚な性格なので大抵の
事は許しちゃいます。がしかし、これだけは言いたい。タマだけはいかんぞ、と。誰
が何つってもタマだけは攻撃してはいかんのです。ということをこの際キッチリ教育
しておかないと、「タマがいくつあっても足りやしないではないかッ!」

タマタマに興味津々
http://www.k-freed.com/private/zatubun/tamatama.html


257 :世界@名無史さん:04/06/26 01:50
転居通知でとんでもない事を思い出してしまいましたが、文化の違いというのはそういうものだろうし、
膨大な年月をかけて培われてきた異種文化を根底から完全に理解するというのは非常に難しい、
いや不可能だという事でしょう。最近、アメリカの個人の銃所持問題がまたクローズアップされていますが、
アメリカが銃を捨てられないという事実に関しても、アメリカ文化の根底にあるものが起因しているはずで、
それを完全には理解できない我々日本人にとって、いかにそれが野蛮に見えようとも、その当否をとやかく
言うのはお門違いという気がしてなりません。それはあくまでアメリカ自身が解決する問題なのだと思います。
うーむ、今日の僕はちょっと変だなあ。ま、とにかく日本人で良かった。うはははは〜。


《1999年4月25日(日)》 




258 :世界@名無史さん:04/06/26 01:52
>236=238
今度はコピペあらしかw
どうやら本物の荒らしだったようだな。

259 :世界@名無史さん:04/06/26 02:01


260 :世界@名無史さん:04/06/26 02:06
>>254-255
さすが強姦民族ですね。
モンゴル帝国が野蛮でないというのは贔屓の引き倒しですね。

261 :世界@名無史さん:04/06/26 02:19
( ´_ゝ`)フーン

262 :世界@名無史さん:04/06/26 03:40

  ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  /
  ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ //
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //
  / _____  // /          //
.  /   l⌒l l⌒l \  ))   ____
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ   / ____ヽ
/ ̄/ ̄.  ー'●ー'  ̄l ̄ |  | /, −、, -、l  ))
| ̄l ̄ ̄  __ |.    ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||
|. ̄| ̄ ̄  `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6.   ー っ-´、}
ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ



263 :世界@名無史さん:04/06/26 08:26
当時の強国(モンゴル)が周辺諸国を併呑していったのが贔屓の引き倒しで野蛮?
では西欧諸国が東方諸国・アジア地域を席巻していたとすれば贔屓目で見ることもなく「必然」か?
馬鹿も休み休み言え。強国が弱国を従えるのが当時の慣例だったのだよ。それを成せる国力を有するから
版図を広げられるし、それに従属国も従ったんだ。単純一直線に現代的な観点で物事を捉えるな。

264 :世界@名無史さん:04/06/26 10:17
なんで何百年も後の話をもちだすのか意味不明

265 :世界@名無史さん:04/06/26 10:22
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/tatar_01.htm


13、14世紀に書かれたと思われる中世ロシア文学「バツ(バトゥ)の
リャザーン襲撃の物語り」は、1235年のモンゴル帝国のクリルタイの決定によって、
チンギス汗の孫バトゥの率いるモンゴル軍が、ヴォールガ・ブルガリアを征服した後に、
中世ロシアの諸公国の一つリャザーン公国に襲いかかった様子を以上のように記述している。
モンゴル軍はこのリャザーン公国を撃破したのちに、1239年までにヴラヂーミル・スーズダリ公国を
中心とする北東ロシア地方を、1240年までにキーエフを中心とする南西ロシア地方を軍事的に征服した。
数年後にローマ教皇の使節としてモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣されたプラーノ・カルピニは
占領されたキーエフの町の様子について「わたしどもが旅行の途中にその土地を通ったさい、
死者の頭蓋骨と骨とが数え切れぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。
キーエフは以前は非常に大きく人口過密な町だったのですが、いまではほとんど無に帰してしまいました。
こう申しますのは、今日ではそこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民は全くの奴隷状態に
おちいっているからです」と報告していることからもわかるように、モンゴル軍の破壊はかなり徹底したものだった。




266 :世界@名無史さん:04/06/26 10:27
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/mongol_01.htm
初出:歴史学会『史潮』新10号、1981年

キプチャク汗国やステップ遊牧民の社会制度を研究している
フョードロフ=ダヴィドフは、「現在、ソ連邦の歴史学においては、
定住諸民族とりわけルーシと中央アジアの住民にとってのモンゴル人
の征服の否定的結末についての問題では異論は存在しない。
……モンゴル人の汗は被征服諸国に破壊と零落以外の何ものも
もたらさず、多くの兵力、財貨、人命を奪った。知つてのとおり、
ルーシ民族はモンゴル人の汗の野蛮な侵入によって、その発展の面で
多年にわたっておしとどめられた」[3]と断言している。「否定的影響論」の
底流には、モンゴル人=「野蛮で後進的民族」、ルーシ人=
「先進的文化をもつ民族」という偏見があるようである。
たとえば、大半の欧米のロシア史家が「積極的影響論」をとっているなかで
例外的に「否定的影響論」にたっているリャザノフスキイは、
モンゴル人を「氏族的発展段階にある遊牧民」、ルーシ社会を
「はるかに複雑な農業社会」と規定し、
「モンゴル社会、法、制度はロシアよりもはるかに原始的であった」と
の前提にたって、「氏族的発展段階にある遊牧民が、
高度に発達したキーエフ国家の継承者にどのようにして
深い影響を与えることができたのであろうか」[4]と反問している。




267 :世界@名無史さん:04/06/26 10:31
「この国家のスルタン(キプチャク汗……引用者)のもとには、
チェルケス人、ルーシ人、ヤス人の軍がいた。彼らはよく
整備された人口の多い都市の住民、および森林が多く
果実の豊かな山の住民である。彼らのところでは播種穀物が
成育し、家畜の乳房からは乳が流れ(すなわち牧畜が行われている)、
川が流れ、果実が採取されている。彼ら(チェルケス人、ルーシ人、
ヤス人)はこの諸国のスルタンに抵抗することができず、そ
れゆえ(自分たちの)君主をもっているにもかかわらず、スルタンの
臣民として彼に(対している)。もし彼らがスルタンに服従、贈り物、
供物を約束したならば、スルタンは彼らを平穏のままにしておいた。
その反対の場合、スルタンは彼らに対して掠奪的襲撃を行なったり、
彼らを包囲して圧迫した。すなわちスルタンはいく度となく、
彼らの男性を殺し、その妻と子供を捕え、彼らを奴隷として色々な
国々に輸出した」(強調――引用者)

268 :世界@名無史さん:04/06/26 11:20
>>252
彼らは白豚ていうより未開白色土人だったであろう。
また、元寇の編成軍のほとんど南宋、高麗軍だったように、
東欧遠征軍の主力は近辺の征服地から集めた兵士達でモンゴル本土の兵士はいなかったらしいが。

あと、猿てのは醜い南方モンゴロイドの外見的特長であって、北方モンゴロイドを指すわけではないよ
日本人は南方系強いので、醜い顔多いけどねヽ(´Д`;)

269 :世界@名無史さん:04/06/26 13:12
日本人は北方南方ごちゃまぜ。
だから朝鮮人やモンゴル人とかより彫り深い

270 :世界@名無史さん:04/06/26 13:33
>>269
日本人は朝鮮半島を経由していないので容姿端麗が基本。
町でみかける容姿端麗でないのはほとんど性格が醜い在日らしいよ。

271 :世界@名無史さん:04/06/27 17:08
美醜の基準なんてきわめてアヤフヤなものなのだから、
論じた時点で厨決定。

是非はともあれ、「彫りが深い」のを珍重するのは
欧米文化流入以降。
南北朝期の中国ではそういう顔立ちはむしろ揶揄の対象だった。

しかし、どの板行っても嫌韓大杉。

272 :271:04/06/27 23:21
ごめんなさい朴在日です。
寄生虫なんです。
サナダムシなんです。

273 :世界@名無史さん:04/06/27 23:35
チンギスハーンが西夏を攻める時にゴビ砂漠を縦断したって言うけど。
どうやって縦断したんだろ?
現代でも不可能なんでしょ?
だけど事実、西夏を攻めてるし。
不思議。

274 :チンギス・"レイパー"・カーン:04/06/28 01:53
余が世界史上空前絶後の偉大なる大カーンもといレイパー(強姦野郎)どぇーっす。
高麗からウクライナまで世界中の女とハメまちた。
いやぁ、、日本の女とも交わいたかったですたい!

レイープする度胸もない小人ども、わしの凛々しい肖像画でも崇めていなさい。

正面図
ttp://www.archaeology.org/0201/reviews/thumbnails/genghis1.gif

其の二
http://www.leader-values.com/powerpoint/Venture%20Asia/img012.gif

美男であろう!

275 :世界@名無史さん:04/06/28 02:24
高麗もウクライナも、行ってないんじゃ?

276 :世界@名無史さん:04/06/28 13:56
ウクライナ、高麗はクビライじゃなかったっけ(爆

277 :世界@名無史さん:04/06/29 19:10
チンギス・ハンはサマルカンドから北インドに行って、
部下のスブタイが南ロシア
孫たちがヨーロッパまで行ったはず
ペルシャの史料では
チンギス・ハンは背が高くて目鼻立ちがはっきりしていた
という伝承もあるが実際のところよくわかってない。
肖像画は想像でかかれたもの


278 :世界@名無史さん:04/06/30 00:17
モンゴル帝国建国800周年を前にチンギスハン再評価が本格化 警戒強める中国
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040629-00000936-jij-int

279 :世界@名無史さん:04/06/30 04:46
916 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 04/06/09 18:21
そういえばブタ男ちゃん見ないね。最近どうしたんだろ?
今頃ロンドンでイラク人みたいにしょんべんぶっ掛けられて、イジメられてなきゃいいけどw

280 :世界@名無史さん:04/06/30 07:52
>チンギス・ハンは背が高くて目鼻立ちがはっきりしていた
という伝承もあるが実際のところよくわかってない。

またまた、そんな都合のいいこと言い出しちゃって。

281 :世界@名無史さん:04/06/30 16:07
>>280
都合がいいというか角川かなんかの本にそのまんま書いてあったよ


282 :世界@名無史さん:04/06/30 16:14
どっちにしても魅力的じゃなきゃ人は集まらん


283 :世界@名無史さん:04/06/30 17:00
カメハメハ大王の銅像みたいな感じでは?

284 :世界@名無史さん:04/06/30 18:12
だからどうやってゴミ砂漠を越えたの?

285 :世界@名無史さん:04/06/30 18:25
魅力ても容姿端麗てだけで人は集まらないだろ。

まあ、テムジンはモンゴル高原にいる頬だかの典型的モンゴロイドだったろうね。


286 :世界@名無史さん:04/07/01 07:52
どんな顔だったかは不明。おしまい。

287 :世界@名無史さん:04/07/01 10:14
けどボスになるやつはある程度いい顔してるだろ
実力と人を集めるスター性があるやつが巨大な権力を握れるんだよ


288 :世界@名無史さん:04/07/01 21:07
>>287
容姿がリーダーの要素としてある程度意味があるとはいえると思うが、
この場合は軍隊という戦闘集団それもかなり残虐性が売りの殺戮集団だから、
いわゆる「いい顔」であることが有利な条件になるとは思えないが、
むしろいかにも残虐無慈悲といった顔の方が喜ばれると思う。

まあ、無論実際の軍事的才能に比べれば容姿など取るに足らない要素だから、
実際にその才能さえ示す機会があればどんな容姿でもついてくるものは多かっただろうがね。

289 :世界@名無史さん:04/07/02 00:07
>>288
残虐そうな奴は警戒されて人がついてこない
フセインやスターリンだって残虐なことしてるが
顔は美男子。若い時の写真見るとマジでハンサム
あんまし残虐な感じはしない
軍事的才能と人を集めて統率する才能は違う
リーダーは軍事的才能以上に有能な部下を統率するのが重要
というかそれがリーダーの資質

290 :世界@名無史さん:04/07/02 00:28
>>続き
チンギス・ハンにはこういう話もある
チンギス・ハンは若いとき
子供の頃から友達だったジャムカというライヴァルがいた
ジャムカとテムジン(チンギス・ハン)はお互い勢力を伸ばし
ぶつかりあうことになった
ジャムカは優れた人間で軍事的才能はテムジンを上回っていた
事実、十三翼の戦いでテムジンはジャムカに敗れる
しかし、ジャムカはテムジンの部下を残酷に扱ったので
ジャムカの将士は怒ってテムジンに帰属した

またチンギス・ハンは軍を進軍するとき
必ず体が弱い将兵の速度にあわせて進軍したという
チンギス・ハンはすごく人を大切にした
モンゴル語でウルス(国)という言葉は「人」がもとの意味
チンギス・ハンは父なし子だったのでかなり苦労したらしい
だから厳しい面もあるが無慈悲な人ではなかったと思う


291 :世界@名無史さん:04/07/03 05:43
おまえがモンゴル人に強姦されたら考えも代わるんじゃないのw

292 :世界@名無史さん:04/07/03 15:19
モンゴルには強姦の風習が古来より現代まで脈々と受け継がれているようです。

293 :世界@名無史さん:04/07/03 17:32
>>292
>>24-255

294 :世界@名無史さん:04/07/03 17:33
>>292
>>244-255

295 :世界@名無史さん:04/07/03 17:34
>>292
>254-255

296 :世界@名無史さん:04/07/04 00:02
あのな、強姦なんてどこの軍隊でもやるだろ
このスレ超低レヴェル。


297 :世界@名無史さん:04/07/04 01:03
強姦の話もいいけど
ただ野蛮なだけならあんな大帝国は作れない
やはり民族、宗教にとらわれない懐の深さがあったことが重要だと思う

あと諸勢力への懐柔策がうまく有能な人材を
どんどん味方に引き入れてしまう政治能力の高さ
また気前が良く、報奨がいい上に民族、宗教にとらわれないので
いろんな地域から野心のある有能な人材が集まる
現にモンゴル政権は外国人の多い国際色豊かな政権だった
現実的でかつ徹底されたモンゴルの組織と戦術なども成果を上げた
被支配地域を基本的に被支配層に任せたのも
被支配層の抵抗や反発を薄め、勢力を拡大するのに役立ったと思う

298 :世界@名無史さん:04/07/04 03:37
>>254
聞くところによると、モンゴルの草原地域に住んでる若い男女はだいたい性の意識についてはかなり「ルーズ」らしいとか。
しかも男どもは夏になると馬乳酒とかアルコール度数の高い酒をかっくらって
そこら辺ほろ酔い加減でぷらぷらしてるんだそうですな(w
夜になるとお祭り気分で遠くや近くで夜這いやら何やらで羽目を外すことしきりだとか。

モンゴルでもいわゆる「略奪婚」の類が文化として残ってる地域で(結婚式の形式によく残ってるらしい)
たまに本当に嫁をかっさらって来る輩が居るんだとか(w

女性のほうも女性のほうでかなり軽いタッチでつき合うとか言うらしいけど・・・本当か!?(w
ともかく子供を孕んじゃうとどーするかっていえば、孕んだ娘の両親の家で子供が産まれたらちゃんと大人になるまで面倒をみるらしい。
相方がはっきりしてたら結婚して家庭をつくるらしくて、父親が分からなくても
娘が結婚したら婿の方は、自分の実子と同じようにその子供を養育するそうな。
>結婚相手の娘が「子持ち」だったとしても結婚の傷害とは見なされないならしい。

モンゴルに留学した人からで聞いたことだけど、相当前のことだからからあまり当てにはならないかも(w
それにこれは現代の話で、ノヨンやハンがいた頃はどうだったかは不詳。

299 :世界@名無史さん:04/07/04 07:49
チンギスハンに掘られたい

300 :世界@名無史さん:04/07/04 11:47
モンゴルは性に関して開放的だったんだろう?
レイプした漢族の女性が自殺するのを理解できなかったらしい
「何でこんなことで死ぬの?」みたいな感じかな

301 :世界@名無史さん:04/07/04 12:46
ただ漢族も戦争時レイプしまくったから似たようなもんか
戦争と殺人、レイプはセットだからな

302 :世界@名無史さん:04/07/04 14:57
うーん、、チンギス・ハーン モンゴル帝国はすごすぎる。

ローマ帝国、アレクサンダー、ナポレオンなんて所詮地域の覇者に過ぎない。
ttp://mongolempire.4t.com/h1_overview.htm

あと一歩で西欧から極東(日本島)までだったのに惜しいね!

303 :世界@名無史さん:04/07/04 15:04
ttp://mongolempire.4t.com/maps/mapmongol.htm

304 :世界@名無史さん:04/07/04 16:09
>>298
下放されてきた中国人女性たちを強姦する言い訳にもならないな。

305 :世界@名無史さん:04/07/04 16:38
>>302
オゴディが長生きしてればな。
まぁわが国は無理だったろうが。
つーか朝鮮半島は?

306 :世界@名無史さん:04/07/05 03:14
ないよ そんなもん

307 :世界@名無史さん:04/07/08 00:42
モンゴル人に粘着してるのはイギリス豚なの?
必死すぎる(w

308 :世界@名無史さん:04/07/11 00:08
>305-306
属国に留めて直接支配しなかったのは法則を知っていたのかもw

309 :世界@名無史さん:04/07/24 14:28
【英国】チンギス・ハンのご子孫はお食事無料です
http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1089203704/
英ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」が3日、来店客に無料でDNA鑑定を施し、
モンゴル帝国の始祖、チンギス・ハン(位1206ー27年)の子孫と判明した客には
食事を無料提供する試みを開始した。
父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られる。
鑑定は9日まで実施し、結果は2カ月後に出る予定。

チンギス・ハンは12世紀から13世紀にかけて、アジアを征服し、現在の東ヨーロッパにまで
及ぶ帝国を形成。その際、各地に、多数の子を残したとされる。
AP通信によると、料理店と共同してDNA鑑定を実施するオクスフォード・アンセスターズ社は、
中央アジアなどで計「1700万人」の男性が、チンギス・ハンの遺伝子を受け継いでいる
可能性を指摘している。

「シシ」によると、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことを
たたえるのが目的。
モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていた。
しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けている。
先月末までに国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したという。

2004.07.07 Web posted at: 20:42 JST - CNN/AP
http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200407070029.html

310 :世界@名無史さん:04/07/24 23:01
今の横綱はテムジンの血を引いてそうだな。
もろに。

311 :世界@名無史さん:04/07/24 23:14
特に朝青龍は間違いないw

312 :世界@名無史さん:04/07/25 05:01
ttp://www.uraken.net/rekishi/reki-chu27.html

>イギリス軍は清の各地を占領していきました。そして、殺人に略奪にとやりたい放題

313 :じゃじゃやーん:04/07/26 21:35
モンゴル人はアランと間男子孫。
ようは不純ってことだ。そんなもんだ「ふーん」

314 :定説です:04/07/26 22:31
モンゴルの征服は野蛮。白人の新大陸開拓は人類の偉業。

315 :世界@名無史さん:04/07/30 21:59
定説です殿は
モンゴルにカネで転んだ
エゲレス脱走将校であります!


316 :世界@名無史さん:04/08/03 19:32
>>315
ポーランドまで迫った時に、イギリスやデンマークで脱出の船出の準備で
民衆が殺到したって本当だったんでしょうか? 買占めのせいで物価も高騰したとも。

317 :世界@名無史さん:04/08/03 21:35
315の エゲレス将校ってのは
十字軍くずれだろう



318 :世界@名無史さん:04/08/03 23:26
珍レイプ=犯(ハーン)

319 :世界@名無史さん:04/08/12 20:45
珍レイプの末裔=韓(ハーン)


320 :世界@名無史さん:04/08/23 20:31
■▲▼
【7:9】【歴史】チンギスハンは読み書きができたという新説
1 名前:☆ばぐ太☆ ◆JSGFLSFOXQ @擬古牛φ ★ 04/08/23 20:24 ID:???
★チンギスハンは読み書きができたという新説

・新華社通信によると、モンゴル帝国の始祖とされるチンギスハンは
 読み書きができたとの新説が発表された。

 歴史家の間では、モンゴル文字は13世紀初めに発明されたため、
 1167年頃に生まれ、当時40歳前後だったと思われるチンギスハンは
 読み書きができないとの定説があった。
 しかし、中国内モンゴル自治区の大学教授テングス・バヤリン氏によると、
 1219年に道教の学者に宛てたチンギスハン自筆の勅令を発見したと
 述べた。

 教授は、モンゴル語で書かれた原文は文体と調子が独特で、筆者は
 チンギスハン以外にあり得ないと指摘。
 さらに、チンギスハンが同一人物に後で送った手紙には、「部下にあなたの
 講義の内容を編集し、案内書を作成するよう命じた。私は個人的にそれを
 読むつもりだ」と書かれており、教授はチンギスハンが読むこともできたと
 している。
 チンギスハンはモンゴルの部族を統一し、騎馬隊を結成。中国をはじめ
 中央アジア、西はポーランド、ハンガリーを征服し、一時、巨大帝国を築いた。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040823-00000953-reu-int


321 :世界@名無史さん:04/08/23 20:32
【歴史】チンギスハンは読み書きができたという新説
1 名前:☆ばぐ太☆ ◆JSGFLSFOXQ @擬古牛φ ★ 04/08/23 20:24 ID:???
★チンギスハンは読み書きができたという新説

・新華社通信によると、モンゴル帝国の始祖とされるチンギスハンは
 読み書きができたとの新説が発表された。

 歴史家の間では、モンゴル文字は13世紀初めに発明されたため、
 1167年頃に生まれ、当時40歳前後だったと思われるチンギスハンは
 読み書きができないとの定説があった。
 しかし、中国内モンゴル自治区の大学教授テングス・バヤリン氏によると、
 1219年に道教の学者に宛てたチンギスハン自筆の勅令を発見したと
 述べた。

 教授は、モンゴル語で書かれた原文は文体と調子が独特で、筆者は
 チンギスハン以外にあり得ないと指摘。
 さらに、チンギスハンが同一人物に後で送った手紙には、「部下にあなたの
 講義の内容を編集し、案内書を作成するよう命じた。私は個人的にそれを
 読むつもりだ」と書かれており、教授はチンギスハンが読むこともできたと
 している。
 チンギスハンはモンゴルの部族を統一し、騎馬隊を結成。中国をはじめ
 中央アジア、西はポーランド、ハンガリーを征服し、一時、巨大帝国を築いた。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040823-00000953-reu-int

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1093260279/

322 :世界@名無史さん:04/08/24 10:59
もし、事実なら、だれがテムジンに読み書きを教えたのか?
ボルテ?

323 :世界@名無史さん:04/08/24 11:03
そりゃ自分が命令して文字作らせたんだからなあ。

324 :世界@名無史さん:04/08/24 11:17
タタ・トンガ

325 :世界@名無史さん:04/08/24 12:30
>>321のニュースYahooで大きく扱ってたな。
あくまで「説」だろ。こんな事が重要ニュースなのかねぇ。
読み書きができても不思議でないとは思うが。
いやそれ以前に、なぜ従来彼が文盲だと思われていたのか?

326 :世界@名無史さん:04/08/24 12:50
遊牧民の英雄は文盲の方がそれらしくていいよ。

327 :世界@名無史さん:04/08/24 13:32
中国発の歴史・考古関係ニュースは最近デムパが
多いから注意した方がいいよ。

328 :世界@名無史さん:04/08/24 18:12
つうかそんなにたくさんやりまくって性病は大丈夫だったのか?ハーン。

329 :世界@名無史さん:04/08/24 18:18
>>328
全部処女かようじょ

330 :世界@名無史さん:04/08/24 19:46
>>329
そんなことない。
ハーン推戴後にモンゴル国内のキリスト教部族を滅ぼした時、
殺した頭領の母親を妾にしてたと思う。外見が若々しいとかいう理由で。

331 :世界@名無史さん:04/08/24 20:00
中央アジアの遊牧民には嫂婚制(levirate)の習慣があるから、その延長みたいなものか。

332 :世界@名無史さん:04/08/24 23:57
>>323
文字は漢字でしょ?
どこにもモンゴル文字の読み書きとは書いてないよ。
モンゴル語とは書かれているけど。
ま、どちらにしろテムジンは馬鹿ではないのはたしかなんだから文字くらい簡単に覚えるでしょ。

333 :世界@名無史さん:04/08/25 01:17
333

334 :世界@名無史さん:04/08/25 07:44
> 原文は文体と調子が独特で、筆者はチンギスハン以外にあり得ない

この辺が意味不明。
単なる思いこみ、あるいは受け狙い>プラス便乗煽り記事
先日の『酒池肉林発見』と同じく低レベルのニュース。

335 :世界@名無史さん:04/08/27 23:27
チンギス・ハーン
【指導】 10
【戦術】 10
【戦略】 10
【内政】  3
【政略】  6
【人望】 10


336 :世界@名無史さん:04/08/28 00:29
その頃のモンゴル人を描いた絵は日本の「蒙古襲来絵詞」しかないってホント?

337 :世界@名無史さん:04/08/28 00:36
中国にも西アジアにもにもヨーロッパにもいくらでもありますが。

338 :世界@名無史さん:04/08/28 00:39
そうなんだ。どっかで聞いた話を真に受けてた。

339 :世界@名無史さん:04/08/28 05:06
>>335
10段階評価なら内政は少なくとも6か7程度はある筈。人口統計制度としての万戸制度などを整えて彼我の勢力格差を
正確に数値化して捉えようとしたり、ケシクなどの集団組織を整えて内政基盤を築き上げた手腕は軽視出来ない。
戦術は7か8程度。(単純に比較するなら、おそらくジャムカの方が高いだろう。実際に敗北を喫している)

>>336
ジャルード・ウッディンが攻城戦を描いた絵画や、ポーランド侵攻の際に描かれた絵画が割合と有名だよ。

340 :世界@名無史さん:04/09/16 18:41:27
あまり話題に上らないが、インド方面へのモンゴルの影響って大きかったの?
経済面・文化面・・・あまり歴史を変えたようなことは耳にしたことないけれど。

341 :世界@名無史さん:04/09/16 21:15:05
主題とは逸れるが、パンツ、ブーツ、蒸留酒(ビール)、麺とかってモンゴルが世界帝国化して
ユーラシアに伝来したってほんと?

342 :世界@名無史さん:04/09/17 18:24:12
>>341
パンツはどーだか分からないが、ブーツというかヒール付きの足首くらいまでの丈のある革靴らしいもの(ブーツで良いのか)を
『集史』のパリ本やケンブリッジ本とかを見ると、絵画資料の中でモンゴルの王族や貴族が履いてるのがわかる。
ティムール朝時代の絵画資料でも同じ物を履いてるのがみえるが、それが西洋の服飾に影響したかどうかは(個人的に)未詳。

343 :世界@名無史さん:04/09/17 19:05:24
モンゴル人が何かというと宴会を催して大飲大食するのは、当時の旅行記などでもよく記録されていて、
とくにモンゴル王侯が主催する宴会(トイ)では、葡萄酒や馬乳酒(テュルク語などでいうクミス)が振る舞われた。
当時の葡萄酒は干しぶどうを発酵させた甘みとアルコール度数が強烈に高い濃い酒だったらしく、
現在も中央アジア特産の甘い葡萄を使っているため近(現)代に至るまでイラン中央アジアで長く愛飲された模様。

もう一つの馬乳酒は、二種類あったらしく普通に発酵させただけの白濁した馬乳酒と
ルブルクのギョーム修道士の旅行記などでしばしば「黒コスモス酒」(カラクミズ?)と呼ばれている、
発酵させた馬乳酒をさらに蒸留させた透明な馬乳酒の二種類あったらしい。
テュルク語では澄んだ水のことを「カラスゥ:黒い水」と表現する例があるので、
馬乳酒の蒸留したものも同じ理屈でこのように呼ばれたのだろう。

9〜10世紀のアラビア語で書かれた料理書にイトリアとリシュタと呼ばれる細麺が既に紹介され、
以後アラブの料理書ではクスクスと並んでその料理が紹介されるようになる。
前者のイトリアはギリシア語ないしシリア語起源らしくシリア教会のキリスト教徒など食べており、
後者のリシュタはペルシア語でイラン・中央アジアの人々が日常的に食べていると記されている。

モンゴル時代以降に編纂された料理書に「トゥトゥマージュ」と呼ばれる料理が登場するが、
これは肉や香味などをミンチにして麺の薄皮で包み油で揚げたものをいうらしく、
元代の料理書にも同じ名前の料理が紹介されている。

344 :世界@名無史さん:04/10/04 22:28:56
世界中の女とセックルなんて、正直逝って羨ましいです(´・ω・`)
特にロシアや中東などを襲撃して連れ帰ったオナゴはヨダレが出る(;´Д`)ハァハァ

345 :世界@名無史さん:04/10/04 22:35:09
チンギス・ハンの墓が見付かるかもしれないんだって?

346 :源氏の末裔:04/10/04 22:38:38
チンギス・ハーンの肖像画は、恐れながら「皇太子殿下」に似ていると思うのは漏れだけか?

347 :世界@名無史さん:04/10/04 23:08:45
> インド方面へのモンゴルの影響って大きかったの?

モンゴルよりもテュルク系とアフガン系だろね、
大きく影響を及ぼしたのは。イスラム教も中央アジア系
肉料理も持ってきたのはこいつら。

モンゴル→チャガタイ家→ティムール家→ムガル帝国
と辿れば、広い意味でモンゴルの影響あり、とはいえる。

348 :世界@名無史さん:04/10/04 23:13:35
一つ面白い例がある。それはミニアチュール(細密画)。

インドのミニアチュールは、イランのミニアチュールを
そのままフマユーンが持ってきて広まったものだが、
ではイランのミニアチュールはというと・・・

これは13世紀にフレグが中国の絵師をイランに連れて
きてから発達したもの。イランのもインドのも妙に
東洋風で親近感わくと思ってたでしょ。

349 :世界@名無史さん:04/10/04 23:15:57
ユーラシア大陸のちょうどモンゴル帝国の領土内にすむ男性から
特徴的なY染色体遺伝子が発見されている。これは、
http://www.oxfordancestors.com/genghis_khan.html
にあるとおりなのだが、どうやらチンギスハーンの子孫ということ
らしい。やりまくったってことらしいのだが。

350 :世界@名無史さん:04/10/04 23:17:30
それから13〜14世紀にモンゴル勢力がインドに手を
出さなかった理由は、その手前のアフガニスタンで
チャガタイ家とフレグ家が陣取り合戦を繰り返していて
どっちも先に進めなかったから。

14世紀には、カシミールに出自不明のズルカダル・ハーン
(たぶんチャガタイ家)というのが入って暴れ回ったけど
数年間だったな。

351 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 00:01:40
なんだって?義経の墓がみつかったって?

352 :世界@名無史さん:04/10/05 00:34:21
霊廟。墓ではない。
正直、いいかげんな報道だけでは、
白石典之が以前から言っていたことと何が違うのかわからん。
単に記者会見しただけ?

353 :世界@名無史さん:04/10/05 08:17:47
>>352
アウラガ遺跡=霊廟、という確証はなかったんじゃないの?

発表に今更な感じがあるのは、「たぶんそうだろう」とはずっと思われてたからで、
俺らも早々とイコールで繋いじゃってたからでしょう。

61年以降やってたのはその確証を得るための発掘だし、日蒙合同でやってる
プロジェクトも遺跡全体図を作成する事業だったり、これまでの作業は霊廟として
研究を進めるための前段階だったんじゃないのかな。

なので、この発表がターニングポイントであるのは確かでしょう。

354 :世界@名無史さん:04/10/05 18:17:59
【歴史】"世界7不思議" チンギス・ハンの霊廟発見か…日本とモンゴルの合同調査団

1 :☆ばぐ太☆ ◆JSGFLSFOXQ @擬古牛φ ★ :04/10/05 12:42:36 ID:???
★世界7不思議チンギス・ハンの霊廟か

・世界の7不思議の一つと言われる チンギス・ハンの墓の 在り処がわかる
 かも しれません。モンゴルのアウラガ遺跡で調査を 進めている日本とモンゴルの合同調査団が
 チンギス・ハンのものと みられる霊廟の跡を 確認しました。
 調査団によりますと 確認された霊廟の跡は およそ11メートル四方で周囲
 からは馬の頭骨などが 見つかっています。
 チンギス・ハンを祭った祭礼では霊廟の周囲で馬の頭骨やあばら骨などを
 燃やす儀式が 行われていたとされていて、調査団では付近の地層調査の
 結果などからもこの霊廟が チンギス・ハンのものである 可能性が高いと
 みています。
 チンギス・ハンの 墓の在り処については、「霊廟の半径12キロが候補地」
 と史料に記されていて、霊廟の特定により チンギス・ハンの墓の 在り処の
 特定に 一歩近づいたことになります。
 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye1046624.html

※動画URL: http://news.tbs.co.jp/asx/news1046624_12.asx
※関連スレ
・【歴史】チンギスハンは読み書きができたという新説(dat落ち)
 http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1093260279/


355 :世界@名無史さん:04/10/05 22:08:49
とにかく白石さんよーやったわ。
これで東上か?新潟じゃ勿体なすぎ。

356 :世界@名無史さん:04/10/07 23:36:11
国学院のサイトにちょっとだけ詳しい情報が載ってた。

ttp://www.kokugakuin.ac.jp/kouhou/news/past/02.5/200205chinngisu.htm
ttp://www.kokugakuin.ac.jp/kouhou/news/past/03.7/0307han2.htm
ttp://www.kokugakuin.ac.jp/kouhou/news/past/H16PDF/gakuhou9.pdf

357 :世界@名無史さん:04/10/07 23:45:48
それにしても驚いたのは、トゴン大師時代、
15世紀前半までアウラガで祭祀をやってたって情報。
トゴンがチンギスの鏑矢で打たれて死んだという伝説の舞台はここなの?
それとオルドスの移動式霊廟との関係も知りたい。

358 :おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/10/08 21:53:37
>325
1960年に出版された故・小林高四郎氏の『ジンギスカン』には、
「ジンギスカンが文盲だったことを裏切る記録がある」として
フビライ期に「太祖皇帝(ジンギスカン)の御署名」なるものを
用いていたことを指摘し、自分の名前ぐらいは書けたのではないか、
しかしタタトンガから自分は文字を学ぼうとしていないのだから
厳密な意味では文盲だったのだろう。と書かれています。

359 :世界@名無史さん:04/10/27 02:15:28
>>358
実際そのことが書かれてある漢籍をあたらないと何ともだけど、
テュルク・モンゴル系の遊牧民族には「タムガ」と呼ばれる家畜用の焼印があって、
それが部族の標章にしていたので、あるいはその「ご署名」もそれを指してる可能性もあるかも。

簡単な記号がたいてい使われたので、もしそれだったら必ずしも漢字やウイグル文字を書けたかどうか、
証拠とするにはちょっと不十分かと・・・

もっともチンギス・カン自身は諸子や孫たちにウイグル文字を習わせたり
イスラムの知識人に初等教育を任せたりしてるので、文字文化そのものには
戦略的に重要だとは十分認識していたみたいですな。

360 :世界@名無史さん:04/10/28 17:02:26
チンギス・ハンの若いときの話ってどこまで事実なんだろ
なんか家族だけで生活してた時期があったみたいだけど
やっぱなんだかんだいって30人ぐらいはいたんかな?


361 :世界@名無史さん:04/10/28 17:03:20
age

362 :世界@名無史さん:04/10/28 17:52:09
>>360
自分で魚釣りして、釣った魚を盗んだといって兄弟を殺すぐらいだから
4〜5人の世界だろ。

363 :世界@名無史さん:04/10/28 20:21:25
>>362
ベクテルの実在は疑われている。

364 :世界@名無史さん:04/10/28 20:44:06
ボルテとは少年時代に会ってるから彼女の縁者も含んでもいい?
あと父の暗殺に加わったのを謝罪しに来た男と馬泥棒を共に追ったボオルチェ・・・・
100人はいてもいいな。

365 :世界@名無史さん:04/10/28 22:11:03
>>364
ガキとはいえ一応族長だったんだから実際はそれぐらいはいたと思う
伝承だと5,6人って感じだけど
それはいくら何でも違うだろって気がする

366 :sage:04/11/08 05:01:09
>>360
チンギス・ハンの若い頃、タイチュウト族長タルグタイ・キリルトクに捕まって
逃げるときにスルドス部のソルカン・シラに助けられたって話は
元朝秘史にも集史にも載ってる有名な話だけど、
これはモンゴル帝国の最有力部族であるスルドス部の起源に関わるから載せられた感じ。

チンギス・ハンが宿敵タイチュウト族を倒してモンゴル高原に進出する足掛かりを作った
政治的に重要なエピソードだから広く知られたのだろうけど、
チンギス・ハン単独で幼少の挿話となると元朝秘史以外なかなか情報が少ないかも。


367 :世界@名無史さん:04/12/17 21:38:54
>>30
V.ヤンというロシア人がソ連の時代に書いた
ジンギスカン
バトカン西へ行く
最果ての海
(平凡社)
が最高に面白いです。
ただ、だいぶ前の出版ですのでなかなか手に入らないと思います。
私は、初め井上靖の「蒼き狼」を読みましたが、登場人物の多彩さ、
歴史的事実に細部まで忠実なこと、
当時としては珍しくロシア遠征まで扱っていること等
このロシアの小説には全くかなわないと思いました。
特に、バトを補佐してロシア遠征を成し遂げるスブタイはすばらしいの一言。
ぜひ手に入れて読んでみて下さい。
それと、ジュワイニーの世界征服者の歴史が英語で出ています。
これも最高に面白いです。英語ですが挑戦してみてください。
最後に。
紹介しておいて言うのも変ですが、どなたか、v.ヤンの前出の小説の入手方法をご存知の方、
ぜひ教えてください。
20年ぶりに再読したいです。


368 :世界@名無史さん:04/12/19 00:32:58
「バト汗西へ行く」を大学の図書館で見つけて今読んでる・・・奇遇ですな。

369 :世界@名無史さん:04/12/19 11:20:02
>>368
実は私が読んだのも大学の図書館で、でした。
(同じ書棚には、びっこのチムールという本もありましたが、そこまでは読み進めませんでした。)
ジュチが息子のバトに向かい、
「予の父、ジンギスカンが世界の半ばを平らげたまい、
イスケンデルズルカルナインが残りを平らげた。
バトよ、お前には何も残されていないではないか。」
といったのに対し、バトが
「私は、イスケンデルの土地を奪って見せまする。」
と答えた場面を印象深く覚えています。
(20年前の記憶で表現は不確かですが。)
また、野営中のモンゴル軍兵が、オノン河、ケルレン河を懐かしがって歌う歌
も、記憶に残っています。
モンゴルの将校の問いにけなげに答えるルーシの少女の姿、
バトの後宮に入れられながら昔の恋人を忘れない女性の最期(ユルドゥスカトンという名前だったでしょうか。)
等々、是非復刻本か何かを手元においてゆっくり読み返したく思っています。
絶版本の入手の仕方を知っている方、ぜひ教えてください。

370 :世界@名無史さん:04/12/19 11:31:13
>>368
369中、イスケンデルとジンギスカンは、順序が逆だったかも知れません。
不確かな記憶で申し訳ありません。


371 :世界@名無史さん:04/12/19 13:46:26
白帳汗国の開祖オルダについてはどうでしょうか。
その本に何か書かれていますか?

372 :世界@名無史さん:04/12/19 14:10:56
お前らよくそんな本おもしろく読めるな
まぁ実際おもしろいんだろうとは思うが
どんなにかっこよく書かれてても
残虐な部分しか印象にないからどうしても想像力働かせて
残虐な場面を頭の中で描いてしまう 
朝昇竜とかの顔で

373 :世界@名無史さん:04/12/19 15:59:46
>>372
主に残虐に描いているのは西欧諸国の史書や、ソ連なんかの赤派勢力の影響が強いから。
未だにそういうイメージが強いけど、実際に調べてみたら大虐殺が行われたと記されているのに
以前より人口増えて豊かになってたり、灌漑施設を破壊し尽した筈なのに収穫量増えてたりとか
現代でいうところの戦中南京問題みたいに適当でおかしな記述が多いんだよ。
「タタールのくびき」とか言う割には、結果的に異文化技術が流入してきて栄えてるわけで。
モンゴルが敵勢力と戦ってとことんやりあったのって、ジャラール・ウッディン追撃戦くらいだなぁ。

374 :おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/12/19 17:40:04
>366
>チンギス・ハン単独で幼少の挿話となると元朝秘史以外なかなか情報が少ないかも。
まあ、比較的信憑性が高い物と言うと秘史以外になかなか無いですね。
秘史も所詮は叙事詩ですし、どうかと思う部分も多いのですが。
信頼できない記録だと、金国の奴隷になっていただの
鍛冶屋をやっていただの、色々あるのですが、どれも根拠が薄弱でして。
元史の著者宋レンや、十八史略の著者曾先之も嘆くように、
チンギス・ハンの若い頃の記録は「記録がほとんどなく、誠に
惜しいことだ(元史・巻一太祖本紀)」ということぐらい
しかいえません。

>373
杉山正明氏がこの問題については詳しいですね。
なんでもモンゴル側が故意に残虐な噂を流し、
降伏を誘うという手を取っていたのではないかともいわれております。


375 :373:04/12/19 18:56:26
>>374
そうだね。金国や南宋なんかに兵を差し向けたときも敢えて残虐な噂を流布して、戦争に
巻き込まれるのを嫌う当時の気運や国への不信感を煽りに煽った結果、戦わずして城郭
守備兵を丸ごと(将軍ごと)寝返らせたりしてる。
噂の反面、「投降した者でも厚遇・重用する」という一面を見せることで投降に益々拍車が
掛かって、結局は敵対国の内部崩壊を誘うという強かな戦略性が強い。戦略抜きで兵を
差し向けたのは、先程も述べた通り、ジャラール・ウッディン戦くらい。
これも「王族や親族に対して危害を与えた存在に対しては全力にて報復する」という理由
付けがされているから、単に残虐性というイメージだけで語るのは却って難しいんだよな。

376 :世界@名無史さん:04/12/19 22:36:35
>>371
残念ながらそこまでは描かれていません。
「地の果てまで(最果ての海)」は、オゴタイの死去の報を受け、モンゴリア帰国を主張する
バトと、地の果てまでの遠征続行を主張するスブタイが決裂し、スブタイがさらに西への遠征を続けるところで終わっていました。
ただ、日本の作家の作品とは一味違います。やはりソ連時代のロシア人の作品です。
ロシア(ルーシ)の英雄的な抵抗の姿がよく描きこまれていたと記憶しています。
イスラム教徒の知識人でハジラヒムという人物が登場しますが、
彼はモンゴルから彼らの遠征の記録をとることを命ぜられ、遠征の馬上で筆を取り続けます。
ジュワイニーは、「世界征服者の歴史」を旅の途上、馬上で記したといわれていますが、それを
念頭においているのかも知れません。
いずれにしても、作者の中央アジア、中東に対する知識の深さも垣間見られる作品でした。
(すみません。何しろ20年前の記憶ですので、間違いもあるかも知れませんが。)


377 :世界@名無史さん:04/12/19 23:36:00


378 :世界@名無史さん:05/01/14 02:14:01
>>22
そうそう欧州の白豚のオナニーだからなw
遊牧民族に征服された過去を消してしまいたいんだろうw

379 :世界@名無史さん:05/01/18 02:21:30 0
チンギスハーンって結局はどういう人間だったんだろ?
性格とか。

380 :世界@名無史さん:05/01/18 16:33:07 0
極めて好色家。攻撃性と性欲は密接な関係がある。
敵大将の妻を陵辱することで征服欲を満たした。
残忍な処刑も好む。
戦争の勝敗の大勢が決まってから降伏する人間を許さなかった。
降伏者を残忍な処刑を施すことにより精神の安定を求めた。


381 :世界@名無史さん:05/01/18 16:42:33 0
>>380
ステレオタイプな見方だな

382 :世界@名無史さん:05/01/18 17:27:55 0
>>381
そんなこともあるまい。

テムジンが幼少の頃に子供同志の喧嘩で石を使って相手を殴ったことから、
残酷な性格であるとして部族内からテムジンの人格について疑問視する動きがあった。
父エスガイがこれに応じるような形でテムジンを他の部族の婿に出している。
チンギスの冷酷な性格は同族からも危険視されていたようである。

383 :世界@名無史さん:05/01/18 19:53:39 0
日付の後の0?
携帯じゃないってことか?

384 :世界@名無史さん:05/01/18 19:58:56 0
間違いなく世界史上ダントツ最大最強の征服者だが白人じゃないせいで
アレクサンドロス・ナポレオンごときと同格視されている(ヘタすれば三大征服者にも入れてもらえない)

世界史三大征服者はチンギスハン>>>>>>>>ティムール=アレクサンドロス=フラグとかバトゥとかフビライとか>>他

385 :世界@名無史さん:05/01/18 20:28:00 0
♪ジン、ジン、ジンギッカ-ン!
♪ジンギス、ジンギス、ジンギスカーン!

386 :世界@名無史さん:05/01/18 21:49:45 0
チンギス・ハンは気性が激しくて残忍であると同時に
寛大で親分肌だったんだろう
けどそんな奴いくらでもいる
チンギス・ハンがそこらの親分肌の人間と違うのは
かなり頭が切れたということだな
それまで遊牧国家はゆるい部族連合体だったので
離合集散が繰り返されたが
チンギス・ハンは部族を解体して遊牧民を国家組織に再編した
それはその当時において凄く革新的だった
遊牧民の生活スタイルを変えてしまうものだからね
こんだけ強引なことをやれたのは
やっぱり突出したカリスマ性があったんだろうな
他にも外交、戦略ことごとく成功してるから
すごいとしか言い様がない



387 :世界@名無史さん:05/01/18 23:42:51 0
「その眼に光あり、その面に炎あり」
と称されたテムジンの風貌だが、
イスラム教徒がチンギスの居る暗い幕舎に招き入れられた時、
チンギスの目が光っていたと述べている。

単に暗い場所なので瞳孔が開いてたから
光をよく反射しただけなのかもしれないが、
面白いエピソードなので書いてみた。

388 :世界@名無史さん:05/01/19 04:54:58 0
>>381
>テムジンが幼少の頃に子供同志の喧嘩で石を使って相手を殴ったことから、
ちょっと待った!!
確かに井上靖の『蒼き狼』にはそんな話があるけど、
『元朝秘史』にも『エルデニ・イン・トゥプチ』にも『集史』にもそういう内容の挿話は出てこない。

チンギス・ハンの正妃ボルテ夫人はコンギラト氏族のデイ・セチェンの娘だけど、
『秘史』を読む限り、イェスゲイが嫁探しのときにコンギラト氏族のところにやってきたのは、
ボルテが器量が良いと聞きつけたからで、性凶暴なテムヂンを他家へ押しつけるような感じではない。
それに実際にボルテを嫁にもらったのは『エルデニ』の記述から判断すると17歳以降ということになる。


389 :世界@名無史さん:05/01/19 05:22:10 0
>『元朝秘史』にも『エルデニ・イン・トゥプチ』にも『集史』にもそういう内容の挿話は出てこない。
この挿話、分厚い漫画で見たことあるよ。サイズもA4版だったはず。
部族の話し合いでエスガイに対してテムジンの気性を抗議する話も出てた。
井上靖の「蒼き狼」が参考文献になってたかどうかは知らない。

>ボルテを嫁にもらったのは『エルデニ』の記述から判断すると17歳以降ということになる。
11歳で婿に出されたんじゃないの?

390 :世界@名無史さん:05/01/19 11:23:55 0
>>389
じゃあお前は陳寿の読まずに横山三国志や園田三国志の知識で語るのか?

391 :世界@名無史さん:05/01/26 10:03:59 0
ケレイトやタタル、ナイマンの王族が読み書きしていたのにボルジギンの王が読み書きできなかったと言う方が不自然。


392 :世界@名無史さん:05/01/26 11:39:44 0
いや、ケレイト王国は11世紀初頭にネストリウス派を受け入れ、ナイマン王国はウイグル王国に隣接していたからだし、
タタル部族は直接金朝やキタイ族と交流があったから、それぞれ文字文化に触れる環境にあったけど、
キヤト・ボルジギンもタイチュウトも周辺を強力な部族集団に取り囲まれて、外来の文字文化と直接接触できる機会がない。

チンギス・ハン自身、ナイマン王のタイ・ブカに「森の王」と侮蔑されたように、
キヤト・モンゴルが草原社会に進出したのは遊牧集団でもかなり後発の新参者・田舎者だったと見なされていた。

確かにナイマンを滅ぼした時、印璽を管理していた書記官タタ・トンガが
文字と印璽の効用を説いた逸話は有名だが、ナイマン以下、支配王族たちでさえも文字を使えたかは
『元朝秘史』などで確認がとれてないのだが・・・

「王と書記」の関係はシュメールの頃からあるが、紀元前二千年紀前半の古バビロニア・アッシリアの王でさえ
「文字か書ける」と宣言している王は少ない。前近代では股肱の書記さえある程度配置でき常に扈従できれば
支配者自身文字が読み書きできなくても政務上支障なかったといえる。
(キリスト教徒や仏教徒は「写経」の習慣があるので政務とは別に文字を読み書き出来る必要はあるだろうが)
>チンギス・ハンの孫の世代は、初等教育をムスリムの学者達などが担当していたのでウイグル文字、アラビア文字が読み書きできたのはほぼ確実

393 :世界@名無史さん:05/01/28 20:12:33 0
テムジンは父を殺された後はトオリル・ハンの世話になった経歴があり、
教育される機会があったと思うが。
幼少のテムジンがトオリルの世話になった辺りはモンゴルとしては
出来る限り卑小化させようとしているが。


394 :世界@名無史さん:05/01/28 22:54:01 0
『秘史』を読む限りオン・ハン、トオリルを卑小化させてるようには見えない。
むしろ父の頃から恩顧ある人物が息子たちやジャムカの計略にのせられて敵対することになり、
ついには破れて逃亡中にナイマンの将軍の手にかかり横死してしまう悲劇的展開を述べている。

ケレイト部はボルテを出したコンギラト氏族と並ぶチンギス・ハン家のもっとも重要な姻族として
その後のモンゴル帝国の中枢を支える中核部族となり続けた。
トルイの寡婦でモンケ、クビライ、フレグ、アリク・ブカの母となったスルコクタニ・ベキはオン・ハンの姪。

エルデニ・イン・トゥプチの記述ではオン・ハンについてはほとんど触れていないが、
タイチュウトから逃げ延びたテムヂンは、その後、9歳の時許嫁になったボルテ夫人と17歳で結婚したと述べている。
(ボルテはこのとき13歳だったという)
『元朝秘史』ではそのボルテ夫人との結婚ののち父イェスゲイと盟友を誓ったケレイトのオン・ハンを頼ったことになっている。

その後のケレイトとの関係を見ても、別段文字教育につながる記述は見いだせなかった。


395 :世界@名無史さん:05/01/28 23:17:10 0
チンギス・ハンの容貌を指して、

「面に光りあり、眼に火あり nidün-dür-iyēn γaltu, ni'ūr-tur-iyān gerētü」

という表現は、『元史』やほかのモンゴルの口頭文学、英雄叙事詩の類でも「賢明な相を称える常套句」であるという。
目の輝きに英知をみるのはモンゴルのみ成らず広くみられ、血色の良い紅顔は、健康と幸福の象徴とされる。

さらにこの辞句はテムヂンのみならず、許嫁となったボルテ夫人の形容として
『秘史』では嫁探しに来たイエスゲイが幼少のボルテ夫人を見て口にしている文句であることにも注目すべき。

396 :世界@名無史さん:05/02/03 17:18:11 0
最近ジンギスカン料理専門店がやたらに増えたような気がしないか?
ブームなんだそうだけど。

397 :世界@名無史さん:05/02/03 19:17:33 0
モンゴル料理の店ならふえたけど。ジンギスカンがふえてるかなぁ?

398 :世界@名無史さん:05/02/03 19:32:43 0

ベンサムの哲学こそは英国社会主義、英国型全体主義(命令社会)思想の土壌となった。
ベンサムの哲学とは、単純化して言えば、経済については「完全な市場競争経済」である
のに、政治は国家権力が全国民すべての個人個人を監視し「幸福」を強制するという実に
奇妙な全体主義体制の構想であった。
国家権力が個人の領域であるべき「幸福」を考え、この「幸福」を各国民に命令と強制に
よって与える全体主義体制を「ユートピア」とするベンサムにとって、個人の自由はひと
かけらも存在してはならないものである。


399 :世界@名無史さん:05/03/02 19:23:40 0
『秘史』によると、イェスゲイが息子テムヂンの嫁探しに
コンギラト氏のデイ・セチェンのもとに訪れたとき、テムヂンは9歳、
デイ・セチェンの娘ボルテは一年年長の10歳だったという。

このときデイ・セチェンは、イェスゲイのボルテをテムヂンの嫁にしたい
という申し出を快諾するのだが、幾度も求婚して嫁に出すなら問題ないが、
ちょっと求婚されただけで嫁に出すのは世間体が悪いので、
ボルテを嫁に出すかわりに、テムヂンをこちらの聟として置いていって欲しい。
と頼んだ。

イェスゲイもこれを承諾し、テムヂンをデイ・セチェンのもとに聟として置いて行くことにした。
その際イェスゲイは、テムヂンは犬をこわがるので、我が子を犬で怖がらせないで欲しい、
と頼んでいる。モンゴルの犬は獰猛この上ないので、我が子を家族同然に迎えて欲しいと願ったことになる。

>>394で『蒙古源流』はボルテ夫人がテムヂンより4歳も年下のような書き方をしているが、
そこら辺の古い時代の情報の正確さには、やはり注意が必要な文献だと思う。

ちなみにテムヂンをコンギラト氏に聟に出した帰り、イェスゲイはタタル部に毒を盛られ、
三日後自分の家に帰宅してそこで亡くなったと『秘史』では述べている。
帰宅後イェスゲイは臨終まぎわに家人にテムヂンを早く連れ戻して来て欲しいと頼んでいるので、
テムヂンがコンギラト氏のもとに居たのはほんの数日ということになる。

400 :世界@名無史さん:05/03/04 02:36:35 0
>>396
狂牛病の余波で羊肉人気とか?

401 :世界@名無史さん:05/03/05 03:25:49 0
狂牛病ってもとは羊の病気なのにな。

402 :世界@名無史さん:05/03/12 12:58:31 0
古くから知られていたスクレイピーね。
遊牧民は家畜に家畜を与えたりしたことはあったのだろうか?

403 :世界@名無史さん:05/03/12 15:04:55 0
>>40
「五畜」といわれるように代表的な畜獣は、羊、馬、牛、駱駝、驢馬などが
知られている。モンゴルではたまに穀類などが与えられる場合もあっても、
基本的には草原地帯の牧草でのみ育成される。

中央アジア、西アジアの遊牧民でも事情は同じだが、都市部や村落といった定住民では
馬や驢馬は大麦などの穀類が与えられてきた。

遊牧民や西アジア、中央アジアでは、家畜は脳髄や脊髄も全て料理に使われる。
骨はトンコツのように最後までダシを取られるし、残った残骸は犬などに与えられる。
伝統的に、西欧のような羊や牛の死骸を家畜の飼料にリサイクルすることはない。



404 :世界@名無史さん:05/03/12 15:06:01 0
>>402
>403


405 :世界@名無史さん:2005/03/24(木) 16:49:10 0
家畜解体の手順まで定めた大ヤサは全てチンギスの代に定めたものなのでしょうか?
従前からばらばらに存在した慣習をいわば一本化した、という存在なのでしょうか。

406 :世界@名無史さん:2005/04/10(日) 18:53:22 0
モンゴル馬で競馬やらないかな
サラブレッドなんか増やして何が面白い

407 :世界@名無史さん:2005/04/13(水) 22:20:51 0
>>406
子供ジョッキー限定だがナーダムとか。

408 :世界@名無史さん:2005/04/14(木) 11:26:35 0
manse-

409 :世界@名無史さん:2005/04/14(木) 11:46:48 0
>>407
ぜひ身体能力の発達の速い女児に。

410 :世界@名無史さん:2005/04/15(金) 22:35:27 0
朝青龍関、元の使節の墓を訪ねて藤沢市の常立寺へ参詣
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050415ic23.htm

〜「国の為に命を落とした祖先がいたと知って感動しました」と横綱談〜

411 :世界@名無史さん:2005/04/15(金) 23:18:07 0
>>410
元朝から派遣された使節なのは間違いないが、人員はモンゴル系だったろうか?
確か記録にある名前は漢人とイラン系だったような・・・

412 :世界@名無史さん:2005/04/15(金) 23:29:57 0
>「国のために命を落とした人たちのことを初めて知った」
になってるぞ

413 :世界@名無史さん:2005/04/16(土) 10:16:32 0
というか敵の墓を700年以上も守りつづけている方が驚きだろ。

414 :世界@名無史さん:2005/04/16(土) 14:56:34 0
>>411
殺害された趙良嗣は漢族じゃなく女真族。

415 :世界@名無史さん:2005/04/16(土) 14:57:51 0
>>414
間違えた。趙良弼が正しい。

416 :世界@名無史さん:2005/05/02(月) 15:46:04 0
          .

417 :世界@名無史さん:2005/05/04(水) 17:25:00 0
極めて好色家。攻撃性と性欲は密接な関係がある。
敵大将の妻を陵辱することで征服欲を満たした。
残忍な処刑も好む。
戦争の勝敗の大勢が決まってから降伏する人間を許さなかった。
降伏者を残忍な処刑を施すことにより精神の安定を求めた。



418 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 03:11:26 0
>417
どこら辺が好色家でどこら辺が陵辱好きでどこら辺が
征服欲を満たすために残虐な処刑法を好んだのかとか、
わざわざageるくらいだからソースを上げてカキコしてはどうか。

419 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 05:12:08 0
>>418
金に汚いように見えた捕虜に、耳から融かした銀を注ぎ込んだってのは?

所謂、処刑ではないけど旧・サマルカンドで大量の人骨が発見されているし。
女・子供も見境なしだったとする史料の記述が発掘で事実と確認された。

420 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 14:52:31 0
チンギス・ハンだけでなく英雄は性欲旺盛だし
まぁ、人間の行動は全て性欲と密接に関わってるからね
フロイトと読めばわかることだが
強い人間は性欲も強いだろう

421 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 15:09:15 0
普通の人でも、普通に性欲は強いと思う。
英雄と称される人々は、実行に移しても批判されないだけの力を持っていただけのこと。

上杉謙信は性欲が強かっただろうか?
ヒトラーは性欲が強かっただろうか?

422 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 15:27:45 0
謙信は男色家だよ。

423 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 15:48:54 0
>>422

全く女性を近づけなかったので、そういう噂がたっただけだよ。
証拠となるべき恋文などもなく、寵愛をうけた者がいたことを示す一級史料もない。

49歳の若さで厠で卒中を起こして死去したことからも判るとおり、
主人の健康状態を常時把握しうる立場の者がいなかった。

424 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 17:03:26 0
フロイトによれば
性欲が宗教心や理想、征服欲、名誉欲、とかいろいろなものに転換されるんだから
そういう意味ではヒトラーも謙信も性欲は強いことになる
人間のエネルギーの原初的なものが性欲で、それがいろいろな他の欲望に
転換されるんだよ


425 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 17:30:02 0
>>421
フロイト読んで

426 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 17:34:50 0
屁理屈な神学論争になってきたな。

427 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 18:06:46 0
フロイトは心理学の創設者ではあるが、
その何でもかんでも性欲と結びつける考え方は結構批判されているらしいからねえ。
私も詳しく知らないが、ユングあたりから既に批判が出ていたはず。

まあ、創始者ってのことは極最初の方の人間って事で、
つまり、それは第三者による詳しい検討が加えられていないって事だから、
フロイトを丸ごと信じるのはやめておいたほうが無難だわなあ。

428 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 20:06:52 0
俺の姉貴イギリスで心理学やってるけど
ユングの研究はもう欧米ではだれもやってない
フロイトはいまだに影響力あって
研究もされてると言ってた
本家でもまだフロイトの理論は無視されてない


東洋医学でも例えば整体の発想は
性は腰にあるとし
基本的に人間は腰を見れば状態がわかるっていうぐらいだ
性の働きと人間の思考や行動は深い関係がある


429 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 20:18:11 0
ユングは集団無意識とかオカルトじみたとこまで行っちゃってるからなあ。
だが、フロイトがそう言っているから正しい、
というようなことが言えるほど学問として確立したのものではないがね。

東洋医学も当然そうだが。

430 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 20:50:45 0
>>429
その発言は心理学を否定してるね
学問として確立してないとは


431 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 21:11:33 0
そりゃね、心理学も変化してるし、いろんな学派もいるし
研究分野もさまざまだ
ただ体や心における性の役割がどの程度かで意見が分かれるだけであって
性の役割を完全に否定してる学派や心理学者なんていないよ


432 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 21:12:20 0
してないに一票。

433 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 22:35:47 0
フロイトの何でも性欲と結びつけて語るのはどうかと思う。
全てが性欲に集結されるとなる唯性論なんだよな

434 :世界@名無史さん:2005/05/05(木) 23:45:07 0
この話はスレ違いだからもういい

435 :ぢゅらさん:2005/05/05(木) 23:58:29 0
>>433
まあ、フロイトは性欲つまり自己保存の欲求が
生物にとって一番基本的な欲求だと考えたからだと思うのだが。
オイディプス・コンプレックスとか父殺しとか言い出すから
デムパとか学問として確立してないって言われるんだよな。

人間の根本にはなんかこうドロドロしたエネルギーみたいなものがあって、
人間はこれがなければ個人としても生きていけず、子孫も残せないが、
適宜コントロールしないと暴走して周囲に害を及ぼす。
良くも悪くも歴史に名を残すような人間は、このドロドロが人一倍過剰。
これが一番ストレートに現れたものが性欲で、観念に形を変えて現れたものが信仰や理想、
政治的・軍事的な形で現れたものが征服欲で、社会的な面に現れたものが名誉欲。
というのがフロイト心理学の基本的な考え方で、これは小生も間違ってないと思う。
こういう見方からいけば、チンギス・ハーンなんかは
このドロドロが人の数百倍ぐらい過剰な奴だったと思うよ。
(やっとスレタイにつながった)

436 :世界@名無史さん:2005/05/06(金) 00:07:00 0
性欲というか性エネルギーとか精力とかいった方がわかりやすい

今、東洋医学は欧米でもすごい人気ある
東洋医学の本も結構売ってるし
俺は野口整体の本読んだけどあれは面白かった
人間の体と心理面の関係が良く書かれてた


437 :世界@名無史さん:2005/05/06(金) 00:09:41 0
>>435
いや全くそのとおりだと思う
自分もそういうこと書きたかったがどう書いていいかわからんかった

438 :世界@名無史さん:2005/05/06(金) 00:27:00 0
>>419-437
いやさ諸兄、チンギス・ハン個人の性格を問うにしても、フロイト云々を持ち出す以前に
原資料を精査し情報の出所とその情報の性格を見極めたうえで立論すべきであって、
根拠不明の情報でもってなにがしかを論じようとするのはどうかと思うのだが(汗

たとえば虐殺や暴虐な性格を伝えるエピソードにしても、誰の何という資料に書かれたものか
せめて学問板ならば、まず典拠を明らかにすることが何よりも肝要なことだろうと。

439 :世界@名無史さん:2005/05/06(金) 00:30:51 0
>>436
東洋思想でいう「血気」が>435の「なんかドロドロしたエネルギー」
というのに近いと思う。東洋思想と東洋医学はそれぞれこのドロドロを
コントロールする方法といえよう。
ところでチンギス・ハーンは導引とかやってたのか?
道教系の全真教の教主に「長春真人」の称号を与えて道教を統括させた
という記憶があるが。

440 :世界@名無史さん:2005/05/11(水) 02:05:45 0
この人、生涯でどのくらいレイープしたんだろ。
華北〜中近東までの美人選りすぐって、数百人?

※妾との子供が生まれても婚外子だから、モンゴルの下級兵士にしていたらしい


441 :世界@名無史さん:2005/05/11(水) 02:22:31 0
エロティクな精霊といわれてもしかたないな

442 :世界@名無史さん:2005/05/11(水) 05:16:16 0
ふむふむ

443 :世界@名無史さん:2005/05/18(水) 22:15:52 0
  


444 :世界@名無史さん:2005/05/18(水) 22:25:39 0
あからさまにネタが枯渇してると思われるレスがこのところ目立つので、

チンギス・ハンの興業に先立ち
まず『元朝秘史』に見られるモンゴル族の族祖伝承を紐解き、
チンギス・ハンを出したキヤト氏とそれに連なるボルジギン支族、
そして初期にチンギス・ハンを苦しめたタイチュウト氏について
書いてみたいと思う。

が、その前にそもそもチンギス・ハンの伝記を含む、
モンゴル側の諸史料の性格について少々書かねばならない。

445 :世界@名無史さん:2005/05/18(水) 22:39:41 0
 俳優・浅野忠信(31)が主演を務め、ロシアのセルゲイ・ボドロフが監督を務めるアクション大作「MONGOL(モンゴル)」の製作発表が17日、開催中のカンヌ国際映画祭で行われた。 
浅野はモンゴルの英雄、チンギス・ハーンを演じる。この映画の製作は中国、モンゴル、ロシア、カザフスタン。 
浅野は日・仏・タイ合作映画「地球で最後のふたり」に出演したことはあるが、海外出資だけの映画に出るのは初めて。 

 ボドロフ監督は「北野武監督作など浅野さんの映画はたくさん見た。彼は日本で最も優秀な俳優の1人で、もっともっと世界の人々に彼の演技を見せるべきだと思う」と抜てきの理由を説明。 

浅野は「以前、映画『五条霊戦記』で義経を演じたことがあり、日本では義経とチンギス・ハーンは同一人物という噂もあって面白いなと思っていた。依頼を受けて、ぜひやらせてほしいとお願いしました」という。 

 撮影は今年7月から中国、モンゴルなどで行い、衣装にはワダ・エミが参加。 
浅野はモンゴル語で演技することになるという。世界公開は来年5月。カンヌ国際映画祭出品を目指す。 

ソース:デイリースポーツ 
ttp://daily.jp/gossip/2005/05/18/172981.shtml

別ソース:スポーツ報知 
ttp://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/may/o20050517_5.htm

446 :世界@名無史さん:2005/05/18(水) 23:27:12 0
モンゴル時代のモンゴル(政権)側の同時代資料といえば、
くだんの無名人士編纂の『元朝秘史』、アラーッディーン・アターマリク・ジュワイニー著の
『Tarikh-i Jahangusha(世界征服者史)』、そしてラシードゥッディーン・ファドルッラー
・ハマダーニー編纂の『Jami` al-Tawarikh(集史)』の三つが代表的著作である。

『元朝秘史』の成立年代には古今議論がされてきた。
モンゴルの源祖ボルテ・チノとアラン・ゴアがモンゴル高原にやってきた時代から語り始め、
モンゴル諸族の縁起を経てチンギス・ハンの征戦と死、そして皇帝オゴデイの即位によって終わっている。
オゴデイの病にまつわるチンギス・ハンの末子トルイの死を美談とする内容から、現在の内容に
なったのはモンケ、あるいはクビライらトルイ家の伸張後とする説がほぼ定説となっている。

現在いくつかの刊本が残されているが、一般に広く知られているのは「四部叢刊印影本」で
この文体は漢字で書かれた中古モンゴル語文に各単語ごとに漢語での意味が付され、さらに直訳漢文が
それぞれの節ごとの後ろに付記されている。本来は口承されていたものをウイグル文字(モンゴル文字)
で起こしたものだろうと考えられているが、これにも様々に議論されている問題である。

邦訳としては戦前の名訳と唱われる那珂通世の『成吉思汗実録』、戦後、東西の主要文献を網羅して
浩瀚な訳注を付した村上正二訳『モンゴル秘史』全三巻、そして言語学者小澤重男が日本における
アルタイ学の粋を注ぎ込んだ感のある『元朝秘史全釈』(上・中・下)『元朝秘史全釈続攷』(上・中・下)
およびその訳文のみを載せた簡易文庫版的な同小澤重男訳の岩波文庫『元朝秘史』が知られている。

447 :世界@名無史さん:2005/05/19(木) 00:25:09 0
تاريخ جهانگشا『Tārīkh-i Jahāngushā(世界征服者史)』は
フレグ西征軍に兄とともに扈従した、現在のイラン東部ホラーサーン地方ジュワインの名族のひとり
アラーゥッディーン・アターマリク・ジュワイニーによって書かれた近世ペルシア語の史料である。
1252/3年にカラコルム滞在中に友人の薦めによって世界征服者チンギス・ハンの歴史の執筆を開始し、
バグダード陥落後の1260年に擱筆している。モンゴル側のチンギス・ハンおよびモンゴル帝国の興業を
あつかった史書類で完成時期がはっきりしている同時代資料としてはこれが最古となる。

三部構成で第一部はチンギス・ハンからモンケ・カアンまでのモンゴル史、チンギス・ハン西征について
もっとも詳細な情報を提供しているの有名。後述のラシードッディーンも西征の記事はこれに殆ど依る。
第二部はホラズムシャー朝史で、フレグ以前のモンゴルのホラーサーン総督たちの事績も載せている。
第三部はフレグ西征とイスマーイール派討滅、イスマーイール派詳史。ホラズムシャー朝史やイスマーイール・ニザール派史に関して、
ジュワイニー自身が西征軍に扈従し、イスマーイール派の居城にて書庫の文献を接収を担当したこともあって
最も正確かつ詳細な情報を提供している。

バグダード攻囲戦については何も書いていないが、ジュワイニー自身アッバース朝滅亡後ただちに
イラク・フーゼスターン州知事に任命され、以後20年バグダードの復興に精励した。
しかし、イラン官人の常で激烈な政争に兄共々破れ、ついに讒訴を受け拘禁され失意の内に没した。

448 :世界@名無史さん:2005/05/19(木) 01:39:28 0
جامع التواريخ 『Jāmi` al-Tawārīkh(集史)』
当初第二代イルハン・アバカに典医として出仕していたハマダーン出身のラシードゥッディーン・ファドルッラーは
1298年、ガザン・ハンによって宰相に任命された。うち続く内戦と財政の破綻、人民の窮乏とそれに伴う
モンゴル牧民・官吏による在地住民に対する苛斂誅求などでイルハン朝国家は瓦解寸前の状態にあった。
伯父から奪権して若干23歳で即位したガザンは、イスラームとモンゴルの国家理念の二本柱によって
イルハン朝の抜本的な国家改造に着手した。ガザンは改革の一環として世代を重ねもはや自らの出自さえ
あやふやと成り果てたモンゴル人民に再度己の起源を思い起こさせ、チンギス・ハン家の権威による
国家の秩序の復権と再建のため、モンゴル帝国に参画していたトルコ・モンゴル諸族の歴史とチンギス・
ハン家の歴史の編纂を企画した。

その編纂主任をまかされたのが宰相ラシードッディーンである。モンゴル王家の歴史に通暁していた
ガザンは自身これに多くを口述して記録させ、ラシードらに王家の文書館の閲覧を許可し、
存命中のモンゴル軍民の長老・首長格から可能な限りの情報を集めさせ記録させた。



449 :世界@名無史さん:2005/05/19(木) 01:40:21 0
こうしてひとまず完成したのがガザンの死後に弟君オルジェイトゥ・ハンに献じられた『ガザン祝福の歴史』
である。生前東方のホラーサーンを鎮撫して兄を輔弼すること大であったオルジェイトゥは、当時モンゴル
諸王家が数十年ぶりに融和しつつあるを鑑みて、ラシードらにこの『ガザンの歴史』を第一部に、
第二部をアダム以降の古代の族長・預言者伝、ムハンマドとカリフ史、ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズム
シャー朝、サルグル朝、イスマーイール派などのイスラーム諸王朝史、オグズ・ハン史、ヒタイ史、ユダヤ史、
フランク史、インド史を含む世界史とし、第三部を地理篇として編纂を命じた。
第三部は結局編纂されなかったと目されているが、第一部と第二部からなる『集史』は1311年に完成した。

現在確認される最古の『集史』の写本はラシード存命中の1317年書写の紀年をもつイスタンブール本だが
モンゴル語などの固有名詞に若干の誤りや表記上の振れが見られるのでパリ本などほかの古写本も重要な
根本史料となっている。

ラシードもジュワイニーと同じく政争に敗れオルジェイトゥ・ハンの死後アブー・サイード・ハンの即位後
間もなく政敵たる宰相アリーシャーの讒言によって失脚し先帝暗殺の嫌疑を受けて刑死している。

450 :世界@名無史さん:2005/05/21(土) 19:25:19 0
چين♪ چين♪ چينگيز خان♪♪♪♪♪ا

451 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 01:50:07 0
>>450
それ、ホーミーで歌ってる?

452 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 20:04:09 0
キヤト・ボルジギン氏の話マダー?

453 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 18:23:56 0
>>440
「イブの七人の娘たち」の男性遺伝子版「アダムの呪い」が面白いよ。
チンギス遺伝子の世界分布も載っていてつくづく・・・・ハァ・・・・ですわ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789722791/250-7749730-0602606
 

454 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 17:28:03 0
レイプって何を持ってレイプとするんだろうな

イジメと同じく成立が難しい問題だな
もっともイジメは法律で厳しく罰せられたりしないからなくならんが

455 :世界@名無史さん:2005/07/06(水) 10:37:18 0
なんか野獣が間違って人間に生まれたような奴だな>チンギス・ハン

ところでチンギス・ハンの容貌・外見に関しては手がかりがないのだろうか?
顔は?身長は?目立つような特徴は?
有名な絵は死後に想像で描かれたものなんでしょ?

456 :世界@名無史さん:2005/07/12(火) 23:31:38 0
ジンギスカーン!(゚Д゚)

457 :世界@名無史さん:2005/07/13(水) 00:03:53 0
>>455
いまNHK大河で若き日のチンギスハーンをやっている。

458 :よろずこ:2005/07/23(土) 19:31:21 0
ブルガリアの人は琴欧州のことをどう思っているのだろう。
モンゴルを倒した英雄か?

459 :ハーン:2005/08/06(土) 13:56:20 0
「なんか野獣が間違って人間に生まれたような奴だな>チンギス・ハン」
こんなこと言ってる君、早めに死んでしまえ。

460 :アバガイ:2005/08/06(土) 14:05:54 0
琴欧州は確かに強いけど、優勝はでなかったね。やっぱ朝青龍は強いや。
しかし、相撲で言えば、日本って弱いね〜! (゚Д゚)(゚Д゚)(゚Д゚)(゚Д゚)

461 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 22:22:10 0
チンギス・ハンは死に対して非常に恐怖心を持っていたというから、死に直面しても「是非に及ばず」ですます信長よりは人間味がある。

462 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 22:31:13 0
なんで川におしっこすると死刑になるの?

463 :世界@名無史さん:2005/08/18(木) 18:35:54 0
ヤサの番人であるチャガタイに訊いてくれ。

464 :世界@名無史さん:2005/08/24(水) 23:27:56 0
モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーン(1162?〜1227年)の宮殿跡として知られるモンゴル東部のアウラガ遺跡に、
1ヘクタールを超える巨大な規模の鉄器生産工房(12世紀末〜13世紀前半)があったと推定されることが、
日本・モンゴル合同調査団(総隊長=加藤晋平・元国学院大教授)による今年度の調査でわかった。
専門家は「中世・近世を通じて、これだけ大規模の生産基地は少なくとも東アジアには例がない」と話しており、
鉄器の大量生産がチンギス・ハーンの急速な勢力拡大の背景にあったことを裏づける一級の発見として注目される。
南北約500メートル、東西約1200メートルにわたる同遺跡の東地区の約100メートル四方と、西地区の約50メートル四方で、
精錬や鍛冶の廃棄物である鉄滓(てっさい)=スラグ=や鍛造剥片(はくへん)が大量に散乱しているのが、
地表の詳細な調査で確認された。このため、これらの範囲の一部で地中レーダー探査と磁気探査を実施。
鉄器生産関連の遺物の存在をうかがわせる反応があったことから、東西1か所ずつ発掘調査を行ったところ、
東の発掘区から鉄滓や炭、灰などが詰まった廃棄物の層が3層にわたって確認された。
層の厚さは地下1メートルで計約70センチに達していた。
調査団の白石典之・新潟大助教授(モンゴル考古学)は、この遺構は鉄器生産の「スラグ原」(廃棄物捨て場)で、
「鉄滓などが散乱していた範囲に、精錬の炉や鍛冶場などが集中していた」と判断。
同遺跡が「チンギス・ハーンの宮殿だっただけでなく、その軍事力を支える一大軍需基地だった」と分析している。
鉄鉱石の産地はモンゴル高原にはほとんどなく、原料や技術者は中国などから略奪してきた可能性が高いという。
これまで、チンギス・ハーンの強大化の原因については、カリスマ性や戦術の巧妙さなどが指摘されてきたが、
武器生産体制が充実していたことも重要な要因だったことが明らかになった。

ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050824-00000501-yom-soci


465 :世界@名無史さん:2005/08/25(木) 10:41:13 0
やはり鉄だったか。
進軍の行程をたどっていけばすべて鉄の生産地につながってた事もこれを裏付けるね。

466 :世界@名無史さん:2005/08/25(木) 19:42:23 0
>鉄鉱石の産地はモンゴル高原にはほとんどなく、原料や技術者は中国などから略奪してきた可能性が高いという。

バイカル湖周辺に鉄の産地があったとか何かで読んだような

467 :世界@名無史さん:2005/08/25(木) 20:59:19 0
バイカル湖まで取りに行くくらいなら他をあたった方が早いんじゃない?

468 :世界@名無史さん:2005/08/25(木) 23:24:56 0
>>455
背が高く、眼光炯々として白髯(ソースはペルシアのなんかの歴史書らしい)

469 :世界@名無史さん:2005/08/26(金) 10:26:26 0
バイカル湖とオノン河の距離はいくらか?

470 :世界@名無史さん:2005/08/26(金) 21:38:18 0
それ以前にバイカル湖周辺に鉄鉱脈があると分かったのがいつかというのが問題だわな。

471 :世界@名無史さん:2005/08/28(日) 11:53:21 0
あの辺にいたメルキト族なんかは製鉄で有名だったらしいが

472 :世界@名無史さん:2005/08/28(日) 13:35:38 0
>>471
なにに書いてあったっけ?それ


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