今夜人類の宝に秘められた大いなる謎が暴かれる。
まず最初の世界遺産はこちらから…。
私たちは今オーストリアウィーンにいます。
僕たちのいるこの王宮広場は今は庁舎になっているらしいんですがかつてはハプスブルク家の王宮があった場所です。
ハプスブルク家といえば宝塚『ベルサイユのばら』に登場しますマリー・アントワネットのふるさとですね。
私ウィーン来たかったんです。
私初めてなんですけど草刈さんは?僕も初めてです。
すてきなところですね。
ハプスブルク家といえばほんとにヨーロッパだけじゃなくて世界中を手に入れようとした名門貴族ですよね。
これはねオーストリアの英雄カール大公ですね。
広場の中心にあるカール大公の騎馬像。
オーストリア軍を率いた今回はハプスブルク家とナポレオンが交わった都ウィーンから3つの大いなる謎に迫っていきます。
ハプスブルク家の気分を味わうために私たちも馬車で旧市街の中心部へ向かいます。
古い建物に近代的なお店がね…。
ペスト記念柱は10万人が死亡したペストの終息を記念して建てられたもの。
王宮から馬車に揺られ15分。
繁華街を抜けた先には…。
すごく…あっちあっちこっち撮らないであっち。
うわ見て見て…ほらほら。
ウィーンを象徴する教会があります。
これは何寺院?何寺院ですか?これ。
シュテファン大聖堂。
多くの観光客が集まるケルントナー通り。
この通りにあるのがモーツァルトの結婚式や儀式も行われたというシュテファン大聖堂。
ゴシック様式っていうんですか。
すばらしいですね。
すごい高さだな。
シュテファン大聖堂はゴシック様式の大聖堂。
オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は…。
ウィーンの代表的な観光名所のひとつでこの聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年にバロック時代以降の優れた建造物群や19世紀の都市計画の成果などが評価され世界遺産に登録された。
中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り世界中に植民地を持つヨーロッパ随一の名門王家である。
名門ハプスブルク家その世界戦略の拠点がウィーンの郊外にあります。
ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西へおよそ5キロ。
これはすばらしい。
うわ〜。
このマリア・テレジアが大改築してこの色にした。
だからテレジアイエローと呼ばれているそうなんですが…。
マリー・アントワネットもここでお嫁に行くまでフランスにここで過ごしてた。
まぁ実家ですね。
うわだけど…まぁ広いし。
両翼の端から端までは180m。
宮殿はあらゆる部屋を合計すると…。
世界遺産にもかかわらず3階は一般の人も住めるアパートで4階はホテルになる予定。
シェーンブルン宮殿はハプスブルク家の歴代君主が主に夏の離宮として使用。
宮殿と庭園群は早く見てみたい。
うん行きましょう。
走ろうか?走る?走ろうか。
ここは何の部屋ですか?マリー・アントワネットの部屋です。
これはどうしてテーブルセッティングしてあるんですか?じゃあその前にマリー・アントワネットが使っていたお部屋だったということですねここが。
後にフランス王妃となるが…。
マリー・アントワネットといえば当時最先端の美的センスでファッションリーダーとなりましたがこの部屋は家族のぬくもりを感じさせます。
幼いころから家族と一緒に狩りに出かけたり楽器の演奏をしていたマリー・アントワネット。
ハープやチェンバロは初めて楽譜を見ただけで弾きこなせるほどの腕前だったという。
そしてマリー・アントワネットの部屋の隣がシシィの愛称を持つエリザベートは1854年ドイツから16歳で嫁いだ悲劇の王妃。
この時計の裏にさかさまの文字盤があり鏡を見ているときに時間がわかる。
ネオロココの豪華な家具が配置されたこの部屋。
エリザベートはレセプション用として使っていた。
このドアノブをモーツァルトも握っているに違いない。
合わせ鏡の仕掛けでろうそくが無限に映し出され幻想的な空間に。
マリア・テレジアが最愛の夫を失った後に改装された部屋で夫との思い出にふけった部屋。
ダイヤよりも漆が好きと言った彼女が惜しみなく漆を使用し作らせました。
18世紀にヨーロッパを席巻した中国ブームの影響を受けて作られた部屋。
黄色に青の絵柄で埋め尽くされたまさにハプスブルク家の栄華と歴史を物語る贅を尽くした宮殿。
そのなかに…。
こちらの部屋は?ナポレオンの間です。
ナポレオンは駐屯地としてここに宿泊して戦をしていた?そうです。
フランス革命の後フランス軍の将校になったナポレオンは次々と成果をあげ躍進。
フランスはナポレオンの功績で勢力を拡大。
1805年にはウィーンまで占領。
その際マリア・テレジアの部屋を自分の寝室とし事務室などさまざまな場として活用した。
現代でも50センチ四方1枚で5万円ほどする高価な細工。
また壁紙の色はナポレオンの好きな緑。
当時緑は上流貴族を象徴する色。
もともとナポレオンは領土もない名ばかりの貴族の生まれ。
裕福ではなく上流貴族の暮らしに憧れ成り上がりの野心に満ちていた。
フランス革命後のだが彼が求めていたのは上流貴族の頂点。
皇帝となったナポレオンは更なる地位と名誉を求め糟糠の妻と離婚。
新たな妻に選んだのが神聖ローマ皇帝の長女マリー・ルイーズ。
マリー・アントワネットは大叔母にあたる。
ハプスブルク家はヨーロッパ中の貴族に爵位を与える権威を持っておりナポレオンはルイーズとの結婚でヨーロッパ貴族社会の頂点に立つという野望を抱いていた。
ところがナポレオンとハプスブルク家にはハプスブルク家の宮殿に存在するナポレオンの間に隠された謎。
世界遺産ミステリー今迷宮の扉が開きます。
フランス軍のなかで頭角を現したナポレオンは…。
以後勝利を積み重ね周辺諸国を統治。
その後もベルリンを占領するなど栄光の絶頂にいたナポレオンは自らの野望実現のためマリー・ルイーズとの結婚を望んだ。
ところが…。
ナポレオンはルイーズと結婚するとなぜかかつての勢いを失いドイツ東部のライプツィヒの戦いでイギリス・オーストリアなどの同盟軍に敗れ…。
その後パリも陥落しナポレオンは退位させられ…。
しかし翌年エルバ島を脱出しまたもイギリス・オーストリアなどの連合軍に…。
ナポレオンは南太平洋のセントヘレナ島に追放され…。
ナポレオンの死については胃がんだという説がありますね。
確かに肖像画には胃をおさえてる絵がある。
でもその一方で毒殺という見方も根強く残っています。
ナポレオンの死の謎に関する衝撃の発表があった。
フランスの歴史家ロワアンリが…。
1815年にワーテルローの戦いに敗れたナポレオンを描いた絵にある左ほほの深い傷あと。
これがパリのデスマスクにはないというのである。
更にナポレオンの特徴である大きな頭や力強いあごなど何も一致しないというのだ。
その真相を探るためウィーンから南西へ。
ウィーンの隣町バーデンに来ています。
こちらの博物館にナポレオンのデスマスクがあるということなんですが本物なんでしょうかね?そこを注目して見てみましょう。
歴史上有名な人物の頭蓋骨やデスマスク生きているときのライフマスクなどを数多く所蔵している。
そして偉大なる思想家更には生前のマリー・アントワネットから型を取った手も。
こちらがパリアンヴァリッドにあるデスマスクと同じもの。
フランスの歴史家ロワアンリが別人と断定したデスマスクである。
ずいぶんなんか変わって…。
一方こちらがロワアンリが本物であるとしたナポレオンのデスマスクの写真。
ワーテルローの戦いの後に描かれた絵と比べてみると輪郭や目鼻の形もよく似ている。
そして左ほほに傷あとがある。
なんとセントヘレナ島でナポレオンの世話係だったフランス人のシプリアニのものだと発表されたのだ。
シプリアニはナポレオンにイギリスのスパイと疑われヒ素を飲んでナポレオンと愛人の間に生まれた直系の子孫の手紙がこの本のなかで紹介されている。
ウェストミンスター寺院といえば王家の挙式が行われるなどイギリスいち由緒ある教会。
その墓所には歴代の王や政治家学者などの他イギリスに貢献した人物が眠っている。
1814年フランス戦役に敗れたナポレオンは処刑されることなくそして翌年エルバ島を脱出した後同盟軍から今度こそ処刑にすべきだという声があったにもかかわらずまたも殺されることなく…。
ナポレオンについて更に詳しく調べてみることにしました。
勝利を重ね領土を広げ皇帝に上りつめたナポレオン。
ここにはその輝かしい戦歴を物語る品々が数多く収蔵されています。
ウィーン市内にある軍事史博物館。
オーストリアの16世紀末から現代に至るまでの軍事史に関わる品々が集められている。
実際に使用された航空機や車軍服を展示。
部屋の奥に1枚の大きな絵が…。
パプスブルク家が1870年に派遣した北極探検隊を描いたもの。
あ〜ハプスブルク家は北極まで手を伸ばしてたんだ。
本気で世界中を手に入れようとしてたんですね。
当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の名前を付けた場所が今も北極に存在する。
そして革命の間はナポレオンに関するものを展示。
あぁナポレオンの肖像画がありますね。
ずいぶん美しい形をしてますねサーベルが。
エルバ島へ追放されたナポレオン。
その詳細が書かれた資料がのこされております。
エルバ島へ護送したのはイギリスだったようです。
ここにはエルバ島からの脱出のことが書かれています。
またイギリス…。
ナポレオンをエルバ島へ送ったあとヨーロッパ諸国はナポレオンから解放された領土を再編するための会議を開催した。
有名なと言われたウィーン会議。
その会議が行われたのがまさにここ。
シェーンブルン宮殿の大広間です。
こんなすばらしいところで何時間も何時間も会議をやっていたんですね。
部屋の大きさは…。
クリスタルの大鏡や金箔を施した漆喰装飾。
天井画は中央にマリア・テレジアが描かれハプスブルク家が権力平和戦いのすべてを握っていたことを示している。
会議では各国の利害が激しく対立し議論は紛糾したといいます。
大きな問題となったのがしかもナポレオンがエルバ島から脱出しワーテルローの戦いで敗北すると今度こそ処刑すべきという意見が出るが。
ナポレオンは島流しで済みました。
オーストリアはわかります。
オーストリアのマリー・ルイーズと結婚したのですから。
しかし調べれば調べるほど私たちはオーストリアでナポレオン研究の第一人者カール博士に会うことができました。
待ち合わせたのはウィーンの中心部から南東およそ15キロにあるトゥルンルホーフ。
1809年ナポレオンがウィーンに侵攻する前に占拠しナポレオンが寝泊まりした場所である。
その後工場学校などに用いられ1989年にレストランに改装された。
そして2階には。
ここがナポレオンの寝室ですね。
ずいぶん狭いですね。
狭いですね。
6畳くらい?6畳くらいですよね。
身長もそんなに高い方じゃなかったのでこれくらいでよかったのかな。
おさまっちゃうのかな。
おさまっちゃう。
ちょっと鳥肌が…ここに寝てたんだと思うと。
外の木々は見てたのかな?この木を見つめてたんでしょうか。
(2人)乾杯。
うんおいしい。
ちょっと調べてみたんですけどね。
はい。
このシャンパンにはシェーンブルン宮殿が関係していたんです。
ワーテルローの戦いのあとシェーンブルン宮殿で開かれたん?ザッハートルテですね。
実は…サンキュー。
実はこのザッハートルテもウィーン会議の折料理人だったエドワード・ザッハーが考案したケーキなんですよ。
あぁじゃあウィーン会議でこのザッハートルテとシャンパンと食べて飲んで会議していたということでしょうか。
そういうことです。
会議になったんでしょうか?いただきます。
どうでしょう。
どう?う〜ん。
黒木さんには甘すぎる?甘い…。
甘い!甘いけどきっとこれには合うと思います。
うんそうでしょうね。
そうですね。
あっ。
このレストランで合流したのがオーストリアでナポレオン研究の第一人者でありオーストリア公認ガイドのカール・ツィリンガー博士。
いくつかナポレオンについて不可解な点を質問したいんですけれども…。
このあとカール博士から驚きの発言が。
え〜!え〜!ナポレオンとイギリスが繋がっていた?イギリスとはナポレオンは宿敵ですよね。
なんと宿敵同士が繋がっていたというのだ。
カール博士が驚くべき根拠を見せてくれた。
それはナポレオンの手紙。
何て書いてあるんですか?ちょっとよろしいですか?テミストクレスのごとくって書いてありますけどもどういう人物なんですか?じゃあテミストクレスのごとくというふうにイギリスに手紙を送ったってことは自分がテミストクレス…裏切り者でも英雄でもあったその人に自分を重ね合わせた…。
果たして本当にナポレオンはハプスブルク家を介しイギリスとつながっていたのか?にわかには信じがたいがナポレオンの戦いぶりと照らし合わせてみると実は納得のいくことが多いことがわかった。
例えば最後の戦いワーテルロー。
このときナポレオンは…。
しかし勝ったことで一方のハプスブルク家にも恩恵が…。
この戦いで巨万の富を築いた投資家ロスチャイルド。
彼から多額の資金提供を受けハプスブルク家も13世紀に建てられたウィーン市内で最も古いウィーン最初のゴシック建築の教会で17世紀のステンドグラスやバロック様式の祭壇などが残されている。
これがナポレオンが1809年に発注したという『最後の晩餐』ですね。
なぜナポレオンはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を作らせたのか?1809年といえばナポレオンがハプスブルク家のマリー・ルイーズと結婚を決めた年でもありました。
ナポレオンはフランスへの決別の印としてあの絵を作らせたのかもしれません。
更にナポレオンがセントヘレナで別人とすり替わり脱出したと思われる数々の証拠も見つけることができた。
第一の証拠は…。
…と言った母親の証言。
更にはセントヘレナ島の前後で大きく変わったサイン。
天下分け目ともいうべきワーテルローの戦いでわざと負けるような戦い方をしてセントヘレナに流されたあと島から脱出しイギリスで死んでいたのではないでしょうか。
世界一の名門貴族として富と名声をほしいままにしたハプスブルク家。
彼らは世界中に手をのばしハプスブルク家こそが世界そのものであると考えたのです。
その思いが庭園に隠されています。
そこはまさに迷宮の入り口。
次なる世界遺産ミステリーはシェーンブルンの庭園からご案内しましょう。
あぁなんという広大さ。
あの鷲は存在感がありますね。
ここはシェーンブルン宮殿の庭園。
ご覧ください日本庭園です。
やはり日本人ですね。
ほっとします和を感じます。
他にもシェーンブルン宮殿には世界中のさまざまな庭や建築物が再現されている。
なかには古代ローマの廃墟を再現した一角も。
この宮殿はまさに世界そのものを表現している。
つまりハプスブルク家が世界を支配していることの証しなのだ。
こちらに建っている石の塔はオベリスク。
古代エジプトの神殿に建てられていたモニュメントが再現されています。
シェーンブルン宮殿の主は古代世界の王のように民衆の上に君臨する存在であるという意思が込められたのです。
まさにハプスブルク家の野望の記念碑。
そう次なる舞台はエジプト。
あの有名な世界遺産に秘められたミステリーです。
世界遺産の宝庫エジプト。
ナイル川中流で繁栄したルクソールにあるのがツタンカーメン王の墓がある王家の谷やハトシェプスト葬祭殿が有名。
なかでも紀元前2000年頃の都に建てられたカルナック神殿は時のファラオによって増改築が続けられエジプト最大の神殿となった。
その中心には石を積み上げた昨年6月世界中の注目を集めたのがエジプト考古学を大きく塗り替える存在とされるクフ王の副葬品太陽の船の引き上げ。
この太陽の船実は謎に包まれた第二の太陽の船。
この研究が進むことでエジプト考古学の飛躍的な進歩が期待されている。
ハプスブルク家も高い関心を持っていたあの古代エジプト。
その世界遺産といえば誰もが知っている…。
エジプトが誇る世界遺産。
ピラミッドは古代エジプト王朝が築いた巨大な建造物。
世界的に有名なのは大スフィンクスが隣接している。
5000年近くもの間世界中の人々を魅了してやまないピラミッド。
人々の興味をかき立ててきた。
しかし…。
ピラミッドには世界中の学者が長年かけて研究検証してもいまだ解明されない大きな謎があるのです。
それは…。
「世界遺産ミステリー」今砂漠の迷宮の扉が開きます。
ピラミッドの代表格ギザの三大ピラミッド。
第四王朝時代の3人のファラオクフカフラーメンカウラーのために作られ多数のピラミッドが建設されたクフ王のピラミッドは最大の規模。
ほぼ正方形。
四辺が正確に東西南北を向いており…。
砂漠の上に建っているイメージだが実は…。
固い岩盤地帯を230m四方も水平に整地した上に精密さを保ったまま建造されたため4700年を経た現在もその姿をとどめている。
なんと今でも水平を保っている。
中央に建つ頂上付近だけ色が違うようだが…。
実はピラミッドは当初現在のような階段状ではなく表面に石灰岩の化粧石が施され全体が白く輝いていたという。
またピラミッドのいちばん上に積まれる四角錐の石がこれほどまでに精密な構造をしているピラミッド。
古代エジプトにはもともと王の墓として作られていたものがあった。
このマスタバが発展して巨大なピラミッドが作られたと考えられるのだ。
ギザで20年以上遺跡の研究を続けている考古学者モハメド・シーハさんに伺ったところ…。
ピラミッドが正午に作る影は冬から春にかけて短くなり春分の正午には完全になくなってしまいます。
これは春分の正午の日照角度にぴったり合うように計算されてピラミッドの傾斜角が作られているからです。
逆に秋分を過ぎると再び正午に影が生じるようになるという。
マリア・テレジアすごい迫力ですね。
鳥肌もんです。
いや〜。
巨大ピラミッドを多数建造し栄華を誇った古代エジプト。
ハプスブルク家も強い関心を示しました。
彼らが手に入れた貴重な品々がウィーンのここ美術史美術館に収蔵されています。
もともと歴代皇帝の収集品の収納庫として建てられここにはハプスブルク家の400年にわたる美術コレクションが収められている。
ナポレオンによるエジプト遠征でヨーロッパに古代エジプトブームが起こった際エジプトの収蔵品が数千点に増加。
大英博物館やカイロ博物館に匹敵するコレクションを誇っている。
あ〜エジプトだ。
ウィーンの中にエジプト。
ミイラ…ずいぶん年季を感じるな。
あっ布に刺繍が施されてある。
初めてだなこんなの。
またこの鮮やかな色使い。
すごいなこれ。
そしてこの赤ものすごく鮮やかな赤だ。
何千年も経ってるっていうのに。
さてピラミッドですが王の墓もしくは天文時計。
これまでに語られてきた2つの説。
しかし本当にそうだったのでしょうか?エジプトで50年近くも研究調査を続ける吉村作治教授を訪ねました。
ピラミッドは王様の墓ではありません。
なぜそう言い切れるのか?数あるピラミッドのなかでミイラは1体も出てきていません。
もし遺体が見つかってないならば墓であるのはおかしいですよね。
実際には何のためのものかわかっていません。
ヘロドトスがピラミッドは王様の墓だと言ったと言われているけれどこれはまったく嘘で…。
この伝聞自身がもう信憑性がない。
更に…。
第四王朝のクフ王の父は生涯で5つものピラミッドを建造した。
更に吉村教授はピラミッドの実はピラミッド内で発見されている空間は中心からやや東寄りにある。
一見不自然に思える設計だが…。
電磁波レーダー探査などにより西側にも未発見の通路が存在することがわかった。
ピラミッドの推定重量バランスを欠く非対称の作りになっているとは考えにくい。
つまり西寄りにも同じ空間があると考えられるのだ。
事実吉村教授は左右対称という考えのもと第二の太陽の船を発見することができた。
ピラミッドは王の墓ではない。
では天文時計という説はどうなのでしょうか?ピラミッドは天文時計でもありません。
古代エジプトには既に極めて高度な天文知識があったので天文時計など不要だと吉村教授は考える。
まったく必要ないんです。
逆にピラミッドは王の墓でも天文時計でもない。
だとするとピラミッドは何のために作られたのか?吉村教授は視点を変えることでピラミッド建造の真実に迫ったのです。
古代エジプトではナイル川の東側日が昇る側を現世日が沈む西側を来世とこう考えていたんですね。
ですからピラミッドはみんな西側にあるんです。
カフラー王のピラミッドの周辺にはピラミッドの東には有名な大スフィンクスが鎮座している。
スフィンクスというのは古代エジプト語で…。
ですからもともとスフィンクスがあってそこにピラミッドが作られたということです。
スフィンクスの隣にあるのが石の運搬のための船着き場近くに作られた。
河岸神殿を抜けた先には長い参道がピラミッドの方向へと続く。
河岸神殿で肉体と魂が分かれて魂がこの参道をまっすぐにピラミッドに向かっていきます。
参道の突き当たりはピラミッドの前の上神殿。
今はその石組みだけが残る。
神話によりますと…。
河岸神殿から参道それから上神殿と全体に建物がありますね。
ピラミッド単体で事を成しているのではなくていろいろな施設が集合した…。
実はピラミッドもスフィンクスも宗教施設の集合体のなかの一つだというのだ。
その原型を最も良好な状態で保っている遺跡があるそうです。
吉村教授とギザから17キロ南のサッカラへ向かいました。
古代エジプトで建設された最初のピラミッドといわれる階段ピラミッド。
階段ピラミッドは本体があるだけではなくて…。
そして東側セド祭殿ですね。
そして南側にお墓と。
こういったものが四角い壁に囲まれて存在して外側の空間と違う空間を作っている。
ここを訪れる人は南東にある入口から薄暗い石柱回廊を通り急に広く明るい中庭に出て巨大な階段ピラミッドを見ることになる。
非常に視覚効果にこだわった設計。
長方形の敷地内にムダなく整然と施設が配置されている。
周囲を外壁で囲まれたその作りはまさに宗教施設の集合体。
ではピラミッドを含む宗教施設の集合体ピラミッドを含む宗教施設の集合体…。
ピラミッド・コンプレックスが死後の世界そのもの。
いったいどういうことなのでしょうか?ミイラを作っていることからもわかりますが古代エジプト人にとって死はただ人生の終わりというわけではなく…。
死者の世界を意味するナイル川の西側に外の自然界と隔絶され美しい巨大な空間があるわけですね。
ピラミッド・コンプレックスは全体で死後の世界の風景そのものを表しているわけです。
現世の儀式は神殿で行われ来世の儀式はピラミッドで行われるんです。
ですから神殿やピラミッドで集合体になっているわけです。
ピラミッドは来世から神々がやってきてファラオの霊とともに儀式を行ったり旅立ったりする場所と考えられているんです。
だから中に空間は作っていますけれども…。
もともとピラミッドの通路がふさがれていて狭いのもそのためなんです。
現世とは対極にある世界が広がるこの世ならざる場所ピラミッド・コンプレックス。
来世での生まれ変わりを強く信じる古代エジプトの人々にとってそこは死後の世界そのものの神聖な場所だった。
宗教施設の集合体が全体で死後の世界を表していたとは…。
灼熱の砂漠の国というイメージを裏切る意外な真相でした。
古代エジプトで生まれたピラミッド・コンプレックス。
それはエジプトだけにとどまらず…。
神社では人の入る拝殿の奥に人の入れない本殿があります。
ピラミッド・コンプレックスにおいては人が儀式をする神殿の奥に神社の本殿にあたるピラミッド本体があるわけなんですね。
それから日本の神社に対で置かれている狛犬のルーツはスフィンクスなんです。
ギザのスフィンクスは1体ですがルクソールのカルナック神殿には神社のように対になったスフィンクスが参道に並んでいます。
日本の祭りのおみこしと非常に似ていますね。
砂漠の迷宮。
その扉の向こうにあったのはピラミッド建造の真実。
宗教施設の集合体ピラミッド・コンプレックスの存在でした。
そしてこの迷宮は遠く日本の地に伝わり神社となってつながっていたのです。
次の世界遺産ミステリーも私たち日本人にかかわりの深いものなのです。
こちらはシェーンブルン宮殿の敷地内にあるシェーンブルン動物園です。
現存する世界最古の動物園でマリア・テレジアのために野生動物をコレクションしたことが始まりだったそうです。
園内には南米の動物も飼育されています。
お〜。
本物?これ。
本物だ…。
こちらは絶滅危惧種のバク。
日本で人気のカピバラも南米に生息する動物です。
かつて世界中に領土を持つことから日の沈まぬ帝国と呼ばれたハプスブルク家。
最盛期は…。
この南米最強の帝国を滅ぼし手中に収めたのもスペインハプスブルク家でした。
舞台は南米ペルー。
昨年9月…。
南米ペルーとボリビアの国境にあるチチカカ湖の底からインカ帝国時代の動物の石像など計2,000点の財宝が見つかったのだ。
一説には…。
インカ帝国を征服したスペインは黄金の都と呼ばれたインカ帝国から大量の黄金を持ち出しました。
このまばゆいばかりのコレクションのなかにはインカの黄金が使われているかもしれません。
インカ帝国の人々は文字すら持っていなかったのに高度な文明を持ち短期間で領土を広げていきました。
それゆえ彼らについては今もなお多くの謎に包まれています。
南米アンデスの山中。
標高2,400mの尾根にこつ然と現れる空中都市…。
メイン広場を中心に石組みの建造物が200ほど立ち並ぶ。
これらは宮殿や家屋だったと考えられている。
広場を見渡す位置に作られた主神殿。
最大級の巨石を使って作られており太陽に祈りを捧げる儀礼の場だった。
そのためマチュピチュは重要な…。
人類の創造的才能を表現する傑作としてまたひときわ優れた自然美などが評価され…。
彼らは山の斜面にアンデスの語源となったアンデネス段々畑を作った。
更に高度な灌漑技術で水を確保しながら激しい高度差を活用し亜熱帯から亜寒帯に至るさまざまな作物を同時期に栽培した。
これは太陽の神殿と呼ばれた部屋。
窓から入ってくる光の角度を観測することで夏至と冬至を見極め作付けの時期を導き出していたのだ。
また情報収集機能も高く領土内には道が張り巡らされ飛脚が2kmおきに駅伝のように次から次へと情報を伝達。
それにより帝国内の情報は直ちに王のところへ伝わった。
更に飛脚は食料も運んだため山の上の首都クスコで新鮮な魚も食べることができたという。
そして文字を持たなかった彼らは…。
インカ帝国を作ったのは…。
15世紀の中頃から急速に勢力を広め100年のうちに…。
しかしなぜこれほどの大文明を築くことができたのだろうか?そんなインカの人々について衝撃的な研究結果が明らかになりました。
最新の研究で…。
驚きの日本人ルーツ説。
日本人が海を渡りインカ帝国を築いたのかもしれない。
そんな可能性が出てきました。
しかしそんなことが現実にありえるのでしょうか?日本人ルーツ説の真相とは果たして?「世界遺産ミステリー」今迷宮の扉が開きます。
高度な文明を持ち短期間で次々と領土を広げていったインカ帝国。
そんなインカ帝国時代の財宝が見つかったチチカカ湖はアンデス山中の標高およそ3,800mに位置する面積8,500平方キロメートルの淡水湖。
この湖は古来よりインカの人たちにとって最も…。
ペルーの首都リマ。
インカ帝国の首都クスコを制圧したフランシスコ・ピサロがスペインとの交易の利便性を考え1535年に建都した。
街のシンボルカテドラルカトリック布教の中心として…。
地震に襲われるたびに修復を重ねたためバロックロココゴシックネオ・クラシックなどさまざまな建築様式が混在している。
大聖堂の隣には…。
独特の木のバルコニーはスペインアンダルシア地方で流行したネオ・バロック様式をモチーフに作られた。
スペインコロニアル風の建物が立ち並ぶこの歴史地区は…。
考古学の権威で文化庁長官を務めたカウフマンさんにインカのルーツについて話が聞けました。
伝説によればインカ初代皇帝マンコ・カパックとその妻ママ・オクリョが太陽神の命令で地上に降臨した際第一歩を踏み出したのがチチカカ湖と言われている。
しかし文字を持たなかった彼らの起源は…。
するとカウフマンさんが興味深い話を教えてくれました。
なんとインカの人々の祖先は日本人だと書かれた本が存在するという。
その本が所蔵されているペルー国立図書館へ向かいました。
考古学の権威カウフマンさんの口添えで今回特別に非公開の本を見せてもらいました。
しかしなぜこの本は公開されていないのか?何か知られてはいけない秘密が記されているのだろうか?日の丸を彷彿させる表紙。
確かにサブタイトルには…。
そしてインカの神が降臨した湖の名前チチカカ湖は日本の父と母からとったと言及。
更には…。
この本の中にはインカの人々が日本人の末裔であったとするさまざまな根拠が書かれていた。
更に有力な情報を得て世界遺産の街クスコに向かいました。
13世紀からおよそ300年間インカ帝国の首都として栄えた都市クスコ。
16世紀この街はスペイン軍に制圧され建物は次々に破壊された。
しかし精巧なインカの石組みは壊されることなくその上にスペイン人の教会や住宅などが建てられていった。
今に残るインカ時代の堅牢な石組みとスペイン風の建物が融合する独特の町並み。
インカの言葉でヘソという意味を持つこの都市はその名のとおり帝国の中心地として賑わいを見せていた。
人類の歴史上重要な時代であることを示す建築物群や建築様式その景観が評価されたクスコ市街はその美しい街全体が1983年に世界遺産に登録された。
スペイン軍に破壊される前のインカ時代には太陽の神を祭ったインカ帝国最高の神殿だった。
当時の名残は石の土台にしか見られないが10度の傾斜をつけて設置された土台は地震の揺れを吸収するためだったという。
そのためインカ時代の石組みは今も崩れることなく残っている。
太陽を神と崇めていたインカの人々は黄金の輝きは太陽の輝き金は太陽の涙と考えていた。
そのため最も神聖な場所に黄金の品々が集められたのだ。
この日世界遺産クスコの市街で貴重な話を聞くためある人物に会うことになりました。
なんとインカ帝国第9代皇帝パチャクテクの子孫です。
彼の家に代々伝わる話があるそうです。
インカ皇帝の子孫が祖父母に聞いたのは…。
人類移動の定説は北方ルート。
10万年前アフリカに出現した新人類はヨーロッパアジアへと広まり3万年前にシベリアに到達。
その後北米を経由して1万2,000年前に南米に到達したとされる。
ペルーで見つかったおよそ1,000年前のミイラの体内に残された便から人間の小腸に寄生する…。
更に奈良准教授が…。
昨年でた論文では…。
つまりこれが意味することは…。
インカの人たちが北方ルートで南米に入ってきたことは科学的に否定されました。
では本当に日本人が太平洋を渡ってインカ帝国を築いたのでしょうか?古代文明と古代人の航海術に詳しい昭和薬科大学の元教授古田武彦さんに聞いてみると。
なぜかといいますと海の上を漕いでいくわけじゃなくて…。
数々の研究から裏付けられた…。
インカの暮らしを守り続けている山あいの村に向かいました。
クスコから1時間マティンガ村は人口およそ150人ののどかな村。
羊を飼い農業を営みながら暮らしている。
インゲンやトウモロコシジャガイモが主食。
調理はかまどで行い冬には暖炉の代わりにもなる。
寒いアンデスの暮らしには欠かせない。
今日の夕食は鶏肉味付けは塩のみ。
鳥の他にもうひとつ貴重なタンパク源がこのモルモットの一種であるクイ。
寒さに弱いため室内で飼育している。
そしてなんと祭壇には…。
これは昔からの風習で…。
土葬してから数年経った家族の頭蓋骨を持ち帰り祭壇に飾るという。
身内に限らずときには他人の頭蓋骨を飾ることもある。
村一番の長老100歳のおばあさんが村に代々伝わる神話を聞かせてくれた。
なんと神様が…。
元大使が書き残したインカ帝国日本人説。
リマから南へおよそ30キロパチャカマック遺跡。
太陽をあがめたインカ帝国の人々が作った…。
600年頃に栄えたパチャカマック文明の神殿が築かれていたこの場所を侵略し新たに神殿を作ったのだ。
この神殿ではいけにえに使われたとされる…。
神殿の頂上から見えるのは太平洋の大海原。
海を渡りこの地にたどり着いた日本人がはるか彼方にある故郷日本に思いをはせていたのかもしれない。
多くの証言と科学的根拠から導き出されたインカ帝国を日本人が作った可能性。
今まで遠い存在だったインカ帝国を身近に感じることができました。
世界遺産シェーンブルン宮殿から始まった三大迷宮ともいえる今回の3つのミステリー。
でもこれらはまだまだ一部にしかすぎません。
世界に存在する世界文化遺産は759。
まだまだ謎に包まれた世界遺産があるのです。
次はどんな迷宮の扉が開くのかいつかまたその扉の向こう側を覗いてみたいと思います。
2014/03/28(金) 21:00〜22:48
テレビ大阪1
世界遺産 “三大迷宮”ミステリー