宝塚100周年:戦争に奪われた大舞台…今式典にほほ笑み

毎日新聞 2014年04月05日 23時31分(最終更新 04月06日 00時31分)

戦時中に宝塚音楽舞踊学校(現在の宝塚音楽学校)に入学した広江歳子さん。手にしているのは卒業後に芸能活動をしていた22歳の頃の写真=兵庫県宝塚市で2014年4月5日午後2時23分、山田尚弘撮影
戦時中に宝塚音楽舞踊学校(現在の宝塚音楽学校)に入学した広江歳子さん。手にしているのは卒業後に芸能活動をしていた22歳の頃の写真=兵庫県宝塚市で2014年4月5日午後2時23分、山田尚弘撮影

 タカラジェンヌら約450人の大合唱、全組トップスターの共演、100人ラインダンス−−。宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)で5日、宝塚歌劇100周年の記念式典が華麗に開かれた。OGやファンらは、戦争など幾多の苦難を乗り越えてきた歴史の重みをかみしめた。

 宝塚歌劇100年の歴史の途上には、戦争に翻弄(ほんろう)され、夢半ばに終わった少女たちもいた。兵庫県西宮市の広江歳子さん(86)は第二次世界大戦末期に宝塚音楽舞踊学校(宝塚音楽学校の前身)に入学し、大舞台を踏むことなく宝塚を去った。「未練もなんにもない」。そう言いつつ、記念式典の会場に向かう広江さんの顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 西宮市出身。いつも家で歌っている子だった。国民学校高等科を卒業する時、音楽の先生が宝塚音楽舞踊学校の願書を出してくれた。公演は小さい頃に1度見たきり、ダンスも日本舞踊も経験がない。それでも、にきび顔で臨んだ試験をパスし、1942年に入学した。学校でできた親友2人の家に泊まりあったり、誰よりも下手なダンスを先生がつきっきりで教えてくれたりした。

 次第に戦況が厳しくなる中、大劇場は1944年3月にいったん閉鎖された。在校生は挺身隊(ていしんたい)として川西航空機宝塚製作所に動員され、広江さんは事務でそろばんをはじいた。「私たちは子供だから、『なんでこうなるの』とか考えず、流されるだけだった」。それでも仕事の後には、先生が「日本舞踊なら静かにできる」と稽古(けいこ)をつけてくれた。

 動員先が空襲を受けてからは学校からの指示もなくなり、同級生はばらばらになった。夢をあきらめ、就職や結婚をした人も多い。実家にいた広江さんは終戦後、いち早く宝塚に戻った。だが、混乱の中で事務職員に「今ごろ何しに来た」などと言われ、訳が分からないまま宝塚を去った。その後、誘ってくれた別の劇団のステージに立ち、25歳で結婚。同時に芸能活動をやめた。主婦として2人の子を育てた人生を「おとなしゅうしてたね」と笑って振り返る。

 もし戦争がなかったら、別の人生があっただろうか。「私は本当に宝塚に愛着なんかないよ」。それでも同窓会には毎年顔を出し、同じように宝塚を去らざるを得なかった仲間数人とは月1回は集まる。「本当に友達に恵まれた。何をするにも一緒でね。70年も付き合っている仲間なんて他にないよ」

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