ANNスーパーJチャンネルSP 東日本大震災から3年 2014.03.11

当番組は同時入力の為、誤字脱字が発生する場合があります。
≫がれきの向こうに福島第1原発の排気筒を望むことができます。
原発が完成したその日から今、この瞬間に至るまで排気筒はその姿を変えていません。
しかし、原発周辺の町の様相は一変しました。
3年前のあの日以降原発からおよそ5km離れたここ、浪江町の請戸小学校に子どもたちの元気な声が響き渡ることはなくなりました。
3月11日。
東日本大震災から今日で3年です。
私たちがお邪魔しているのはかつて、子どもたちが元気に走り回っていた請戸小学校の体育館です。
ここ、浪江町は15mを超える巨大な津波にのみ込まれました。
床が、大きく陥没しています。
大谷さん、3年がたったんですが時計の針が止まったままですね。
≫本当に殺伐とした光景でこれは本当に3年後の姿なのかという思いを深くします。
≫この体育館の正面には祝、修卒業証書授与式の大きな看板。
そして、日の丸と町の旗が掲げられています。
今は見る影もないこの体育館ですがもし、震災が起きなければおよそ10日後の3月23日このような光景が広がっていたはずです。
4年生、5年生が中心となり準備した卒業式会場です。
体育館をぐるりと取り囲み会場を彩る紅白の幕。
床に並べられた色とりどりの鉢植えサイネリア。
ステージ上には校旗が掲げられ卒業証書が用意されるはずでした。
19人の卒業生たちは花道となるこの中央の赤いじゅうたんの上を歩いて、一人ひとりこの場所で、卒業証書を受け取るはずでした。
しかし、あの日地震と津波、そして原発事故がすべてを消し去り準備がほぼ整った卒業式は、ついに開かれることはありませんでした。
今日は「ANNスーパーJチャンネル報道特別番組「被災地3年後の姿」をここ、福島県、岩手県宮城県を結んで3時間にわたってお伝えしてまいります。
宮城県南三陸町には八木麻紗子キャスターがいます。
八木さん。
≫南三陸町の高台にある志津川中学校です。
震災から3年ここから見える景色は日に日に変わってきています。
わずか3年前まで、ここには人々が生活する姿がありました。
しかし、大津波によって町並みは一変します。
震災から1年がたった2012年3月11日。
私たちはここから番組をお伝えしました。
そのときは津波にのみ込まれた建物がそのまま、骨組みをあらわにして残されていました。
あのときあった建物は次々、解体され今では、新たな町づくりのためのかさ上げ工事が至るところで行われています。
この町に残る数少ない建物の1つが43人の犠牲者を出した防災対策庁舎です。
震災を思い出したくないという遺族の感情と復興を進めていく中で町は、解体の決断をしましたが次の世代にどうやって震災のことを伝えていくのか。
県は、防災庁舎を残す方向で検討しています。
町づくり、そして後世への継承。
震災から3年がたって町は大きなジレンマを抱えています。
南三陸町の3年後の姿。
現状を取材しました。
≫去年の3月11日震災から2年の日に私たちはこの浪江町から9km離れた南相馬市の小高区から番組をお伝えしました。
あれから1年がたってすべての旧警戒区域の市町村が再編されましてここ浪江町の一部も避難指示解除準備区域となって日中の立ち入りが可能となりました。
しかし、町に入るためには名簿を提出しこのように許可を得る必要があります。
町の中は3年たってなおまったく手付かずの惨状が広がっています。
地震で倒壊した家屋があの日のまま、残されています。
一体この3年間はなんだったのでしょうか。
このあと、お伝えするVTRには津波や地震の映像が含まれます。
体調が悪い方お子さんがいる家庭で視聴していただく場合はどうぞ、ご注意ください。
請戸小学校の時計は津波にのみ込まれた午後3時38分で止まったままです。
あの日から、今そして、未来へと続く地震、津波、原発事故。
今日は、東日本大震災にもう一度向き合おうと思います。
≫夕方、住民たちが出て行かなければいけない町があります。
地震、津波、そして原発事故がこの町を変えました。
三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震。
発生した大津波は町を、そして人々をいとも簡単にのみ込んでいきました。
福島を待ち受けていたのはそれだけではありません。
すべてをのみ込んだ津波は原発をも襲います。
安全神話はもろくも崩れ去ったのです。
浪江町請戸地区。
県内最東端の漁港を有する活気ある港町でした。
≫今日は海が荒れています。
この海から押し寄せる波が更に姿を変えて人々を襲いました。
3年前のあの日の出来事です。
≫陸上自衛隊福島駐屯地44連隊。
ほかの地区での任務を終えようやく浪江町に入れたのは、地震発生から2か月後のことでした。
≫地元、福島の変わり果てた姿。
捜索活動は困難を極めたといいます。
≫あの日、この町を襲った現実。
≫当時、浪江町消防団に所属していた志賀則道さん。
地震発生時仕事先にいた志賀さんは町に戻り、はっぴを着てすぐさま救助活動に向かいました。
しかし、そこに広がっていた光景を見て志賀さんは言葉を失います。
≫そして翌日あの事故が起きるのです。
≫住民たちの避難誘導を行うことになった消防団。
その後、志賀さん自身も避難を強いられます。
がれきの中にまだ生きている人がいるかもしれない。
その感情を押し殺して町を出たのです。
≫この町から、人が消えました。
原発事故が、町にとどまることを許さなかったのです。
震災前、2万人以上が住んでいた浪江町。
毎年行われた明治時代から続く伝統のお祭りも…。
休日は、家族連れでにぎわった町一番のレジャー施設も…。
四季折々の風情を楽しめる遊歩道も今はもうありません。
津波と原発事故が奪い去ったのです。
ここ、請戸小学校もその1つ。
校舎からはもう児童たちの喧騒や笑い声は聞こえてきません。
実はこの学校海から300mという場所に位置しながら1人の犠牲者も出ていません。
どのようにして助かったのか。
そこにはまず当時の校長の素早い避難指示があったといいます。
≫こうして、すでに下校していた1年生を除く82人の児童たちは一路、避難場所に指定されている大平山を目指すのです。
中には車椅子の児童や慌てて出たためにはだしや、上着を着ていない子どももいたといいます。
地域住民も一緒になって歩みを進める児童たち。
ついに、この山を越えることになるのです。
≫3年たって、ここはもう歩く人はほとんどいませんのでこういう状況になっていますがこの細い道を歩いていったということです。
≫およそ3kmの道のり。
あぜ道を抜け、山を越え児童たちは国道6号に出たのでした。
≫ところが国道に出たあと体力の限界津波から逃れたという安堵感からか動けなくなった子どももいたといます。
そこに救いの手が…。
≫津波から逃れるため山を越え国道に出た請戸小学校の児童。
動けなくなっていた子どもたちに救いの手が差し伸べられます。
≫こんにちは。
渡辺です。
國玉さんですか。
はじめまして。
≫トラック運転手國玉雅英さん。
国道6号沿いで地震に遭いいわき市の自宅に向かいトラックを走らせました。
≫地震直後、この道路は大変な混雑だったといいます。
渋滞を避け、山道を抜けていわきに向かおうとした國玉さん。
しかし、道に迷った末再び6号に出てきたとき偶然、児童たちに出会うのです。
≫國玉さんは動けなくなっていた児童たちそして職員、地元住民の合わせて100人以上を荷台に乗せ避難場所となっている町役場へと送り届けたのでした。
≫懸命の避難そして幸運によって全員、無事だった請戸小学校。
ただ、3年たった今も児童たちがこの町に戻ることはありません。
震災は、この校舎だけを残したのです。
≫この学校には今、ご覧いただいたような出来事があの日3月11日にありました。
浪江町立請戸小学校。
この校舎がこの場所に建てられたのは今から16年前の1998年でした。
空に向けそびえ立つ展望台。
そして、2階建ての校舎更に体育館。
海のすぐそばの学校ということで船の形を模した体育館や、ヨットの帆をイメージした展望台などところどころに海にかかわるデザインが施されモダンな雰囲気が地元で評判の小学校でした。
ここは、全校児童教職員が出入りする昇降口です。
ここに、1年生から6年生までのげた箱が並べられていました。
登校してきた児童たちはここで上履きに履き替えてこの学校の中へと入っていきました。
私たちの町、請戸と書いてあります。
あれから3年、人の気配はなくかつての賑わいを想像することはできません。
校舎に入ってすぐの1階部分には奥から3年生、2年生、1年生の教室がありました。
この1年生の教室の枠をご覧ください。
海側から巨大な津波が押し寄せて強い力が働いたことがわかります。
折れ曲がっています。
学校の中に入っていきます。
ここは放送室でした。
この場所にあったものなのかそれとも流れてきたものなのか。
置き去りになったランドセルがあります。
放送室の隣、この部屋が職員室です。
震災当時、学校には全部で14人の職員がいました。
先生たちは力を合わせて迫りくる津波から子どもたちを守ったのです。
この職員室の中には過去の思い出がいっぱい詰まった運動会や卒業式の写真があの棚の辺りに残されています。
もう一度、廊下に出てみてそして上を見上げてみますとこのように天井パネルが崩落しています。
そして、配管や配線がむき出しになっています。
無残な状況ですね。
全校避難の指示を出した校長先生の部屋がここです。
強い地震の揺れで学校の電源は落ちてしまいましたが太陽光パネルによる自家発電のおかげでテレビを見ることができて校長先生は大津波が襲ってくることを知って即座に避難を決断しました。
壁に、中身のなくなった額縁がかかっています。
この1階の廊下非常に奥が深いんですが更に中に入っていってみましょう。
次の部屋、この広い教室は図工室です。
ここから校舎の裏手が見えます。
かつては、校庭でした。
今は、がれきが集められて分別作業が進められています。
作業が始まったのはわずか5か月前で今月中に終了するということなんですが焼却処分が行われるのは来年6月以降になるということで気の長い、まだまだ時間がかかる作業がここで行われるわけです。
そして1階の一番奥にあるこの場所がランチルームです。
ここは広い空間ですね。
大きな窓に差す日差しを浴びてこの場所で全校児童、教職員がみんなで集まって一緒に給食を食べていました。
今となっては全く跡形もありません。
ここへ来ますと背の低い手洗い場があります。
小学校1年生の背の小さい子もいますから使いやすいようにできているわけです。
このランチルームでいただきますごちそうさまでした。
みんな、元気な掛け声を出して給食を食べて和気あいあいとしてランチをしていたその和気あいあいとした感じがここへ来ると想像できます。
でも、穏やかな時間は二度と戻ってくることはありませんでした。
外階段を使って2階へ上がってみます。
当時の全校生徒93人のうち福島市やいわき市など県内にとどまったのは半分の46人でした。
残りの47人は宮城、茨城静岡、岡山など県外に避難していきました。
避難先の学校にそのまま通って子どもたちは散り散りになってしまいました。
2階に上がると全景を見渡すことができます。
あの日から3年。
学校の周りにはかつて田園風景が広がっていましたが今は伸び放題となったセイタカアワダチソウが時の移ろいを表しています。
2階のベランダから入るこの部屋は音楽室です。
ここに入ってきてまず目に飛び込んでくるのは時計です。
3時38分で止まった時計。
この時間が、この場所を津波が襲った時間です。
黒板に書かれたメッセージ。
「一日も早い復興を願う」こう書かれています。
震災直後に行方不明者の捜索に入った自衛隊、そして機動隊更には消防隊が最初にこの黒板に文字を書きました。
その後、ここを訪れた方々がどんどんとメッセージを書き続けていったということですね。
この2階に来ますと1階と全く違っていることにお気づきになるでしょうか。
海側のガラスですがガラスが割れていません。
つまり、津波は床あたりまではきたんですがあの高さまでには達しなかったということです。
この陸側にあるガラス窓もそのまま、残っています。
ピアノや木琴授業が行われていたときがしのばれます。
音は忘れていませんね。
隣はコンピューター室と図書室です。
津波は、ここにもきていなかったことがわかります。
3年間、放置されたままですのでコンピューターの前のテーブルには3年分のほこりがたまっています。
ただ、この部屋を見ましても机、椅子そのまま、そして本棚の本もそのまま残っている。
これがちょっと不思議に見える感じです。
更に、廊下に出てみましょう。
再び廊下に出ますとここは2階の奥が見渡せます。
突き当たりは多目的ホールといわれている場所で集会などが行われていました。
ここから先奥から3つの教室が6年生5年生、4年生高学年の教室です。
4年生の教室に入ってみることにします。
この後ろの棚にオレンジ色や青い色のジャンパーが置かれています。
全校避難の際に突然の揺れ津波への対策のために着の身着のままで外に飛び出していった様子がわかります。
コートも羽織らず上履きのままで外へ逃げていったということです。
5年生の部屋です。
5年生は地震発生の瞬間およそ10日後に控えていた卒業式に向けて体育館で準備をしていました。
そして、こちらが卒業を控えた6年生の部屋です。
卒業後、6年生19人はみんな一緒に、浪江東中学校に進学するはずでした。
この黒板に書かれた3月11日金曜日の文字。
そしてその左上にいつの日か、ここに帰ることを願っていますとも書かれています。
当時の6年生は3年たって中学を卒業する春を迎えることになります。
窓の前に立ちますと、この先に第1原発の排気筒が見えます。
あの福島第1原発で起きた事故によってこの場所への立ち入りを禁じられて3年。
子どもたち、そして、町の運命を変えてしまったのです。
校舎の中をぐるっと回って手付かずのまま3年たった、請戸小学校の現状を見てきました。
あの日から3年。
変わったものはなんなのか。
変わらないものは何なのか。
3年後のすがた、続いては空から被災地の3年を振り返ります。
≫気仙沼港の上空です。
連なるように列になってまだ炎が上っています。
≫滑走路なんですがもう、ここが空港だったのかどうかすらわかりません。
≫あの日、空の下には目を疑う光景が広がっていた。
≫HELPという文字が見えます。
そして、ピンク色の紙に食料と書かれています。
≫あの日、空の下には助けを求める人がいた。
そして今日、あの日から3年。
≫急ピッチで進められているのが巨大な防潮堤の工事です。
≫あの日、上空から伝えた2人のアナウンサーが再び空へ。
そのまなざしに映った3年後の被災地の姿は…。
変わり行く景色。
家の傷跡。
空から見る被災地。
3年目の現実とは…。
≫岩手県陸前高田市上空です。
現在雪雲が通過中でかすんで見えています。
震災から3年。
被災地は静かにその時を迎えようとしています。
ここ、陸前高田市では1月31日東京都へ向けた震災がれきの最後の搬出が行われました。
3年たった今、ようやく震災がれきの搬出が終盤を迎えています。
ややかすんでいますがきれいに片付いている様子がご覧いただけると思います。
震災によって岩手県で発生した震災がれきと津波土砂は通常の一般廃棄物のなんと11年分にあたります。
525万トンです。
そのすべてがようやく処理されることになります。
また、こちらの高田海岸では県が進めるおよそ2kmにわたる防潮堤の工事が2016年の完成に向け少しずつその形を明らかにし始めています。
こんにちは。
KHB東日本放送の熊谷博之です。
3年前、震災翌日に私はヘリコプターでこの上空付近を飛びました。
当時は海と陸の境目がないような惨状に胸が締め付けられました。
あれから3年です。
時は確実に流れていますがそれぞれの心の時計というものの進み方は人によって違っています。
空から見る被災地の3年。
まずはここ岩手県陸前高田市です。
ここ、陸前高田には震災前2万4246人の方々の生活がありました。
美しい白砂と松が生み出すその景色は人々を魅了し風光明媚な観光地として知られた松原の海岸には年間およそ30万人もの観光客が全国から訪れていました。
しかし、あの日襲った津波は1752人の方の命を奪いました。
震災直後、海岸線に残されたのはたった1本の松。
その存在だけがここが、陸前高田であったことを主張しているかのようでした。
奇跡の一本松松は、そう名付けられ震災から2年半を経た去年7月に保存作業が完了しました。
ご覧いただいておりますのが現在の奇跡の一本松です。
そして、画面の上のほうですがご覧いただけます。
ベルトコンベヤーが見えてきました。
これは山を切り崩してかさ上げをするための土砂を運び出すために建設されたものですが全長およそ3km。
今月24日からその一部が稼働することになっています。
このベルトコンベヤーを使ったかさ上げ工事が終わるまでは、住宅さえも建てられないこの土地で復興を願いながら一本松は立ち続けています。
陸前高田市で今も仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方はおよそ5000人です。
3年たった今なおもとの町の人口のおよそ5分の1の方たちの生活がもとどおりにならないまま陸前高田市は、その時を迎えようとしています。
ヘリコプターは被災地の空を南下しながらこれから宮城県へと入っていきます。
これから画面左手にあの日、表情を一変させた海が見えてきます。
入り組んだ海岸線を持つ三陸の海。
連なる入り江1つ1つに≫時刻は午後2時34分です。
ヘリコプターは宮城県の気仙沼市上空にやってきました。
こちらも雪雲が通過中ということでややかすんで見えています。
現在の気仙沼市の上空です。
中央に見えていますのが気仙沼湾です。
やや右上に見えています。
あの日、この町を襲ったのは津波だけではありませんでした。
津波で浸水した町に火災の業火が広がったのです。
≫広範囲に火災確認できます。
≫日本でも有数の漁港は津波と、それに続いて起きた津波火災で壊滅的な被害を受けました。
震災発生の翌日私が目にしたものはくすぶり続ける炎と遠洋漁業の基地として栄えるこの地に欠かせない大きな船が長い距離を流され燃えている姿でした。
上空から見た気仙沼もどこからが海でどこからが陸なのかその区別もつかないほどの状態でした。
震災直後の気仙沼湾上空の映像をご覧いただいております。
そしてこちらが現在の気仙沼湾上空です。
あの日、流された建物や船はすっかりと片付けられまして浸水していた地域ではかさ上げの工事が進み現在は、ご覧のように海岸線をはっきりと見て取ることができます。
そして、もう1つ。
急ピッチで進められているのが巨大な防潮堤の工事です。
宮城県では2016年の完成を目指しこの湾をぐるりとを覆う形の防潮堤を計画しています。
まず、海側には海面からの高さおよそ5mのコンクリートの壁が立ちます。
深いところで15mある海の中の岩板まで杭が打たれる大規模な工事です。
更に、鹿折川の両岸には最大で海抜およそ5m幅22mの巨大な台形型の防潮堤が立つことになります。
県では、湾を細かな地域に分けましてそれぞれの実情に合った防潮堤の計画を進めようとしています。
しかし、巨大な防潮堤を造ることでこれまでのような漁業ができなくなってしまうのではないかという不安の声は尽きません。
一部の小さな漁港では県の計画に疑問の声も上がっています。
震災から3年。
防潮堤と、なりわいである漁業の共存という新たな問題に直面しています。
地元の方の思いはこの地で生きてきた人にしかわかりません。
時刻はまもなく午後2時46分。
3年目のそのときを迎えようとしています。
≫上空から見た3年後今、ご覧いただいたんですが大谷さん、今、気仙沼は雪が積もっていましたね。
≫かなり積もっていましたね。
≫この浪江は風が非常に冷たくて。
≫特にこの校舎吹いてきますね。
≫各地によって天候も大きく違っていたのがよくわかりました。
でも今、空から見ると各地各地で復興の進み具合の違いがわかりますね。
≫非常に濃淡が出てきて特に心配なのは福島が3県の中では原発のこともあってどんどん遅れていっていると。
3県の中で差がついてくるということも今後大きな問題になってくる気がします。
≫それと漁業に携わっている皆さん、農業をやっている皆さんそして、仮設があって通わなくてはいけない会社勤めをしていらっしゃる方々。
≫特に、防潮堤の問題はゆっくり議論してどれぐらいの高さがいいのか本当に必要なのかということも初めに計画ありきじゃなくて改めて議論する必要があると私は思います。
≫やっぱり、3年たってもどうしても、力を合わせて協力しなくちゃいけないのは変わっていないんですが先ほどの請戸小学校ですがここから逃げました。
大平山というところを目指したんだけれども違うところへ行った。
国道で子どもたちは寒い中で本当に着の身着のままで逃げていくわけですよ。
そのときに先頭高学年から逃げていく。
だんだん、2年生までなんですが遅れていくんですね。
そうすると先頭をいっている高学年の子たちが戻って、低学年の子たちの手を引っ張ったりね。
それから、足の不自由な児童もいたようでみんなで車椅子を運んだりしながら避難していったということなんですね。
助け合いですね。
≫今思い返すと本当にあの子たちはよく助かったなと。
それと校長先生の判断が早かったんですね。
≫学校を最後まで見届けて一番最後に逃げた教頭先生は、津波が海からきているのが見えたと。
あの山のほぼ下の辺りまで津波がきてこの田園風景は一変して雑草が生い茂る形になったんですが一面が津波に覆われたということだったんですよね。
ほんの瞬間の判断が生死を分けたという感じがします。
≫その19人の子どもたちも中学3年を卒業して今年は高校生になるわけですよね。
子どもたちが健やかに育っていてそれに比べてこの荒廃しきったこの土地ってなんだろうかという。
果たして、あの子たちがここに帰ってくることができるんだろうかという思いを深くしますね。
≫請戸の町が復活して…。
≫そして、子どもたちが帰れるかどうか。
≫病院ができたり役所ができたり商店ができたりと順番にやっていかないと人々が戻ってこれないということですね。
≫まもなく震災から丸3年となる午後2時46分を迎えます。
≫ここからは被災地の各地の表情をお伝えします。
まずは、岩手県陸前高田市です。
≫現在の岩手県陸前高田市です。
陸前高田では今朝から追悼式が行われています。
訪れた男性は町はどんどん変わるけどみんな上で見ていると思うからこれからいい町にしていきたい。
震災から3年の思いを語りました。
≫こちらは福島県いわき市の仮設住宅です。
原発事故の影響で大熊町から避難している住民たちがまもなく迎える2時46分の黙祷で使用する灯ろうの準備が進められています。
≫宮城県石巻市の大川小学校です。
ここで何があり、なぜ多くの命が失われたのか。
真相がわからないまま3年を迎えました。
一部の遺族は昨日仙台地裁に提訴し真相の究明を司法に委ねました。
慰霊碑の前で法要が行われ多くの遺族や関係者が参列する予定です。
宮城県名取市閖上地区にある閖上中学校にあるこの時計は3年前のあの瞬間から止まったまま残されています。
そして、まもなくこの時計が止まりました午後2時46分東日本大震災発生の瞬間に東京の追悼式典会場でそして全国で追悼の祈りがささげられます。
≫黙祷。
≫丸3年となる午後2時46分を迎えました。
あの日から3年。
それだけの月日がたってなお被災地では生活の再建がままならない方がたくさんいらっしゃいます。
3年がたった現在も避難生活を続けている方は全国でおよそ26万7000人。
そのうちのおよそ10万人の方が依然、仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。
≫こうした避難生活が長引いている背景には住宅の整備の遅れがあります。
自宅の再建が困難な方のために自治体が建設を進める災害公営住宅。
岩手県で6038戸。
宮城県で1万5608戸が予定されていますが両県とも実際に完成したのは300戸程度にすぎません。
福島県では現状地震と津波の被災者向けに2684戸。
原発の避難者向けに4890戸の建設を予定していますが現在、完成しているのはわずか146戸。
また、いつどこに建てるかなど最終的な計画はいまだ決まっていない状態です。
こうした中、安倍総理は昨日来年3月末までに200地区の高台移転と1万戸以上の住宅の工事を完了させる予定を発表しました。
復興のスピードをどこまで加速できるのか問われています。
≫そして世界有数の漁場として栄えた被災地の漁業も多くの課題に直面しています。
水揚げ量は去年11月までの1年間で被災3県を合わせても震災前のおよそ68%にとどまっています。
こちらは、今月から震災後、初めてのシラウオ漁が始まった福島県新地町の港です。
しかし、今なお原発事故の影響で沿岸での操業自粛が続く福島県では水揚げ量が震災前のおよそ35%にも満たない状況が続いています。
≫漁業を見るうえで更に深刻なのが漁港の復旧です。
震災前、被災3県の沿岸部には大小合わせて263の漁港がありました。
その中で、現在もとどおりに漁ができているのは先月末の時点で岩手県で59%宮城県で13%福島県で30%となっています。
漁港の復旧が遅れている背景には工事の入札が不調なことや資材不足があり多くの漁港を抱える宮城県では特に深刻な状態です。
≫観光業についても震災前の水準まで復興するには依然、時間がかかりそうです。
人気ドラマの舞台となった岩手県では去年4月から6月の3か月で県外から訪れた観光客が使った金額は151億2500万円と震災前の同時期のおよそ73%まで盛り返してはいるものの同時期の宮城県では震災前のおよそ67%。
福島県では震災前のおよそ52%と下落が続き景気の冷え込みが心配されます。
3年たった今も被災地ではさまざまな課題が残されています。
警察庁によりますとこの震災で亡くなられた方ですが昨日までの時点で全国で1万5884人。
行方不明の方はいまだ2633人がいらっしゃいます。
被災地では、今も月命日を中心に警察、海上保安庁自治体が連携し一斉捜索を続けています。
去年11月陸前高田市で行われた一斉捜索で新たに見つかったのは子ども用のリュックサックでした。
リュックサックは子どもに返されましたがその子にとって、津波の犠牲となったおばあちゃんとの思い出の品だったといいます。
3年を迎え、捜索活動は沿岸部の工事なども進んで困難になってきています。
政府は、震災から4年目のこの1年を復興を実感できる1年にしていくとしています。
そして、来年3月末までには200地区の高台移転と1万戸を超える住宅の工事を完了させる予定です。
しかし今なお避難生活を送る方は全国でおよそ27万4000人。
そのうちのおよそ10万人の方が依然、仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。
それでは、東京の国立劇場では天皇・皇后両陛下が出席されまして東日本大震災3周年追悼式が行われています。
課題が山積する被災地に向けてまもなく天皇陛下のお言葉が始まります。
≫本日、東日本大震災から3周年を迎えここに一同とともに震災によって失われた人々とその遺族に対し改めて深く哀悼の意を表します。
3年前の今日東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は2万人を超す死者・行方不明者を生じました。
今なお、多くの被災者が被災地でまた、避難先で困難な暮らしを続けています。
更に、この震災により原子力発電所の事故が発生し放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。
いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
この3年間、被災地においては人々が厳しい状況の中お互いの絆を大切にしつつ幾多の困難を乗り越え復興に向けて、懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々がこうした努力を支援するため引き続き、さまざまな形で尽力していることを心強く思っています。
被災した人々の上には今も、さまざまな苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られどうか、希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう長きにわたって国民皆が心を1つにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え防災に対する心がけを育み安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同とともに願い御霊への追悼の言葉といたします。
≫陛下のお言葉でした。
陛下は震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝えることを期待していると述べられました。
私たちはどのような形でこの教訓を後世に伝えるべきなんでしょうか。
宮城県南三陸町には八木キャスターがいます。
八木さん。
≫南三陸町の防災対策庁舎前です。
3年前、高さ15.5mの大津波に襲われ残ったのは骨組みとがれきでした。
ここは日を追うごとに津波の怖さを伝える町の象徴という意味合いが強くなってきています。
震災前、ここがどうなっていたのかをご覧いただきます。
庁舎は3階建てで同じ敷地には南三陸町の町役場がありました。
地震が発生したとき庁舎には数十人の職員の方々がいらっしゃったということです。
3月11日を迎え今日も多くの方々が花を手向けにこの場所を訪れています。
壊滅状態といっても過言ではないほど大きな被害を受けたこの町では震災から3年がたって新たな町づくりが進められています。
その様子を上空からご覧いただきます。
サイトウアナウンサーが伝えます。
≫今、カメラが映しているのが町をかさ上げするための土です。
建物の3階分まで高さがあります。
そして、こちらが海側から見た南三陸町の震災から3年後の姿です。
津波によって、建物が流され町の中心だったほぼ全域が広い範囲で更地となってしまっています。
現在、地盤沈下した土地のかさ上げをするための工事が町の至るところで行われているという状況です。
毎日、土を運んでくるトラックがこの道を何十台と行き交いそして、運ばれてきた土を盛り土するための重機が休む間もなくフル稼働で作業しています。
続いて町の中心を流れます八幡川です。
町を襲った大津波はまさにこの川を逆流してきました。
海から押し寄せた黒い波が町中の何もかもをのみ込んでいったんです。
以前、この川のすぐ近くには住宅地があり商店があり、飲食店がありそして、何より人々の生活がありました。
しかし更地となってしまった今ではその以前の面影を見ることはもうできなくなってしまっています。
現在、ご覧いただいている映像はマルチコプターという特殊なラジコンを使って撮影しています。
皆さんに町の変化をよりわかりやすく見てもらうためこのマルチコプターを使う許可をもらって今、中継をしています。
実は、私が立っているこの場所も地震によって70cmほど地盤沈下してしまった影響で大潮と満潮が重なりますとこの道路が冠水してしまうことがあります。
そして、私の後ろにそびえ立つ土の山。
高さは10.6mあります。
海から程近い場所にはあるんですがこの場所をかさ上げすることで以前、この町にあった商店街。
これをかさ上げした土地の上に復活させようという計画があります。
現在、町は地権者から土地を買い取るなどして工事を進めてはいるんですが被災して町を離れてしまった住民も多くいるためこの土地の取得にはまだ、時間がかかると役場の人が話していました。
人口流出を防ぐためそして、復興のシンボルとしてこの辺りはほかの地域に比べて先行的に工事が進められています。
しかし、町全体の工事が完了するのは少なくとも10年以上先になる見通しです。
≫カメラは再び防災対策庁舎へ戻ってきました。
周囲の建物が次々取り壊され、更地が広がる中この建物は津波の恐ろしさを物語る象徴となっています。
ここでは最後まで住民に防災無線を使って避難を呼びかけたエンドウ・ミキさんなど大勢の方々が犠牲になりました。
エンドウさんたちの呼びかけで助かった人もいます。
しかし、この庁舎だけでエンドウさんら、43人もの命が失われました。
高さおよそ15mの防災対策庁舎の屋上では当時、津波に流されないように屋根のアンテナによじ登って懸命に踏ん張っている人また、大声で周囲に助けを求める人の姿がありました。
そして、この屋上で命を落とした方々も大勢いらっしゃいました。
命の呼びかけを最後まで続けたエンドウ・ミキさんたちの遺志と津波の恐ろしさを後世へと伝えていくためにこの庁舎を残すべきという声は今も根強くあります。
その一方でここでご家族を亡くされた方あるいは、津波のショックを今も胸に抱えている方にとっては早く取り壊してほしいという思いも同じように強くあります。
復興を進めていく中で町は一度庁舎を解体することを決めましたが県は震災遺構として残す方向で検討しています。
これからお伝えするVTRには地震や津波の映像が含まれています。
体調が優れない方またお子さんがいらっしゃる家庭で視聴をしていただく際にはどうぞご注意ください。
風化と復興、この2つの狭間で震災から3年がたった被災地は大きなジレンマを抱えています。
≫その日そこで何があったのか。
五感に訴えかけてくる場所があります。
宮城県気仙沼市の向洋高校。
破壊された校舎の内部です。
≫階段の手すりが曲がってこっち側はもうなくなっていますね。
≫校舎の3階のフロア。
そこに、津波は信じられないものを運んでいました。
≫ひっくり返った車ですね。
ここ、3階なんですけど車がここまで流れてきています。
≫その日、生徒を避難させたあと学校に残った先生たちが4階建ての校舎の屋上から、津波が迫るのを見ていました。
≫これはそのとき屋上から見えた巨大な波。
≫あの日、私たちは、こんなにも黒い波があることを知りました。
町を覆い家々を押し流す圧倒的な海水の量に言葉を失いました。
≫止めてくれ!止めてくれ!≫切迫した叫びを耳にしました。
≫収まってくれ!≫あれから3年。
がれきが取り払われ更地となり土が積み上げられていく被災地からは当時の面影が急速に消えようとしています。
そうした中で、記憶の継承を期待されるのが震災遺構。
しかし、被災地にはさまざまな事情が横たわっていました。
南三陸町の防災対策庁舎。
第1波とみられる津波が押し寄せた直後庁舎の屋上に身を寄せる人の姿が映されていました。
ところが、次の瞬間。
3階建ての庁舎を覆う巨大な波。
役場の職員など屋上に逃れた人のうち生還できたのはわずか11人。
43人が犠牲となりました。
写真はこの高台から撮られました。
≫建物は今年度中に解体される予定でしたが宮城県の村井知事が保存に前向きな意向を示したことなどから現在、棚上げになっています。
そして、それと同時に見えてきたのは建物の存在が遺族を二重に苦しめるという構図です。
≫千葉さんは町役場で働いていた娘婿を亡くし3歳だった孫はいまだに見つかっていません。
≫いつ終わるとも知れない仮設暮らしに疲弊している人もいました。
≫津波の直後激しい炎に包まれた石巻市門脇小学校です。
泥だらけのランドセルや水飲み場の蛇口がここに子どもたちの日常があったことを無言のまま主張していました。
遺構としての情報量の多さはしかし、地域の人々にとっては目を覆いたくなる生々しさでもあります。
≫岩手県釜石市。
鵜住居地区では防災センターにおよそ240人の住民が集まりその大半が命を落としました。
ここは、本来の避難所ではありませんでしたが日ごろの訓練では利便性が優先され坂を上らずにすむ、この場所を避難所としてきたのです。
200人以上の無念が刻まれた建物。
しかし、解体は早々に決まりこの日は土台の撤去作業が行われていました。
ここに逃げ込んだ妻を亡くした男性です。
≫自分を残して死んでしまった妻。
まもなく生まれてくるはずだったおなかの赤ちゃんを2人とも楽しみにしていました。
建物に妻の面影を求めてきた片桐さん。
保存を強く希望しましたがかないませんでした。
≫何も変わってないんで…。
≫すべてを更地にしてしまったあとも私たちはそこで起きたことを記憶し後の世に伝えることができるのでしょうか。
これは、コンピューターの仮想空間に震災遺構を残すという取り組みです。
精密な計測に基づき再現された岩手県大槌町の町役場。
顔の動きに連動する眼鏡型ディスプレーをつければ建物内部に立ち入ったような感覚も味わえます。
≫現実の大槌町町役場の建物です。
ここで逃げ遅れた職員など40人が命を落としました。
解体か保存かで意見が分かれる中町は、それぞれの費用を試算。
建物を補強し、全体を残すとおよそ5億円。
一部保存だとおよそ1億7000万円。
解体して映像などを展示する場合はおよそ1億2000万円。
結果、町長の判断で正面玄関の壁の一部を残すことになりました。
≫新潟県の旧山古志村。
地震でできた天然ダムに沈んだ家が震災遺構として残されています。
遺構が成立する条件とはなんでしょう。
≫未来のために、果たして悲しみや費用の問題を乗り越えることができるのか。
結論を出すには時間が必要だといいます。
南三陸町で被災した佐々木さんです。
これまではやはり、この建物を避けてきたといいます。
≫震災後、初めて間近で見る防災対策庁舎。
≫こみ上げてくる感情。
それと同居するように佐々木さんには別の思いが芽生え始めています。
≫まもなく、東北にも春がやってきます。
これは、震災のひと月後に大槌町で開かれた花見会。
集まった人は波がさらっていった故郷に思いをはせました。
≫春になれば咲く花もすべてを奪っていった大津波もともに自然の営みです。
そのことを、心にとめ次の世代に引き継ぐために私たちには何ができるのでしょうか。
≫津波の甚大な被害を受けた岩手県宮古市の田老地区。
その中にたたずむこのたろう観光ホテルは去年の11月国の支援を受けて保存される震災遺構の第1号に認定されました。
私は建物の3階に来ていますが津波は私よりも更に上、4階にまで達しました。
そして、海側だけではなくてこちらの山側の壁までも、津波は崩していきました。
3年前の今日、津波は高さ10mの防潮堤を乗り越えこの町を襲いました。
死者・行方不明者は合わせて222人。
そして、この更地が広がっている現状を見ると復興がなかなか進んでいない現状というのも見て取れます。
ここからはホテルの社長の松本さんにお話を聞きます。
よろしくお願いします。
松本さんは3年前の今日この建物の6階で実際にこの津波を撮影されました。
まずは、その映像をご覧いただきましょう。
≫津波きたよ!早く逃げて!≫これは地震が起こってから40分ほどたってからの映像だということですが松本さんはこの映像を使って学ぶ防災という津波の教訓を語り継ぐ活動をこれまで、続けてこられました。
建物が震災遺構として残っていく中でこうした防災活動は今後どのように続いていくんでしょうかまたどう変わっていくんでしょうか。
≫この建物は私の手から離れるんですけども専門家、防災ガイド田老の町民の間で活用方法を考えてもらいたいと思います。
恐ろしさを伝える活動をしてもらいたいと思います。
≫なかなか町づくりが進んでいない中で震災遺構を残すのか残さないのかという議論をいろんなところで起こっています松本さんの中で震災遺構を残す意味、残る意義どんなところにあると思いますか?≫田老町って津波防災の設備が整っていた町で逃げる時間も40分も今回はあったにもかかわらず多くの方が亡くなっています。
それは、津波の恐ろしさが伝わっていなかったんじゃないかなと思っています。
やっぱり津波の恐ろしさを言葉だけで伝えてきたので実感が持てなかったんじゃないかな。
だから、目に見える震災遺構とか映像を通して伝えていくことが恐ろしさが伝わって逃げることにつながって命が助かることなのかな。
そのためにも、震災遺構が恐ろしい津波の強さとかそれから大きさとかを伝えて更に伝え続けてくれることなのかなと思っています。
≫復旧・復興によって町並みが変わっていってもこのホテルはこの場所でこのままの形で震災の教訓を語り継いでいきます。
≫取材をしてやはり、さまざまな意見があり思いがあり、立場があって正直なところこの震災遺構について1つの答えを見つけるのはすごく難しいと思いました。
震災を思い出すからもう、見たくないんだと話す方もいればたろう観光ホテルのように実物を残すことでより多くの方に津波の本当の恐ろしさが伝わるという方もいます。
建物は一度、取り壊してしまうともちろんもう、もとには戻せません。
ただ、毎日海からの風にさらされて建物の劣化が進んできていることもまた事実です。
すぐに答えを出すことは非常に難しいと思うんですが1つはっきり思うことがあります。
それは、震災を経験した自分たちの世代が震災のこと、津波のことを次の世代へとしっかりと責任を持って伝えていかなければいけないということです。
同じ悲しみをもう二度と繰り返すことがないようにどうやって伝えるのが一番いいのか。
≫白い旗そして傘を振っています。
救助を求めています。
こちら、病院の屋上です。
屋上には、4〜5名人がいまして旗、そして、傘を振って救助を求めています。
HELPという文字が見えます。
現在、黒い字でHELPと書かれています。
そして、ピンク色の紙に食料です。
食料と書かれています。
食料が足りていないようです。
現在、ご覧いただいているのは南浜中央病院です。
こちらは、病院です。
南浜中央病院ですが完全に孤立しています。
辺りは水です。
水に浸かっています。
≫空から見る被災地の3年。
現在ヘリコプターは宮城県の空を更に南下し、岩沼市にある南浜中央病院の上空に来ています。
震災翌日病院の屋上には救助を求める職員らの姿がありました。
KFB福島放送の笠置わか菜です。
あの日、私が3時間にわたって沿岸部を飛びましたがなかなか、人の姿が見つけられませんでした。
そんな中、ようやく見つけた助けを求める人の姿。
安堵するとともにとにかく早く救助が必要だと上空から非常にもどかしい思いをしました。
当時、病院にはおよそ200人の患者がいたそうです。
そのうち1階にいた90人は寝たきりの状態で職員の方たちが懸命に上の階に運んだということです。
津波は1階の天井部分まで達しました。
現在、病院は震災前と変わらない場所で診療を再開しています。
ただ、その場所はあの日、大きな被害をもたらした海からわずか700m。
災害危険区域に指定されています。
被災した方々を支え続けてきた南浜中央病院。
しかし、3年という月日を経て病院は今、また新たな課題に直面しています。
≫上空を飛ぶヘリコプターは外部との唯一の連絡手段でした。
≫南浜中央病院は精神科と内科を専門とした病院です。
高階医師のもとで震災の翌年に再開しました。
しかし、看護師や介護士は以前の3分の2まで減少。
5つある病棟のうち2つは再開できていません。
≫募る将来への不安。
しかし、病院の精神科を必要とする被災者は今も増え続けています。
≫男性は、津波で親友を亡くしました。
≫被災した病院だから寄り添える被災者の心。
その在り方を今も模索しています。
≫震災から3年がたち被災者の方たちが抱える悩みは生活再建への不安経済面での悩みなど時間とともに多様化しています。
被災3県で心のケアを必要としている方の数は今も増え続けています。
ヘリコプターは南浜中央病院を離れ宮城県岩沼市の上空を北上しています。
目の前に見えていますのは東北の玄関口の仙台空港です。
この空港も3年前、大きな被害を受けました。
飛行機に乗るための階段は流され漂流してきた車がひしめき合っていました。
本当にここが空港なのか?そんな思いになってしまうほど被害は甚大でした。
空港の命綱だった滑走路も周辺の地区から流れ込んできた車で埋め尽くされていました。
空港が機能を取り戻し飛行機が離着陸できるようになるまではかなりの時間がかかるように当時、感じられました。
しかし、仙台空港は復興事業の要としていち早く復旧作業が進められました。
現在は、1日およそ120便8000人以上の人たちの足となり復興を支えています。
この仙台空港がそうであったように岩沼市は津波で町の半分が浸水し今、新たな町づくりが進められています。
海沿いに点在する集落3つが津波にのまれ、住民たちは仮設住宅での暮らしを続けてきました。
そんな中、岩沼市が取り組んだのは移転事業です。
これは、被災3県で最も早い集団移転でした。
そして今年の秋には目の前に広がるちょうど、この地域におよそ1000人が暮らす新しい町が生まれます。
3年目の今集団移転を目指すのは被災3県で300地区以上。
しかし、計画が進んでいるのはここ岩沼市と限られた地区だけにとどまっています。
集団移転はなぜ進まないのか。
≫個々、南三陸町では特に町の中心部で高台への集団移転の遅れが目立ち始めています。
あちら、仮設住宅の奥の山も移転先の1つとなっているんですが3年がたって、ようやく木の伐採が始まったというのが現状です。
工事が終わるのが2017年の春。
その上に住宅が建つのは更にそのあととなります。
そんな中どこよりも早く集団移転が進んでいる町を取材しました。
≫人口およそ5700人のうち1割以上が犠牲となった名取市閖上地区。
閖上では住民の6割が内陸への移転を求めています。
しかし、名取市は同じ場所をかさ上げして再び家を建てる現地再建の方針を打ち出し復興計画を進めてきました。
≫名取市は、なぜ、現地再建にこだわるのでしょうか。
≫現地再建の計画ははじめ、住宅地全体をかさ上げするとしていましたが住民の反対などもあり何度も修正を重ね規模が縮小されました。
≫計画ではこの一帯を3mほどかさ上げしてその上に住宅地を作ることになっています。
≫去年、ようやく県の認可が下りました。
≫3年たった今なお、閖上に戻れる日を待つ住民は…。
≫一方、集団移転が最も早く進んでいるのが名取市に隣接する岩沼市です。
≫ここは、岩沼市で被災した6つの地区の集団移転先です。
一部ではすでに土地が住民に引き渡され住宅の建設も始まっています。
早ければ、来月から入居できるそうです。
ほかの自治体に先駆けて移転できる理由はなんだったのでしょうか。
震災直後、即座に住民からの情報収集に努めた市は特に被害が大きかった6地区を集団移転することを決定。
希望が多かった内陸の土地を移転先に選びました。
更に移転を希望する中学生以上の全住民にアンケートを行い、会合には30代、40代や子育てをしている女性を加え新たな町づくりについて話し合ってきました。
≫このように、定期的に集まって住民の皆さんは新しい町づくりについて意見を活発に交わしています。
≫行政と住民の話し合いはこれまで30回ほど行われ、今も定期的に実施されています。
住民の意向で被災する前の集落にあった居久根と呼ばれる浜風から家を守るための木の囲いを復活させることが決まりました。
≫来月中には、すべての住民への土地の引き渡しが完了する予定です。
≫集団移転のトップランナーともいえる岩沼市なんですが実は新たな問題に直面しています。
それは住宅を建てるための資材不足。
そして職人などの人材不足です。
こうしたことによって工期に遅れが出始めているんです。
住民と行政の協力によってどこよりも早く集団移転を進めてきた岩沼市ですら順風満帆とはいえないんです。
ただ、名取市のように住民と行政が合意に至るまでに3年近く費やした結果町から人が離れてしまって計画が縮小されたりあるいは計画そのものがなくなってしまったという自治体もあります。
震災から3年がたって住民の気持ちにも変化が出てきて集団移転についても当初の見積もりとはギャップが出てきていると感じました。
渡辺さん、大谷さん。
≫とにかく毎日毎日の暮らしがあってその中で、いろいろ先のことを考えていくとなると例えば、家族が増えるとかあるいは、学校へ行っていた子が卒業するとかそれぞれ違ってくるわけですよね。
だから、3年後の現実を見ていくと3年前と今やっぱりそれぞれの…。
≫状況が変わってきますね。
≫家族の状況も変わってくるということがよくわかりますね。
ただ、八木さん。
今、八木さんが取材している南三陸というのはこの先の町づくりの問題現状はどうなっているんでしょうか?≫この南三陸でも毎日、トラックが行き交っていて、かさ上げ工事が今、行われています。
計画では、必要な土の量が1100万立方メートル。
これ、東京ドームに換算すると9個分にあたるんだそうです。
この土について町内ですべて賄う予定だそうで山を切り崩して出てきたものをかさ上げなどに使うということです。
ただ、仮設住宅で暮らす住民の方々の中には3年がたってもまだ住宅が建たないという現状にしびれを切らして町から出て行ってしまったという方も多くいらっしゃいます。
≫トップランナーである岩沼のお話も出てきましたがこのあと、ほかの町がついていく。
だけど、先頭を走っているところにもまた、新たな問題が出てきているという。
≫震災というのは最初にしっかり議論しておかなきゃいけないこととあとからゆっくり議論すればいいことと2つに分かれると思うんですね。
阪神のときも急いだばかりに住民の方がそんな話聞いていなかったということで大混乱になったんです。
最初に皆さんの希望はどうなのか、状況はどうか。
そこをしっかり議論して進めていく。
最初に詰めておかないと難しい。
逆に震災遺構であればご遺族の気持ちがそれぞれあるんですね。
壊してしまったら終わりですからまずここは置いておいて1回、ゆっくり議論しようじゃないか。
そこから、ご遺族の気持ちが変わっていくかもしれない。
そういう形でやっていくことと移転のように早くどういう町にするのかそして皆さんが高台がいいのか。
またもとの場所に建てられるのか。
いろんな事情を踏まえながら常に議論して詰めていくということを両方、やっていかないとなかなか、復興というのは難しいと。
≫頑張ろうこれを乗り越えようという気持ちは皆さん当然、毎日お持ちだと思うんですがでも、3年という時間の経過というのはそれが変化をもたらしてくる。
そこを行政も周りもどう汲み取っていくかというそこに入ってきていますね。
≫阪神のときも最初にあみかけしてしまったことがボタンの掛け違いになってしまった。
そこは教訓を生かしていただきたいと思います。
≫再び福島県浪江から今度はお伝えしていこうと思うんですがこの浪江の町は帰還困難区域それから居住制限区域避難指示解除準備区域この3つに再編されています。
私たちは町の許可を得まして請戸小学校から中継させていただいてるんですがこの小学校から4km西国道6号の内側ということになるんですが浪江駅前から中継です。
商店街には板倉アナウンサーがいます。
板倉さん。
≫目抜き通りをどこまで進んでも静まり返った家や商店が続くばかりです。
原発10km圏内のこの町にはいまだ、人が住むことは許されていません。
店内の全員が外に飛び出しそのまま取り残された商品と同じように≫崩れた家屋のがれきが散らばったままです。
立ち入りを禁じるテープや壊れたシャッターが風で揺れるほかに動くものはありません。
福島第1原発から北西に9km。
ここは福島県浪江町の中心部に広がる住宅地です。
かつて、人口2万人を数えたこの町には、3年たった今でも日中立ち入ることはできるものの人が住むことは許されていません。
倒壊した建物が道路にせり出したままとなっています。
この場所は震災後警戒区域となり去年4月までは原則、立ち入りすら禁じられていたためこうした家屋の撤去作業も遅れているということです。
こちらの集合住宅はもともとは2階建てでしたが1階部分はつぶれ原形をとどめていません。
私が今、歩いているのはJR浪江駅へと続く目抜き通りですが人通りは全くありません。
町への立ち入りが制限されてきたため手入れがなかなかできず建物の損傷が更に進んでいるということです。
ここは、毎朝地域の住民に新聞を届けていた販売店です。
店主の方に許可をいただいて中に入らせていただきます。
店内には目立った混乱のあとはありません。
まるで、今は休憩時間で従業員全員が席を外しているだけのような錯覚を覚えます。
店の入り口にあるこちらの薪ストーブの上にはお茶が残されたままです。
1つ、手にとって見てみますと、賞味期限は2012年1月となっています。
店主によりますと地震から一夜明けた3月12日の朝も従業員は出勤しました。
普段どおりの配達業務をこなすことでなんとか日常を取り戻せるのではないか。
皆、そう思っていたということです。
しかし沿岸部の請戸地区に向かった配達員は、新聞を配るべき多くの家が津波で消えてしまった現実を目の当たりにし一部も配ることができずに帰ってきたといいます。
ここには、読者を失った2011年3月12日の朝刊が2600部今も山積みにされたままです。
当時は、情報が断片的で正確な被害状況はわかっていませんでした。
原発で起こりつつあることもその結果、この日を境に故郷を離れなくてはならないこともわかっていませんでした。
ここ、浪江駅前には今、聞こえているように住民に町の外へ出るよう促す防災無線だけが鳴り響いています。
しかし、震災前までは確かに人々の生活がありました。
浪江小学校の児童の演奏に沿道からは暖かい拍手が送られています。
児童たちは年に一度の、この晴れ舞台を目標として日々、練習に励んでいたということです。
しかし今、壁が崩落したままの音楽教室からはかつて、響いていたピアノの音や子どもの歌声も聞こえてくることはありません。
1898年に開業した常磐線の浪江駅とともに歩んできた、この通りには古くから続く地域に根ざした商店が多くありました。
こちらのお店では100年、3代にわたって地元産の米を販売していました。
店主のサトウさんは悔しくてたまらないとしつつももはや、営業の再開を諦めていわき市で年金生活を送っています。
正面に見えるのは地元の野菜や食料品などを取り扱っていた農協の直売所です。
先月の大雪の影響でひさしが壊れていますが店と町の許可を得て中に入ってみたいと思います。
地震発生当初から手付かずの店内にはカビのにおいが充満しています。
当時店の中にいた従業員の女性はお客さんとともに外に飛び出しそのまま、エプロン姿で県内の避難所を転々としたということです。
3年間、放置された卵にはカビが生えています。
中には一部、割れてしまっているものもあります。
更にこちらの福島県産のお米は黒く変色してしまっています。
そして、店の奥の壁に目を移しますとその壁には店で売る商品を生産していた農家の方々の写真が貼られています。
農家の皆さんが育てた野菜がこの棚には2011年3月11日の朝に並べられたまま残されています。
鮮やかな緑色だったものは色が変わり、干からびてこんなにも小さく縮んでしまっています。
新鮮さが自慢だった野菜は3年のときを経てもとの形を失ってしまいました。
従業員の女性はこの店で再び働く自分の姿が想像できなくなったと話しています。
故郷で再び暮らしたいという人々の希望もまた徐々にその形を失いつつあります。
≫原発事故はおよそ40km離れました飯舘村でもなお、大きな影響を与え続けています。
全員、避難した村の住民の方々には事故から4年後以降子どもたちの甲状腺がんが急増したチェルノブイリの恐怖が現実として迫ってきています。
更に、村の除染作業で出たごみ。
実は、このごみの袋が裂けてしまっているという実態を私たちのカメラがとらえていました。
≫巨大な袋の中には汚染された土や草。
行き場はなく仮の置き場という名のもとに村中に増え続ける。
震災から3年。
袋の耐久性が持つ時間も最短3年。
すでに裂けていた。
ここでも、ここでも砂が漏れ出していた。
放射能は消えることなく村を蝕む。
3年後の今もこの瞬間も≫暗闇の公民館に放射能の存在を示す数字が浮かぶ。
福島・飯舘村。
今も戻れない。
全員が村を追われた。
渡辺凜ちゃんも避難先で入学式を迎えた。
≫あの日、大量の放射性物質がたまたま吹いた北西への風に乗り40km先の飯舘村に降り注いだ。
避難指示が出たのは1か月後。
その間、村に放置された。
子どもは3人。
仮設住宅で暮らす。
≫これは、事故のあと村で撮った映像だ。
凜ちゃんがマスクもせず庭で遊んでいる。
家の地区の線量が特に高かったことはあとになって知った。
チェルノブイリでは子どもを中心に甲状腺のがんが6000人以上に見つかった。
急増したのは、事故の4年後だ。
甲状腺がんの多くは進行が遅く早期の発見と適切な治療をすれば生存率は極めて高い。
≫渡辺さんの子どもたちは検査を受けた。
のどを大きくさらす。
しこりがあれば精密検査に移る。
小さな心にも不安が宿る。
大人が起こした原発事故。
直面するのはなすすべのなかった子どもたちだ。
≫福島県は先月県の子ども75人に甲状腺がんやその疑いがあると発表した。
国は、発症が早く被ばくの影響は考えにくいとしている。
ただ、子どもを診る医師には違和感がある。
≫県が勧める定期検査の受診率は8割。
過度に楽観すれば足が遠のき発見が遅れる恐れがある。
実際に村民はどのくらい被ばくしたのか。
≫京都大学の今中哲二助教らは事故直後に村に入り土を採取した。
≫土の分析とアメリカ政府が上空で測ったデータをもとに村民の被ばく量をはじき出した。
平均7ミリシーベルト。
一般人の限度の7倍だ。
≫チェルノブイリにも行った。
実は、あの事故でもがんとの因果関係は当初、疑問視され認められたのは10年後だった。
≫国連の委員会は被ばく量がはるかに少なく福島で健康への明確な影響はないとみられるとしている。
それを踏まえながら科学者は話す。
≫渡辺さんは新しい命を授かった。
≫将来への不安。
≫村は変わり果てていた。
除染のごみが詰まった巨大な袋。
≫国は、中間貯蔵施設ができ次第速やかにごみを移すとしていた。
だが、その施設は今も場所すら決まっていない。
ある事実が判明した。
これは、袋の説明書だ。
3年対応品とある。
耐久性が持つのは最短で3年だという。
この映像の撮影は2011年。
当時から黒い袋が使われている。
それから3年。
大量の汚染ごみが詰まったまま期限がくる。
3年を前に、現地を調べた。
袋は裂けていた。
漏れ出した土には木の根のようなものも混じっている。
破れた原因は不明だがこうした袋は少なくとも村の7か所で見つかった。
こんな証言もある。
≫袋のメーカーは3年以上は保証できない。
そもそも放射性物質を入れることを想定していないとしている。
袋の劣化で再び土壌汚染の懸念もある。
村だけで14万個。
次々に期限がくる。
国の考えは…。
≫期限付きのごみ。
国の対策はない。
村から避難中の渡辺さんは元気な男の子を産んだ。
≫死ぬまで、放射能におびえる母と子をこの国は生んだ。
≫この東日本大震災が神戸の震災と大きく違うのは放射性物質の問題なわけです。
巨大な揺れがきたそして巨大津波がきた。
更に原発事故によってこの問題が横たわっている。
これが非常に複雑に絡み合っている。
これが東日本大震災の現実だと思うんですけど。
≫そこは阪神・淡路大震災と大きく違うところです。
≫飯舘村の皆さん、避難していらっしゃるわけですけど当時から3年前に18歳以下だった子どもたちは、ずっとこれから検査を受けていくと。
小さいお子さんを持っている親御さんにとってみれば本当にこれ想像ができない心配がいくつもあると思うんですが。
≫災害は台風であり地震であり起きた直後が一番不安のどん底にあるわけですよね。
そこから徐々に不安を解消していく。
一番違うのは原発事故というのは時がたち、日がたつと不安がどんどん増大していく。
いつ、際限なく不安が続いてそれが消えるのかというのがわからないと。
この不安っていうのは私たちの災害の中では初めて経験するものだと思うんですね。
それにどう対処していくかということが横たわっていると思うんです。
≫原発事故の直後によく、当時の政権の官房長官の発表で直ちに健康に影響はないと思われるとこういうことをずっと聞かされてきましたよね。
≫一番大事なことはわからないことをそういう形で言ってしまえばますます不安が増大すると。
だから、きちんと情報を伝える。
それからちゃんと検診していってそして、異常があるのかないのかその正確な情報をどれだけ出せるかということに尽きると思います。
≫その情報がきちんと親御さんに伝わることによって子どもたちへの思いというのも不安というのも少しは、減るかもしれない。
ここ、大事ですね。
≫検診を受けている方は8割といわれている。
ですから、ちゃんときちんと検診を受けてしかも、正確な科学的データを出していただきたい。
それが不安解消に少しでも近づくんじゃないかと思うんですね。
≫この福島第1原発、すべての元凶になっているんですがここでは廃炉に向けて≫空から見る被災地の3年。
ヘリは宮城県を南下。
福島県に入っています。
私の眼下には今福島第1原発が広がっています。
原子炉建屋はむき出しの鉄骨がさび付き事故からの月日を物語っています。
そして、建屋の西側には多数のタンクが設置されています。
ここは事故の前、緑の木々が生い茂っていた場所です。
あの日、起きた原発事故以来今も13万人以上が避難生活を続けています。
3年たった今も故郷での生活を取り戻せずにいます。
それだけではありません。
福島第1原発では今も廃炉に向けた作業が続いています。
先月19日には、この下に見えるH6タンクエリアのタンクの1つから汚染水およそ100トンがあふれました。
1リットルあたりの放射性物質の量は2億4000万ベクレル。
原因は今もわかっていません。
終わりの見えない放射能の恐怖。
一度、事故を起こしてしまったら収束までにはその何倍もの長い時間がかかる。
事故の収束までは今なお遠い遠い道のりだと感じます。
≫ヘリコプターのKFB笠置さん、聞こえますか。
渡辺です。
笠置さんは、さっきの病院の上空当時のヘリコプターもそうですがそれから今も原発の上をヘリで飛んでいるわけですが福島に住んでいるそして福島で仕事をしている1人として、原発の現状それから原発のことを福島の皆さん、どういうふうにとらえているのかその辺の実感を少し、聞きたいんですけど。
≫原発の状況はまだまだ廃炉の入り口に過ぎないんだというふうに感じます。
状況が進んだと思ったら止まって後退して、そしてまた進んで。
そのたびに一喜一憂させられているんですねこの3年間。
漁業関係者や避難している方々。
実際に被災していない方々も福島の人たちはいつも頭の片隅に原発があるんです。
日常生活を送っていてもどこか心がスッキリと晴れ渡らない。
そんな3年間を過ごしてきたなと思います。
≫毎日、生活していて線量というものはいつも、気になる存在ですか?≫事故当初よりは気になる存在ではだんだんなくなってきてはいると思うんですがそれでも、生活の隣にあるといいますか。
やはり、生活の隣にある。
そんな存在だと思います。
≫わかりました。
ありがとうございました。
この30年から40年廃炉には時間がかかるといわれているわけですけどもこの廃炉の鍵を握るものはやはり、作業している最前線で働く作業員の皆さんだと思います。
ただ、現場の声を聞きますと本当に、過酷な実態というのが≫廃炉作業がようやく動き出した東京電力福島第1原発。
今後、1号機から3号機の核燃料の取り出しなど廃炉まで40年という道のりが計画されている。
しかし、現役作業員が打ち明けたのは廃炉には程遠い事故から3年後の現実だった。
≫彼らは、今年1月から建屋周辺の施設やタンクから汚染水が流出するのを防ぐコンクリートの囲いの修繕を行っている。
≫被ばくのリスクを伴う現場での作業。
土木作業員として20年ほどのキャリアを持つ彼らでさえ、困難を伴う。
≫作業員には被ばく量の限度がある。
年間で50ミリシーベルト。
あるいは5年間で100ミリシーベルトに達すると現場に入ることはできなくなる。
取材した彼らの被ばく量は多い日で0.3ミリシーベルトにも達する。
≫実はこの被ばくの問題は廃炉作業の根幹を揺るがす問題を引き起こしている。
現場を知り尽くした熟練作業員が減っているというのだ。
≫一方、東京電力の発表によると1日あたりの作業員数は増加していて現時点で安全に作業を進めるうえでの要員に不足は生じていないと説明。
≫だが、最前線に立つ作業員は疑問を抱いていた。
≫熟練作業員の代わりにやってきたのは素人ばかり。
これでは作業が進まないと嘆く。
去年、頻発したトラブル。
その多くが置き忘れや水の入れすぎなど単純なミスが原因だった。
先月の超高濃度の汚染水漏れも原因は人為的なものだった。
これも人材不足が影響しているのだろうか。
≫その現場周辺で働く作業員。
素人ばかりで仕事が進まず被ばく量が増える一方だという。
≫事故から3年。
現場はすでに行き詰まっていた。
≫事故から3年がたった福島第1原発。
現場の最前線は人材不足に陥っていた。
東京電力に考えはあるのか?≫しかし、現役作業員は被ばくのリスクを伴う現場での育成は困難だと訴える。
≫更に彼らはある懸念を指摘する。
≫今後、東京オリンピックに伴う建築需要で原発作業員の流出が懸念されている。
東電もそれを認識しているが具体策は示されていない。
福島第1原発ではこの先、廃炉作業が本格化し被ばくのリスクがより高く高度な技術が必要とされる作業が待ち受けている。
≫私は先週金曜日に福島第1原発の中に入って、取材をしてきました。
排気筒が見えるあの場所なんですが。
1日3800人の作業員が働いていると。
もちろん防護服をつけてマスクをしていますから会話はもちろん聞こえませんが淡々と黙々と仕事を続けているという非常に強い印象を持ったんですよね。
≫そういうベテランの作業員がどんどん足りなくなってきていると。
私はこういうときこそほかの電力会社が協力して融通しあってうちからベテラン、出しますよ。
それの代わり、線量の高い方は1回、うちに来てくださいとかもしくは再稼働ありきでね。
作業員が各電力会社抱え込んでいると。
そんなことないと思いますがそうであるとすればまず、こちらの廃炉に向けて全力を傾けていただきたいと思うんですね。
≫廃炉が完成するのが完成というのがどういう形になるかわかりませんが、我々の世代の次の世代なんですよね。
≫だからこそ私たちの世代が大きな責任を負っているということがいえると思うんですね。
≫2020年に東京オリンピックパラリンピックがありますが安倍総理も福島だけでなく東北の復興の妨げにならないようにオリンピックを進めていく。
国がもっと復興に前面に出るということを話しましたが。
≫オリンピックが6年後ですけど私たちは3年後ということでお送りしたんです。
これから、3年考えてみますと私は風という文字が大きく立ちはだかってくるのではないかと思います。
1つは風化だと思うんです。
どんどん風化していってしまう。
もう1つは風評被害です。
三陸のものまで含めて、今消費者が買ってくださらない。
東北の漁業と農業が復活したとしても誰も買ってくださらないのであれば絶対に復興はあり得ないんです。
ただ、風化と風評というのは被災地じゃなくて、被災地以外の人たちができることなんです。
ここの3県で560万の人口です。
1億2200万の人たちが風化させない、風評被害には乗らないと言ってくださるだけで被災地は必ずそこで元気がつけられるはずです。
3年たってこれから3年で私たちができることは、被災地以外で一人ひとりが少しずつ考えるだけで被災地のためになることができるのではないか。
そんなことを強く感じるんです。
≫今のお話で私も思ったんですが東京に住んでいて家に帰ってスイッチをつければ、電気がいつもつくという環境で生活をしていくとこの電力は福島からきていたんだということをどれほど昔は意識していただろうかということをすごく感じるんです。
福島の今、抱えている問題はむしろ、福島以外被災地以外で大谷さんの話と同じですがそういう人たちがどれだけこの思いをはせるかこれにかかっていると思うんです。
≫復興とか頑張れとか被災地に向けてよく言う言葉ですがそうではなくて私たちに向けて私たちが発信していくことができるんじゃないかとそういうことに思いを至らせ今日の特番を終えればと思います。
≫忘れてはいけない。
いつも思いをはせる。
3年後の姿だと思います。
とにかくここに住んでいる皆さんが絶対に忘れない記憶がありますよね。
そして、記憶が薄れていくこのことをもう1回思い出す日にしたいと思います。
≫宮城県南三陸町の名物といえばキラキラ丼。
季節ごとに食材が変わりこの時期の主役は寒さにさらされ甘みが増した春告げ野菜。
そして…。
≫この冬、7年ぶりの豊漁だった南三陸の海。
キラキラ丼にはそんな海の恵みがたっぷりのっている。
以前と同じ場所で営業を再開したゆりあげ港朝市。
ひときわ人が集まるその先には…。
≫キムチと一緒に食べるゆりあげ水餃子。
この水餃子目当てに100人の長い列ができることも。
新鮮な魚や野菜が並ぶ朝市。
その人出は、震災前の1.5倍と活気にあふれている。
器を覆うパイ生地。
破ると中からはフカヒレ。
去年、店の再建を果たした気仙沼市の大政はフカヒレ料理の名店として有名だった。
津波ですべて流され残ったのは1枚の皿だけだった。
≫モヤシが主役の焼きそばそれが、なみえ焼きそば。
全町避難を余儀なくされ福島県浪江町から二本松市に移った杉乃家。
場所は変わっても焼きそばの味は変わらない。
≫福島県南相馬市のりゅうぐう蛸焼。
具はタコのほかにホタテとつぶ貝。
上には青のりがたっぷり。
≫早く地元の海産物を使えるように。
りゅうぐう蛸焼にはそんな願いが込められている。
岩手県沿岸を走る三陸鉄道の冬の名物こたつ列車。
車窓を眺めながら乗客たちがほおばるのはうに丼。
ぎっしりと敷き詰められたうにの下にもうにをまぶした、うにご飯。
2014/03/11(火) 13:55〜16:53
ABCテレビ1
ANNスーパーJチャンネルSP 東日本大震災から3年[字]

被災地から総力生報道〜“3年後”のすがた▽なぜ?あの日のまま…いまも手つかずの町が野菜が新聞が語る3年▽衝撃スクープ…発覚“汚染土”漏れていた

詳細情報
◇出演者
【メインキャスター】
渡辺宜嗣、八木麻紗子
◇おしらせ
☆番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/super-j/

ジャンル :
ニュース/報道 – 定時・総合
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
情報/ワイドショー – グルメ・料理

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映像
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日本語
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