(ぜ)はセクシズムか?
「ぜ」がセクシズムと言われると、どうにも腑に落ちないのです。なぜなら「~しようぜ」は日常で普通に男性や、一部女性にも使われる言葉であるからです。
「仲良くしようぜ」で指摘されていることは、ずばりそれが「マイルドな同化主義」だということです。ですから「~しようぜ」を「~しましょうよ」に変えても、根本的には何も変わらないです。@Cheerful_oneday
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) April 3, 2014
仲パレでは「仲良くできなくてもいい。ただ差別は止めよう」といった趣旨のプラカを上げている人がいて、感心しました。本来なら、自分が苦手な人や、嫌だな?と思うことと、その相手に人権や権利があることは全くの別問題のはずです。@Cheerful_oneday
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) April 3, 2014
みなさま、こんばんわ。ひばり「ちゃん」こと、少年ブレンダです。「仲良くしようぜ」の(ぜ)問題について、チアフルさんから質問を頂きまして、上記のようなお応えをしたのですが、あれから考え直してみて、少し反省しております。
今夜はそのことについて、少し書いておきたいと思います。
いつ、ひびのに反論するんだ?と言われそうですが、それは後回しです(ちゃんとしますよ)。
チアフルさんの応答では①「言葉の問題」に矮小化されるのを避けたいこと②民族差別における問題であること、などの点から、私は「マイルドな同化主義」だという批判を与えています。しかし、それはどうだったのかなあと。
野間さんらへの批判点、その運動のあり方にレインボーが相応しくない点は『目的のために暴力が肯定されることや、マイノリティ間の差異の問題、そしてジェンダーにおける問題が不問にされる』ことです。
そして、『(ぜ)問題』には「同化主義」と「セクシズム」の二つの論点があると考えています。今回はLGBT/セクシュアルマイノリティに関わる問題、まさに「レインボー」に関わる問題として提起してるわけですから、やっぱりちゃんと「セクシズム」「セクシュアリティ」の観点から(ぜ)問題を批判した方が良かったと。それが反省点です。
それで以下、(ぜ)問題を「セクシズム」の点から「何がいけないのか?」述べてみたいと思います。
トイレのマークに象徴されるセカイ
まず図象として非常に判り易い事例があるので、これをご覧ください。はい。「東京大行進」です。旗の意匠、人の服装や配置に注目して下さい。
旗(フラッグ)の意匠。構成主義的に「男女」がシンボル化されていますね。『フォーマルな服装を来た男女』ですね。ビシッとカッコイイです。隊列を成す人々もスーツでびしっと合わせた「男女」です。「男女」。そう「男女」です。これ、何かに似ていると思いませんか?
そう。日常的に私たちが「よく知っているもの」です。それは。
今、何をしようとしているかというと、「東京大行進」をセクマイ目線で図像化すると、どんな風に見えるか?ということです。
トイレのマーク? いやいや、トイレのマークによくそれが表れている、ということです。これは「東京大行進」がトイレのマークに似ているのではなく、またトイレのマークが「東京大行進」に似ているのでもなく、私たちの社会がトイレのマークに象徴されているということなのです。
トイレのマークが象徴する社会。それは『「男女の規範」を前提として成り立つ社会』だ、ということです。多くの人々がそれを「当たり前」だとして生活しています。
ですから、誰もトイレのマークを不思議に思ったりしませんし、「東京大行進」のフラッグや人々だって「やだ、なにこれ、カッコイイ!」という話になるわけです。
しかし、LGBT/セクシュアルマイノリティというのは「トイレのマークが象徴する社会」から弾き出された、「男女の規範」から切断された人々です。
『セクシュアルマイノリティ』というのは、この『トイレの門から前から先へと行くことが許されない人たち』なのです。
セクシュアルマイノリティの人を殺すのは簡単なことです。トイレのマークを見せればいいのです。本当に死にます。そして現に死んでいます。セクシュアルマイノリティの人たちの自殺念慮はこのトイレのマークを何とも思わず通過し、向こう側へ行き、用を足して戻って来れる人々の6倍。このトイレのマークのような健全なる男女/セクシュアルマジョリティに対して、6倍のセクマイがこのトイレの前で死んでいると想像して見て下さい。
想像出来たでしょうか?いいでしょう。その上で、もう一度「東京大行進」を見てみましょう。セクマイ目線で見た時、このパレードが、これが、どう見えるか?ということです。
「当たり前」に問いを立てるということ
じゃあ、今度はセクシュアルマイノリティの人々がイベントで何をやってるか見てみましょう。これは関西クィア映画祭の「クィアトイレ」です。
ここにはトイレのマークが見当たりません。
男性トイレの扉には「ここは男性トイレではありません」と但し書きが、同様に女性トイレには「ここは女性トイレではありません」と但し書きがあります。
ここでは『「男女」のマークを「男女」で打ち消す』ということをしています。なぜこんなことをしなければならないのでしょう?
普段何気なくトイレを使っている人(セクシュアルマジョリティ)は、このトイレの扉の前に来ると戸惑うことがあります。どちらに入ればいいか判らなくなるからです。でもセクシュアルマイノリティは安心してどちらにでも入れます。「男女の規範」がセクシュアルマイノリティを抑圧しないように気を配る一方で、それを当たり前として生きてきた人々、ヘテロセクシュアルな人々に、いかに自分が楽をし、鈍感に生きてきたか気付いてもらおうというものです。打ち消し方にも工夫があるわけです。
男女の規範を当たり前のように前提とし、それについて何の疑問も持たないパレードと、その前で徹底して悩み、物事のルールや仕組みに介入し、変更を加えるセクマイのイベント。
どうでしょう。「性別規範」に関しては『やってることが全然違う』でしょう?
しかし、これでもまだ関西のジェンダークィアたちは「本当にこれで良いのかどうか判らない」と言うのです。もっと良い方法がないかと悩んでいると言うのです。「ちょっとちょっと、いくらなんでもそれは悩み過ぎだろう!」と思うかもしれません(私もそう思います)。
でも、それが、それこそが『セクシュアリティを巡るジェンダーの問題』なのです。本質的にはこれが「セクシュアルマイノリティの活動」というものなのですね。
これが本物。本物のレインボーです。
セクシュアルマイノリティの人々は男女の性差をなくそうとしているように見えますね。でもそうではありません。セクシュアリティの差異を相対化したり、消去したいわけではないのです。
「セクシュアリティの差異」は尊重すべきことで問題ではありません。
問題は「男女の規範を自明視すること」です。それを『当たり前のこととして受け入れたくない』ということなのです。
レインボーのフラッグは性別について私たちが普段「当たり前」だと感じていることに問いを立てる、疑問を持つ、当たり前を当たり前のこととして受け入れない、そういう旗だということです。
はい、前編ここまで。以上のことを踏まえて後編では「仲良くしよう(ぜ)!」の(ぜ)問題について考えてみましょう。