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1978  elf-x

 elfによる、『革新的なモーターサイクル・システムを創造する』というプロジェクトは、elf−xによって始まる。
 elf−xは今までに存在したモーターサイクルの何物にも似ていない。自国にモーターサイクル産業を持たないフランスの面目躍如といったところか。フレンチブルーの車体がフランス製であることを否応無しに主張している。

 エンジンブロックから伸びた特徴的なフロントサスペンションのコンセプトは、4輪から由来していることは明白で、実際、当時、ルノーF1のデザイナーの要職にあったフランス人、アンドレ・デ・コルタンツによって設計されたものであった。

 elf−xは、1978年2月、世界選手権F750第3戦、ノガロサーキット(フランス)でデビューした。レース序盤にリタイヤを喫している。ライダーはミシェル・ルージェリー 。
 歴代elfのデザインのうち、個人的に、このxがもっともコンセプトに対して純粋であると感じている。

 elf−xはフレームを持たない。
 前後サスは、エンジンとプレートを介してマウントされている。
 チャンバーの取り回しも独創的だ。これは燃料タンクをエンジン下に置き、重心を下げるという考えからきている。この取り回しは後年、ホンダのNSR500で一時期、試されている。
 エンジンはヤマハTZ750のもの。

 フロントサスは4輪のダブルウイッシュボーンに似る。
 このデザインのテレスコに対する優位点は、ブレーキング時のジオメトリー変化が、全くないことにある。すなわち、圧倒的に安定したブレーキングが行えるということである。
 構造上、フロントブレーキはシングルローターとなる。

1979-1983  elf-e

 F750のカテゴリーがなくなり、elfは耐久レースへと活躍の場を変えた。
 耐久レースは、フランスにおいて最も人気があるレース・カテゴリーのひとつであるゆえ、当然の選択であったろう。
 elf−eのプロジェクトは1979年ころに始まり、実際にサーキットに現れるのは1981年となる。

 開発中のelf−e。フロントサス周りに、xの面影が残る。


 ホンダのエンジニアとelf−e。ホンダがelfからエンジニアリングのパテントを購入するのはまだまだ先のことである。

1983年の鈴鹿8耐にやってきたelf−e

 ライダーは、開発を受け持つクリスチャン・レリアールと何にでも乗る”鈴鹿男”デビッド・アルダナ。
 戦績はRサストラブルによる序盤リタイア。

 


 elf−eの構造が最もよく分かるショット。
 エンジンはCB900FベースのRS1000。シート下のタンクはガソリンではなく、ドライサンプのオイル用。

 スペアマシン。フロントのサブのガソリン・タンクに注目。


elf−eのフロント回り

片持ちサスアームは、鋳造・中空マグネシウム製。

タイヤ交換時にチェーン、ブレーキに一切触らなくて済む。elfが残した功績のうち最も普及したものだ。

ブレーキローターは前後ともカーボン製。当時2輪にカーボンローターが使われることはGPにおいても無かった。シングルローターのキャパ不足を、強力なカーボンのストッピングパワーで払拭する意図であろうか。


 エキゾーストパイプはxに続き、一貫してエンジン上部を通る。
 キャブレターが熱気を吸わないようインダクションボックスを持つのが、(当時としては)新しい。
 ひどく垂れたハンドルバーに気づく。これはライダーにハンドルをこじらせないようにするためか?


 

1984  elf-2

 1984年、elfの活躍の場はついにGP500となる。
 エンジンは、ホンダの市販レーサー、RS500の3気筒。
 elf−2で気になるのは、ボディに大きく”HONDA”のロゴが入るようになったことだ。金喰い虫のプロジェクトに、日本からの資金援助が入ったのだろうか。実際、この後からelfとホンダのつながりが密接になっていくのが手に取るようにわかる。


 elf−2になってから、車体レイアウトに若干の変更があった。
 フロントショックが車体下に、車体下にあった燃料タンクはエンジン右横に持って行かれている。
 この変更は、どういう理由か、後期型のelf−2では、元に戻されている。

 [左] elf−2の前で御満悦の本田宗一郎氏。
 [右] 自らステアリングを切り、その構造を確認しているMr.ホンダ。

 Mr.ホンダとelf−2のショットは数多く残されている。elfの革新性に興味引かれるところは、新しもの好きの彼らしい。
 人間、何歳になってもこういった気持ちを失いたくないものだ。

1986  elf-3

 elf−2は確かに革新的な構想を持ってはいたが、競争における勝利という評価点では、たいした位置にいるとは言い難かった。

 プロジェクトのリーダーがアンドレ・デ・コルタンツからダニエル・トレマへ交代したことに伴い、elf−3では、レースで結果を残す、という点がさらに重視され、そのデザインに大規模な変更が加えられることになった。すなわち、これはelfが、もはや前衛一本槍から、より一般的な(とはいえ、十分特異ではあるが)デザインを持つことになったことを意味する。

 エンジンも市販レーサーRSからワークス製NS500のものとなり、ライダーもロン・ハスラムが起用された。

 elf−3はついにフレームを持つに至った。
 さらに、フロントサスからダブルウイッシュボーンからマクファーソンストラットに変更された。そのアームの材質も、マグネシウム鋳造からアルミの溶接組み立てとなっている。
 カウルのデザインも、より”普通”になった。

 まぁ、だからといってelf−3は結果を残せたわけではなかったのだが。

1986  elf-r

 elfはレースにおける結果とは別の結果も求めることにしたようだ。
 1986年9月、elf−Rをもって、いくつかの世界記録に挑戦し、イタリア・ナルドサーキットにおいて、最高速312km/hと他6種の世界記録を樹立した。
 ベースマシンは、ホイールのデザインから、elf−eと思われる。

1987  elf-4

 elfは、その心臓に当代きっての千両役者NSR500と同じくするようになった。
 が、レースでの戦闘力が上がっていく度に、その過程で失ってしまったものも多いと感じるのは私だけだろうか?

 elf−4をもって、アバンギャルドを感じることは、私ににはできなくなってしまった。フロントサスを見ないようにすれば、NSR500以外に見えないのだ。

 elf−4には、その足回りのコンポーネントをカーボンで作成したものも準備されていたが、実戦には使われなかった。

1988  elf-5

 elfの10年にわたるチャレンジは、このelf−5をもって終結する。
 elf−5はランキング11位でシーズンを終えた。

 果たして、このプロジェクトはどう評価すべきであろうか。停滞した2輪技術の進歩に一石を投じたといえるのだろうか?
 少なくとも、大ホンダの目を引き付けたことは大きな成果であったと言えよう。ホンダはelfの持つ18のサスペンションに関するパテントのうち13の使用権を購入した。(1986年VFR400R、1987年VFR750R(RC30)、1988年ブロス(米名:ホーク)を発表する。)

 ラグナセカのコークスクリューを駆け抜ける”elf使い”ロン・ハスラム
 彼は、限られたGPキャリアのうち3年もの間、勝つ見込みの薄いelfの開発に費やした。
 彼はその後ノートン・ロータリーに乗ることとなる。根っからのエクスペリメンタル・マシーン好きなのかもしれない・・・ということは彼なりに幸せであったのだろうと思うことにしよう。

チャンバーの取り回し、が左右のものと右2本出しのものとが存在する。


 elf−5の構成は4と基本的に変わらない。
 改善された点は、その複雑なデザインゆえの重量過多を大幅に軽減したことだ。
 4ではアルミ材であったところのほとんどがマグネシウムに置き換えられた。
 ちなみにelfはサスを支えるためのピポットをエンジン側に得るために、エンジンケースを独自にキャスティングしていた。

 

 1988年世界GP最終戦、第15ラウンド、ブラジル。
 elf−5最後のレース、すなわちelf最後のレースはリタイヤに終わった。

 elfが最後に残した写真は表彰台のものではなく、メカニックに押されてコースを去りゆくものであった。

finale

 私は、”チャレンジ”、”アバンギャルド”、”誰にも似ていない”・・・そんな姿勢が大好きなのだ。elfによって確実にモーターサイクル界に革命があった。私は、そう声高に主張したい。

 

プロジェクトを支えた男たち

左から
ダニエル・トレマ
 elf−3よりプロジェクトを引き継ぐ。

アンドレ・デ・コルタンツ
 有名な4輪レース・マシンのデザイナー。70年代はルノーでターボF1、80年代はプジョーでグループB時代の205&405ターボ16、90年代は同じくプジョーのCカーのシャーシ・デザインを担当し、どれも大成功を収めている。

ロン・ハスラム  elf使い。elf−3、4、5を駆る。

セルジュ・ロセ
 カワサキ、ヤマハに世界タイトルをもたらしたレースエンジニア。elf−3よりダニエルとともに開発を担当。

 


 



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