金曜プレステージ・独占!浅田真央 誰も知らなかった笑顔の真実 2014.02.28

≫浅田真央2回目のオリンピックが終わりました。
この日、彼女をスタジオに招いたのは今こそ、その胸の内を知りたいと思ったから。
ソチで見せた、あの演技。
あの涙。
そして笑顔。
その陰に一体何があったのか。
≫すいませんねお疲れのところ。
≫大丈夫です。
眠かったんですけど今は大丈夫です。
≫彼女は語ることを受け入れてくれました。
集大成を迎えたスケート人生。
これまで言えなかった本当の思いを。
ソチ、本当にこれが真央の最後のオリンピックなのでしょうか。
≫トリプルアクセル。
≫スッと降りた!≫答えは真央の胸の中にしかありません。
1つ確かなのはこの演技が世界中に感動を呼んだこと。
浅田真央は本当にすごいスケーターでした。
≫去年5月あのフリーの演技はニューヨークで生まれました。
≫踏み出したソチへの第一歩。
今日は曲を選びます。
待っていたのはタチアナ・タラソワさん。
数々の金メダリストを育てた世界的に有名な振付師です。
≫タラソワさんは候補の曲を持ってきていました。
真央の顔つきが変わりました。
タラソワさんと思いが一致したのです。
≫ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」。
劇的で壮大、人生の深みを表現するかのようなこの曲。
一歩間違えれば、曲の力強さに演技が負けてしまいます。
でも、だからこそ真央は挑戦することを決めたのです。
曲を選んだ翌日振り付けをします。
≫これまで決して公開されなかった真央の振り付けの様子。
そこには新しい表現を一から組み立てる生みの苦しみがありました。
≫特に時間を割いたのは後半のステップシークエンス。
経験してきた試練や挫折。
困難を切り開いて進んできた真央のスケート人生。
このステップにはそうした意味が込められています。
≫私があのプログラムで表現したかったのは真央の人生なの。
苦労や喜び成長や勝利。
そして、スランプ。
彼女が笑顔で乗り越えてきたすべてのものを表しているの。
≫苦しかったソチへの日々。
頑張り抜けたのは周りの支えがあったから。
なのに、ソチに待ち受けていたまさかの落とし穴。
一体なぜ?日本中が、そう思いました。
今、明かされるその真実。
≫取り返しのつかない自分の失敗をしてしまったなと思いました。
≫ソチに向けて取り組んだ一世一代の大挑戦。
自分の弱点を誰よりも知っていた真央はリスクを承知でスケーティングの大改造に取り組みました。
≫いわば、それは誰も登ったことがない山。
道のりの険しさは簡単には言葉にできません。
気持ちが後ろを向いてしまったこともあったといいます。
≫おととしの春、真央ははっきりと、こう思っていました。
もうフィギュアスケートをやめよう。
≫頑張ろうっていう気持ちになれなかったですね。
≫真央を救ったのは、周囲の愛。
奇跡のような時間。
≫どうすれば真央を助けられるのか。
心の底から悩み抜きました。
≫そして、真央を語るうえでは欠かせない、あのライバル。
2人の競い合いはジュニア時代から始まっていました。
≫2人は、互いの存在をしっかりと認め合ってきました。
≫戦いを終えた今。
だから語れる、ライバルへの思い。
≫自分たちもそう取り上げられることによってちょっとずつ距離が出てくるようにはなってしまったことはありましたね。
≫小学生のころから天才少女と騒がれた真央。
ですが、本当の彼女は皆さんが思う真央とは少し違うかもしれません。
すごく不器用で何をするにも時間がかかるタイプ。
本人も、こう言います。
≫人の何倍も努力が必要だった真央。
どうしてそんなに頑張れたのか。
そこにはある人の存在がありました。
≫お母さんの匡子さん。
笑顔の原点は、そこにありました。
母の教えが真央を導き続けたのです。
しかし、そのお母さんはもういません。
3年前に、この世を去りました。
≫そして生まれた、あの演技。
浅田真央、集大成への歩みを今、振り返ります。
≫大目標のソチオリンピックが終わって少し時間がたちましたけれどもどうですか、今の心境というのは。
≫日にちがたってみてやりきったという気持ちとやはりメダルを持って帰ってこれなかったという少し残念な気持ちと悔しい気持ちはありますね。
≫半々ぐらい?≫はい。
≫すばらしい演技でしたけれども何度かご覧になりました?≫はい。
≫どうでした、自分の演技をこうやって、改めて終わってみて。
≫今までで一番、精神的にもすごい大変な場面で今までで、やっぱり一番よかった演技だったなって改めて思ってます。
≫ショートのほうもお聞きしなきゃいけないんですけども。
我々もビックリした、あれは何が起こってしまったんでしょう?≫バンクーバーじゃなく…。
ソチの団体戦からその感覚っていうのが出てきてしまっていて。
自分の中で、すごい体がうまく動かなくなってしまう。
終わったあとに、全然自分の滑りができなかったなって思っていて。
自分の個人戦ではそれを覚悟したうえで練習もしてて本番に臨んだんですけど。
その感覚っていうのがまた出てきてしまって。
取り返しのつかない自分の失敗をしてしまったなというふうに思いました。
≫その感覚っていうのは滑りながら、その滑ってる最中に起こるものなんですか?≫滑り始めからもういつもの練習とは違う体の感じになってたというのは感じました。
やはり、ショートは、どうしてもミスが許されないっていう自分の中でやはり守りに入ってしまった演技になってしまいましたね。
≫前々から、真央さんは1つの集大成として向かう大会であるというふうにおっしゃってましたが。
≫やはりバンクーバーが終わってからの一から見直してきたものがすべて、このフリーで出せたっていうのは絶対に、言えることです。
≫ニューヨークの休日。
姉妹2人で街に出ます。
行動を決めるのはいつでも妹の真央のほう。
≫清楚で物静かなイメージがある真央ですが実際の彼女は、とことん芯が強くちょっぴり頑固。
≫こんなときも、姉の舞を引っ張っていきます。
≫自分を貫く固い意思が真央にはあります。
そして、だからこそ彼女はあの挑戦に踏み切れたのです。
去年6月。
真央は、その挑戦の真っただ中にいました。
4年がかりで取り組んできたスケーティングの大改造。
≫滑りの技術を基礎の基礎からやり直していたのです。
築いてきたものを土台から変えるとてつもない作業。
本当に身につくのか。
ソチに間に合うのか。
成功の見込みは誰にもわかりません。
≫2人は、気が遠くなるほどの我慢を重ねました。
普通なら避けて通る道。
≫去年6月。
真央はソチへの準備を進めながらスケート教室やアイスショーの出演に追われていました。
集まった子どもたちはおよそ80人。
浅田真央に憧れてフィギュアに興味を持った子も大勢います。
こんなとき、真央は必ず笑顔。
影で、どんなに苦しい思いをしていても人前では決してつらそうな顔を見せません。
≫浅田真央の名前が全国に知れ渡ったのは12歳のときでした。
この全日本選手権。
世界で3人目のトリプルアクセル。
そして…。
女子では世界初の3連続3回転ジャンプ。
小学6年生だった真央。
2つの大技に世間は驚きました。
そしてこう呼ぶようになりました。
天才少女。
真央は国民の期待を背負う選手になったのです。
本人にも、目指す目標ができていました。
≫毎日、練習していたスケートリンク。
≫一般のお客さんに交じっての練習。
人にぶつからないようにスピンをしたりジャンプを跳んだり。
練習は、いつも姉の舞と一緒でした。
リンクは今も、当時のまま。
≫そのころの真央、14歳。
≫ライバル同士だった真央と舞。
大きな大会が近づくと舞が真央の手助けをするのが習慣でした。
ラジカセに曲を入れ真央に聴かせながら滑ります。
天才少女。
その影には、人並み外れた努力と家族の支えがあったのです。
≫努力の末に花開いたジャンプの才能。
導き手がいました。
山田満知子コーチです。
伊藤みどりをはじめ幾多の名選手を育ててきた山田コーチ。
真央は教え子の中でも特別な存在だったといいます。
≫張り合いながら成長してきた2人の姉妹。
この日、お姉さんの舞が髪を染めました。
すると、真央も…。
何をするのも、こんな調子でした。
練習は毎日遅くまで繰り返されました。
山田コーチの指導が終わってもすぐには帰らず、居残り練習。
そんなときアドバイスをくれたのはお母さんでした。
≫思い出深い、車の中。
学校が終わると迎えに来てもらい車内で着替えておやつを食べながらリンクへ。
そんな毎日でした。
≫去年7月。
アイスショーの合間に仲間との食事会が開かれました。
≫暗いから気をつけて、皆さん。
でも、おなかすいた…。
≫乾杯!≫おつかれさまです。
≫この10年、日本のフィギュアを引っ張ってきた真央。
宮原知子選手や村上佳菜子選手にとってはお姉ちゃん的な存在です。
23歳、エースとして臨むソチオリンピック。
真央はそこを集大成にすると決めていました。
≫2010年。
二十歳のときに始まったスケーティングの大改造。
真央は、ジャンプの初歩シングルジャンプから練習を始めました。
佐藤コーチと練習を始めたのはこのシーズンから。
ある人の熱意が佐藤コーチをその気にさせたといいます。
≫お母さんの匡子さん。
真央のスケート人生を語るうえで欠かせない人です。
若いころ、バレリーナに憧れていたお母さん。
それもあって真央と舞は、まずバレエを習い始めます。
練習の成果を舞台で披露。
こうした姿がお母さんの喜びでした。
当時のことをよく知る人がアメリカにいます。
真央の3歳のころからの幼なじみ森本彩夏さんです。
バレエ仲間だった彩夏さんは今でも、真央の一番の親友です。
≫お母さんには口癖がありました。
≫その後、バレエに役立つからという理由でフィギュアを始めた真央。
すると、才能はリンクで花開きました。
まだ、ちっちゃいのにこのジャンプ。
当時通っていたスケート教室には若い才能が集結していました。
安藤美姫さんも一緒でした。
≫13歳の全日本ジュニア選手権。
真央はすばらしい演技を見せます。
特に光ったのがトリプルアクセルからのコンビネーションジャンプ。
喝采を浴びたこの演技。
こうして、トリプルアクセルは真央の代名詞になっていきます。
≫世界との戦いを陰で支えたお母さん。
練習の送り迎えや付き添いだけでなく夜も、1人で遅くまでビデオなどでの研究を続けたといいます。
≫そして15歳。
ついにシニアデビューのときがきます。
出発の日。
≫お母さんが大好きだったもの。
それは、真央の笑顔でした。
大会前日、ホテルに届いたお母さんからのメッセージ。
シニアデビュー戦真央は、見事な演技を見せ2位に食い込みました。
その夜、お母さんに電話。
≫この2か月後。
トリノオリンピックを目前にした大会で前代未聞の出来事が起きました。
年齢の規定でオリンピックに出られない真央が優勝してしまったのです。
なぜ世界で一番になった選手がオリンピックに出られないのか国民の多くがそんな疑問を持ちました。
≫始まった真央フィーバー。
この人だかり。
天才少女と呼ばれもてはやされた真央。
でも、その呼び名は正しくありません。
真央の能力は神様がくれたものではなく自分で築き上げたもの。
人の何倍もの練習を彼女は重ねてきました。
≫去年6月。
真央がソチに向けて始めたことがありました。
バレエのレッスンです。
≫自分で決断し自分で取り入れた練習。
バレエ独特の優雅な動きを学びます。
≫お母さんは、もういません。
3年前に他界しました。
≫お疲れさまでした。
≫やっぱりジュニアのころからずっと真央さんのことを見てそして支えていたのはお母さんだと思いますけどもどんな存在でしたか?≫本当に毎日ずっと一緒でしたね。
3人はずっと一緒でした。
≫どんなお母さんでした?≫スケートに関してはすごい厳しかったんですけど。
真央は結構舞が怒られてるからもう、やんなきゃっていう…。
やっぱり、年下なので要領よくすり抜けていっていたので。
舞のほうが厳しく練習とかもしてましたね。
≫そのお母さんが、いつも支えてくれていたということでやっぱり自分のために頑張るというよりはお母さんのためにそういう気持ちっていうのは小さいころはどうだったんですか?≫やはり、ずっと舞と真央とママの3人でやってたのでやっぱり、そういう気持ちは強かったですね。
≫なんと言ってくれるんですかお母さんは、いつも。
≫よかったよって。
≫お姉ちゃんとは、相当ライバル心というか。
≫すごかったですね。
舞が特に本番で強いタイプだったのでそれに比べると、自分はいつも本番で失敗してるタイプだったので。
すごいうらやましくていつも、負けたくないと思ってやってました。
≫ビックリしたのは非常に気が強い。
負けず嫌いで頑固で。
そうなんですか?≫自分に対してはすごい頑固ですね。
≫気が強いっていうのは自分では意識は…。
≫気が強いというのは多分、スケートに関してだけだと思うんですけど。
≫プライベートな部分では気の強さは、ない?≫ないです。
争いごととか、嫌いです。
≫ソチへショートプログラムの振り付けは去年5月カナダ・トロントで行われました。
振付師は真央ともう10年の付き合いになる気心の知れた人ローリー・ニコルさんです。
≫ショートのために選んだ曲はショパンの「ノクターン」。
そこにはローリーさんの深い思いがありました。
掲げたテーマは、真央の成長。
「ノクターン」は真央が16歳のシーズンに一度、演じた曲。
その曲をソチでは大人の演技でローリーさんはそう考えたのです。
≫「ノクターン」はとても繊細で優しい美しい曲です。
明るさや希望優しさや愛情にあふれています。
それは、つまり真央そのものなんです。
ほかの人ではそうは思わない。
だから、私にとってオリンピックで、真央があの曲を滑るのはごく自然なことなんです。
≫ローリーさんの振り付けはタラソワさんとは全く違います。
まずは、特に指示をせず真央の好きなように滑らせるのです。
そして、そこから…。
≫2人は相談しながら物語を作っていきます。
ローリーさんが大切にするのは真央自身の意思です。
≫これまでにミシェル・クワンなどの金メダリストを育てたローリーさんは真央の繊細な内面を芸術的に表現しようと考えていたのです。
≫ローリーさんは真央にとって、かけがえのない人。
もしも彼女がいなかったら真央はソチの舞台に立たなかったかもしれないのです。
≫おととしの春。
真央はフィギュアスケートをやめようと思っていました。
それを押しとどめたのはローリーさんでした。
≫練習しても意味ないなって思いましたね。
頑張ろうっていう気持ちになれなかったですね。
≫真央を立ち直らせた奇跡の時間。
それはカナダ・トロントでの出来事でした。
19歳のバンクーバーオリンピック。
ショートとフリー計3度のトリプルアクセルを成功させた真央。
それでも、金メダルには届きませんでした。
≫真央、15歳。
女子で、世界で3人目のトリプルアクセル成功者となり天才少女と騒がれていたころ。
彼女には、手ごわいライバルが出現していました。
≫2人の対決が注目された2005年の世界ジュニア選手権。
同い年、同じ9月生まれの同じアジア人。
身長も、ほぼ同じ。
2人には通じる部分がたくさんありました。
このときは、真央が1位ヨナが2位。
キム・ヨナ選手は後にこう語っています。
真央に負けて、自尊心が傷ついた。
一方、真央もヨナを特別な目で見ていました。
≫2006年15歳で出場した世界ジュニア。
優勝候補はもちろん、この2人でした。
日本の真央、そして韓国のヨナ。
このころからキム・ヨナ選手の表現力は群を抜いていました。
体の動きが滑らかでジャンプも正確。
動きの中で跳ぶ技術を持っていました。
ショートプログラムの結果を気にする、ヨナ選手。
≫フリーの演技。
真央は精彩を欠きました。
トリプルアクセルに失敗。
ほかのジャンプでもミスを続けます。
結果は2位。
優勝はキム・ヨナ選手でした。
≫15歳の夏、真央は練習の拠点をアメリカに移しました。
スケートリンクの近くに家を借りて家族で暮らします。
≫日本を離れたのは過熱する取材を避け練習に専念するため。
このころ真央は思わぬ問題にも直面していました。
成長期です。
この1年で10cm近く身長が伸び姉の舞に追いついた真央。
体のバランスが変わったことでジャンプが跳びにくくなっていたのです。
アメリカ行きを推し進めたのはお母さんでした。
娘の未来を思い、環境作りチーム作りを始めました。
カナダ・トロント。
振付師のローリーさんもお母さんが考えたチーム真央の一員でした。
ローリーさんは、真央の持つかわいらしさや優しさの理解者。
そこを伸ばす役割を受け持ちました。
≫ローリーさんはソチでショートプログラムを担当することになります。
≫匡子さんは、私が真央の力になれると思ったのでしょう。
若いころの真央は、いつもトリプルアクセルトリプルアクセル…。
本当に一途でした。
でも、フィギュアスケートはとても複雑です。
アスリートとアーティストその両面が求められます。
真央は、その両立を目指し、人生をかけて最高を目指したのです。
真央自身が明確に自覚していたと思います。
スポーツと芸術の両立こそ今の自分がすべきことだと。
≫ロシアにもチーム真央の大切な人がいました。
タラソワさんです。
ソチでフリーの振り付けをすることになるタラソワさん。
ローリーさんとは対照的に力強い表現を持ち味にしています。
≫お母さんはとても聡明な方でした。
真央は、大人になりつつあるの。
だから、それに応じた表現力をつけなければいけない。
しかし、同時に難しいジャンプも跳び続けないといけない。
それは、とても難しいことなのよ。
その手助けをするのが私の役割なの。
≫チームの支えを、真央は結果に結び付けていきます。
主要な大会で常に優勝争いに加わり世界からトップスケーターと認められます。
2008年17歳で迎えた世界選手権。
冒頭のトリプルアクセルでアクシデントが起きます。
大きく転倒。
しかし、真央はすぐに立ち上がって演技を続けました。
結果は、世界選手権初優勝。
トリプルアクセルなしでも勝てる。
真央は、そんな力を身につけたのです。
≫しかし、この年、本番で成功させたトリプルアクセルは6回中、半分の3回。
体の成長から受ける影響は見過ごせないほど大きくなっていました。
同じころ、世界のライバルたちはトリプルアクセルを回避。
コンビネーションで得点を稼ぐ方法が主流になります。
単発のジャンプとしては一番高得点のトリプルアクセル。
しかし、リスクも高いからです。
元世界女王、全盛時に圧倒的な強さを誇ったスルツカヤ選手。
彼女もトリプルアクセルを避け3回転、3回転のコンビネーションを得点源にしていました。
≫私も、練習では挑戦していました。
しかし、転倒して尾てい骨に大怪我を負ってしまったんです。
それで、怖くなってしまい跳ぶのを断念しました。
トリプルアクセルはそれほど難しいジャンプなのです。
≫そして、成長期がジャンプに及ぼす影響は大きいといいます。
≫身長が1cm伸びただけで体のバランスは変わります。
たった1cmでも大きな変化が生まれるものなのです。
腕の振り方やジャンプの角度など。
あらゆるところに影響が出てきます。
成長期は自然の流れなので逆らえませんがうまく乗り越えるのは本当に難しいです。
なんとかやり過ごし耐えるしかありません。
≫苦しみの中トリプルアクセルにこだわり続けた真央。
そこには勝敗を超えた純粋な挑戦心がありました。
≫トリプルアクセルを跳べるのは世界でも、ほんの一握り。
片手ほどしかいないわ。
それなのに得点が低すぎるのよ。
2009年4月。
真央は、大学生になりました。
とはいっても携帯電話も持っていない周りとは少し違う大学生でした。
≫続いていた、練習漬けの毎日。
しかしトリプルアクセルの成功率は上向きませんでした。
11回挑戦して成功は6回。
先駆者の伊藤みどりさんはトリプルアクセルには心の状態も重要といいます。
≫バンクーバーオリンピック4か月前。
真央は大スランプに陥りました。
代名詞のトリプルアクセルを全く跳べなくなってしまったのです。
この大会はシニア最悪の5位。
≫その後、日本に帰ってからもスランプは続きました。
≫跳んでも跳んでもうまくいきません。
真央は普段の真央とは違っていました。
≫ある日、真央にメールで呼ばれリンクへ駆けつけた舞。
そこで見たのはもがき苦しむ妹の姿でした。
≫どうしても、うまくいかないトリプルアクセル。
とうとう真央が叫びました。
もう、みんな出てって!彼女を残し、全員がその場を離れました。
けれど、舞だけは真央のそばから離れませんでした。
ずっと一緒に育ってきた2人。
絶望のふちから真央を救い出せるのは自分しかいない。
そう考えたのです。
≫その翌日、奇跡は起きました。
真央がトリプルアクセルを跳んだのです。
真央に笑顔が返ってきました。
≫真央、初めてのオリンピックバンクーバー。
優勝したのはキム・ヨナ選手でした。
真央は、銀メダル。
望んでいた金メダルは手に入りませんでした。
帰りの飛行機。
真央の気持ちは、もうソチに向かっていました。
ジャンプを直したい。
姉の舞に、そう語ったといいます。
≫真央さんにとっては非常に苦しい時期だったかもしれませんが。
≫金メダルを、やっぱり目指していたので。
自分もやっぱり終わったあとにすごく悔しい思いもあったのでそれを多分、真央もわかっていたと思ってて。
だけど、金メダルじゃなくてもあの銀メダルでもいいんだよっていうのはすごくうれしかったです。
≫キム・ヨナというライバルがこれもジュニア時代からずっとでしたけども。
実際はどうだったですかその辺の意識というのは。
≫ジュニアのころはまだそこまで対決というよりは一緒に、ごはんを食べに行ったこともありますしプリクラ撮ったこともありますし。
そんな感じだったんですけどやはりだんだん多分、自分たちもそう取り上げられることによってちょっとずつ距離が、やっぱり出てくるようになってしまったことはありましたね。
≫本当に申し訳ないです。
≫でも、リンクを離れれば普通に、お話しますし。
いいライバルとして一緒にやってきたと思っています。
≫ソチオリンピック終わってから何か話されました?≫はい。
おめでとうというふうに声をかけて一緒に写真を撮って。
そしたらキム・ヨナ選手がお疲れさまというふうにいっていました。
≫わかり合える部分というのもそういうときってあるんでしょうね。
≫そうですね。
やはりジュニアのころからずっといいときと悪いときあったと思うのでお互いが、お互いのことを知ってるんじゃないかなと思っています。
≫バンクーバーオリンピックの帰りの飛行機でもう次のソチの話をしてるみたいですけどそうだったんですか?≫そうですね。
ソチでは…。
そのときは多分ジャンプを見直したいと思ったんですよ。
ソチに向けて自分の目標としているジャンプを変えたいっていうふうに。
もうバンクーバーが始まる前から終わったら直そうっていうのは思っていました。
≫決めていたんですか、そのとき。
≫はい。
≫ソチへ。
真央はいくつもの悲しみと試練を乗り越えなければなりませんでした。
お母さんとの別れ。
≫胸に浮かんだ引退。
≫楽ではない挑戦を真央は選びました。
スケーティングの大改造です。
滑りの技術、滑り方の基礎を一から見直すという取り組み。
それをしなければ自分が理想とする演技はできない。
真央は、そう考えていました。
≫真央が佐藤コーチとともに追い求めたのは滑りのスピードと滑らかさでした。
かつての滑り方ではジャンプの前後で動きが止まり曲との調和が途切れていました。
そのマイナスが採点にも反映されGOE、技の出来栄え点が伸びずにいたのです。
真央がスケートを始めて15年以上。
身にしみついた技術を捨て新しいものを手に入れる。
二十歳を過ぎてそれを成功させるのは至難の業です。
しかし真央は進むことを決めました。
一からやり直したい。
本人の意思をお母さんが、佐藤コーチに伝えにいったといいます。
≫終わりの見えないいばらの道。
それでも…。
練習が終わるとやっぱり笑顔。
≫それは、真央が自分で始めた自分のための挑戦でした。
≫真央がスケートの大改造を始めた直後二十歳の演技。
結果は、8位。
トリプルアクセルはショートもフリーも失敗に終わりました。
≫これほど狂ってしまうのかという思いもありますけど。
≫同じころお母さんのかかわり方にも変化が生まれていました。
かつては、付きっきりで練習を見ていたのに全く来なくなったのです。
そこには、娘の未来を思う親心がありました。
今までは私がなんでも先回りをしているようなところがありました。
でも、これからはそうじゃない。
真央が自分で考えて自分で決める形です。
人間としてもスケーターとしても真央にはもっと大きくなってほしいんです。
大改造を始めたシーズン。
優勝は、一度もありませんでした。
≫真央をジュニア時代から見続けてきた人はこう言います。
≫ソチを見据えた大改造。
間に合うのか。
本人も不安だったはずです。
今はただ信じて進むしかありません。
21歳のシーズンがきました。
それは、我慢の季節。
大会前、佐藤コーチはある決断をしていました。
新聞にはトリプルアクセル封印。
≫この大会、真央はトリプルアクセルを跳びませんでした。
結果は優勝。
そのころ、お母さんは…。
≫お母さんが入院していたことを仲間たちは…。
≫2011年12月。
真央がカナダでの大会に出場していたときその知らせは届きました。
お母さんの容態が悪いと聞き緊急帰国した真央。
再会できないままお母さんは、この世を去りました。
≫お母さんの死から3週間後。
真央は全日本選手権を休みませんでした。
≫最初の問題はジャンプです。
≫ダブルアクセル。
決めましたね。
夢の中でのステップのような優しいストレートラインステップですね。
≫リンクに希望が広がっていく。
≫優勝した真央に涙はありませんでした。
≫お母さんにはどのような報告をしたいですか?≫今回も、本当に一番近くでいるような感じがしたので≫それが起きたのは、おととし。
2012年の世界選手権でした。
お母さんとの別れを経験したシーズン。
そして大改造の成果が見え始めたシーズン。
その締めくくり。
ここで、よい結果を出せばまた次の目標が見えてくる。
真央は、そう考えていました。
ところが、本番…。
≫シングルアクセル…。
ダブルアクセルダブルトゥループ。
≫2つ目、3回転の予定ですが…。
≫ミスだらけの演技。
結果は、6位。
≫帰国した真央は佐藤コーチに告げます。
先生、今はスケートをやりたいという気持ちになれません。
真央は、このとき、スケートをやめようと思っていたのです。
≫カナダ・トロント。
真央は毎年のようにこのリンクを訪れています。
ローリー・ニコルさんに振り付けをしてもらうためです。
≫ローリーさんは真央の人生になくてはならない人。
おととしの、あの出来事もローリーさんが救ってくれました。
≫お母さんとの別れから半年。
真央はこのリンクを訪れました。
もうフィギュアスケートをやめよう。
消えない思いがずっと胸にありました。
ここに来たのはアイスショーの振り付けをするためでした。
競技は、もう無理…。
でもショーならできるかもしれない。
そう思っていました。
振り付けを頼んだのはローリー・ニコルさん。
真央のことを心から愛してくれる1人です。
ローリーさんは真央の様子から心の傷の深さを読み取っていました。
≫まるで、その場にいないみたいでした。
心ここにあらずという感じで。
私もパニックになりかけてどうすれば真央を助けられるのか心の底から悩みぬきました。
≫2人で選んだのはこの曲でした。
「アイ・ガット・リズム」。
振り付けを始めた2人。
やがて、真央に変化の兆しが訪れます。
ローリーさんにこう告げたのです。
ショートのプログラムも作りたい。
気持ちが前向きになった証しでした。
≫曲を聞いた真央は自然に変わっていきました。
消えていた明かりがまたついたみたいに。
氷の上で子どものように過ごし少しずつ微笑みを見せ始めました。
本当にうれしかった。
あの日は本当に大きな1日でした。
≫ローリーさんは真央を自宅に招きました。
湖のほとり大きな庭があるログハウス。
真央は、ローリーさんの家族や姉の舞と一緒にカヌーやテニスをして過ごしました。
やらなきゃいけないことなんか何もなくてやりたいことができたらそれをする、そんな時間。
人一倍、不器用でだから、人の何倍も練習に時間をかけてきた真央。
スケートを忘れて過ごしたこのひと時は貴重な経験でした。
広い庭の散策もしました。
聞こえてくる小鳥のさえずり。
頬に当たるそよ風。
水の音、木漏れ日、草花。
楽しい。
生きることはすてきなこと。
ローリーさんは、真央にただ、それだけを伝えたかったのかもしれません。
≫つらいことだけど彼女はあの若さでとても悲しい経験をしなくてはいけなかった。
でも、それが彼女にいろいろなことを教えたと思います。
人生は暗闇ばかりではありません。
悲しみは人を強くするのです。
人は、悲しみを通じて学ぶものなのです。
≫そして真央はリンクに戻ってきました。
フィギュアスケートをするために。
ローリーさんと作った「アイ・ガット・リズム」。
真央は取り戻したのです。
フィギュアスケートは楽しい。
あのころと同じ、純粋な思いを。
2013年、四大陸選手権。
優勝、浅田真央。
それから10か月。
ソチの代表に決まった真央。
≫いつも近くにいるって思ってるしそう感じるので。
≫4年がかりのスケーティング大改造。
本当に苦しかった、あのころ。
≫さっきはさみを右手で持つのと左手で持つのとっていう佐藤信夫先生がおっしゃってましたけど。
やっぱり、そういう感覚ですか?我々には全くわかりませんが。
≫まず、スムーズに全然、いかないので。
考えながらやらないとやっぱり、癖って出てきてしまうので。
ようやく今ですね。
≫それが今出来上がった。
4年たって。
≫うん。
≫でも、やっぱりやってよかったですか。
≫今はよかったと思っています。
≫ということは、当時はやっぱりやっちゃったな、これって思ったこともあったんですか。
≫思いましたね。
やっぱりもう我慢、我慢で練習でも1年ぐらいは、ずっと注意、注意、注意だったので。
なかなか、全然できなかったですね。
≫もうやめたい。
揺れる思いで過ごしたおととしの春。
≫スケートをやめようと思った?≫はい。
≫これは、どういう…。
≫一番、多分不安がピークなときだったと思うんですね。
やっぱり自分の目標が何もなかったので練習が効率も上がらないですし練習しても、意味ないなって。
頑張ろうって気持ちになれなかったですね。
≫でも、そこからよく戻ってきましたね。
≫はい。
ローリーが変えてくれたのかなと。
≫VTRにもあったようなあの生活っていうのがね。
もうスケートだけにとらわれず自由に過ごせるっていう一度、ちょっと離れたのがよかったんですかね。
≫それもあったと思います。
また頑張ろうってやっぱり、ローリーと一緒に。
多分2週間ぐらい振り付けも含めて、過ごして。
≫ソチ、ショートプログラム。
真央は16位。
≫ショートプログラムを終わったその夜っていうのはどう過ごされたんですか。
≫やっぱり悩んでて。
≫眠れなかったですか、やっぱり。
≫はい。
≫眠りについたのは何時ぐらい?≫4時ですね。
その日は、本当に自分もショックで立ち直ることができないまま考えている間にちょっと眠くなってきて明日も早いから寝ようっていって寝たんですけど。
結局、朝また8時から9時ぐらいの練習だったのでやっぱり気持ちが全然落ち着いてなくて全然、気持ちの整理がつかないまま練習をしてしまって。
そこからですね。
≫フリー当日。
真央は練習開始に遅れてきました。
めったにないこと。
心の揺れはまだ収まっていませんでした。
フリーの演技まであと10時間。
≫全く自分の練習ができなかったですね。
≫まだ、その気持ちを引きずっていたということですか。
≫まだ全然整理がついていない状態でしたね。
≫それは、どうやって立て直したんですか?≫いろんな方のアドバイスや…。
舞とも電話しましたし。
≫どういうふうな電話だったんですか?≫もう、やるしかないって。
やってきたんだからもう、あとはやるしかないって。
≫どの辺りからいけるっていう感じだったんですか?≫朝の練習のだめさに自分でも、ちょっとあきれてきて。
何やってるんだろうって。
オリンピック代表として来てるのに自分は何をやっているんだろうって。
そこで、ちょっと自分に対して…。
前日までは自分がすごい落ち込んでて今まで何やってきたんだろうってすごい悲しい気持ちだったんですけど。
その朝の練習で今度は自分に対しての怒りに変わって。
そこからもう一度体を動かしにいこうって思ってジムに行ってトレーニングをして。
いろんな方の話を聞いて試合まで、ずっと考えて。
もう、やるしかないって。
≫フリーの演技。
≫こだわってきたトリプルアクセル。
≫トリプルアクセル。
≫スッと降りた!≫トリプルフリップトリプルループ。
トリプルルッツ。
これまでの前半非常にスケーティングにも伸びがあります。
ダブルアクセルトリプルトゥループ。
≫5種類目。
≫トリプルサルコウ。
≫6種類目。
≫トリプルフリップダブルループ、ダブルループ。
3連続も安定しています。
≫次が8つ目のトリプルジャンプ。
≫トリプルループ。
≫すべて跳んだ!≫ステップシークエンス。
力強い、情熱的なストレートラインステップです。
≫すばらしい演技でしたがあのときの涙は何が真央さんの中から噴き出してきたんだろう…。
≫やはり、もう昨日のショックな気持ちとやっぱり、ほっとした気持ちと最高にうれしい気持ちですね。
≫もう、思い残すことはないのか。
それともオリンピックという舞台にまだ何かを残してきているのかどちらですか?≫終わってみてソチだけいえばやっぱり悔いは残りました。
でも、バンクーバーでも同じようにバンクーバーだけでいえば悔いは残りました。
でも、2つ合わせると本当に大満足です。
バンクーバーではフリーは、自分の演技ミスをしてしまいました。
でも、ソチでは完璧にやりました。
なので、2つ合わせると同じオリンピックでしか返せないものはすべて自分の中で達成できたので今の時点でバンクーバーとソチの2つ合わせて最高のオリンピックでした。
≫ということはある程度オリンピックでやれることは、やりたいことは終えたということですか?≫自分の目指していたものはできました。
≫真央が続けた自分への挑戦。
彼女は、やり抜きました。
≫挑戦は勝利よりも尊い。
だから…。
≫そして、あの人は…。
≫ソチで披露したエキシビション「スマイル」。
去年5月。
振り付けをしていたときの出来事。
真央の演技に…。
2014/02/28(金) 21:00〜23:12
関西テレビ1
金曜プレステージ・独占!浅田真央 誰も知らなかった笑顔の真実[字]

緊急スタジオ出演!ソチでいったい何があったのか。浅田真央が初めて語る真実の物語。長期の密着取材と十年に及ぶ秘蔵映像とで、誰も知らない浅田真央に逢える。

詳細情報
番組内容
 感動を呼んだソチでの演技、そして涙。そこに至るまでには数え切れない試練があった。帰国直後に浅田真央がフジテレビに緊急出演。今その胸中を赤裸々に語った。
 この4年間取り組んだ大改造、それは正に茨の道であった。ライバルの存在、スランプ、そして別れ。その数々の出来事が、あの演技を紡ぎだした。
 今宵、その一つ一つを紐解き、彼女の笑顔の裏側に隠された物語を綴る。彼女の半生を振り返った時、本当の浅田に
番組内容2
出逢える。

 昨年4月から密着し続けた〈密着追跡ドキュメント〉と、天才少女と騒がれ始めた頃からストックし続けてきた〈秘蔵映像〉の数々、またソチ五輪終了後に収録した〈スタジオ出演〉の3本柱で構成され、立体的に誰も知らない浅田の“真実”に迫っていく。
 浅田の代名詞と言われるトリプルアクセルになぜこだわり続けるのか?〈秘蔵映像〉から浅田が浅田であるゆえん、なぜ彼女が誰からも愛される国民的アスリートに
番組内容3
なったのかを「家族の支え」という視点から紹介していく。
 そして〈スタジオ出演〉では、ソチ五輪を終えた浅田本人に登場してもらい〈密着追跡ドキュメント〉〈秘蔵映像〉で語られる家族との物語を振り返ってもらいながら、ソチ五輪が終了した「今」の浅田の思いを語ってもらう。
出演者
浅田真央 

三宅正治(フジテレビアナウンサー) 
加藤綾子(フジテレビアナウンサー)
スタッフ
【プロデューサー】
岡泰二 

【ディレクター】