maintitle_01.gif HEAD IMAGE
spacer
ゴーヤーもっと知りたい
 
  ゴーヤー、中国へ

cut_2-03.jpg中国では明の時代(1368年〜1640年頃)に伝わったとされています。
1406年、周憲王(周定王)によって編まれた『救荒本草』に「錦茘枝、すなわち癩萄は草木に蔓延し、茎の長さは7、8尺、茎に毛澀があり、葉は野葡萄に似ている。花は黄色で実の大きさは鶏卵ほどで皺があり、茘枝(ムクロジ科のレイシの果実;ライチ)に似ている。救飢の時、実を食べる。」と紹介されています。

明の時代は天災が多かったので、こういった救荒書が数多く出版されましたが、この『救荒本草』はその先駆けともいえる書物です。救荒食というと普段は口に出来ないような、食物と呼ぶのにためらいを感じるようなものが扱われるのが常ですが、この『救荒本草』が取り上げた414種の植物の中にはイチヂクの実やふだん草の葉など、とても救荒食とはいいがたい「美味しい」ものまでが上げられており、帝王の食事観を垣間見た感があります。

このことは、救荒食として紹介されたゴーヤー(錦茘枝)の名誉のためにも申し添えねばなりません。 およそ200年後の1596年、李時珍が書いた『本草綱目』では「苦瓜はもと南蛮に産したものだ。今では福建、広東・広西いずれの地域でも栽培されている。・・(中略)・・南方地方では青皮を肉および鹽醤と煮て蔬にするが、苦くて澀くて青臭い」と紹介され、その薬効も説かれています。

つまり、15世紀初めにはゴーヤーは食に耐え得るもの(王にとっては)の一つとして、2世紀の時を経て16世紀末にはその効用も詳らかになるほどに、また盛んに栽培されるほどの食物として、中国で認識されていたといえましょう。が、いずれにせよ、このゴーヤーの苦さは当時の明の人々にとって慣れ親しめる代物ではなかった、との印象は否めません。中国には古くから「苦瓜の枝からは苦瓜しかならない」ということわざがあります。

日本でいう「蛙の子は蛙」、つまり凡庸な親からは凡庸な子しか生まれぬといった意なのですが、ここにゴーヤーが引き合いに出されていることから、中国ではゴーヤーが、その個性の強さからか、一段格下の食べ物に位置づけられていたことを思い計ることができます。

そしてゴーヤーが琉球・日本に伝わったのはこの明の時代であるという考えが定説となっています。


next
back
space
  HOME ゴーヤーもっと知りたい ゴーヤー100万馬力 ゴーヤーいただきます
  Copyrights GOHYAH-DAISUKI 2002 All Rights Reserved