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誰かが、空気の入った紙袋をパーンと破裂させたとします。
これは暴力的行為です。大きな音がして、劇的で、思わず振り向いてしまうでしょう。おそらくあなたはそれが起こると予感していて、その人が何かをしでかすと分かっていて、それでも止めようとしなかったのかもしれません。その人がしようとしていることが本当に分からなかったから、または、その人がしようとしていることを信じたくなかったから、その人を止めなかったのです。
あなたは、その人が一定の振る舞い、すなわち平和的な振る舞いを
するだろうと想定しているからです。
私たちは暴力ではなく、平和に適応するようにできています。
暴力が起こると、驚愕し、不意を突かれるあまり、反応さえできません。
立ちすくんでしまうのです。そして、つい合理化しようとしてしまいます。
これは何かの間違いに違いない、私たちの人生は99.999%平和なのだから、と自分に言い聞かせて。
しかし、残りの0.001%にあたる平和的でない行いがなされたとき、それはもう頭から離れません。その暴力行為によって私たちの現実が再定義され、私たちも、この世界も、99.999%は平和なのだということさえ忘れてしまいます。“その暴力”が私たちの精神に入りこむのを否定したいのに、その残像によって、私たちの想像力や記憶が支配されてしまうのです。
それでも、私たちは、立ち止まるわけにはいきません。
このイメージを、正反対のイメージによって置き換え、消し去る必要があります。
人々は平和の表れを実際に目にしたがっています。
この目で見る必要があるのです。
そしてそれは、暴力行為と同じくらい、劇的であってほしいと望むのです。
人々は、小さな鳥を折るという行為がどのように助けになるのか、
知りたがっています。それは、こんな感じです:
私は平和がほしい。私は私の平和を取り戻したい。
私の内面の平和、私の心の平和を。
私は安心して人と関わりたい。人を恐れたり孤立したりしたくない。
だから私は種のように、平和の思いを植え、希望をもって、水をやる。
近くに水道がないので、誰でも耳を貸してくれる人の力を借り、
バケツリレーをして、皆で水をやり、育む。
そして種はすぐに植物となり、やがて木となる。
ついに、長い時を経て、すべての人に恩恵をもたらす果実のなる木が育つ。
「ちっぽけな一粒の種が一体何になるんだ?」と問いかけた、
疑り深い人たちにさえも恵みを与える果物のなる木が。
一羽の鳥を折るのは、小さな助けになります。千羽鶴を折るのはあなたにとって大きな助けになるでしょう。しかし、これら同じ鳥を、ひとつの中心的ムーブメントに寄せるなら、それはあなたとすべての人を非常に助けることになります。
私たちがこんなにも必要としている平和、愛、思いやりの物理的な表れを作りだし、与えることになるからです。
これは、暴力と正反対のものの表明です。しかし、これもまた暴力同様、頭から離れない記憶となるでしょう。これを無視したり、目を背けたり、否定したり、拒否したり、避けたり、無感動でいたり、心を動かされないでいたりすることは不可能なのです。これは簡単に得られるものではなく、派手な音もしませんが、それでもすべての人が耳を傾けるのです。
彼らは知るでしょう−私たちアメリカ人がひとつになり、そして世界中の人々も共に、平和を支持するということを。600万羽の鶴と白鳥は、あの日失われた命一人一人に対して千羽鶴を折るということを意味します。
私たちは忘れません。私たちは尊敬の念を抱きます。
私たちは宗教的になることなく精神性を示し、政治とは無縁で
愛国心を表明します。
私たちはただ、平和という表現で命を称える者だちです。
これらの写真を見ると、ニューヨークのグランド・ゼロに出現した
メモリアルにおいて、鶴が使われているのがわかります。
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