2014.04.07
チベット高原の巨星――プンツォク・ワンギェル逝く
――八ヶ岳山麓から(100)――
チベット人は「天に日月あり、地にダライ・ラマとパンチェン・ラマあり」という。では日月に次いでチベット高原に明るく輝く星は誰か。
それはガランランパ・プンツォク・ワンギェルである。漢語表記は「平措汪傑」、略称はプンワン。彼はこの3月30日早朝7時に北京で亡くなった。92歳だった。
この日、親しい新聞記者が北京から電話で「あなたが伝記を書いたプンワンという人が亡くなりましたよ」と知らせてくれたとき、私は全身の力が抜けた。しばらくして涙がわいてきた。悲しみはその過ぎこしかたがあまりに波乱に満ち、悲劇的であったからである(拙著『もう一つのチベット現代史』明石書店2006)。
私がプンワンとはじめて会ったとき、すでに80歳前後であったが、長身で、勇猛果敢で知られたカンパ(チベット東南高原の人)そのものだった。話し方は闊達、政治家というよりは学究、とりわけヘーゲルとエンゲルスに通じた人という印象を受けた。だが過去の革命運動について話すときは慎重だった。
最後にあったときは91歳。私は、彼が故郷に組織した「東チベット民主青年同盟」の同盟歌のメロディを歌った。アメリカ南北戦争の映画の主題歌「アラバマをこえて」である。このとき彼は「あとで、当時の歌詞をあげましょう」といってくれたがそれを果たせず、とわの別れとなった。
まず彼の年代記を書く。
1922年チベット暦10月に高原南東のカム地方のバタン(現四川省甘孜蔵族自治州巴塘)に生まれた。
十数歳の時南京へ行き、蒙蔵学院に入学、中国共産党の地下党員からマルクス主義の洗礼を受け、42年頃友人らとともに革命組織をつくった。
プンワンは同志とともにラサへ行き、共産党を設立すると同時に、チベット政府に抗日戦への参加と、下層人民の負担軽減を働きかけた。だが何の成果もなかった。
ラサの壁が厚いとわかると、45年カム(当時の西康省)を支配する漢人軍閥を打倒し、次いでラサへ進軍し、民主ポエパ政府を樹立する戦略を立てた(「ポエパ」はチベット人の自称)。だが兵器調達中に計画が漏れて命からがら逃走し、ラサに潜入して小学校の音楽教師となって地下活動に入った。
1949年プンワンらはチベット政府によってラサを追放された。しばらくしてチベット共産党は中共に合同する道を選んだ。中国革命にチベット・東トルキスタン・内モンゴルが加わった中国連邦の樹立を期待したのである。しかしこれもあっさり裏切られた。中共が革命勝利直前に民族政策を転換し、単一国家をつくることにしたからである。
彼は1954年までこれを知らなかったという。それかあらぬか、彼は1950年、解放軍のチャムド作戦に協力し、チベット政府と中共との和平交渉では通訳をやり、解放軍のラサ進軍を先導し、チベット政府に代る権力機関中共チベット工作委員会の委員となったのである。
1958年からのチベット叛乱が、59年にダライ・ラマのインド蒙塵で頂点に達すると、中共は彼を反革命・地方民族主義者として捕まえ、拷問のすえ北京秦城監獄に放り込んだ。18年間の獄中生活の間に文化大革命があった。彼の妻・父は紅衛兵の暴行で死に、次弟のトワンは14年の刑、チベット共産党の同志たちも拷問・長期投獄、幼い息子すら数年間収監された。
ひとつだけよかったのは、獄中で弁証法研究ができたことである。これは出獄後結実し、『自然弁証法新探』『月球有液体』が出版された。
1978年彼は出獄し、やがて全国人民代表大会常務委員・民族委員会副主任に任命された。
1980年中国憲法改定(1982・10)をめぐって、彼は高度自治と、自治区を全チベット人地域に拡大するよう主張した。激しい論争ののち主張をかなり憲法の民族自治条項に入れさせることができたが、期待した自治原則は尊重されず、むしろ事態は逆の方向に動いた。
1989年1月、十世パンチェン・ラマが死の直前、「中共支配はチベットへの貢献よりも極左政策による加害の方が大きかった」と発言したのはまさに象徴的できごとだった。
彼は十世パンチェン・ラマ亡きあと哲学研究に専念したが、機会を見ては中共総書記江沢民や胡錦濤に上申書をあげ、民族政策の転換を要求した。
阿部治平 (もと高校教師)
チベット人は「天に日月あり、地にダライ・ラマとパンチェン・ラマあり」という。では日月に次いでチベット高原に明るく輝く星は誰か。
それはガランランパ・プンツォク・ワンギェルである。漢語表記は「平措汪傑」、略称はプンワン。彼はこの3月30日早朝7時に北京で亡くなった。92歳だった。
この日、親しい新聞記者が北京から電話で「あなたが伝記を書いたプンワンという人が亡くなりましたよ」と知らせてくれたとき、私は全身の力が抜けた。しばらくして涙がわいてきた。悲しみはその過ぎこしかたがあまりに波乱に満ち、悲劇的であったからである(拙著『もう一つのチベット現代史』明石書店2006)。
私がプンワンとはじめて会ったとき、すでに80歳前後であったが、長身で、勇猛果敢で知られたカンパ(チベット東南高原の人)そのものだった。話し方は闊達、政治家というよりは学究、とりわけヘーゲルとエンゲルスに通じた人という印象を受けた。だが過去の革命運動について話すときは慎重だった。
最後にあったときは91歳。私は、彼が故郷に組織した「東チベット民主青年同盟」の同盟歌のメロディを歌った。アメリカ南北戦争の映画の主題歌「アラバマをこえて」である。このとき彼は「あとで、当時の歌詞をあげましょう」といってくれたがそれを果たせず、とわの別れとなった。
まず彼の年代記を書く。
1922年チベット暦10月に高原南東のカム地方のバタン(現四川省甘孜蔵族自治州巴塘)に生まれた。
十数歳の時南京へ行き、蒙蔵学院に入学、中国共産党の地下党員からマルクス主義の洗礼を受け、42年頃友人らとともに革命組織をつくった。
プンワンは同志とともにラサへ行き、共産党を設立すると同時に、チベット政府に抗日戦への参加と、下層人民の負担軽減を働きかけた。だが何の成果もなかった。
ラサの壁が厚いとわかると、45年カム(当時の西康省)を支配する漢人軍閥を打倒し、次いでラサへ進軍し、民主ポエパ政府を樹立する戦略を立てた(「ポエパ」はチベット人の自称)。だが兵器調達中に計画が漏れて命からがら逃走し、ラサに潜入して小学校の音楽教師となって地下活動に入った。
1949年プンワンらはチベット政府によってラサを追放された。しばらくしてチベット共産党は中共に合同する道を選んだ。中国革命にチベット・東トルキスタン・内モンゴルが加わった中国連邦の樹立を期待したのである。しかしこれもあっさり裏切られた。中共が革命勝利直前に民族政策を転換し、単一国家をつくることにしたからである。
彼は1954年までこれを知らなかったという。それかあらぬか、彼は1950年、解放軍のチャムド作戦に協力し、チベット政府と中共との和平交渉では通訳をやり、解放軍のラサ進軍を先導し、チベット政府に代る権力機関中共チベット工作委員会の委員となったのである。
1958年からのチベット叛乱が、59年にダライ・ラマのインド蒙塵で頂点に達すると、中共は彼を反革命・地方民族主義者として捕まえ、拷問のすえ北京秦城監獄に放り込んだ。18年間の獄中生活の間に文化大革命があった。彼の妻・父は紅衛兵の暴行で死に、次弟のトワンは14年の刑、チベット共産党の同志たちも拷問・長期投獄、幼い息子すら数年間収監された。
ひとつだけよかったのは、獄中で弁証法研究ができたことである。これは出獄後結実し、『自然弁証法新探』『月球有液体』が出版された。
1978年彼は出獄し、やがて全国人民代表大会常務委員・民族委員会副主任に任命された。
1980年中国憲法改定(1982・10)をめぐって、彼は高度自治と、自治区を全チベット人地域に拡大するよう主張した。激しい論争ののち主張をかなり憲法の民族自治条項に入れさせることができたが、期待した自治原則は尊重されず、むしろ事態は逆の方向に動いた。
1989年1月、十世パンチェン・ラマが死の直前、「中共支配はチベットへの貢献よりも極左政策による加害の方が大きかった」と発言したのはまさに象徴的できごとだった。
彼は十世パンチェン・ラマ亡きあと哲学研究に専念したが、機会を見ては中共総書記江沢民や胡錦濤に上申書をあげ、民族政策の転換を要求した。
さて、プンワンは1948年ころダワ・サンボなるモンゴル人青年と親しくなった。当時、プンワンは、未来のポエパ民主国家のどこにダライ・ラマを位置づけるかで苦心していた。結局「国家象徴として尊崇される」というところに落ち着くのだが、これはダワ・サンボの示唆によるところが大きかった。49年彼が回族少女ツリナと結婚したときも媒酌人はダワ・サンボだった。
プンワンは54年に、「申し訳ない、じつは私は日本人だ」というダワ・サンボの驚くべき手紙を受取った。ダワ・サンボは第二次大戦末期チベット人地域に潜行した日本人木村肥佐夫(のち亜細亜大学教授)だったのである。
私はプンワンに「ダワ・サンボにおかしなところはなかったか」と聞いた。彼は「まったくモンゴル人だと思っていた」と答えた。もし彼が日本人の密偵と親しかった事実を治安当局が知ったら、拷問・投獄では済まなかっただろう。
プンワンは私に、北京のプンワン宅へダワ・サンボが訪れたときの話をしたこともある。彼らは一別以来30数年がたっていた。
「ダワ・サンボに、茶はなにがいいかと聞いたら、いつもの通り(チベット茶)といったんだよ」といって笑った。
ダワ・サンボとの交友は、ゴールドシュタインによるプンワンの伝記「A Tibetan Revolutionary 」( University of California Press 2004) には出てこない。
プンワンはダライ・ラマと大変親しかった。ダライ・ラマ17歳のとき、ラサに進駐した解放軍指揮官らを引見したが、なかに伝統のチベット服の青年がいて、3度平伏するチベット式敬礼を行なった。これがプンワンだった。このとき、プンワンは「立派な青年になった貴方が、今こうしてここにわたしとおられるとは……」といっておいおい泣きだしたという。
ダライ・ラマは自伝の中で「プンツォク・ワンギェルは非常に有能で物静かで賢明な、思慮深い人物であった。またじつに誠実かつ正直な人柄で、いっしょにいてとても楽しかった」と語っている。
1954年ダライ・ラマとパンチェン・ラマが北京を訪問したとき、通訳を担当したのは、プンワンと次弟のトワンであった。
互いの信頼は20年の音信不通を経て今日までも続いていた。プンワンは私に、「以前ダラムサラへ招待があったけど・・・・・・」といった。当時の中共総書記趙紫陽は彼のインド行きを承認したが、結局行けなかった。そのわけを彼は語らなかった。
プンワンは文化大革命が終わるまでは、チベット人の間で十世パンチェン・ラマほどには知られてはいなかった。いま高校を卒業した程度の人なら、敬意を表して「バパ・プンワン(プンワン先生)」という。
僧俗のインテリは彼の民族理論を読むことで、民族とは何か、チベットの言語・歴史・信仰・風俗習慣の維持発展が自分らにとってどんな意味を持つかを知った。
彼によって、現状では民族独立は現実的ではなく、ダライ・ラマのいう高度自治がチベット人にとって有益であることも、自治区はチベット人地域全体であるべしということも、中共の民族政策がチベット人の願いとなぜ違ってしまうかも、理解できたのである。
インドに亡命したダライ・ラマ周辺の人々は、はじめプンワンを中共の手先、民族の裏切者とした。だがのちにプンワンの辛苦の活動を知り、尊敬するようになった。1979年中国政府との交渉のために北京に来たダライ・ラマの次兄ギャロ・トンジュプは、プンワンと十世パンチェン・ラマを特別に訪問した。以後、亡命政府代表団は訪中のたびにプンワンと面会したのである。
チベット人は25年前十世パンチェン・ラマを、今日プンワンを失った。
国内で民族を代表して発言できる権威ある人物はもういなくなった。
プンワンは中共中央に「ダライ・ラマが存命のうちにチベット問題を解決しなければならない。逝去を待っていては収拾がつかなくなる」と何回も上申した。だが、中共統一戦線部はこれにとりあわなかった。
現行の民族政策が続く限り、ダライ・ラマなきあとのチベット高原は抑えが利かなくなって、新疆化・パレスチナ化・アフガン化する危険がある。もしそうなったら、いったい何のためにプンワンは身をそぎ骨をけずって苦闘したのだろうか。
プンワンは54年に、「申し訳ない、じつは私は日本人だ」というダワ・サンボの驚くべき手紙を受取った。ダワ・サンボは第二次大戦末期チベット人地域に潜行した日本人木村肥佐夫(のち亜細亜大学教授)だったのである。
私はプンワンに「ダワ・サンボにおかしなところはなかったか」と聞いた。彼は「まったくモンゴル人だと思っていた」と答えた。もし彼が日本人の密偵と親しかった事実を治安当局が知ったら、拷問・投獄では済まなかっただろう。
プンワンは私に、北京のプンワン宅へダワ・サンボが訪れたときの話をしたこともある。彼らは一別以来30数年がたっていた。
「ダワ・サンボに、茶はなにがいいかと聞いたら、いつもの通り(チベット茶)といったんだよ」といって笑った。
ダワ・サンボとの交友は、ゴールドシュタインによるプンワンの伝記「A Tibetan Revolutionary 」( University of California Press 2004) には出てこない。
プンワンはダライ・ラマと大変親しかった。ダライ・ラマ17歳のとき、ラサに進駐した解放軍指揮官らを引見したが、なかに伝統のチベット服の青年がいて、3度平伏するチベット式敬礼を行なった。これがプンワンだった。このとき、プンワンは「立派な青年になった貴方が、今こうしてここにわたしとおられるとは……」といっておいおい泣きだしたという。
ダライ・ラマは自伝の中で「プンツォク・ワンギェルは非常に有能で物静かで賢明な、思慮深い人物であった。またじつに誠実かつ正直な人柄で、いっしょにいてとても楽しかった」と語っている。
1954年ダライ・ラマとパンチェン・ラマが北京を訪問したとき、通訳を担当したのは、プンワンと次弟のトワンであった。
互いの信頼は20年の音信不通を経て今日までも続いていた。プンワンは私に、「以前ダラムサラへ招待があったけど・・・・・・」といった。当時の中共総書記趙紫陽は彼のインド行きを承認したが、結局行けなかった。そのわけを彼は語らなかった。
プンワンは文化大革命が終わるまでは、チベット人の間で十世パンチェン・ラマほどには知られてはいなかった。いま高校を卒業した程度の人なら、敬意を表して「バパ・プンワン(プンワン先生)」という。
僧俗のインテリは彼の民族理論を読むことで、民族とは何か、チベットの言語・歴史・信仰・風俗習慣の維持発展が自分らにとってどんな意味を持つかを知った。
彼によって、現状では民族独立は現実的ではなく、ダライ・ラマのいう高度自治がチベット人にとって有益であることも、自治区はチベット人地域全体であるべしということも、中共の民族政策がチベット人の願いとなぜ違ってしまうかも、理解できたのである。
インドに亡命したダライ・ラマ周辺の人々は、はじめプンワンを中共の手先、民族の裏切者とした。だがのちにプンワンの辛苦の活動を知り、尊敬するようになった。1979年中国政府との交渉のために北京に来たダライ・ラマの次兄ギャロ・トンジュプは、プンワンと十世パンチェン・ラマを特別に訪問した。以後、亡命政府代表団は訪中のたびにプンワンと面会したのである。
チベット人は25年前十世パンチェン・ラマを、今日プンワンを失った。
国内で民族を代表して発言できる権威ある人物はもういなくなった。
プンワンは中共中央に「ダライ・ラマが存命のうちにチベット問題を解決しなければならない。逝去を待っていては収拾がつかなくなる」と何回も上申した。だが、中共統一戦線部はこれにとりあわなかった。
現行の民族政策が続く限り、ダライ・ラマなきあとのチベット高原は抑えが利かなくなって、新疆化・パレスチナ化・アフガン化する危険がある。もしそうなったら、いったい何のためにプンワンは身をそぎ骨をけずって苦闘したのだろうか。
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