太平洋に臨む…毎年5月太平洋戦争で軍に徴用され戦死した民間の船員たちの慰霊祭が開かれています。
太平洋戦争で犠牲となった戦没船員。
6万609人の御霊が安らかに眠っておられます。
終戦から68年の歳月が過ぎ去った今日。
海洋国家日本として平和と繁栄を享受できているのはこれらの方々の尊い犠牲とご功績の上にある事を決して忘れてはなりません。
太平洋戦争中民間の船は軍の管理下に置かれ物資や人員の輸送に船員ごと投入されました。
いわゆる戦時徴用船です。
米軍の攻撃を受けて沈む戦時徴用船。
十分な護衛のない中6万人の船員が戦死しました。
中には十代の若者も数多く含まれています。
船員の戦死率は43%。
海軍軍人の戦死率の3倍近くに上りました。
激しい爆撃を受け炎を上げて沈む輸送船。
繰り返された海の悲劇を克明に描いた絵画が残されています。
空爆によって炎上するブリッジ。
なすすべもなく真っ赤な炎に包まれていく船員の姿が強い印象を残します。
襲いかかるサメと戦う船員たち。
たとえ一命を取り留めてもいつ終わるともしれない海上での漂流が待っていました。
敵の航空機の搭乗員を救助している絵もありました。
戦場の海で敵味方の区別なく助ける船員の姿が描かれています。
残された絵画は37枚。
生き残った乗組員の話を基に戦時中の日本でひそかに描かれていました。
当時もそして今も広く知られる事のなかった海の男たちのおびただしい犠牲。
残された絵が語る戦時徴用船の知られざる悲劇です。
水の都・大阪。
その中心部にある中之島です。
昔の面影を残しつつ5年前に再建された高層ビル。
ここにはかつて大阪商船という大手海運会社の本社がありました。
現在の商船三井の前身です。
昭和57年倉庫から戦争中に描かれた37枚の絵画が発見されました。
会社の創業100周年で資料を探している中での事でした。
描かれていたのは軍に徴用されて沈んだ大阪商船の船と船員たち。
多くの絵が昭和36年の第2室戸台風による浸水で傷んでおり記されていたはずの船の名前すら識別できない状態でした。
会社は専門家に依頼して修復に取りかかります。
当時絵画を修復した…絵の修復から30年余り。
黒江さんは緑内障で視力を失いつつありますが当時の事は鮮明に覚えているといいます。
残すべき絵っていうのは世の中にあるわけですよ。
残さないといけない絵残るに値する主題忘れてはならない戦争の影の部分ね。
これらの絵画を描いたのは…大正時代から戦後まで30年近く大阪商船に勤めた嘱託画家でした。
大久保は絵が発見される6年前の昭和51年に亡くなっていました。
生前この絵についてほとんど周囲に語らなかったといいます。
大久保一郎の長女…圭子さんも絵画の事についてそれまで何も知らされていませんでした。
これはお父さんが描いた絵やわと思ってね。
こんな絵描いてるいう事は私知らなかったの。
うわこんなん描いてたんや思ってびっくりしたような感じ。
大阪商船は明治17年関西にあった海運会社を統合する形で誕生しました。
大阪商船は日本の国力の伸びとともに朝鮮半島や中国大陸へと航路を広げていきます。
第一次世界大戦を機に海外航路はヨーロッパやアメリカアフリカにまで拡大。
日本を代表する海運会社としてその名は世界にとどろきました。
昭和14年南米航路に就航した…総トン数1万3千。
日本の造船技術の粋を集めた豪華貨客船です。
就航レセプションには各界から多くの人々が集まり平和な海のスターの誕生を祝いました。
しかしこうした船の建造には政府の補助金が使われていました。
有事の際には速やかに空母に改造する事が前提だったのです。
就航の4年後あるぜんちな丸は空母・海鷹に改造され前線に出撃しています。
野間さんは国と海運会社の関係などについて長年研究を続けています。
特に昭和12年以降の「優秀船舶建造助成施設」というのは明らかに日本の助成を受ける商船は日本の海軍の補助艦隊としてやるという事は明らかに暗黙裡に認められておりましてね。
昭和16年12月8日未明。
日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃。
太平洋戦争が勃発しました。
海運会社と船員の運命は大きく変わる事になります。
今こそ一億の国民が一丸となって立ち上がるべき時期であります。
(拍手)政府と軍は民間の商船を戦時徴用船として次々と戦時輸送に投入します。
昭和17年の4月には船舶運営会という政府の統制機構が設立されます。
国内の商船と船員はその統制下に組み込まれました。
大阪商船の船舶の中でいち早く海軍に徴用されたのがあるぜんちな丸と同型の豪華貨客船ぶらる丸でした。
一度に4千人もの兵員や資材を載せ日本と占領地域の間を往復する任務に就きました。
開戦から9か月余りたった昭和17年9月。
大阪商船の社長室に悲報が届きます。
「ぶらる丸が撃沈された」との知らせでした。
社長の岡田永太郎は生存者からじかにこの報告を聞きました。
船の竣工から僅か3年。
大阪商船は会社の顔ともいうべき大型船を失ったのです。
衝撃を受けた岡田は嘱託画家の大久保に生存者の話を聞いて記録として残すよう命じます。
魚雷を受け船首を高く上げて沈みゆくぶらる丸。
場所は海軍連合艦隊の大基地があった西太平洋トラック島のすぐ北。
「空母に改装する」という指令を受け横須賀に向けて単独で出港した翌日の事でした。
生存者の貴重な証言が残されています。
表を立てて斜めに左舷に傾きつつ表へ立ってそのまますっと入りましたからね。
雷撃を受けてから沈没するまで僅か7分。
多くの人が救命ボートに乗り移る事もできず船とともに海にのみ込まれました。
海面に浮かぶ小さな点。
失われゆく命の一つ一つを大久保は丹念に描き込みました。
船と運命を共にした大野仁助船長の最期の姿も描かれています。
大野船長は当時55歳。
大事な書類を一等運転士に託し船と運命を共にしたと報告されています。
入る直前にブリッジのとこからガラガラッて物の落ちる音と合間に「天皇陛下万歳!」という声を僕は上を見ながら聞いた。
大野船長は「仏の仁助」と呼ばれた温厚な人物でした。
客船・ぶらる丸に誇りを持ち軍が船体を灰色に塗り替えようとする事に最後まで反対したと伝えられています。
墓に刻まれた「仁」の一文字。
中にはかぶっていたパナマ帽だけが納められています。
遺骨は帰ってきませんでした。
娘の石井糸子さんは父親が亡くなった当時18歳でした。
よく父は畳をなでて「畳はいいな畳はいいな死ぬ時は畳の上で」という事を帰ってきた時に言ってました。
それが何か…今考えますと最後のような気がいたしますね。
十年前石井さんはぶらる丸の最期を描いた絵と対面しています。
やっぱり父が…こういう姿を見ますとねどうしても何か胸がいっぱいになりますね。
やはり父もね最期には私たち家族の事やらそれから船から出られた部下の船員の方たちが無事に日本に帰ってくる事をきっと願ってたんだと思います。
その万歳だったと思うんでございますけどね。
今回の取材で大久保の絵画を撮影した白黒フィルムが残されている事が分かりました。
白黒フィルムに写されていた絵は全部で12点。
いずれも現物は既に失われています。
その中にぶらる丸を描いたものもありました。
ボートに乗り移った人々の漂流を描いた一枚。
漂流は最長で25日間に及びました。
ボートの底にたまった汚水で渇きを癒やしベルトや靴の皮まで食べて飢えをしのいだといいます。
幸運にも船を見つけて弾けるように手を振る船員たち。
大久保は生き残った一人一人の喜びの姿を描いています。
ぶらる丸の沈没による船員の犠牲は57人に上りました。
それから3年間。
徴用された船は次々に海に消えていきました。
大久保は船と船員の生と死をひたすら描き続ける事になるのです。
大久保一郎は明治22年大阪で生まれました。
父親はニューヨークの商船学校に学んだ船乗り。
幼い頃から海や船に慣れ親しんで育ちました。
絵を描くのが得意だった大久保は中学生の頃から画家を志すようになったといいます。
大阪商船で嘱託画家として職を得たのは大正15年37歳の時でした。
主な仕事は船の設計図を見て宣伝ポスターや進水式に配る絵葉書を描く事でした。
しかしその仕事は戦争によって大きく変わってしまいます。
大久保が自らの絵について回想した文章が一つだけ残っています。
戦争中に描いた絵について生前の大久保から直接話を聞いた人がいます。
大阪商船の社員だった松井孝さんです。
松井さんは入社間もない昭和32年大久保本人を訪ねて絵画を見せてもらったといいます。
これがその絵。
実は松井さんの父親がこの瑞穂丸に乗り組み帰らぬ人となっていたのです。
沈没直前に掲げられた真新しい日章旗。
生還した船員の証言に基づいています。
じかに話を聞いたとおっしゃっていました。
それはこの船に限らずどの船もそうされたようです。
そうしないとこれだけ臨場感のある絵は描けないでしょうね。
どういう絵を描くかというのはまさに大久保さんの判断ですから大変なご苦労があったと思う。
写真を写す以上の事があったんじゃないでしょうか。
芸術家としてちゃんとした絵を描きたいというそんな紙芝居的なものじゃなくていい絵を残したいという思いは強いでしょうしそれをどうやって表現するかという事でしょうしね。
商船三井に残されている…生存者の証言をもとに作られた公式文書です。
照合していくと大久保の描いた絵の記録性の高さが浮かび上がります。
台湾沖で沈没した高千穂丸の報告書。
大久保はその沈没の瞬間を忠実に再現しています。
煙突から海面にたなびく黒煙はエンジンがまだ動いている事を示しています。
激しい浸水によって船体が急激に沈んでいく様子をリアルに描いているのです。
生還者が現場で撮影した写真を参考に描いたと思われる絵もあります。
こちらが沈没の際に撮影された「ぶゑのすあいれす丸」の写真。
構図もよく似ています。
大久保は極限状態における船員たちの行動にも目を向けています。
これはぶゑのすあいれす丸が撃沈されたあとの光景です。
漂流する女性の乗客にボートの席を譲り身代わりになって海に飛び込む船員の姿が描かれています。
こうした光景はぶゑのすあいれす丸の事故報告書には記されていません。
しかし元大阪商船社員の野間さんは大久保の描写は想像の産物ではないといいます。
野間さんが3年の歳月をかけてまとめた「商船が語る太平洋戦争」。
調査の過程で野間さんはぶらる丸の報告書の中によく似た場面を見つけました。
報告書などの資料で分かったんですが若い船員が3名。
千葉県と愛媛県とそれから韓国の3名。
これ16歳か17歳ですね。
しかし救命艇が戻ってきた時に彼らの姿は既になかったと報告されています。
感動しましてね涙が出ました。
これを書いてる時にね。
乗組員でこういう美しい行為があったのか。
自分の身を犠牲にして助けるという…。
この絵を見る事によってああこうだったのかというのが。
また非常にビビッドに如実にシーンを描かれておりますよね。
これはすばらしいすごい絵だと思いますね。
ぶらる丸の撃沈から3日後の昭和17年8月7日。
ソロモン諸島のガダルカナル島に米軍の海兵隊1万人余りが上陸を開始。
太平洋戦争屈指の激闘が始まりました。
開戦以来戦線を拡大し続ける日本軍は本土から5,000km離れたガダルカナル島に拠点を築こうとしていました。
米軍はそれを阻止しようとしたのです。
日本軍が建設していた飛行場を米軍はただちに占領。
更に拡大・整備しました。
日本軍はこの飛行場の奪回を目指します。
武器や食料そして増援部隊を送り込むため優秀な商船を集めて大規模な輸送作戦を強行しました。
日本の輸送船団は船を一列に配して周囲を護衛の軍艦が守る陣形をとりました。
しかし航空機による空からの護衛はほとんどありませんでした。
この作戦に動員された…戦前はニューヨーク航路で活躍していた高速貨物船でした。
九州丸は米軍の飛行機が来ない夜間にガダルカナル島沖に到着。
夜を徹しての荷揚げ作業を行いました。
ところが翌日の朝事態に気付いた米軍機による猛攻撃にさらされます。
爆撃で火だるまになりながら海岸線に突入する九州丸。
大久保は正確に描いています。
これは船団を組んで行った時のを書いたねんけどもね。
妹尾八重子さんの夫藤太郎さんは九州丸の乗組員でした。
藤太郎さんが戦後に書き留めた文章が残されています。
「九州丸にアメリカ軍機の攻撃が集中しました。
私の間近にも爆弾が落下パッと赤い閃光がきらめいたかと思うと大音響とともに周囲の物が吹き飛び気が付くと直前まで言葉を交わしていた同僚が血まみれになって傍らで息絶えていました」。
攻撃を受けた船の中の様子をクローズアップした2枚の絵があります。
突然の激しい炎に襲われる船員。
船の頭脳である司令室ブリッジは最も標的にされやすい場所でした。
大久保の視線は特に犠牲者が多い場所に向けられています。
煙が充満した機関室で同僚の安否を確かめる船員。
船底の奥にある機関室は逃げ場が限られ犠牲者が最も多く出た場所でした。
やっぱりこれヒューマンドキュメントでしょ。
船の物語じゃないんですよ。
海の一コマを描いているっていう。
そういう思いをしないとやりきれなかったんじゃないかなと思いますね。
米軍機の爆撃により炎上する船の上でなお補給物資の陸揚げ作業を続ける船員たち。
投げ込んでいるドラム缶には海に浮かぶように食料や燃料が半分だけ入っています。
せめて食料が島に流れ着くようにと願い火のついたドラム缶を手にしているのです。
劣勢を挽回しようと日本軍は1か月後更に11隻の徴用船を動員して二度目の輸送を強行します。
しかしその動きを察知した米軍機の猛攻撃で船は次々と沈められていきまた。
二度にわたるガダルカナル島への輸送作戦に投入された船は17隻。
そのうち14隻が失われました。
船からようやく脱出し島にたどりついた船員も飢えや病に苦しむ事になりました。
亡くなった船員の正確な数は今もなお分かっていません。
輸送作戦の体を成してない感じですよね。
とにかく持ってけ持ってけってな感じで。
しかしそれがうまくいかなくて。
これは皆船員なんですよ。
兵隊さんじゃないですよね。
だからこういうところで船員が丸腰で現地へ行ってそれでここまでやってるんだと。
船員に対する高い評価と軍隊に対する怒りというものでしょうね。
こういった不条理だらけなんですよ。
昭和18年の半ばを過ぎると日本の敗色は次第に濃くなります。
大阪商船の本社にも徴用された船の悲報が相次ぎました。
当時社長の岡田永太郎の執務室は2階にありました。
開戦から2年で失った船は55隻。
船員の犠牲は700人を超えました。
岡田は自らが先頭に立って大阪・四天王寺で殉職船員の慰霊祭を行いました。
社長名で殉職者の遺族一人一人へ弔文と弔慰金を送っています。
何月に何隻沈められた。
何隻沈められた。
そういうのがどんどんどんどん積み重なってきますとねそれはやはりその事実の重みが心の中にグッと来たと思うんです。
だから少なくとも慰霊祭はやらなくてはいけない。
ただ絵を描いて残すだけではいかん。
最低やるべき事ができたと。
それが本当の社長としての一つの起承転結じゃないけどねそういう事だと私は思いますね。
開戦から3年目を迎える頃から輸送船の被害は更に増えていきます。
航空機に加え潜水艦からも頻繁に狙われるようになっていました。
米軍は数多くの潜水艦を効果的に配置して輸送船を待ち伏せました。
いわゆる「群狼作戦」です。
この作戦は潜水艦3隻が一つのグループになり輸送ルートに沿って待ち構え重層的な攻撃を仕掛けるものです。
一度この作戦の網に掛かったら護衛が手薄な日本の輸送船が逃げきる事はまず不可能でした。
昭和18年9月。
大阪商船の「関西丸」もニューギニア沖で群狼作戦の潜水艦から雷撃されました。
船の上では船尾の小さな砲台から絶望的な抵抗が行われています。
かつてはニューヨーク航路で花形の高速貨客船として活躍した関西丸。
沈みゆく船を万感の思いで見送る船員たちの姿が絵の前面に大きく描かれています。
次の一枚に描かれている場面は衝撃的です。
浮上した米軍の潜水艦が機関銃を乱射。
銃口はようやく救命ボートに乗り移った丸腰の船員たちに向けられています。
ここでも大久保が一番大きく描いたのは負傷した仲間を抱きかかえる船員の姿です。
当時日本の戦争経済を支えていたのは占領地から輸送船が運んでくる石油や鉱石などの物資でした。
米軍の群狼作戦による被害はその輸送ルートに集中しました。
フィリピンと台湾を結ぶ海域は「輸送船の墓場」と恐れられていました。
ルソン島の北で撃沈され夜の海にのみ込まれる「黒龍丸」。
スクリューを空回りさせて沈んだと事故報告書には記されています。
黒龍丸は在留邦人や負傷兵など1,357人を乗せてフィリピンから台湾へ向かう途中群狼作戦の網に掛かりました。
救命艇のロープに必死にすがりつく人物。
暗い色調に死の予感が漂います。
この夜62人の船員の命が海に消えていきました。
大久保は戦時下の日本でタブーとされていた行為もあえて踏み込んで描いています。
夜の海で救助を求めているのは遭難した米軍のパイロット。
オールを差し出しているのは撃沈されボートで漂流する北陸丸の乗組員です。
生と死が隣り合う修羅場で敵兵にも手を差し伸べていた船員たち。
赤々と燃える夜の海を背景に尊い瞬間が描かれています。
同じような場面を経験したと証言をする人がいます。
大阪商船のもんてびでお丸の乗組員だった…もんてびでお丸は千人を超えるオーストラリア兵捕虜を護送する途中フィリピンのルソン島沖で撃沈されました。
山地さんは最終的に生還した僅か18人のうちの一人です。
(取材者)なんとかやっぱり溺れている人間を目の前にしたら…。
たとえ相手が誰であっても溺れている者には手を差し伸べる。
船乗りたちのいわゆるシーマンシップは戦場でも生きていました。
昭和19年になると日本は1年間で1,009隻という大量の商船を失う事になります。
大阪商船の被害も90隻に上りました。
優美な姿で大阪と大連を結んでいた客船…大阪商船に残された唯一といっていい大型船でした。
しかしこの船も徴用されフィリピンからの引き揚げ者や捕虜を乗せて昭和19年12月13日にマニラを出航しました。
出港から4時間後には米軍機が来襲。
2日間にわたって延べ300機の攻撃を受けました。
当時鴨緑丸の三等機関士だった…商船学校を繰り上げ卒業して初めて乗り組んだ船が鴨緑丸でした。
総員配置に着いた途端にバリバリバリッて音がしましてね見たらそこから水がシャーッと。
機銃掃射だったんですな。
楔を持ってその機銃掃射をやられた所へ飛んでいって打ち込んでる時にこのくらいの穴が開くんですね。
そこへね水平線がピャーッと走ってるわけですよ。
きれいな青い水であの時にきれいだと思いましたな命懸けだったのに。
きれいだなって思うとグーッと水面が上がってきてバァーッと水が…。
鴨緑丸には機銃や高射砲が装備されていました。
射撃にあたる兵士を助けて小西さんたち船員は弾薬などの運搬にあたっていました。
その様子は大久保の絵にも描かれています。
上ではドンドンパチパチやってるわけです。
そしたら陸軍の兵隊さんが油缶を持ってエンジンルーム下りてきましてね。
機銃の油がないって言うわけ。
油を出してくれと。
一番上のボートデッキまで上がって。
そしたらボートデッキはもう血の海だったですね歩けんほどの。
命のどうのこうのという考えを持つ余裕すらないですね。
鴨緑丸は2日間の攻撃に耐えたものの最後は小西さんたちが見守る中炎を上げて沈んでいきました。
犠牲が増え続ける中船員の不足も深刻になります。
そこで動員されたのは10代の若者たちでした。
小野幸夫さん82歳。
小野さんは昭和19年14歳の時に輸送船に乗り組みました。
当時戦時標準船と呼ばれていた船です。
猛烈な勢いで船が失われていった戦争末期。
戦時標準船は政府が増産に力を注いだ極めて粗悪な船でした。
物資の輸送が滞る中満足な強度を持つ鉄は不足。
更に熟練工も枯渇していました。
材料を徹底的に節約し少ない労力で短期間に作れるよう規格化された船それが戦時標準船でした。
犠牲になったのは船の強度。
通常二重になっている底板は1枚とされ急速な浸水を防ぐための隔壁も省略されました。
とにかくねこの戦時標準型いうのはものすごく弱いんですよ。
ほんで普通船いうのはやっぱ継ぎますわ鉄板。
そこへええ船やったらもう一枚鉄板を裏から当てて鋲で留めるわけです。
で…溶接するわけ。
でもそんな余裕がないからこれはオール溶接というやつ。
だからもうベテランのおやっさんが見たら「これはやられたらもうあかんな」いう事は聞きました。
大久保の絵の中にも戦時標準船を描いたものが白黒フィルムで残っています。
前半分がちぎれて折れた船。
船体のもろさをよく表しています。
小野さんが乗っていた大暁丸もこの絵と同じ形の船でした。
昭和20年2月7日大暁丸は重油などの物資を満載してシンガポールから日本へ向かう途中魚雷攻撃を受けて沈没。
小野さんは重油の海に投げ出されました。
最初飛び込んだ時なんか重油の層が相当厚かったと思うんですよ。
やっぱり波もあるしだんだん離れていくから助けられた時にはもうほとんど…。
そやからみんなもう顔なんか真っ黒けですがな。
重油飲んでますやろ?ゲーゲーゲーゲー吐くけん。
まず握り飯くれたけどそんなの食えるような状態じゃなかった。
生きる事は教えてくれなかったです。
死ぬ事は教えてくれた。
この日野間さんは神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」を訪ねました。
造船会社を退職後戦時標準船についての研究を続けています。
「すぐ撃沈されるから量産する事が大切だ」。
それが軍の発想だったと豊田さんは言います。
大久保が描いた戦時標準船大越丸。
絶望的な暗さのトーンが印象的です。
急速な浸水で船体が折れる恐れがあったため海岸に乗り上げたと報告されています。
戦時標準船は戦争中に1,027隻が建造されその6割にあたる626隻が撃沈されました。
昭和20年に入ると米軍の爆撃機B29による本土への空襲が激しさを増し一般市民も攻撃にさらされました。
大久保は絶望的な戦況の中空襲があっても会社へ出勤し徴用船の絵を描き続けたといいます。
(圭子)母が「おとうさんいうたらものすごいあれや」って。
「あんなやつれるのおかしい」言うて心配してましたよ。
「勝った勝った」言うてるのに父…「ひょっとしたら負けるんじゃないか」。
ひょこっと何か独り言みたいに言うた事あるんですよ。
そんなわけない。
みんな「勝った勝った」言うてるやんかと思った事あるんですね。
それでおかしい事言う…。
今から考えたらこんな絵描いてたからそんなん言うたんやと思います。
今回見つかった白黒フィルムの中に大久保の他の絵と比べると異質な絵がありました。
破壊された船のがれきの中から人の姿が浮かび上がるように描かれています。
まるで沈められていく船の命が人の姿に化身したかのような不思議なイメージです。
絵画を修復した黒江光彦さんは大久保の画家としての複雑な思いをこの絵に見る事ができると言います。
構図的にはちっともまとまってないですね。
船の構造物の乱雑な置き方。
それをたどっていけば絵としての動きは作れるんですよね。
ただそれは乱れた動き。
相当に悲壮な悲劇的なリズムなんですよ。
大久保さんの場合には関わりを持ち過ぎちゃったんですね負け戦にね。
だからそういう意味でもかわいそうな画家と言っていいんじゃないでしょうかね。
国が敗戦への道を突き進む中大久保は会社のアトリエで崩壊していく戦時輸送の実態に独り向き合っていました。
それは遠い海の底に人知れず消えていった船と船員たちの最期をひたすらキャンバスに刻み込む孤独な作業だったのです。
(玉音放送)「堪え難きを堪え忍び難きを忍び…」。
昭和20年8月15日日本は敗戦を迎えました。
3年8か月の戦いの間軍に徴用され戦死した船員は6万人近くに上りました。
戦争によって失われた日本の商船は2,568隻。
大阪商船の被害は219隻。
海に消えた船員は4,759人を数えます。
開戦前に政府から約束された戦争で喪失した船の補償金や保険金も一切支払われる事はありませんでした。
海運会社の実態は破産状態でした。
社長の岡田永太郎は戦争に協力した責任を問われGHQによって職を追われます。
岡田の退陣とともに大久保が描いていた戦時中の絵も次第に忘れられていきました。
そんな扱いをされてるのは岡田社長も不本意だったと思いますね。
せっかくいろんなやっぱり…人目をはばかるような状態できちんと残そうとされた。
大久保さんそれ見事に応えられたわけですけどももっと大事にやっぱり会社として保管をしなきゃいけなかったんでしょうね。
貴重な絵ですけど不幸な絵ですね。
だから大久保さんにしてみればやっぱりいろんな思い悔しさもあったと思いますね。
敗戦から4年たった昭和24年に大久保が描いた自画像です。
戦後の大久保は美しい船の絵だけを描き続けたといいます。
徴用船の悲劇を描いた絵はその価値を認められないまま大久保の記憶の中に封印されたのです。
大久保の絵画が発見されて以降年に一度日本各地で展覧会が開かれています。
娘の圭子さんは毎年展覧会を訪れ父の描いた絵と向かい合っています。
見る度にようこんなん描いたなと思って。
いつも初めて見るような感じで何べん見ても。
感激してもう涙が出そうです。
戦時徴用船の実態と船員たちの深い悲しみが刻み込まれた大久保一郎の絵画。
太平洋戦争の知られざる事実を今に伝え続けています。
2014/02/15(土) 00:45〜01:45
NHKEテレ1大阪
ETV特集「戦時徴用船〜知られざる民間商船の悲劇〜」[字][再]
太平洋戦争中、軍に徴用され戦没した商船と船員たちの姿を描いた37枚の絵画が大阪の海運会社に残されている。絵画と関係者の証言を通して、知られざる海の悲劇を伝える。
詳細情報
番組内容
太平洋戦争で戦没した船は約2400隻、戦死した船員は約6万人。軍需輸送のために徴用された日本の民間商船の被害だ。当時、日本有数の海運会社だった大阪商船には、戦没した船の最期と船員の極限の姿を描いた37点の絵画が残された。嘱託画家・大久保一郎によって描かれ、戦後長い間にわたって倉庫に眠っていたものだ。番組では、これらの絵画群をあらためて見つめ、戦時徴用船と船員たちの知られざる悲劇を描く。
出演者
【出演】野間恒,黒江光彦,大久保圭子,前島俊雄,石井糸子,松井孝,妹尾八重子,山地好明,小西金積,小野幸夫,豊田繁
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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