- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2005/03/11
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Twitterで「泣ける映画を見たい」とつぶやいていたら、「ある意味泣ける映画」として教えてもらったので見てみた。
2004年の作品で、題材は1988年の「巣鴨子供置き去り事件」。実際にあった事件をモチーフにしている、というキャプションが冒頭に挿入されていた。僕は95年生まれなのでその事件のことは知らなかったけど、2004年の公開当時僕は10歳か11歳で、この映画が海外の賞を受けたりと、高い評価を得ていたのをなんとなく眺めていたような気がする。主演の柳楽優弥はちょうど同じくらいの年齢だろうかと思って見ていたけど、僕よりも3つ年上らしい。とてもリアルで、いつも邦画を眺めていると感じるような白々しさのない演技だった。他の子供達も同様で、子供同士でやり取りしているシーンは真に迫るものがあった。
YOU演じる母親は確かにひどいものだったけど、それでも序盤の「私は幸せになっちゃいけないの?」と明にこぼすシーンは引っかかった。流石に子供を4人も(人数の多寡は問題ではないだろうけど)放置して自分を優先させるのはいけないだろうけど、それでもこれは程度問題だ、と思った。誰でも、これよりずいぶんマシな程度とはいえ、同じようなことをしているのではないだろうか。
大人になる、というのがどういうことか。社会学的に言えば、社会化するということなのだろう。広義での教育の段階をきちんと踏むこと。社会の成員としての資質を内面化させること。雪かきをできるようになること。諦めること。「子供は放っておいても勝手に育つ」というのは、ある意味では社会が担う範囲の教育を適切に受けさせることで、ある意味では自身が担うべき教育を社会に丸投げしてしまうことでもある。だから最低限の社会参画を前提としていて、それなしでは子供は勝手には育たない。
昔からもし自分が子供を持つとして、自分に親としての役割を全うできるだろうか、と考えると、決まってそんなことは出来ない、と思う。今もそれは変わらない。自分が親として必要とされる最低限の社会化を済ませているとはとても思えない。もう成人して21歳になったけれど、いまだ一人前として自分を認めることはできていない。だからこの映画に出てくる母親のことを、ただの馬鹿だと対岸から笑っていることは出来なかった。
「自分は幸せになっちゃいけないのか」という発言をするには遅すぎたのだろう。子供4人分の責任を負ったあとでそんなことを言うべきではなかった。その責任を社会になすりつけることさえせずに放棄してまで、彼女は自分の幸せを追求するべきではなかった。でもそれはタイミングや運の問題で、本当に彼女が自身の思い描く理想を追求するべきではないということにはならないのではないか、と思う。多かれ少なかれ誰もが利己的な自己実現をしてしまっている。この映画の場合、家族や親子という関係性がそれを際立たせていたけど、他の関係性における責任のなすりつけ合いを経ての利己的な振る舞いだって本質は同じだろう。あの母親の場合は度を過ぎていた、というだけで、本質的に同じことをしているであろう我々に、彼女を本気で責め立てることは出来ない。石を投げ続けられるのはキリストだけだ。
社会の包摂から外れた彼ら彼女ら4人の子どもたちのことを、我々はメディアを通してでしかほとんど知り得ない。人知れず生活し、人知れず死んでいった子どもたちのことは、メディアを通してのみ顕在化し、認知することが出来る。眼球で捉えられない種類の光がほとんどないものとして扱われるように、我々に認知出来ないもののほとんどはないものとして扱われる。認知出来るものだけがそこにある。でもそれは誤りだ、ということをメディアは我々に気づかせてくれる。メディアの発展が教養の大衆化を支えてきたのは、そういう本質的な役割によるものだろう。
教養において最も重要なことは、自身が持つ知識について知ることだ。自分が何を知っているのかを知ることは、自分がどこからを知らないのかを知ることでもある。そういうメタ認知を持っておくことで教養の涵養はスタートする。程度の差こそあれ誰しもが教養を身につけるのだから、我々はそういうものを最初から持っている。問題は、何かを知れば知るほど、そのメタ認知の能力が衰えていくことだ。だから仕切りにそのことについての警句が投げかけられる。本当はそもそも誰も何も知らないし、知ることには限界がある。そういう想像力の乏しさを思いやることなしに、新しいことをほんとうの意味で知ることは難しい。
冒頭から何度も書いているとおり、この映画のような悲劇を生み出した母親の行為は多分誰にとっても他人ごとではない。皆が誰かに責任をひっ被せて、自分を優先させてしまっている。我々の誰もが知るべきこと、つまり誰も知らないことはそのことなのではないだろうか。そういう意味で、キリスト教の原罪思想は真を突いている。人は皆予約的な罪人である、というのは最初ピンと来なかったけど、だんだんとわかるような気がしてきた。多分それは個の切り分けがある以上は仕方のないことなのだろう。それぞれが独立して生存していかなければならない。生きていくために犯さなければならない罪というのは必ずある。だから生まれた以上罪を背負うことは予め約束されている。だからこそキリストに帰依し、その罪のことを知っておく必要がある、ということだろう。あるいはそれは仏教においても言われていることでもある。
日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。
以前意識高い系の大学の友人がTwitterでこんな意味のツイートをリツイートしていたのを見かけた。実際のところインド人の8割はヒンズー教徒なのだけど、まあそれはおいておいて。仏教において罪と罰は業と煩悩で説明付けられる。過去・未来問わず無時間的に負ってきた・負うであろう罪はパラドキシカルに現在の自分が背負うことになる、ということになっている。トルストイがキリストやブッダを同列に語っていたのは、その教理が本質的に相通じるところを持っていたからなのだろう。生物の仕組みとして仕方のないものではあるけれど、だからそれで良い、ということではない。不可避のもの、宿命的なものであるからこそ、よく知っておく必要がある。そういうことなのだろう。とても身近な問題だ。
『誰も知らない』の目的語は、敷衍して考えればそういうことなのではないか、と思った。我々の想像力がいかに乏しいものか、我々がいかにわかったような気になってしまっているか。制度的に与えられた枠組みの中でしか考えることも振る舞うことも出来ないし、そういう限界が引き起こす悲劇は決して他人ごとになりえない。そういうことを、僕を含めたほとんど誰もが知らないで生活している。この映画がとても悲しくて痛切なものだと感じる一方で、何か言葉に出来ないような部分があるのは、そういうメタメッセージに由来するんじゃなかろーか、と書きつつ考えました。こちらからは以上です。