安倍内閣「新談話」への疑問 / 元慰安婦の証言雑感の続き。
以下の本に収録されている元慰安婦河順女(故人)氏の証言「娘を嘆き悶死した父」と、
関釜裁判(提訴;1992年)の原告としての彼女の証言を比較します


証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち [単行本]

韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編集), 従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク (翻訳) 明石書店1993-11

河野談話の半年前に安秉直ソウル大教授と韓国挺身隊問題対策協議会が2年がかりで聞き取り調査した慰安婦40人余のうち、信頼性の低い21人分は切り捨て、19人分の結果を掲載したもの(韓国語版1993/6出版)の日本語翻訳版。



以下、
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」 = 「証言集」とします。

関釜裁判証言については
河順女さんの証言を引用します。(この内容は司法が認定した日本軍「慰安婦」―被害・加害事実は消せない!(2011/12/1)に掲載されている裁判記録とも一致します)

こうした比較は既に種々なされていますが、実際に証言を読んでみると多々感ずるものがありました。

★以下の8項目ごと、最初に関釜裁判証言を引用し、次に証言集との違いを記していきます。
①生い立ち
②金儲け話にあっさりだまされ見知らぬ男たちについていく
③上海の慰安所へ
④慰安所での生活
⑤そこは陸軍専用慰安所
⑥慰安所脱走(一年後)
⑦終戦~帰郷
⑧その後 
河順女氏の証言は比較的信ぴょう性が高い部類に入っているそうですが、証言集の調査期と裁判とはほとんど同じ時期ですが、証言集と関釜裁判証言の内容がかなり食い違っていることがわかります。
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①生い立ち~兄弟の数にすら食い違い。光州での生活は家出?父の計らい?

生い立ち(関釜裁判証言)
私は1918年2月2日、全羅南道木浦市で父河東淑、母南東郷との間に長女として生まれました。父は全羅南道霊光郡で小作農をしていましたが、私が生まれた当時、母と出稼ぎで木浦に来ていたのです。

私は弟2人、妹1人の家族の中で育ちました。家は貧しく、部屋が二つの藁葺きの家に住んでいました。
私は霊光郡の小学校に行きましたが、勉強が嫌いで、勉強をした記憶がほとんどありません。

しかし、どうにか小学校だけは卒業し、父が心配して親戚の家にあずけ、光州市の女学校に入学させました。ところが私は1ヶ月も学校に行かず途中退学し、そのまま光州の呉服屋の社長の家に住み込んで家政婦として生活することにしました。その家で私は信頼されて数年働きました。

証言集では、1920年晋州で生まれすぐ木浦に引っ越し、またすぐ霊岩に引越した、とある。脚注で「戸籍上の生年月日は1918年生まれ」とある。
関釜裁判証言では霊光郡の小学校に行った、とあるので木浦の次に霊光郡に引っ越したと思われる。

彼女がこの後幾多の変遷を経て帰り着いた故郷は、証言集では「霊岩」、関釜裁判証言では「故郷」としか語っていない。
彼女の故郷は「霊光郡」なのか、「霊岩郡」なのか。生まれたのはどこなのか?

●「弟2人、妹一人の家族の中で育った」とあるが、証言集では「母は娘8人を生んだが、皆死んで残ったのは自分だけだった。もともとは2番目だったが姉が9歳の時死んだので長女になった」と語っている。
妹がいることは後の記述でわかる。彼女が家出をした後生まれたと考えられるが、弟の事は証言集では一切出てこない。関釜裁判証言でも弟のことはここでしか出てこない。

証言集では戸籍を調べていることがわかる。裁判の原告になるにあたっても当然戸籍確認はしているはず。戸籍を調べれば兄弟の正確な情報もあるはずなのに、その記述はどちらにもない。

●小学校卒業~光州の女学校~のあたりは、証言集では以下のように語っている。

”家が貧しくて学費を出せる余裕がなかったため、入学を伸ばして12歳で小学校入学。ずいぶん年上の子が入ってきたと騒ぎ立てられ「(同年齢の子供たちはもう卒業するというのに)デブ公は何時卒業するの」などとからかわれたので学校に行くのが嫌になった。

学校に行かないでいると、父親は「男の子がいないから代わりに行かせるのだから行け」と叱った。父親は学校に行かせようとするが、行きたくなくて家を出た。(父親が「男の子がいないから~」と言っていることから、弟が2人いたという関釜裁判証言とは全く食い違っている)

家から持ち出せる金はなく、着の身着のまま何も考えず汽車に乗った
光州駅で降り、人からもらったものを食べて一晩過ごした。翌日50くらいのおばさんに「ねえちゃん、一緒においで」と言われてついていった。
おばさんの家で一泊し、次の日からおばさんの親戚の家で女中として住み込むことになった。

衣食住はあたえられたが給料はなかった。家事子守りなどをして3年くらいたったとき、隣家では給料がもらえるというので隣家にに移った。そのため主人同士が激しい争いになり、結局半月ほどして前の家に連れ戻され、1~2年そこで女中として過ごした。”

学校が嫌で、小学校すら卒業せず家出。光州で見知らぬおばさんの親戚の家の女中となっている。当然、女学校の話はない。当時、霊岩、あるいは霊光から光州への鉄道が存在したのか調べてみたが不明。

②金儲け話にあっさりだまされ見知らぬ男たちについていく

「金儲けができる仕事」とさそわれる(関釜裁判証言)
私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました

私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。

そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。


●「従軍慰安婦として連行されたのは19歳~」 ⇒ 証言集では「20か21歳の頃」。
●「朝鮮人の男一人と日本人の男一人」の服装 ⇒「彼らは背広を着ていましたが若く見えた」(証言集)
●私の他に3人の娘 ⇒ 
一緒に行った娘は8人。光州出身の娘もいれば長城出身の娘もいた(年齢についての言及なし)。わたしは長袖のワンピ-スを着ていたので、春だったと思う。」(証言集)

③上海の慰安所へ
(裁判)光州
⇒汽車⇒釜山⇒船⇒大阪⇒船⇒釜山⇒船⇒天津⇒汽車⇒南京⇒汽車⇒上海
(証言集)光州
⇒汽車⇒麗水⇒船⇒大阪⇒船(数日泊)⇒上海

プサンから大阪へ、そして上海に(関釜裁判証言)
私たちは汽車でプサンに行き、日本人の家らしいところにつれていかれて一泊し、プサンの埠頭から貨客船に乗って大阪の港につきました。そこが大阪だと分かったのは、日本人の男が、「ここは大阪だ」と言ったからです。
そこでいったん船を降りて下宿屋のようなところへ一泊しました。私以外の娘たちはそこからどこかへ連れていかれましたが、私だけは別の日本人に連れられてなぜか再び船でプサンに戻りました。

そしてプサンから私と同じような朝鮮の娘たち7~8人と一緒に船に乗せられ、天津につき、天津から南京を通って汽車で上海までつれていかれました

上海で、最初に光州で彼が慰安所の主人だということが分かりました。彼がここは上海だと言ったし、前に来ていた女性たちがここは上海だと言ったので、そこが上海だと分かったのです。

証言集では以下のように語っている。経路や同行した娘のことが食い違っている。(光州発の午後2時、大阪着午前10時だけ数字が妙に具体的だったりする。)

”光州から午後二時頃男たちについて汽車で麗水に行き一泊。翌日日本行きの船に乗った。船中で一泊し、翌日の午前10時頃大阪に着き、日本人の男の家へ向かった。その家には子供二人とおばあさんがいた。

その日本人の男は「大阪から上海に行く」と言うので、理由を尋ねると「自分は上海で商売を手広く始めたから手伝ってもらう」と言った。それを信じてその家で一泊した翌朝船に乗って上海に向かった。幾晩も船中泊をした。

上海に着くと、部隊の車が待っていてその車で一軒の家に行った。その家は部隊のすぐ隣にあった。日本人の男と朝鮮人の男も一緒に行ったが上海に来ると別々になった。

私たちを上海まで連れてきた日本人の男がその家の経営者だとわかった。”


●証言集では以下のようなことも語っている。
”上海に着いた後、経営者がかわいくてきれいなワンピ-スを買ってくれた。
一緒に来た8人はみんなばらばらに別れ私だけがその家に残った。
その後も経営者たちは女を続けて連れてきて30人ほどになった。私が入ってから3~4か月後、中国人女性2人と日本人女性2人も入ってきた。他は朝鮮人女性。

上海の紹介所から女性がいると連絡が入ると、経営者が連れに行った。
はじめ一緒に来た朝鮮人の男も女衒だった(ことがわかった)。”

④慰安所での生活 呼び名は「マサコ」なのか「オトマル」なのか?

●長屋の慰安所(関釜裁判証言)
上海では、アメリカ人かフランス人の租界区の近くにある長屋に入れられました。その長屋は人が二人やっと寝ることが出来る程度の窓のない30くらいの小さな部屋に区切られており、私はその一つを割り当てられました。
部屋は板張りの床で毛布を敷き、冬は湯たんぽで暖をとっていました。私は長屋に入れられたときは、炊事・洗濯をさせられるものとばかり思っていました

●慰安婦の生活(関釜裁判証言)
ところが翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋の中に入ってきて、私を殴って洋服を脱がせたため、私は悲鳴を上げ逃げようとしましたが、戸には鍵がかかっていました


その日からたくさんの軍人たちが私の部屋に来ました。私は客を取る以外は仕事をするなと言われ、「マサコ」という呼び名で軍人の相手をさせられました。

この慰安所には日本人の女が2人、中国人の女が2人、朝鮮人の女が4人いましたが、朝鮮の馬山から来た娘は「オトマル」という名で呼ばれていました


主人の妻が軍人からお金をもらっていましたが、私は一度もお金をもらったことがありません

上海に来てから3ヶ月たったとき父母に手紙を書いたことが一度だけあります住所も何も書かず、ただ金儲けして帰るから安心してほしいとだけ書きました。自分が苦労するのは騙された自分の罪だと思っていましたが、父母だけは安心させたかったのです。
 
主人は帰るときに金をやると言っていましたが、私はそんな言葉は信じませんでした。ただ早く国に帰ることだけを願っていました。毎日朝の9時から夜の2時くらいまで、軍人の相手をさせられました。

休日というのはなく、ただ生理のときだけ軍人の相手をせずにすみました。1ヶ月に1回くらい病院で軍医の検診を受け、注射をされました。

●証言集では、

「(炊事・洗濯をさせられるものとばかり思っていたが)翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋の中に入ってきて、私を殴って洋服を脱がせたため、私は悲鳴を上げ逃げようとしましたが、戸には鍵がかかっていました。
という話は全くなく、慰安所に着いた当初を次のように語っている。

”女性たちは1部屋ずつ与えられて軍人の相手をするよう言われた。(この時点で本人も、集められた女性たちがこれを拒んだりしたかどうかについては言及なし)

最初の2週間ほどは、1日に軍人が一人か二人やってきたが、しまいには群がって押しかけてきたので、「アイゴ-、殺すなら殺せ。そんな真似はできない」と経営者に言った。
軍人たちに酒を飲ませたりしたが、酒を飲むと軍人たちは増々我慢できないほどしつこくなったので、経営者に「軍人をとる代わりに食事の世話とみんなの洗濯をします」と言ったが、殴ったりけったりされた。”

●「マサコ」という呼び名 ⇒ 証言集では「オトマル」。
経営者は私を「オトマル」と名付けた同じオトマルはもう一人いて、タケコという名前の人もいた。(「マサコ」は出てこない)

中国人女性2名(31歳と29歳)、日本人女性2名(25歳と27歳)がいた。朝鮮人女性は30歳が数人いて、私より若い女性もいたが、十代の娘たちもいた。ところが若い娘たちは怖いと言って客を取らなかったので、経営者はみんな他の店へ追い出してしまった。経営者同士数人が女性たちを取り換えあったりしていた。”

●父母へに手紙を書いた、住所も何も書かず ⇒
 証言集では、平壌から来た女性に頼んで書いてもらったもので、返事が来たことを話している
”「アボジの事を考えてすぐ帰ってこい」と返事が来た。直接自分で書いたのではないので慰安所の住所は覚えていない
父は私の手紙を受け取り悶死した(ことが後で分かった)。その手紙は朝鮮戦争の戦火で燃えてしまった。”
また、この平壌の女性は河順女氏が上海の慰安所に来て2~3年後にアヘン中毒で死亡したと語っている。

軍人が来ると経営者にお金を渡していたがいくら払っているのかも知らなかった。(証言集)
衣食住は最低限与えられていたが給料はもらえてなかったようである。ただ他の慰安婦も給料をもらっていなかったのかどうかは不明。
「中国人女性はきれいで気立てがよく、一番客をとったので、経営者に大切にされた。経営者は祝日には服を買ったりごちそうをしたりしていた」などと語っている。


●性病検査のため月一回軍病院に行き、注射をされた。
⇒ 証言集では「私は性病に係ったことはなかったので経営者は喜んでいたようですとある。
関釜裁判証言にある毎回受けた注射とは何の注射だったのか?証言集の「解説 軍慰安婦の実相」によると性病にかかった時は「606号」という注射を受けた、とある。性病でもなければ注射はされないはずだが?

●「毎日朝の9時から夜中の2時まで」とあるが、証言集では、
「日曜は軍人たちが朝9時から夜6時までひっきりなしに集まってきました。一日に20人、30人、40人・・・」とあり、客数には波があったことが伺える。

客が来ない日は、経営者に「お前たちが客を不愉快にするから来ないのだ」といってなぐられた、暇なときは慰安婦どうしで身の上話を語り合った
こと、などが語られている。

休みは全くなかったわけではなく、休みの日には女性たちが交替で経営者の奥さんと一緒に外出した事が語られている。ただ、
外出してみると飲食店もあり劇場もありました。外出時間は1時間半くらいで見物はそれほどできず、少し遅く帰ると経営者にぶたれましたとある。

⑤そこは陸軍専用慰安所 近所に海軍専用慰安所があり、そちらはとてもいい人

陸軍部隊慰安所(関釜裁判証言)
長屋には「陸軍部隊慰安所」と書いた看板が掲げてあり、食事は台所の横にある食堂でしました。長屋の一番はしに、主人の部屋がありました。
主人は日本人で、いつも下は軍服のズボンでしたが、上はシャツだけのことが多く、妻のことを「タカちゃん」と呼んでいましたが、彼らのはっきりした名前は思い出せません。主人は福岡出身で妻は長崎出身だと言っていました。
 慰安所の実際の所有者は主人の妻の兄で、月に1,2回慰安所に来ていました。呉淞路(ウースンルー)にある慰安所の人が私たちを引き抜きに来ましたが、主人が断りました。


証言集では、「その家の入り口に看板がありましたが、字を知らなので何と書かれてあったのか読めませんでした。」とある。上記の話の中のこれ以外の部分は証言集には全く出てこない。

証言集では「その家は陸軍専用で、兵士も将校来た(民間人は不可)。海軍の軍人が来ると入れてやらず、軍人同士が喧嘩になっていた。」と語っていることから「陸軍専用の慰安所」であったことは認識していたことがわかる。

また、「近所に海軍相手の慰安所があって、その経営者は東京出身の日本人でいい人だった」、と語っている。

この海軍専用慰安所について以下のように語っている。
遊びに行くとご飯を食べなさいと勧めたり、きれいだねと言ってくれた。その慰安所は「私のいたところより部屋が多く、女性も40人ほどいて、朝鮮、日本、中国の女性がいました」
一人の日本女性は「サナエ」といい、名古屋出身でかなり年配だった。「私とは親しくて、少し顔を見せないと遊びにおいでと電話が来るほどでした
」。”

(慰安婦は慰安所の電話をこんな風に気軽に使っていたのかとちょっと驚く)

⑥慰安所脱走(上海着一年後)。
 経営者からの激しい仕打ちで大けが。優しい日本軍人の存在。

●慰安所を抜け出す(関釜裁判証言)
私は軍人の相手をしたくないので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出していました。私は炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう主人に頼みましたが、その度に激しく殴られ、生傷が絶えませんでした。

 ある日、私はどうしても耐えられず、慰安所から逃げ出して化粧品店をしている西洋人のおばあさんの家にいたところ、主人に見つかって連れ戻されました。

●激しい仕打ち(関釜裁判証言)
主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました
その後のことは記憶がありませんが、後で聞いたところによると、チョウさんが「血が出て死にそうだ」と言って、西洋人のおばあさんを呼んできて、彼女が私を介抱し、傷の手当をしてくれたそうです。

3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしい優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。その後1月くらいは顔が腫れ上がり、軍人の相手はせずに炊事場で働いていました

チョウさんの話では、その衛生兵は主人から慰安婦が働かないから叩いたのになぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです


●証言集では以下のような顛末。
証言集)”上海に来て約一年過ぎた冬、慰安所を抜け出した。人力車の終点まで行ったところで夜になった。行くあてはなく不安のまま夜が明け、結局行くところもなく、また舞い戻って、こっそり慰安所の台所に忍び込んだ。
ご飯を炊いてお膳に着くと、経営者が食べるなと言い、それでも食べていると、激しく殴られた。
殴られた傷が治ったころ、軍人が頻繁に訪ねてきたのにことわろうとすると、経営者は棍棒で頭を殴った。酷く出血し気絶してしまった。
後で聞いたところによると、傷口に味噌を塗られていたのだが、隣の西洋人の女性が薬を持って塗ってくれていた。その女性は洋服を売っていて40代ぐらいだった。
(10代で結婚するのが普通だったとすると40代は「おばあさん」?)

●(証言集)「私が相手をしたことのあるヤマモトと言う名の陸軍少尉は、頭に包帯を巻き横になっている私を呼ぶと、病院へ連れて行き治療を受けさせてくれました。日本人の軍人はみんな悪い人ばかりではありません。この軍人と阿嘉(アカ)島出身だという軍人はいい人でした。
少尉がくれた小遣いで、隣の西洋人女性から服を買ったことがあった。


●この後の展開もだいぶ異なる。関釜裁判証言では、「その後1月くらいは顔が腫れ上がり、軍人の相手はせずに炊事場で働いていました」とあるが、証言集では

頭の傷が回復した後はその家で飯炊きをして暮らしました。~(ヤマモト)少尉は飯炊きだけをして軍人の相手をするなと言いました。それでその後は、食事をつくり洗濯をして暮らしながら解放を迎えたのです。この少尉は私が負傷してからは、おいしいものを買って食べなさいと小遣いを多めにくれました

と、けがのあとはずっと客を取らなかったと語っている。

また、この少尉は慰安所にとっては客なのに、経営者が「もう慰安所に来るな」と言ったという関釜裁判証言は不自然に感じる。

⑦終戦(1945年)~帰郷(1946年)。1年間の空白。

解放から帰国へ(関釜裁判証言)
 ある日病院に行って帰ってくると主人がいなくなっていました。そして翌日病院に行くと日本人の医者は、私たちは日本に帰るから後は国に帰って治療しなさいと言いました。慰安所に戻るとチョウさんが日本が負けて戦争が終わったと私に教えてくれました。

そして軍人たちも私以外の女性たちもいつの間にかいなくなり、私だけが残されてしまいました。そのうち、中国人が建物を壊したり放火しているのを見て、私も日本軍の関係者として危害を加えられるのではないかと怖くなりました。

チョウさんの奥さんが家で3日間ほどかくまってくれた後、上海の埠頭に連れていってくれました。私は埠頭で3日間乞食のように野宿して帰国船を待ちました。ようやく帰国船に乗り5日目にプサンに帰り着き、船の船長にたのんで麗水まで連れていってもらい、列車に乗って故郷に帰りました。

このあたりの終戦時の話も、証言集と微妙に異なる。例えば証言集には3日間野宿の話はない
何よりも上記の話だと、1945年の8月中には故郷に帰ったと判断されるが、証言集では中国人(のチョウさん)が船の人とうまく話をつけて船に乗ることができ、
最後の船に乗って上海をでました。解放された翌年の1946年でした。」とある。
故郷に帰りつくまで1年を要したことになるが?

⑧その後~家政婦などをして生計を立てる。甥の申告で名乗り出る。

●家政婦として生きる(関釜裁判証言)
故郷では母は生きていましたが、父は亡くなっていました。父は解放の頃に「火病」で死んだとのことでした。怒りや悲しみのために死んでしまうことを韓国では「火病」というのです。
 
私はやっと故郷に帰ってきましたが、当時は左翼と右翼の対立が厳しい時代で、外国帰りが苛められることが多く、私は故郷を出て一人で光州に行き、もと働いていた家を訪ねました。しかし、すでにそこの主人はいませんでした。そこで、母の実家のある全羅南道のチャンフンにいって農業をして暮らしました。
 
しかし1950年に朝鮮戦争が始まると、そこにもいられなくなって、プサンに来ていろいろな家で1年や数ヶ月づつ家政婦をして暮らすようになりました。
 
10年前に妹の息子の金鐘浩が自分の家に来るように行って、部屋を空けてくれました。私は家政婦をして働いていた時は、甥にいくらかのお金を入れて来ましたが、歳をとって、家政婦の仕事も出来なくなりました。


●慰安婦の申告(関釜裁判証言)
 私は国に帰ってきてから従軍慰安婦をさせられていたことを誰にも言ったことがありません。母には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと言いました。

甥が従軍慰安婦に関するテレビのニュースを見て、私が従軍慰安婦をさせられていたのではないかと気付きプサンの挺身隊対策協議会に申告したのがきっかけで、この裁判を起こすことになったのです


●日本政府への怒り(関釜裁判証言)
家政婦をやめてから、私は韓国政府から生活保護として1ヶ月米5升と麦5合、燃料費二万ウォンの支給を受けて暮らしてきました。

昨年から挺身隊ハルモニ生活補助金として月一五万ウォンが韓国政府から支給されるようになりましたが、今も三畳一間の部屋で家賃が八万ウォンで苦しい生活です。雨が降ると頭が痛くなり、時々、頭が空白になります。

日本政府は、私たちのことに日本政府は責任はないとか、私たちは公娼だとか言っているそうですが、私はこれを聞いて腹が煮えくり返る思いです

●父は「解放のころ火病で死んだ」 
⇒ 証言集では、家に帰ってみると、「父は上海からの私の手紙を見て悶死しており、14歳の妹が姉さんが返ってきたと喜びました」とあり、脚注で「戸籍上の父親の死亡は1937年9月」とある。
14歳の妹は彼女が家出した後で生まれたと考えられる。

●「私は国に帰ってきてから従軍慰安婦をさせられていたことを誰にも言ったことがありません。母には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと言いました」
⇒上海からの手紙で慰安所にいることがわかっていたなら母親に嘘をついても意味はないはず。
関釜裁判証言からは、上海からの手紙は慰安所勤務を隠していたことが伺われるが、証言集では、手紙で慰安所にいることが分かったから父親が火病で悶死した、慰安所にも返事が来たと言っている。

●証言集では故郷に帰ってからの事は以下のように語っている。

母一人では生活が苦しくて、私は再び光州へ出て女中奉公をしました。田舎へ行き働いたりもしました。~
ずっと女中をしながら一人の男性としばらく暮らしたのですが、彼は酒をあびるほど飲んではばくちをするのですぐ別れました。
現在は、妹の家で部屋を一つ貸してもらって生活保護を受けながら暮らしています。」

●関釜裁判証言では、「10年前に妹の息子の金鐘浩が自分の家に来るように行って、部屋を空けてくれました」、「今も三畳一間の部屋で家賃が八万ウォンで苦しい生活です。」とある。

証言集に「現在は妹の家で部屋を一つ貸してもらっている」とあることから、妹の家=甥の家、とすると、甥(妹)は彼女から月8万ウォンの家賃を徴収していたということなのだろう。

●「甥が従軍慰安婦に関するテレビのニュースを見て、私が従軍慰安婦をさせられていたのではないかと気付きプサンの挺身隊対策協議会に申告」 
⇒ 自らの申告ではなく甥が申告?

甥はなぜ、彼女が慰安婦だと気付いたのだろうか?また、本人に黙って申告したように受け取れることば。
甥の申告により挺身隊ハルモニ生活補助金として月一五万ウォンが韓国政府から支給されるようになったので、甥は彼女から家賃を取り始めたのか?補助金めあてに甥が率先して申告したのではないか?

生活保護を受けている彼女から家賃を徴収しているこの甥が、金目当てで彼女を慰安婦裁判に駆り立てたのではないかと想像させられる証言内容である。

●証言集では、上海で何度もひどく殴られたので、雨が降ると体が痛くて動くこともできず、とても苦しいです。この頃はテレビを見ても戦闘シ-ンは見ないようにしています

と身の上話を結んでいる。日本への怨みは一言もない。
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思いがけず、長々と書いてしまいましたが、しょっぱなから兄弟のことがまるで食い違っているなど、呆れるばかりです。
彼女の記憶には、他人の話が相当混入していると思われます。ウソをついているというより、他人から聞いた話を自分の体験として記憶してしまっている可能性があります。
証言が食い違っている場合、どちらが客観的事実として正しいか、両方とも正しくないのかは判別しようがありませんが、ここで、二つの証言を組み合わせて彼女の簡単な年表を作ってみました。

1918      生まれる
1930      小学校入学(12歳)
1930~1932 家出(?) 光州へ
      (1932 彼女の家出後、実家で妹生まれる?)
~1937  光州で住込み女中をして暮らす
1937頃  かどわかしにあっさりだまされ上海の慰安所に(19歳)
      (1937父死亡;戸籍上の死亡日、上海からの手紙で悶死)
1938頃  (上海に来て一年後)逃げ出し、経営者に棒で殴られ頭を大けが
~1945  同慰安所で炊事や洗濯をしながら過ごす
1946(1945?) 帰郷(この時、14歳の妹と初対面?)
~1982頃 家政婦や母親の実家で農業などをして生計を立てる
1982頃~ 甥の家(=妹の家)で部屋を借りる。
       家政婦の仕事を続けていたときは甥に金を入れていた。
       仕事ができなくなってからは生活保護(米・麦、月2万ウォン)
       甥が挺身隊に申告
1991頃  挺身隊ハルモニ生活補助金として月15万ウォン。
       家賃8万ウォン(甥に?)

1992    関釜裁判

彼女が慰安婦をしていたとしても、一年間です。自分の呼び名すら記憶が食い違っていることからもあまり長い期間やっていなかったことが伺えます。
こうやって眺めてみると、彼女が上海の慰安所にいたことが事実だとしても、それだからといって「日本を恨む」、というのはかなり唐突な印象を受けます。
客は日本の軍人でしたが、いい人もいたことがわかります。彼女が恨むとすれば、一番憎いのはどうみても慰安所の経営者ではないかと思うのですが、なぜか彼女はこの経営者に対する恨みは一言も語っていません。
そして、この鬼畜がごとき経営者は、彼女のけがが治った後の数年間、客も取らさず彼女の希望通り炊事や洗濯だけをさせて慰安所においてやったのです。不可解なことです。

彼女の証言は、証言集にも掲載され、裁判の原告にもなっていることから、信ぴょう性が高いとされているものですが、それでも、これほどに不鮮明なのです。

しかし、もっと呆れるのが、証言集に、
彼女達からより明確な記憶を引き出すために、日本の軍隊史、戦争史、わが国の植民地史に関する資料を参考にし、これまでに発掘、報告された慰安婦関係の軍文書資料及び証言を精密に検討しながら、面接調査を行った」とあることです。

戸籍を見れば簡単に判明するはずの兄弟の事すら裏付けがなく、鉄道や船のことも裏付けをとっているようには見えないのです。連行過程の検証って重要だと思うのですが。

「証言 強制連行された朝鮮人慰軍安婦たち」の解説等を読むと、河野談話の元になっているのはこの本ではないかと思えてきます。ここに書かれてある「強制性」の定義とかが河野談話そのままの印象を受けるからです。
韓国語版は1993年の2月に出ていますから、関係者が翻訳して目を通すことは十分可能です。
本当はこの本が河野談話の「強制性」のベ-スになっているとすれば、16人の聞き取り調査が「セレモニ-(秦郁彦氏)」であったことにも納得がいきます。