私は基本的に本を読む人間ではない。
子供の時から勉強嫌いだったので学校の授業での読書感想文の宿題などはもっとも嫌いなものだった。
国語の教科書に載っている小説やエッセイなどは古今東西の名作が選ばれている。
それは当然だと思う。
教育の基本中の基本である国語の教材に二流、三流の文章が使われては困るからである。
一方でどんな古今東西の名作でも学校の授業という場で強制的に読まされると面白くなくなるということもある。
それを乗り越えて(?)大人になっても読書が好きな人に対して私は敬意の念を抱くのである。
無論ビジネス本の類は別である。
特に(これは老若男女問わないが)純文学がわかる人に対して私は羨ましさを覚える。
何故なら私は大衆小説も含めて小説というものをほとんど読まず、中でも純文学が理解できないという事に対してコンプレックスを持っているからである。
私はこれでも高校生の時に「人生とは何か?」という疑問に取りつかれた事がある。
こういう事に悩み始めるとただでさえ勉強嫌いだったのに、全く勉強しなくなり、結局大学受験に失敗して浪人する事になった。
また自分が大学生という存在になれるとは思えなかった。
そして相変わらず勉強はせず、ひたすら「人生とは何か?」という疑問、又はコンプレックスだらけの自分でも生きて行けるのか?という問いに答えてくれそうな本を探していた。
当時は人生で一番暗い時期であったため、自分のようなネクラで臆病な人間でも生きて行けるのか?という問題に対して少しでも追認してくれる本を探していた。
またひたすら面白いエッセイばかり読んでいた。
人生の生き方については難しい哲学書とか純文学は理解できないので加藤泰三の文庫本などを読んでいた。
そして当時、ほとんど笑いを忘れた生活を送っていた私が唯一大爆笑して読んでいたのが、遠藤周作や北杜夫、安岡章太郎といった人達のエッセイであった。
「沈黙」、「楡家の人々」、「海辺の光景」といった彼らの純文学作品は全く読まず読めず、読みやすくて面白いエッセイばかり読んでいたのである。
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純粋数学という学問がある。
フェルマーの定理の証明やポアンカレ予想の解決等のトピックスで知られる。
しかしこれらの純粋数学の論文を純粋数学及び物理学の学者以外に100%理解できる人は皆無である。
そもそも純粋数学の学者とて異なる専門分野の論文は理解できないそうである。
つまり人類の中でも選ばれた少人数しか理解できないのである。
純文学が理解できる人にもこれに近いものを感じる。
もちろん数学ほど閉じた世界ではないけれど、文学がわかるという事は一つの才能であり、世の中に趣味は読書という人は多いけれども、結局文学が理解できる人というのも限られた存在だと思うのである。
自分自身が文学を理解できない人間になってしまったという事に対して忸怩たる思いである。