ETV特集「和僑〜アジアで見つけるボクらの生き方〜」 2014.04.05

皆さん拍手をお願いいたします。
去年11月タイバンコク。
頑張れ日本!こんばんは。
「和僑」と称するアジア在住の日本人2,000人が集結した。
和僑とは海外に出てビジネスを始める日本人起業家たち。
今急増している。
大風呂敷広げてしまってどうなるかなと思ったんですけど。
日本の中の閉塞感があるからか分かんないですけどマーケットが縮小してるという危機感とあとアジアブームというんですかね。
今出なきゃ早く出なきゃという感じの人は増えたかもしれないですね。
和僑の中には20代から30代の若者が大勢いる。
世界中に根を張る華僑と肩を並べる存在感を持ちたいと和僑を名乗る。
現地の人とWin−Win互いにメリットが得られる関係作りを大事にしている。
多くの和僑が目指すのはアジア。
まずはタイ人の視点で物事をまず見る。
日本人が偉い正しいみたいなのを押しつけるみたいなやっぱり無意識に結構あると思うんです。
カンボジアの人たちに僕と出会ってよかったと思ってもらえれば僕はまずそれでいいですね。
好かれるようにしていきたいカンボジアの人たちに…とだけ考えてます。
安定よりも自らの成長をアジアに懸ける若者。
いろいろ選択肢あった中で最終的に一番不安定で危険な道を取った方が自分に懸けてるみたいなところがあって。
ASEAN10か国の経済統合を来年に控えその成長に期待を懸ける日本。
若き起業家たちは現地の人々とどう関係を築こうとしているのか。
和僑という生き方を追った。
発展著しいASEANの中でも年7%を超える経済成長をひた走るカンボジア。
日本企業の進出も100社を数える。
ここにも徒手空拳でやって来て起業の夢を懸ける和僑がいる。
折しも日本の店舗がまた一つ進出する事になった。
首都プノンペンの一角。
地元の大家との間で交渉がまとまった。
交渉にあたっているのは日本側のオーナーの代理人黒川治郎34歳。
日本企業のカンボジア進出を支援するコンサルタント会社を3年前に立ち上げた。
黒川は日本で3軒の飲食店を経営していた。
しかし2008年リーマンショック。
店を畳んだ。
再起の思いを託したのは成長が続くカンボジアだった。
(黒川)イオンの看板が…。
具体的に動いていく中でやはりその伸びしろこの国の伸びしろ。
これからの国まだまだ後発の途上国である。
そこの可能性というのは大きいなと。
この辺は結構雰囲気がいいんですよね。
黒川には和僑としての夢がある。
ここです。
これはワッフルカフェーです。
今工事中で3月15日ぐらいにオープン予定です。
(取材者)あと10日ぐらいですか。
もう1週間ちょいですね。
この通りに日本から店舗を誘致し日本のおもてなしの心をカンボジアの人に伝えたい。
通りは「絆ストリート」と名付けた。
15の店が並ぶ予定だ。
カンボジアって中華街ですとかコリア街とかインド街ってはっきりしたものがないんですね。
そこに先行してですね僕は日本人としてジャパンストリートジャパンタウンみたいなのがあったら面白いなとそういう思いもありましたね。
この町の近くにあるドラマが生まれていた。
コーヒーハウスの奥にある小さな美容室。
ある和僑が2か月前に開業した。
あっすいません。
セット椅子と鏡が1つずつあるだけの美容室。
オーナーは弓指龍太33歳。
女性を美しくするのに国の違いはない。
どこででもやっていけると信じていた。
カンボジアではまだ美容院は多くない。
美容師も育っていないのでスタッフを集めるのに苦労した。
弓指は地元の若い女性たちを美容師候補として雇い手ほどきをしている。
(弓指)ノズルを…ストップストップ。
これをこうなってるの今向きが。
これをこうしてほしいの。
弓指は20代東京・青山などの美容院で10年間腕を磨いた。
お客の要望にどのようにでも応えられる自信があった。
しかし注文どおりにこなす仕事に限界を感じていた。
30歳を前に北京に来ないかと誘いを受けた。
そこで教えられたのは「美容師はもっとクリエーティブであれ」だった。
「美容師」って日本人だったら言うけど英語で言うんだったらヘアドレッサーとかヘアデザイナーってなるじゃないですか。
お客さんがデザインを考えて「今日これにして下さい」というのが日本のお客さんだと思うんですよ。
だけど例えば日本の美容師が世界でもすばらしいと思って期待してくるお客さんにとってはヘアデザイナーなんだから何も考えなくても美容師がデザインを考えてくれるという提案型ですよね。
それをやらないのは外国人のお客さんからしてみればプロじゃないって見られる。
ヘアスタイルを美容師から提案し形にする喜び。
弓指は舞台を未開拓の市場カンボジアに移した。
まずどんなヘアスタイルがカンボジア人女性の好みなのか。
弓指は町を歩いた。
そして驚いた。
誰も彼もがロングヘアばかり。
ショートヘアは一人もいない。
一体なぜなのか?そこにカンボジアの女性たちのある痛ましい記憶があると教えられた。
歴史を知らなければこの国で美容師の仕事はできない。
弓指はその記憶をたどった。
ここはもともと町の高校だったがかつて収容所として大勢の市民が連行されてきたという。
ごく普通の市民が政治犯と見なされ足かせをはめられて毎日拷問された。
1970年代カンボジアを吹き荒れた粛清の嵐。
当時国を支配していたポル・ポト政権は極端な共産主義政策をとった。
多くの市民が都会に住んでいるというだけで目の敵にされ農村での強制労働を命じられた。
ポル・ポト政権の時代亡くなった人は100万を超えると言われる。
捕らえられた女性たちの写真があった。
写っている全員が殺された。
女性たち全てが短い髪になっていた。
髪を切る事を拒めばそこには死が待っていた。
ヘアスタイルは女性を美しくするためのものと信じてきた弓指にとってそれは衝撃だった。
例えて言うと嫌な髪形にされた時って怒りがあると思うんです。
けどあのトゥール・スレンの短く切られた女の子には多分怒りがなくて悲しみしかないんじゃないのかなと思うんですよね。
あそこの建物の女の子たちがみんな同じ事をされて悲しみだけだったらあの建物自体が最悪な美容室になっていたんじゃないのかなと感じます。
でも自分にはできる事がある。
ショートヘアを忌まわしい記憶から解放し新しい美の象徴にできないか。
今日は大体このぐらい切ってそれできれいにしていきますのでよろしくお願いいたします。
訪れたのは日本人を夫に持つカンボジア人女性。
弓指は思い切ってショートヘアを提案した。
ヘアデザイナーとして過去の悲しい記憶を少しでも癒やす事ができたならそこに自分の存在意義があるはず。
ちょっと雰囲気違いますよね。
カンボジアの人たちに僕と出会ってよかったと思ってもらえれば僕はまずそれでいいですね。
好かれるようにしていきたいカンボジアの人たちに。
和僑としてカンボジアの女性たちとWin−Winの関係を築いていく。
ASEANつまり東南アジアと日本との関係はかつては緊張していた。
「エコノミックアニマル」と反発を受けていた時代もあった。
その時日本の経済進出に対する反発から反日デモが起きた。
日本だけが黒字となる貿易不均衡。
東南アジアの富を持ち出しているのではないか。
その後80年代以降も日本企業は続々と東南アジアに進出。
世界の経済発展センターASEAN地域に暮らす日本人は15万人を数えるに至った。
そんな中10年ほど前から現れた和僑という若い起業家たち。
地元とWin−Winの関係を作ろうという彼ら和僑。
今日本が大事にしなければならない事は何なのか。
日本人が偉い正しいみたいなのを押しつけるみたいなやっぱり無意識に結構あると思うんです。
だんだん我々はこう考えるけどもタイ人はこう考えるからじゃあそれをどこにバランス取っていこうという常に一個一個の事例に対してそういうところはあります。
人の国に住まわせてもらってるくせにねタイの人たちの悪口言う人がいるんですね。
「是非タイの国に来て下さい。
住んで下さい」と言われて来てるわけじゃないんだからタイの人たちの習慣だとかそういう事を「だからタイ人は」とか言っちゃ駄目なんですね。
これは秘訣じゃない。
タイの国でうまくやってく秘訣じゃなくて当たり前の事。
世界遺産アンコール・ワットを擁し古い歴史と伝統を持つカンボジア。
そのすぐそばにビジネスの拠点を構えた女性起業家がいる。
それは世界遺産の見物に訪れた観光客が必ずと言っていいほど立ち寄る店。
名物はクッキー。
味の良さで知られている。
あっおいしい!おいしい。
どうもありがとうございます。
おいしい。
地元の食材にこだわり手間をかけて手作りされている。
店の近くには工場。
ここでは60人の地元の人が働いている。
クッキーには特産のカシューナッツをふんだんに使いヤシの花の蜜をじっくり煮込んで作ったパームシュガーを練り込んである。
丁寧に生地を作り型を抜き包装まで一枚一枚手作りされる。
店と工場を経営する小島幸子。
もともとは日本語教師として15年前にこの町に来た。
当時日本は就職氷河期と言われた。
日本を見切りアジアに目を向けた。
ほんとにアジアのパワーというかこういうアジアの熱気というかパワフルな中に自分の身を置いてみたいなというところが一番の原点で。
カンボジアを選んだ理由というか選んだわけでは本当になくてアジアがいいととにかくアジアに行きたいという気があったのでアジアを中心に仕事を探してまして。
小島は日本語教師としてこの町で3年間暮らした。
カンボジアと日本。
相違点より共通点が感じられた。
遺跡の周辺には田園地帯が広がっている。
ここには働きたくとも仕事に就けない若者が数多くいた。
それが就職先がなかなか見つけられない日本と重なった。
ならば彼らと組んで仕事を作り出せないか。
心配する周囲の声を振り切って観光客向けのお土産の店を立ち上げた。
一時の人助けにしたくない。
小島は甘さや緩さを嫌いビジネスにこだわった。
おはようございます。
(一同)おはようございます。
お願いします。
(一同)お願いします。
仕事の前には時間をかけて作業の手順を確認する。
食べ物を扱う仕事にミスやうっかりは許されない。
衛生管理は日本並みの厳しい水準を要求し心構えを繰り返し説いた。
ゆったりとした時間ゆったりとした仕事に慣れたカンボジアの農村の人々。
当初小島のやり方に戸惑った。
その一方で小島は社員の福利厚生に力を入れた。
会社に託児所を完備。
保育料はタダ。
出産休暇は有給で3か月育児休暇は6か月設けた。
能力ある女性が出産を機に会社を辞めてしまうのは日本もカンボジアも同じ。
そんな例を小島はたくさん見てきた。
女性社長として女性が生き生きと社会で働く理想を実現したいと思った。
やっぱり私は自分自身もそうですけど働いて…自分が社会で必要とされて働いてるってすごく自分に自信がつくと思うんですね。
必要とされている誰かの役に立つ自分がこの組織の中で役割があるといってそれを達成していくという事が人間をすごく成長させるし自分自身に誇りが持てるんじゃないのかなと私は思っていて。
なのでやはり働くという会社をつくるという事が世の中にとってすごく大切な事じゃないのかなと。
そんな小島の姿はカンボジアの人たちを少し変えた。
小島が会社を起こして10年。
お客が増えるにつれスタッフも増やしてきた。
こんにちは。
いらっしゃいませ。
こちらにいろいろなクッキーがございます。
どうぞ試食してみて下さい。
私のお薦めはヤシ砂糖クッキーです。
袋も箱も中身は同じ100gです。
値段も一緒です。
ああほんとね。
皆さん日本語お上手だし丁寧にね。
流暢な日本語で日本人客の応対ができるスタッフも充実。
売り上げが増えれば待遇アップにもつながる。
「もっとお客様と話したい」。
店のスタッフの強い要望で閉店後に日本語教室が設けられる事になった。
こんにちは。
(一同)こんにちは。
こんばんは。
(一同)こんばんは。
先生を務めるのは去年日本の大学を卒業し入社した樋口愛美。
就職活動中だった樋口はインターネットで小島の事を知り経営理念に共鳴。
日本に一時帰国していた小島と面談し是非入社させてほしいと頼み込んだ。
既に決まっていた日本の企業の内定を蹴ってまではるばるとここに来た。
私が就活の軸にしていた人の生活を豊かにしたいであるとか人の生活…人の住んでいる環境に幸せをもたらしたいというそういう目標の本質的な部分を達成しようと思ったら豊かさにあふれた日本ではなくてまだ物も少ないしお金を持っている人もたくさんいないけれども今から…今まさに成長している国の中で自分がその人たちと一緒に働いてその発展に関わりたいというかそういう気持ちがありましたね。
特に若い人たちに日本の社会でうまくいかないというか受け入れられない事があったとしてもみんな生きる場所って今そんなに狭い日本という国場所だけではなくすごくどんどん広がっていると思うんですよね。
「生きる場所はいろいろあるよ」というのを伝えたいですね。
「いろいろな人々に生きる場所を提供する」。
そんな意味も起業には含まれていると小島は思う。
今日本では国を越えて活躍する「グローバル人材」の必要性が強く叫ばれている。
日本経団連の関連機関経済広報センターのアンケート調査によればグローバル人材に必要な条件は…。
アジアの価値観のおかげで自らの生き方を変える事ができた和僑がいる。
「しゃかりき」です。
お願いします。
バンコクで居酒屋を営む清水友彦39歳。
大阪色を前面に出したスタイルで地元のタイ人にも人気を博している。
(店員たち)いらっしゃいませ!清水が経営する居酒屋。
2年前バンコクに1号店を開店。
現在市内に3軒の店を構える。
清水は大阪で10年間居酒屋を経営していたがある時一念発起してタイに来た。
「寂しい酒はまずい酒楽しい酒はうまい酒」。
そんなポリシーがタイの水に合った。
たこ焼きうま!さすが!さすがめっちゃうまいね。
来店した全てのお客さんに一声かけるのが清水のモットー。
その笑顔の裏に大阪時代の失敗が潜んでいた。
2002年清水は念願の店をオープンした。
26歳の時だった。
同級生の妻と二人三脚で店を切り盛りした。
客とのノリとツッコミそして面倒見のよさで常連客がどんどん増えていった。
ええ兄ちゃん的な感じなんですが。
結構やる事がない若い子らも夢がない子が多かったんで…。
飲食も興味ない子もほとんど。
でも俺と一緒に働きたいみたいな感じで言うてくれて。
客だった若者が清水を慕って続々と入社した。
気が付けばスタッフ全員が元客だった。
店は人気店となり6店舗に拡大した。
しかし清水が店を構えたのは大阪でも居酒屋激戦区と言われる場所。
過激な値引競争や過剰なサービスで客の争奪がエスカレートしていった。
清水の店もその消耗戦に巻き込まれる。
話の分かる兄貴の顔が変わっていった。
チェックばっかしてマルサみたいなね。
その店のええとこは見んと「どこの掃除ができてない」とか「仕込みがこれは足らん」とか。
だからチェックマンになって完全に自分のやりたい事と全く違うようになってきたんですよね。
ただ店を増やすだけで…増やすのに頭がいってて。
ほんで6軒やってから社員が辞めだしてきたんですよね。
まさに負の連鎖でね。
管理管理とうるさく言う清水を嫌って社員は次々と去っていった。
持ち味だった客との会話もなくなっていった。
限界だった。
疲れ果てた清水は店を畳みタイを訪れる。
ただの旅行のつもりだった。
ところがタイに来てタイの人たちの明るい気質に忘れかけていた自分を思い出した。
(清水)はいいらっしゃい!
(一同)いらっしゃいませ!煩雑な手続きをものともせず日本で稼いだ金をつぎ込んでおととし開店。
思いもかけない収穫があった。
タイでは日本式に接客や配膳調理を細かく指示するとスタッフがすぐ辞めてしまう。
いきおい管理主義をやめ楽しみながら店を動かすようになった。
それは清水が大事にしていた原点だった。
いきらんでもいいし何かこう身なりもそうやし。
自然体でいけるんですよごっつ。
日本やったらいろいろ「これもあれもあかんかったあれもあかんかった」ってなる。
こっちはどんどん「オッケー次またいこうまたいこう」ってなれる。
むっちゃこうタイには合うてんのかなと思います。
しゃかりき!お昼仕事やってますか?お昼。
(タイ語で)タイ語はまだまだだが日本より楽に生きられる自分がいた。
先生。
ティーチャー。
面倒見のよかった親分肌の清水が帰ってきた。
現状の日本の居酒屋業界飲食業界は根本からずれてきてるところがあると思うから…。
サービス過剰とか人件費削減しすぎてなんや何か分からへん状態になってきてるでしょ。
そんなところで詰まってる人はやっぱ海外タイとか東南アジアとか比較的出店しやすいから。
うれしい出来事があった。
大阪時代の客が新たにスタッフとして加わった。
初め日本のしゃかりきのお店の僕お客さんやったんですよ。
入った時に社長にお会いしてこんな面白い人おんのや思うて仕事関係ないけど一目ぼれして。
社長が一番大事にされてるのはやっぱ…何やろな。
人を気遣うじゃないけど気にかけてあげるじゃないけど…。
何て言うの「社長やから下はもう相手せん」とかじゃなくて社長やからみんな見てあげる。
プラス僕も見てくれるし「ほな俺はタイ人をもっと見なあかん」みたいな感じで…。
すごいスタッフにはいい意味で距離が近い。
タイに咲いた浪花の和僑。
清水はこの国で永住する事を決めた。
はいおおきに!和僑の「和」。
そこには「人と人とのつながり」という意味も込められている。
一人の日本人がタイの子供たちにサッカーを教えている。
相原豊34歳。
バンコクでサッカースクールを経営する。
彼は生まれつき左腕の手首から先がない。
教えているのは聴覚障害の子供たち。
子供たちと直接コミュニケーションをとるためタイ語の手話もマスターした。
(歓声)相原は海外生活のプロだ。
高校卒業後日本のクラブチームを経て海外でプレーしてきた。
「面白いサッカースクールやってる人がいるよ」という話を聞いてその人と会ってみたら本当に面白くて…。
その人がブラジルとコロンビアとエクアドルという南米でプロでやってた人で。
自分も海外でサッカーをしたら面白くなれるかなと思ってそれで海外に来ました。
向かった先はタイ。
知人の紹介でプロチームのテストを受け合格する。
チームにもファンにも日本人が一人もいない全くのアウェーでチームスポーツであるサッカーに打ち込んだ。
翌年にはバングラデシュのプロチーム。
更にアフリカのウガンダ。
日本人の選手が誰も行こうとしない国で切磋琢磨した。
3年間の海外修業を経て日本に帰国した相原は指導者の道を模索する。
志したのは障害者の指導だった。
障害者でもプロになったという人間は多分僕ぐらいだと思うんで…。
そういう人間が同じような境遇の人たちにサッカーを指導する事は意味があるんじゃないかなと思って。
しかし日本では無名だった相原を受け入れてくれる学校やチームはなかった。
頭をよぎったのはタイだった。
選手時代相原を温かく迎えてくれたタイ。
コミュニケーションには自信があった。
それから5年。
相原は今タイに住む日本人向けのサッカースクールを経営しながらタイのろう学校のチームで指導を行っている。
あ!
(笑い声)日本にいたら会う事もなかった人たちと生きがいを共にする。
和僑の「和」にはそんな意味も込められていた。
相原は子供たちのシューズ代やボール代を得るためにスポンサー集めに走り回る。
タイの人々の間に深く入り込む相原の姿はタイの社会に浸透しようと考える日系企業の一部から注目を集めている。
相原の求めに応じて7〜8社の企業が援助を申し出た。
私もよく実は孤児院とか行くんですよ彼の。
そことか見てると非常に彼が信頼されてるなというのがすごく感じますので。
彼は本当にタイの社会にズッポリと入れてるなと。
そういうものに対して我々はそういう若者をねタイで活躍してくれる日本人をサポートさせてもらう日本の企業としてさせてもらいたいと。
自分の夢を追う。
(相原)ただ一緒にサッカーやってあいつらが笑ったり喜んだりとかしてる輪の中に一緒にいれると何か…こっちが何て言うんですかねあったかいというわけじゃないですけど「ああ俺いい生活してるな」って思いますよね。
そして現地の人たちの夢を助ける。
日本では非正規雇用の労働者が2,000万人に迫ろうとしている。
一生を懸けるに足る仕事を見つけられない人々が増えている。
そんな中アジアでボランティアとビジネスを結び付けた生き方を探る人々がいる。
プノンペンで精密機械の部品工場を経営する上田聖也32歳。
上田はもう一つの顔を持っている。
日本から毎年カンボジアを訪れる女子大のボランティアサークル。
そのガイドを引き受けている。
さすが女子だね。
ありがとうございます。
上田はプノンペンの町外れの一角に彼女たちを案内した。
(上田)ここから入ります。
ここはかつてゴミの山だった。
埋め立てられスラムが形成されている。
上田は会社経営のかたわらボランティアでスラムに暮らす人たちの生活支援を続けている。
住民たち全員と顔なじみだ。
(学生)何て言ってるんですか?
(上田)きれいだって。
肌がきれいだってよ。
(笑い声)スラムの一角には危険なゴミが山と積まれていた。
(上田)ちょっと歩いてみる?やめとく?無理にとは言わないよ。
抵抗あります。
抵抗あるか。
注射器とかガラスとか結構入ってるからな。
何回かここで歩いてる時に足切ってさ。
(学生)やっぱガラスもありますか?
(上田)あるある。
一日大体延べ1,000人ぐらいここ出はいりして…。
でもこういうのの中からビニール袋とか金具とかそういう金になるものを拾って子供から大人までそれを見に来る外国人がいっぱいいてね何とかしたいといっても無くせばいいってもんでもなくて無くしたら今度あいつら仕事無くなるしさ。
結論としては仕事を作ってやるしかないんじゃないかっていう話になって。
ゴミ拾わなくても飯食っていけるようにしてやるしかないんじゃないか。
スラムの支援は一生の仕事。
上田は町工場を造り拠点を構えた。
日本の企業の下請けとして精密機械の部品を組み立てている。
従業員はおよそ30人。
貧しい農村出身者やスラムの住人元売春婦の女性も働いている。
極小のネジを一つ一つ手で組み立てていく作業。
400個作って1ドルの報酬。
これを一日1,500個から2,000個作る。
月1万円余りの給料。
高いとは言えない。
それでも継続的な雇用を生み出す。
そして上田がスラムの支援をするための拠点となっている。
当初はほんとにこっちで生きていくためこっちでボランティア活動をするためにと割り切ってやってましたね。
生活費を賄うために俺は仕事をしてるんだというふうに分けて考えてました。
分けて考えていたんですが途中どこからか「あれ俺の今会社でやってる事っていうのは自分がボランティアでやりたい事とそんなに離れていないんじゃないか」と。
カンボジアの頑張ってる若い人たちに今までなかった技術を提供して手に職をつけてお金を稼いでもらう。
それで彼らも彼らの家族も現金収入ができて前より病気にならず病気になったら病院行けていい暮らしができるというのは僕が昔ボランティアで夢みてた事とそんなに違わなくないかっていう。
アジアに吹き荒れた「エコノミックアニマル批判」から40年。
ボランティアをするためにアジアに仕事の場を見つけようという人が増えてきた。
小林雄。
25歳。
プノンペンにある日系のIT企業。
小林は大学を卒業してすぐこの会社に就職した。
日本人は3人他は全てカンボジア人スタッフ。
小林はここで現地スタッフの教育と労務管理を担当している。
この会社は日本企業などのアウトソーシング先として不動産の間取り図の作成を請け負っている。
インターネットを通じて幅広く注文を受けている。
日本語の知識が必要となるが大学を卒業したエリートに交じって教育を受ける機会に恵まれなかった農村出身の社員もいる。
会社が休みの日小林はバイクで2時間かけて農村に通っている。
もともとこれが小林のカンボジアに来た目的だった。
貧しい農村に通って教育ボランティアを続けてきた。
経済的な事情で学校に行けない子供たちのためにNGOが造った施設。
こんにちは。
小林はここで英語や日本語パソコンを教えてきた。
こんにちは。
こんにちは。
じゃあこれから授業を始めます。
Standup.自己紹介して下さい。
私の名前はナリです。
私は15歳です。
実はここの子供たちとは小林は学生時代からの知り合いだ。
小林は大学在学中1年間休学して世界各国を放浪した。
何のために勉強するのか小林にはその目的が見いだせなかった。
モヤモヤした気持ちを抱えてカンボジアを訪れ子供たちと出会った。
それが小林の人生を変える事になった。
もともと日本の社会というものに何というかよく言われる閉塞感みたいなものとかとはいえ僕らの世代はどこか開き直ったような部分もあったり。
そのくせ世の中にちょっと文句を言ってるみたいな。
そんな中で僕はちょっと居づらい感じを覚えまあそんな何て言うんでしょう正直日本が平和ボケしてるようなところもあったのでそれじゃなくて逆にもう振り切って一番自分にとって不安定な道を選ぼうというところで途上国であるカンボジアで就職をしようと思いました。
カンボジアで出会った子供たちは学ぶ事に飢えていた。
その時出会ったソックラン。
家の事情で高校を中退。
工場で働いていた。
小林が日本語や英語を教えると目を輝かせて喜んだ。
それ以来ソックランは小林に人を教えるという生きがいを与えてくれるようになる。
ここがランちゃんの家です。
で妹さん。
お母さん。
ソックランの母親は脳に障害があり満足なコミュニケーションをとる事ができない。
母と妹を抱え一家の生活はソックランの肩にかかっていた。
小林は大学に復学し卒業するとカンボジアに就職先を見つけた。
ソックランと再会し教えてきた事を彼女が生かせるある方法を思いつく。
あれこの仕事別に彼らでもできるんじゃないかなとかそういう思いがあって一回上司に相談したんですね。
ちょうど人を…事業拡大するタイミングで「一人ぐらいそういう人材を紛れ込ませてもいいですか」って。
それは僕にとってもすごい挑戦でそもそも自分自身の仕事で手いっぱいだったのに自分の教え子なんて入れて管理そもそも面倒見る事できるのかなとかそういう不安はすごいあったんですけども。
ソックラン以外にも勉強が好きでしかし教育の機会に恵まれない子供たちはいた。
小林はそんな子供たちに教育ボランティアを再開するとともに自分の会社の試験を受けてみないかと勧めた。
5人の若者が見事小林の会社に合格した。
人から求められる時人に生きがいが生まれる。
3月初め小林のもとに会社に合格した若者の一人から結婚式の招待状が届いた。
平成20年の外務省の調査によればASEAN主要6か国の人たちの9割以上が「日本を信頼できる」「どちらかと言うと信頼できる」と回答している。
振り返ってみてこれやっぱりよかったなカンボジア来てよかったなと思えるようにはしたいですね。
それで駄目だったらもう僕日本帰るしかないと思ってるんでそれぐらいの覚悟ですね。
(取材者)そういう選択肢も自分の中ではあるわけですか?選択肢というかそもそもカンボジアに来てるのはもう背水の陣で来てるので負けを意味しますけども正直日本帰る時は。
だからできるかぎり…何をもって成功というのか分からないですけども僕は成功するまで逆に言うと日本帰りたくないなというのはあります。
2014/04/05(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「和僑〜アジアで見つけるボクらの生き方〜」[字]

日本を飛び出しアジア各地でビジネスを起こす「和僑」が急増している。タイとカンボジアで自らの可能性に挑みながら、日本とアジアの新たな関係を模索する和僑の姿を描く。

詳細情報
番組内容
日本を飛び出し、アジア各地でビジネスを起こす「和僑」が急増している。躍進するアジアを舞台に自らの可能性に挑戦したいと、現地に根を下ろして「アジア人」として生きる若者たちだ。これまでの日本式ビジネスを海外に持ち込むのではなく、現地の流儀にあった戦略でビジネスを展開していく。大切なのは、その国の人たちに寄り添うこと。タイとカンボジアで生きる若い和僑たちの挑戦を描く。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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