人とカネは無限にあると考えよ!

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トリニトロン技術の目処が立った井深大は、世の大プロジェクトがなぜ成功を収めるのか、方法論を残そうとした。それが「説得工学」である。さらには、あらゆる制約条件や言い訳を排除する基本姿勢を明確にした。本誌2012年11月号に開始した人気連載「盛田昭夫 グローバル・リーダーはいかにして生まれたか」。通算第16回よりDHBR.netで公開中(約半年間のウェブ連載の後、2014年秋に単行本化を予定)。

 

井深が残した方法論

 製造を託された吉田進(電子管開発部長、トリニトロン・プロジェクトのプロデューサー役)が、自分の考える通りに実践できたのは、「防波堤となってくれた人」がいたからだという。電子銃の開発に見通しがついた瞬間(66年12月末)から、社長の井深大が、吉田のチームにバリアーを張ってくれたのだ。一切のノイズ(各種のアドバイス、先輩諸氏のご意見や横やり)をシャットアウトし、集中できる環境を用意した。

 あるとき吉田は、盛田昭夫副社長に呼ばれた。「いま営業と揉めているのだけど、彼らは19型(テレビ画面の大きさ、19インチのこと)を熱望している。どうしたらよいかね?」。吉田が「19型を商品にするには発売が1年遅れますよ。時間を大切にするなら13型(13インチの画面)です。これには条件がすべて整っていますから」と即答すると、盛田は「よし、わかった!」と打てば響くように快諾した。「それなら13型で行こう」、とここでも販売からのノイズをカットしてもらえた。

 かくて技術発表から半年後、1968年10月31日に、ソニーは世界初のトリニトロン・カラーテレビ、13型<KV-1310>を11万8000円で発売した。井深の公約通りだった。発売時には5000台を初期出荷したが、1年で17万台を販売する大ヒットとなった。

 トリニトロンは、井深が自らプロジェクト・マネジャーとなり、全身全霊を注ぎ込んだプロジェクトである。それは、開発の最前線でフルに関わったという意味で、ソニーにおける彼の仕事の集大成でもあった。

 そして井深は、トリニトロンの技術にメドが立った段階から、社長の座を盛田へ禅譲する考えを持ちはじめている(当時、ソニーの会長を退任し監査役となった田島道治の「日記」による(注1)。実際の社長交代は71年6月に行われた)。

 おそらく、そんな背景もあってトリニトロンで実践したイノベーションのプロセスを、後世にも役立つ方法論としてまとめたいと考えたのではないだろうか。新しい取り組みをはじめる。

 経済同友会の幹事に就任した時期とも重なり、日本の東海道新幹線やアメリカのアポロ計画といった大規模プロジェクトがなぜ成功したか、事業を推進したトップ(アポロ計画ではリンドン・ジョンソン前大統領、新幹線では十河信二・前国鉄総裁)をはじめ、実際の担当プロデューサーらに直接会い、リーダーや人材の役割、人間の力を働かせた仕組みなどを探究した。

 そのうえで、トリニトロンでの自分のやり方と重ね合わせ、「説得工学」という造語でノウハウを抽出している(より専門的な「F-CAP法;Flexible Control Planning&Programming System」と名付けた方法論にまで昇華しようとしていた)。

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