2014-04-01

家庭評論家を抱えたとある事例

http://bokurasha.hatenablog.com/entry/2014/04/01/115953

父親が家庭評論家です(でした)。家族のやることなすことにメタ的な言語をかぶせてくる人でした。食事、生活習慣、イベント過去現在未来…について「とは何だったのか」と常時発問し、答えをつぶやき、相手(自分母親や弟たち)に聞かせ、笑顔のうちに納得を求める、そういう会話プロトコルが当たり前であるかのような家族に生まれ育ちました。父親は戦後すぐの生まれ、大卒文学部哲学科)、全共闘崩れ、経済的には中流の上くらいで不自由を感じてことはありません。その点は感謝しています

「〇〇の中学生活は何だったのかな」「△△というところは成長したよね。よかったんじゃないか(変化して大人になったんじゃないか)」

成長を位置付けるという点で多少はいいと思います

今日の〇〇の△△という表現、あれは出所は何かな。ずいぶん前とは話すことが変わったんじゃないかな」(ドヤ顔

毎食の食卓でこれがあると思ってください。書いていて気持ち悪いですねw

10人だか12人だかの兄弟末っ子きょうだい同士の揚げ足を取って生存競争を勝ち抜くような習慣がしみ込んで尾を引いたのではないかと思います。そのような男の子が成長して家庭を持って、おそらくバランスというかしわ寄せは母親が引き受けていたのではないかと思います。母はすでに他界しました。亡くなる前に「お父さんはああいう人だからしっかり見てあげることが必要なの」と私に言付けて息を引き取りました。

私は中学生くらいから自分の家庭の会話はおかしい」とうすうす気づいていたので意識的に少しずつ会話の量を減らしていきました。弟2人がおり、あるときは私(A)が距離を置き、別の時期には弟Bが、また別のときには弟Cが、というふうに、なんとなく家庭評論家さんとの会話を引き受ける役を持ち回りにしていた気がします。弟とはそのことを言葉で確認したことはありません。「うちの父親とは何であるのかw」なんて会話は吐き気しますw

総務畑で役員を務めた人です。仕事は有能だったかもしれません。あるとき父親の部下という方が見えて、父が手洗いに中座したとき、〆鯖か何かをつまみながら、ふと「〇〇さん(僕の名前)も大変ですね」と漏らした。会社でもひょっとしたらそういうプロトコルをまき散らしているのかもしれないと言葉ではっきりと思ったのはそのときが初めて、そして決定打になりました。

弟2人が大学に進み、就職先との距離がいちばん近かった私が帰省の折に家庭評論家さんとの会話を引き受ける係になりました。待っていましたとばかりに哲学史の話だとか文芸評論の話だとか世界情勢だとかの話題を振ってくるんですね。それはいいんです。対話をしているようで結局は「俺はこう思う(同意以外の返答はされても困るからね)」で話が途絶えてしまう。まあ途絶えるのもいい。困ったのはどんな話をしていても結局は話が全共闘挫折に収斂していく。素面でいるときにもそうです。

「されどわれらが日々はなんちゃらで倉橋由美子パルタイがなんちゃらで」「で?」「だれかが総括しなければならないんだよ」「西部大塚小林も柄谷も吉本もみんなしてるじゃんかよ。それぞれ部分的にだけど」「そうじゃないんだ。俺の感覚にはどれもフィットしない」「なるほどそうかも。そりゃそうだだれ特定無名の個人の同時代観をまるごと引き受けてくれる作家なり評論家なりが出るとは思えない」「そうやってお前はいつも俺の話を相対化する」「は?w」

あるとき気づきました。(無視すればいいんじゃね?w 「うん」とうなづくだけで穂を継がない)何を話しかけてきても「そうだね」「そうだね」と上辺にすぎないことをメタ言語できっちり伝えながら同意言葉を重ねていく。効果的でした。自壊して「こんな息子にした俺の人生は何だったのか」というから「とは何だったのでしょうか?w」といったら家を出て3日ほど帰りませんでした。山歩きが好き(山は独り言をぶつけてもだまって吸収してくれるからだと思います)な人でしたか深田久弥でももってどこかに行っていたのでしょう。

帰省しても会話らしい会話をしない期間がずいぶん続きました。あるとき父が「俺はお前と何も難しい話をしようというんじゃないんだ。普通家族の会話がしたいんだ」というからメタレベルでは拒否の姿勢を貫きながら「俺も俺もw」と返しました。「で、いまから何を話題にする? 会話できるの?w」と追い打ち。ちょっとかわいそうになったので「本当は難しい話がしたくてしょうがないんじゃないの? でも俺はもうゴメンだよ」沈黙が流れました。家庭評論以外のプロトコルが成り立たないことを父も私もそのときにはっきり悟りました。そのまま黙っていたら根負けしたらしく父が背を向けました。そうして山に行ったきり戻りません。震災でも戻りませんでした。

風のうわさではどこかで生きているようです。はてぶを見るほどのリテラシはありませんがtwitterfacebookくらいのたしなみはあるでしょうからどこかで見ている(見ている? 見守っている? キモいw)と思います

無駄に長くなったのでまとめますw

(A)「わだかまりを吐き出して受け止めてもらいたい」

(B)「でもこんな父親のことは早くに相対化してくれ」

(A)を口に出せない弱さだったのかなあと思います。(B)は当人の口から聞いたことがあります

ところで。

15年ほど前に当時つきあっていて「〇〇さんの会話は何かちょっと違う気がする」と指摘してくれた元彼女さんありがとうございました。「幸せになってほしい」と言ってくれた、僕は僕で自分の家庭のゆがみをたとえ一部でも背負ってもらうのは忍びないと思い(母親を見ていたからね)、ただそれが何であったか自分には言葉にする力がなかった。口先だけの血脈自分の代でできるだけ薄めて技術を身に付けなければと思った。僕は自分の力で回収して解決してそれからプロポーズをしたかった。

家庭や父親はいものだと知るには遅すぎるかも。でも、先生幸せになりたいです…w

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