「卒業する僕へ」ネットに跳梁跋扈する意識の高い訓示親父は若者の気持ちなんてわかってない
入社式や入学式のシーズンだ。
そうした式典ではエラい人が壇上から発する「お言葉」を聞かされるものだが、若者の「無限の可能性」を煽り立てる内容が定番となっている。
でもよく考えてほしい。私たちの父親は「国際感覚とチャレンジ精神あふれる時代を切り開くイノベーター」だっただろうか。そんなことはない。どこにでもいるただの会社員である。あなたの母親だって、そんな人材にならなかったから、子どもを産み育てる主婦となって今のあなたが存在しているのだ。
世の中を牽引している人間は、世の中全体のごく一部に過ぎない。当たり前のことだ。日本人の大半は、政治家でも芸能人でも実業家でもプロスポーツ選手でもない。組織のもとに雇われ、定められた仕事を粛々とこなして生きているのだ。
若者には無限の可能性なんてありえない。厳密には、「自分のレベルにあった可能性があり、それを生かすも殺すも自分の運と選択と努力次第」なのである。
これは、若手思想家が言うような大人たちの罪ではない。
若者当事者自身が自分たちを苦しめている場合だってある。その代表例が「大学デビュー」だろう。
大学デビューは、高校時代にクラスでパッとしないダサかった人間や田舎者だった人間が、「あるべき大学生像」を目指して行う表面的な自己変革で、彼らは「大学デビューをした人間同士」と閉鎖的な付き合いをする傾向がある。量産型女子大生に限ったことではなく、男子生徒にもありうる現象だ。
(量産型女子大生のイメージイラスト)
なぜ、彼ら彼女らは揃いも揃って髪の毛を染め、同じ髪型にセットしたがるのか。
なぜ、TPOを度外視した同じ服装を日替わりでしたがるのか。
なぜ、新宿で買い物をし、六本木で飲み、下北沢でライブを見て、渋谷のクラブで踊りたがるのか。
なぜ、そうした「同じレベルの人間」とだけ閉鎖的に凝り固まり、他人を排斥したがるのか。
なぜ、授業をサボってまでバイトのシフトを入れて「やりがい」を感じるのか。
なぜ、サークルでボランティア活動に従事するのか。
なぜ、必死になって恋人を見つけ、双方のわがままのぶつかり合いから関係がこじれ、別れ、そしてまた新たな恋人探しに躍起になるのか。
そこには、「これこそが大学生の一番幸せな生き方だ」という思い込みがあり、それを全力で行うことができさえすれば、「あるべき高校生活」を達成できなかった過去をチャラにできると思いこむ、非常に内向的で浅はかな考え方が存在しているのだ。そして、その妄想を補強するために、彼ら彼女らは仲間の中の「満たない人間」を疎ましく扱ったり、生贄にしたりするわけで、今の自分たちのカラーに合致しない人間は露骨に侮蔑している。(故郷に残った同級生を含めて)。大学デビュー勢は絡むとろくなことがないと今でも思っている。
しかし、私には彼ら彼女らはちっとも幸せそうには見えない。
自分のメンツを守ることに必死だというのもあるけれど、自分の持つ本来の人間性や良し悪しや出来不出来を考慮することなく、単一の概念に到達させようとすることで生ずる「ガタ」が彼らに必要のない苦労を強いているようにしか思えないのだ。
よく考えてほしい。
神奈川県なら、髪の毛を茶髪にすることは高校デビューの行うこととなっている。中学には校則があるが、高校では一般的に茶髪が許されている。染めようが染めまいが、どんな髪型にしようが、それは「その人がその人なりの選択をしている」わけである。
趣味がファッションで、服飾系の学校への進学を希望している高校生なら、TPOを度外視した奇抜なファッションを高校時代から楽しんでいる。
それが良いか悪いかは別として、居酒屋に行けば飲酒をしている高校生のグループを見かけたりする。新宿で買い物をし、六本木で飲み、下北沢でライブを見て、渋谷のクラブで踊るなどの程度の娯楽なら高校生だってできることなのだ。何より、若者の親世代に「中学生なのにこっそりディスコに行っていた」武勇伝を持っている人はいくらでもいるのである。昭和の時代にできたことが平成の今にできないわけがないのだ。アルバイトも高校生でできるし、恋愛もボランティアもバンドの結成も小・中学生でできることだ。
そしてそれらは、ささいな不可抗力があってもどうにかなることだ。学校がバイト禁止でもこっそりとやる子もいれば、染髪禁止でも新学期に茶色の頭で学校にやってくる子だっている。「高校時代にしたくてもできなかった」と言うことの大半は単なる言い訳にすぎない。学校に軽音部がなくてバンドに興味のある同級生もいなくても、街中やネットでバンド仲間を募れば10代のうちにバンド活動に打ち込める。
どんなに頑張っても克服しようもない不可抗力が高校時代にあるのなら、それは大学で克服する理屈は立つだろうけど、そんなものは世の中に数えるほどだろう。
無理して身の程を無視した振る舞いをしても、それは周囲にとってはみっともなくて不愉快なことだし、自分にとってもマイナスなだけなのだ。
世の中の大半の人間は凡人である。
そして、みな同じようで、そこには凡人なりの個人差がある。もしかしたらそこには周囲を驚かせるような長所もあるだろうし、普通と違う極端な短所だってあるだろう。
ならばそういうありのままの自分自身とか、ありのままの他人というものをそれなりに理解し、尊重しあいそれぞれがほどよく溶け込みやすい人間とつながったりして、その人レベルの可能性を模索していけばいいと思うのだ。
高校以降の進学先が目的や学力ごとに振り分けられているのはそのためだろうし、身の丈にあった勉強をした上で、自分にほどよい就職先を志願すればいいのである。
とはいえ、高校を卒業した途端に待ってましたといわんばかりに髪を染めるような大学デビューは依然として一定数おり、紋切型の理想の大学生を無理して演じた後に、3年の後期になるとその髪を真っ黒に戻し、優秀な就活生の振りをすることに必死になるのだ。自分の実力を度外視した有力企業をめくら打ちにエントリーし、すべて落ちてようやく決まった就職先で、なれもしない「国際感覚とチャレンジ精神あふれる時代を切り開くイノベーター」を目指せと言われた頃には、その人はメチャクチャな人間になっているに違いない。
というわけで、自分と同じ若い世代みんなに声を大にして言いたいのは、大学デビューという風潮ほど愚かなものは存在しないということだ。
理系ならまだ研究や実習に打ち込めるが、とくに文系の大学生活は高校以前に比べると、明らかに、遥かにつまらないものだ。キャンパスの中で存在感を現しているのは、自分の身の程を忘れ、集団催眠的に「楽しいふり」をしているお里の知れた子たちばかりである。もし表面的に変わったふうに見えても、すぐにメッキが剥がれ落ちたり本質など見透かされるものである。
自分というものは一貫性があり、自分自身の固有の素質に加えて環境(地元・家庭・同級生・遊び方・機会…)要因も多分にあり、大学に入ったり企業に入ることで別人のように変わるようなマンガみたいなことなどありえないのだ。
「そうした現実を受け入れられないようなちっちゃな人間になるな」と大人が檄を飛ばすのなら納得するのだけど・・・