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チェギョンがマカオに旅立った。
あれから1週間の時が流れた。
ユルの記者会見で全てが解決したかに思えた『宮』を取り巻く諸問題。
まだまだ後始末がどれ程続くのか、それは気が遠くなる程に果てしない。
ただ、それもチェギョンが一日でも早く宮中に戻ってくる為の最短且つ最善の方法だと想うと、なんら苦にはならなかった。
むしろ眠る時間すら割いて何かに没頭していたほうが、多少なりとも気が楽だった。
今の僕に、休息は不必要極まりないものだ。
一瞬でも頭と体が動きを止めると、心が躰を支配を始めて、あっという間に飲み込んでしまうからだ。
胸の中にぽっかりと空いてしまった大きな隙間を埋める作業が、膨大な量の公務よりもかなり手こずる。
感情が堰を切って溢れ出し、止まらなくなってしまうことだろう。
たった独り、この『宮』に存在することは意味を持たないことだし、耐えられないことなのだ。
…心が。
心が折れそうになる。
ふと、薄く笑って孤独の空間へ僕は呟きを洩らした。
「休息が体に毒だとは。…おかしな話だ。」
もしも、あいつが傍にいたのなら。
凄い剣幕で怒られていただろうか。
ごはんを食べろだの、ちゃんと休みをとれだのと、靴音を響かせ心配そうな表情を浮かべて執務室に乱入してくるのか。
いや、違う。
そうでなければ、無邪気に甘えた声を出しながら『遊んでくれ攻撃』を仕掛けてくるかもしれない。
が、そんな集中砲火を迎撃できる武器も術も、正直、今の僕は持たない。
多分、それらの全てを受け入れてしまうからだ。
書類を持つ手がいつのまにか動きを止めていたことに気が付き我に帰った瞬間。
僕は自分の身に起こっていたことに正直、気が動転してしまった。
「……!」
涙が止めどもなく溢れていた。
頬を伝って流れ、書類の上にぱたぱたと軽い音を立てて落ちた。
書類から手を離し慌てて両手で顔を覆い、同時に、漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込み、大きく深く深呼吸をする。
…ああ。
やってしまったな。
心の中の虚を自ら盛大に広げてしまった僕は、しばらくは誰の入室をも拒む勢いで、無理矢理自分を立て直した。
天井の明りに目を向け瞬きを何度も繰り返し、じっと堪えてどれ程の時が経っただろうか。
細くゆっくりと息を吐き出した唇が、思いのほか小刻みに震えていることに苦笑した。
少しは落ち着いてきただろうか。
ちょうどそんな時にコン内官はやってきた。
「失礼致します、殿下。」
彼は一礼をした後に、こう続けた。
「女皇陛下様より明日、明後日の二日間はご公務をお休みくださいますようにと、仰せつかって参りました。」
「…わかった。」
そう答えて、ふと、机の上のノートパソコンを見やると時刻は午後8時を表示していた。
心配そうに僕を見るコン内官を丁重に下がらせてから、また山積みの書類に目を通し始める。
さすがは姉上、…いや、女皇陛下。
こちらのプロファイリングはとっくに完了済み、ということのようだ。
自分自身の酷い不安定さに、己が閉口しているというのに。
今の心情で、休息などあり得ない。
気が休まる筈も、ない。
ふいに机の携帯電話が震えた。
携帯電話に触れるか触れないかのところで、何故だか一瞬手を引いてしまう。
が、恐る恐る手に取りディスプレイを確認した。
一気に体中へ、何かが駆け巡るかのような感覚。
発信元は…チェギョンだ。
マカオへ出発してからは、直接話すのは避けていた。
努めてメールでのやり取りのみにしていたのだ。
気持ち冷静に、僕はゆっくりと電話に出た。
「もしもし。」
「あ、シン君?」
「チェギョン…。」
僕の中の『大きな隙間』の主の声は柔らかくて、心地良く胸に染みてきた。
ずっと聞きたかった声、本当はずっと傍らで聞いていたかった声…。
喉の奥が引き攣れる様な感覚が押し寄せて言葉を発せずにいる僕に、不安そうな声で問いかけてきた。
「シン君、どうしたの?具合でも…悪い?」
「いや。今、執務室にいたからな。大丈夫だ。おまえは元気にしていたか?」
チェギョンに心配をかけたくない気持ちを振り絞って、努めて平静を装ってみる。
「ん、チェ尚宮お姉さんも私も元気元気。マカオはね、もう毎日が冒険と発見の連続なの」
「…そうか」
「それにしても」と、チェギョンが不安そうに言葉を続けた。
「なんかビミョーに鼻声だよね。シン君、風邪ひいてるんじゃないかな」
「ああ、…埃のせいだろうな。別におまえが気にすることも無い。」
「もー、またそんな言い方するぅ」
「そう怒るな。」
「だって心配だもん、すごく。今すぐソウルに飛んできたくなっちゃう」
先刻、迂闊にも泣いてしまったせいだろうか。
大韓民国の皇太弟ともあろう身分の人間は、決して民に感情の揺らぎを見せてはいけないのは承知の上なのだが、僕のこんなちょっとした変化にも気付いてくれる妻の存在が可愛くて愛おしい。
愛おし過ぎて、辛くな…る…。
「だ、いじょ…ヴ…ぅっ、ぅおっほん!!ゲホンっ!ゴホン、ゴホッ。」
いや、ちょっと待て。
今のは完全に、涙声になっていただろう、イ・シン!
助けてくれ、アルフレッド!
…って、居ないじゃないかッ。
「シ、シンくん?」
「……。」
そうだった。
彼はチェギョンを伴って、僕の代わりにマカオへ出張中の身だったのだ。
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