「文化的雪かき」と「文化的穴掘り」

 村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の下巻を読んでます。作中にしばしば「文化的雪かき」という単語が現れる。主人公はフリーランスのライターとして生計を立てていて、投げかけられた仕事をなんでも引き受ける。大抵は雑誌の隅っこを埋めるだけの、あまり重要ではない文章を書くような仕事。誰もやりたがらないけど、誰かがやらなくてはならない仕事。なるほど、確かに雪かきみたいだ。

 でも、そういう文章を丁寧に書くことに意味は無い。例えば飲食店のレビュー記事。その気になれば料理を食べなくたって適当に書いてしまえるし、ほとんど誰もそんな事に気づきさえしない。それでも主人公はわざわざ東京から札幌まで飛行機で向かい、一軒一軒店を回って料理を食べ比べた上で書く。でも、どうしてそんなことをするのだろう?

 雪かき仕事は誰かがやらなくてはならないけど、誰もやりたがらない。実際にほとんどの人は、そんな仕事をやろうとしない。例えではなく、本物の雪かきについては雪国の生活を知らないしよくわからないけど、例えば清掃の仕事なんて進んでやろうとする人はあまり居ないだろう。それでも誰かがやっている。その前提で生活が成り立っている。でも、そういう仕事に当たる人には雀の涙ほどの報酬しか支払われない。現状の生活水準を保つために欠かせない重要なものなのに、衛生要因も動機づけ要因もほとんど与えられない。その理由は簡単で、そんな仕事は誰もやりたがらないからだ。誰もやりたがらない仕事だから、やらざるを得ない人がやることになる。やらざるを得ないから交渉力は皆無で、どんなに悪条件でも引き受けざるを得ない。

 じゃあ、そういう雪かき仕事を受け持つ人は何を支えにして、仕事を続ければいいのだろうか。何のために雪かきをし続ければ良いのだろうか。『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいると、主人公が文化的雪かきをするのは「生活」のためであったり、「実存」のためであったりするのではないか、と感じる。

 例えば雪かきをやめてしまえば、生活は雪に埋もれてしまう。その生活は「我々のもの」である以前に、「私のもの」である。文化的雪かきにしても同じで、それによって保たれているものがある以上、自身の生活も同じくそれによって保たれているのだ。その領域が身体的なものから精神的なものに移るほど目には見えにくくなるけれど、おそらく滞った時の影響はその雪かき仕事が精神的な領域のものであるほど、よりクリティカルに実存を脅かすことになる。『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公が文化的雪かきを黙々とこなし続けるのは、手を止めてしまえば自らの実存が致命的にダメージを被ることを直感的に理解しているからではないだろうか。文化的雪かきと生活は一見繋がりが見えにくいからこそ、目的意識よりも行為の継続そのものが重要になってくる。

 村上春樹の用いる「雪かき」と似た比喩表現に「穴掘り」がある。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で用いられる。実際には未読の作品なんだけど、別の人の本を読んでいたり話を聴いていたりするとしばしば耳にするので気になっていた。初めて目にしたのは内田樹村上春樹評。確か「村上春樹は文章を書くことは肉体労働だと言っています。穴を掘って言葉や物語を掘り当ててそれをつなげていくようなもの」というような意味のことを書いていたと思う。

 最初は「文化的雪かき」と「文化的穴掘り」は同じようなことを言っているのだと思っていたのだけど、今日ふと気になって考えているうちに、どうも全然違うものなのではないか、というような気がしてきた。「文化的雪かき」が誰にとっても必要であるのにも関わらず誰からもほとんど表立っては必要とされないのと対照的に、「文化的穴掘り」のような仕事、例えば小説を書くような仕事は誰にとっても必ず無くてはならないというような仕事ではないように一見見えるのにも関わらず、必要とされ、上手くやれば上手くやるほど高い報酬が支払われる。

 文化的雪かきは一見他人のためであるように見えるしある程度はそうなのだけど、そもそもは自分自身の生活を、それを成立させるための実存を、そのための正常な繋がりを保っておくためなんじゃないか、ということは上記した。いや、繋がりについて書き忘れてたけど、多分これが『ダンス・ダンス・ダンス』での一つの明示的なテーマで、自分自身の実存とそれを取り巻くものごととの繋がりがもつれてしまったところから物語は始まって、それを一つづつ整理して上手く繋ぎ直す様子を描いたのがこの作品だ。まだ最後まで読んでないから、多分。でもそのために、割りと序盤で主人公は仕事としての文化的雪かきを一旦やめてしまう。その代わりに彼がやっていることのうち(そこには文化的雪かきも含まれていると思っている)、彼の意思が傾けられているものが「文化的穴掘り」なんじゃないだろうか。

 つまり、「文化的雪かき」と「文化的穴掘り」は個人的な領域において目的を同じにしている。その目的は健全な実存とそのための正常な繋がりを保つことだ。だからどちらも同じように、「意味もないし、どこにも辿りつかない」。

穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。雪かきと同じです。文化的雪かき。(……)今やってることに関しては、好きとも嫌いともいえないですね。そういうレベルの仕事じゃないから。

意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ

 「文化的雪かき」や「文化的穴掘り」はそれ自体が繋がりを造るものではない、という点で共通している。ただ、役割は少し違っている。「文化的雪かき」は予防的なもので、「文化的穴掘り」は治療的なものだ。

 「文化的雪かき」が意味のないことであるのと同じように、その必要性を生み出す振り続ける雪も意味や理由を持たない。ただ雪が降るから、ただ雪かきをする必要がある。ちょうど、不条理と反抗の関係だ。雪かきをしたからと言って何かプラスがあるわけではないけど、やらなければどうしようもなくマイナスが積み重なってしまうから、それを防ぐために雪かきをし続けなくてはならない。そういう反抗が実存の健全さを保つのだろう、と考えている。

 それでも実存は脅かされる。繋がりが乱れて、わけがわからなくなってしまうことがある。そういうフェーズで「文化的穴掘り」を自らやったり、人にやってもらったりする必要が出てくる。つまり、この二つの違いは必要とされる段階の差だろうと思っている。実際のところ雪かきだってマイナスが起こってしまったから必要なわけで、ある意味では治療的なものなのだけど、そういうマイナスは元々織り込み済みの、デフォルトのものとして扱われる。そういうより日常的で災害というには軽すぎる不条理性への反抗は文化的雪かきであり、だからこそこちらも他の誰かが負担することがデフォルトとして扱われてしまう。一方で例えば雪との対比として地震のような災害的な、よりクリティカルに影響するものが発生した時には、より土木的な、穴掘りのような対処が必要になる。そういうものは完全に想定外だし、致命的なものだから表立って必要とされる。相応の対価が支払われる。

 実存を頽廃的な虚無主義に陥らないように保つためには不条理に反抗し続けるしかないし、それでも致命的なダメージを被ってしまった時には文化的に穴を掘ったり掘ってもらったりして、物語を支えに立ち直らなくてはならない。その辺の段階と役割によって、「文化的雪かき」と「文化的穴掘り」は分類できるのかなーと思ったのでした。

 ところで今日、TLでこんなツイートを見かけた。

 穴掘り仕事は儲かるのだ。


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