2014年04月04日

ファイプロの生みの親、増田雅人さん逝去

MASUDA90年代のプロレスファンなら、知らないものはいないといっていいゲームソフト。
「ファイヤープロレスリング」(略してファイプロ)シリーズ。
そのファイプロシリーズの生みの親、ゲームデザイナー・増田雅人さんが逝去。
享年48歳。早すぎる別れに、ただただ、合掌。

増田雅人さんは1966年1月1日生まれ。1984年にヒューマン入社。
1986年10月21日に任天堂から発売されたファミコンソフト「プロレス」開発に関わり、ゲームデザイン全般を担当。

1989年06月22日にヒューマンから発売されたPCエンジンソフト
「ファイヤープロレスリング コンビネーションタッグ」開発に関わり、1990年9月14日、ゲームボーイ「プロレス」。
そして1991年にスーパーファミコン用ソフト「スーパーファイヤープロレスリング」を開発。
一部では“攻撃的デザイナー”の異名で呼ばれていました(ケイブンシャ攻略本より)。

振り返ると20歳で伝説のゲーム「プロレス」を作り、
23歳でその後のプロレスゲーム誌に多大な影響を与えた「ファイプロ」を生み出してるんですね。
ファイプロは前作“プロレス”でできなかったことを反省し、ファンの声を汲み取って製作されたといわれています。
プロレスの醍醐味はタッグマッチじゃないだろうか。コーナーに投げるにはどうしたらいいか。
今のシステムでは連打すれば勝てるゲームになってしまっている点。
増田さんはそれらをアイディアによって乗り越えます。

コーナーだけでなく、縦横無尽のロープワークを可能にしたリング斜め置きの「ファイプロポジション」。
連打だけでは勝つことを防止する「腰を落としてからの技ボタン」
多少の変化はあれど1作目からゲームデザインは衝撃的で、そしてプロレスの醍醐味を見事に落とし込んでおりました。

スーパーファミコン移植作「スーパーファイヤープロレスリング」は大ヒット。
90年代はプロレスの地上波放送が深夜へ移行していたこともあり、
ファイプロを通してプロレスを知った、改めて魅力を掘り下げられたという方は想像以上に多いはず。
僕もそんな数多くの中のひとりです。

ファイプロは一人で作られたものではありません。それでも増田さんへ大きな感謝をささげたい。
ファイプロを産み落としてくれて心からありがとうございました。
増田さんもこれでレジェンド枠。天からプロレスとゲームの未来を見守ってくれれば幸いです。

【関連】
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この記事へのコメント
増田さんがプロレス村に建てた金字塔は高くて異質でまばゆく輝いていました。
村人は見たこともない新しいプロレス村の風景に歓喜し環状線の外側に住む人々は仰ぎ見た憧れの輝く金字塔を目指してプロレス村にやってきました。

散る櫻 残る櫻も 散る櫻 memento mori 合掌
Posted by TJS at 2014年04月04日 07:43
ファイプロはドラクエやポケモンと並ぶ殿堂入りレベルのゲームソフト!
今の世代のファイプロが欲しかった!
残念!
きっと何万人もそう思っている!
天国でも自慢してください!
Posted by 若手 at 2014年04月04日 10:23