「有権者は馬鹿」なんじゃなくて「政策に詳しくない」だけ
もりもりと選挙結果の分析をしております。
で、選挙対策や戦術を担当している人たちを前に、ダイジェストを披露するとですね、地方選挙にもかかわらず主要な争点の上位に「景気・雇用」とかが出てきて、別に中央銀行を県で完備しているわけでもない自治体の選挙なのに、どうやってそういう有権者の希望を政策主張で満たしていくのか頭を抱えることになるわけです。
そうすると、ややもすると「姿勢を低くして、有権者の目線に合わせた政策主張を」とかいう話になりがちです。婉曲な表現ですけど、低い視野しかもっていない有権者の目の高さに合わせろという意味であり、要するに有権者は馬鹿でござるという内容に感じ取れるわけでございますね。
でも私たちは知ってるはずなんですよね。人間というのは仕事であれ趣味であれ、没頭できて能力を開発できる時間というのは限られていて、たとえ政策に詳しくなくとも車の売り方には熟達しているとか、魚の鮮度は見極められるとか、各々が職業人として、あるいは家庭人としての知識にフォーカスして生きている。そういう生活に神経を集中して暮らしているのが大多数の国民、有権者なのであって、永田町の論理であるとか、政策の良し悪しのところは興味本位であっても100%の理解に基づいた投票での審判などできないわけですよ。
政治に携わっている人たちは、そういう人たちから嘱託を受けて選良として活動しているという大いなる建前を忘れてしまっているように思います。有権者は、政治を分からない馬鹿だと。政策を理解できない人たちであると思って、そういうことの説明を選挙直前までネグる傾向にあるわけです。選挙期間より前からずっと、有権者は自分たちの生活の目線から、社会について様々なことを感じ、言葉にはできないけど政策についても肌感覚のようなものを具有しているのです。
だからこそ、彼らは政策や論点についてすべては詳しくは分からないけれど、政策に携わる政治家や官僚などの「人格」に焦点を当てて読み解こうとする部分が多々あります。もちろんイメージ戦略で糊塗されてゲタを履く人々もまた多いわけなんですけれども、ネット選挙解禁に限らずいままでもかなりそういう視点で成り立ってきたのが日本の民主主義なんじゃないでしょうか。
なので、ある種の民主主義に対する幻滅感、閉塞感というのは、政治家が国民、有権者とどう向き合うのかという関係性の問題に尽きるのであって、政治に携わる人がどこか心の奥底で有権者は馬鹿だから的なことを考えているとすると、やはり心理的な距離というのは出来てしまうのでしょう。頭角を現した政治家は、それでも国民との距離感と政策の妥当性を読むのが上手いですし、問題があるといってもうまく物事を運ばせる力があるからこそ出世しているわけなんでしょうが。
言い方は悪いんでしょうが、マンションの偽装であれ、論文のコピペであれ、そのあたりに共通しているのは「素人には分かるわけないから、まあうまく手を抜いてやろうよ」っていうプロとしての突き詰めの甘さなんじゃないかと思うんですよね。プロの政治家として、あるいは関係者として、恥ずかしくない仕事を心がけていて初めてスタートラインであって、そういう虚心坦懐の部分がないと、つい本音で「有権者は分かっていない」という言葉を言ってしまう。
人としては分かるんですけどね。ただ、指導者ってそういう惰性で仕事をして成り立つものなんですかね。