情報まるごと 2014.03.11

岩手県陸前高田市です。
画面に見えているのは、復興のシンボルとして保存、整備された奇跡の一本松です。
大津波のあと、この松だけが残り、辺りはがれきの山に覆われました。
震災から3年、荒地だったこの場所に巨大な建造物が建設されています。
これはかさ上げに使う土を運ぶベルトコンベアです。
総延長3000メートル。
1日で運べる土は4万トンです。
これは10トントラック4000台分に相当します。
今月の24日から運用を開始します。
4年後には、かさ上げ工事が終わり、新たな町の姿が見え始めるということです。
こんにちは。
情報まるごとです。
およそ2万人が犠牲となった東日本大震災からきょうで3年です。
地震が起きたのは、3年前の午後2時46分。
ちょうどこの番組の時間帯です。
あの日、沿岸部には巨大津波が押し寄せて、壊滅的な被害をもたらしました。
きょうは番組の時間を延長して、被災地の今について、各地からの中継や、インターネットで発信された声を交えてお伝えします。
また東京で開かれる、政府主催の追悼式も中継でお伝えします。
被災地ではきょう、犠牲者への祈りが続いています。
仙台放送局からお伝えします。
きょうは、東北各地で追悼の行事が開かれています。
被災地は犠牲者を悼む一日となっています。
あの日、地域の避難場所だったこの高台にも津波が押し寄せ、93人が犠牲になりました。
東日本大震災で死亡が確認された人は、警察庁のきのう現在のまとめで、合わせて1万5884人となっています。
行方が分からない人は合わせて2633人となっています。
宮城県は条例で、ことしから3月11日を、みやぎ鎮魂の日と定めました。
宮城県内はきょう一日、各地で鎮魂の行事が行われます。
黙とう。
津波で当時の町長や40人の職員が犠牲になった岩手県大槌町の旧役場庁舎です。
町の職員たちが亡くなった同僚を追悼しました。
早いもので3年の歳月がたちました。
この場に立つと、改めてお一人お一人の顔が、鮮明に浮かんでまいります。
全国からの応援職員と地元職員一丸となって、復興に取り組んでおります。
釜石市では、震災で大きな被害を受けた三陸鉄道の線路を歩いて震災を見つめ直そうという催しが開かれました。
三陸鉄道は、震災の直後、多くの人が家族の安否確認などのためにこの線路を歩きました。
きょうは当時、実際に線路を歩いた人などおよそ60人が集まり、線路1.3キロを歩いて往復しました。
三陸鉄道は来月、震災から3年余りを経て、全線がようやく復旧します。
原発事故の影響で、今もすべての住民が町外で避難生活を送る福島県大熊町です。
居住制限区域に指定されている、大熊町のおおがわら地区です。
こちらの住宅では、防護服に身を包んだ除染作業員たちが、屋根の除染を行っています。
大熊町はほぼすべての住民が住んでいた地域が帰還困難区域に指定されていますが、町は住民の帰還を目指すため、1年以上にわたってそれ以外の地域の除染作業を進めています。
自分たちのふるさとをなくさない、必ず復興させる。
そういう強い思いから、多くの町民の方たちが参加して、この本格除染ができましたんで、非常にいい成果も出てると思います。
きょうは各地で、警察や消防、海上保安庁などによる、行方不明者の一斉捜索が行われています。
今も33人の行方が分かっていない福島県浪江町では、午前10時から請戸地区の漁港で捜索が始まりました。
行方不明のご家族の方の思い、心情をしっかりとわれわれが、…をしっかりと取って、一人でも多くの行方不明者を発見したいという思いで、頑張っていきたいと思ってます。
震災の影響で、今も仮設住宅など、避難先での生活を余儀なくされている人は、先月時点の国のまとめで、全国で26万7400人余りに上っています。
震災から3年、この住宅の問題を含め、被災者の生活再建は思うように進んでいません。
それでは、被災地の今の様子を中継でお伝えします。
宮城県名取市、福島県いわき市、岩手県陸前高田市からです。
宮城県名取市の閖上地区です。
最大8.5メートルの津波がこの地を襲い、7100人いた住民のうち700人以上が亡くなりました。
太平洋を望むこの小高い丘の上には、慰霊碑や犠牲者の名前を祭った小さなほこらが建てられています。
朝早くから多くの人が訪れて、花を手向けています。
祈り終わったあと、ハンカチで目頭を押さえる人の姿も見られました。
閖上に住んでいた男性は、確かに3月11日は一日しかありませんが、私たちはこの日だけが特別な日でもありません。
震災の苦しみは毎日続いていますと言いました。
名取市は閖上地区でかさ上げなどをして、区画整理事業で住宅地や公営住宅を整備する計画です。
一方、震災直後の取材でよく聞かれた、もう一度閖上で生活を立て直すという決意の声は、大がかりな復興工事などが目に見えないこの3年のうちに薄れてきました。
現地での自宅再建を希望する人が、時間とともに減っていることを受けて、市も当初の予定を変え、区画整理する面積を、地区の全体の半分近くにまで縮小する方針を取りました。
閖上は3年と言う時間の持つ意味を感じる場所でもあります。
太平洋に面した、福島県いわき市久之浜町です。
久之浜町には、6メートルを超える津波が押し寄せ、60人以上が亡くなりました。
ここに暮らしていた住民の多くは、今も仮設住宅などで避難生活を続けています。
見えている社。
秋義神社です。
周囲の建物は津波でほとんど流されましたが、この神社は流されることなく残っていました。
震災前までは毎年、祭りなどが行われ、地域住民の心のよりどころとなってきました。
震災直後、がれきが一面に広がる中で、地域の人々はこの神社を手がかりに、自宅の位置を確認したといいます。
今、復興を目指す久之浜の人たちのシンボルになっています。
きょうは朝早くから地元の人が訪れ、犠牲者の冥福を祈っていました。
訪れた人は、亡くなった人を思い出せば寂しくなるが、自分たちは前向きに頑張っていきたいと話していました。
このあと2時46分に追悼のサイレンが鳴り、訪れた人たちが黙とうをささげることにしています。
福島県いわき市久之浜町でした。
岩手県陸前高田市です。
町はまだ更地が広がっています。
先ほどまでは工事車両が行き交っていました。
午前中から海からの強い風が吹きつけています。
先ほどは雪も舞っていました。
今は青空が広がっています。
私が今いますのは、米崎地区の仮設住宅です。
こちらには現在、80世帯208人が生活をしています。
入居が始まった2年8か月前に比べますと、およそ3割住民が減りました。
残っている方の多くは高齢者です。
津波で自宅を失い、自力で住宅を再建することは難しい方も多くいます。
しかし、被災した人が住む災害公営住宅、陸前高田市ではまだ一戸も完成していません。
災害公営住宅の建設が進んでいないのは、用地の確保や地権者の同意、こういったことに時間がかかっていることが背景にあります。
こうしたことが被災した人が復興を実感できないことにもつながっています。
仮設住宅で暮らす60代の女性は、自宅を再建するお金はないので、災害公営住宅への入居を希望しています。
仮設から早く出たいという気持ちはありますが、今は待つしかありませんと話していました。
こちらでは、午後2時46分に合わせて、住民の方々が海のほうに向かって黙とうを行うことにしています。
それぞれの3年を振り返り、そして震災で失った家族、友人、知人を悼みます。
ここまで岩手県陸前高田市でした。
各地の今の様子をお伝えしました。
3年前の震災の発生後、私は岩手県の沿岸の大槌町や宮古市などへ、リポーターとしてたびたび取材に行きました。
3年の月日がたつ中で、何が変わったのか、変わらないのか、そして人々は今、何を感じているのか。
3年前に取材した人にも再会するなど、再び被災地を取材してきました。
海岸から100メートルほどの所です。
陸に船が揚がっています。
津波で大きな被害を受けた宮古市の沿岸部を再び訪ねました。
あの緑の建物のさらに奥の辺りですね、3年前、大きな観光船が陸に上がっていました。
この辺り、がれきももう取り除かれていますが、ただ、新しい建物が建つといったような様子はありません。
跡地の利用者は、いまだに決まっていません。
3年前、私は高台にあったため、津波の被害を免れた、宮古市沿岸のホテルを取材しました。
当時、ここには被災地の復旧作業に当たる警察官や作業員、ボランティアの人々が泊まっていました。
そんな人々を支えようと、身を粉にして接客に当たっていたホテルの従業員、川端則子さんを忘れることができませんでした。
当時、川端さんは被災地の復興のために働きづめの毎日でした。
川端さんと3年ぶりに再会しました。
お元気で。
おかげさまで。
この日も団体ツアーの観光客が訪れました。
震災直後は考えられなかった光景です。
失礼いたします。
失礼いたします。
お疲れさまでございました。
いかがですか、栃木のほうは。
こちらの家族連れは、栃木県からやって来ました。
しかし、ホテルを利用する人の数は、いまだ震災前に及びません。
川端さんは、観光地として本当に復興できるのかはこれからだと感じています。
宮古市から南へ。
津波で壊滅的な被害を受けた大槌町を訪ねました。
3年前、復興の足かせとなっていたがれきはなくなっていました。
大槌町の中心だった所です。
今も残っているのは、この当時の町役場の庁舎だけで、周りを見渡しますと、土が整然と盛られていたり、重機が動いていたり、そして工事中の囲いが出来ているなど、町をもう一度つくろうとしているところです。
しかし、土地の確保に時間がかかり、住宅などの再建が遅れているというのが住民の実感です。
町が本当に復興することができるのか、不安を抱いている人がいます。
町の消防団長を務める煙山佳成さんです。
75年間、地元で暮らしてきました。
震災前、ここにあった美しい町並み。
3年たっても新たな町に生まれ変わる気配はありませんでした。
大槌町では、津波で亡くなった人も含めて、震災後、人口が2割以上も減少しました。
今、盛岡市など、内陸の地域や雇用の多い地域に人口が流出しているのです。
この3年間、町の消防団長として復興に取り組んできた煙山さん。
体力の衰えから、今月で引退することを決断しました。
後は頼むよ、皆さんの若い力でこの大槌町を守ってください。
活動を継ぐ若者が減っていることが気がかりです。
町を離れようとしているのは、若い世代だけではありません。
共に震災後の地域を支えてきた公民館の館長も町を離れることを煙山さんに打ち明けました。
ふるさとへの愛着がありながら、町を離れる人たちが多い現実に、被災した人々が3年間感じてきた負担を見る思いがしました。
復興への道筋を描くことは容易ではありませんが、その青写真が見えるまでの時間が長くなるほど、被災地の住民の不安は大きくなるのだと思います。
震災から3年。
本来ならば住民たちが復興を実感できるような段階になっていなければならないのに、そうはなっていない現実がありました。
さあ次は、東京電力福島第一原発の事故の影響が続く福島についてです。
国は去年12月に、避難区域の住民全員の帰還を目指す方針を転換し、新たな土地で生活を再建する、移住を支援する政策を打ち出しました。
しかし、住民が移住を決断しても、その実現にはさまざまな困難が立ちはだかっています。
富岡町のある家族の決断を取材しました。
福島第一原発から5キロの福島県富岡町です。
この日、一時帰宅のため町に戻ってきた佐藤忠一さん、父の健治さん、そして母の富子さんです。
佐藤さんの自宅は帰還困難区域に指定され、自由に立ち入ることができません。
自宅周辺は依然として、高いレベルの汚染が残っています。
原発事故の前、ここには親子3世代6人の暮らしがありました。
佐藤さんはふるさとを諦め、新たな土地で生活を立て直す移住を考えています。
3年前、事故直後の混乱の中、佐藤さんは一家6人で、原発から60キロ離れた大玉村に避難しました。
その後、佐藤さんと両親はそれぞれ、勤め先が移転したいわき市に移らざるをえませんでした。
佐藤さんはいわき市の建設会社に住み込みで働いています。
この3年、妻と2人の子ども、そして両親と離れ離れの生活です。
佐藤さんは、220坪ある富岡の宅地の賠償を元手に移住を模索してきました。
しかし、東京電力が提示した賠償額は、450万円。
避難先の多くは地価が高く、土地を買うことができません。
移住を実現できない3年間で、家族の状況は大きく変わっていました。
70キロ離れた家族のもとに帰る佐藤さん。
ただいま。
おかえり。
ただいま。
縫いぐるみだよ。
いい子にしてた?
いい子にしてた。
妻と子どもは県が借り上げた6畳一間のアパートで暮らしています。
息子の翼君です。
学校楽しい?
避難先の学校になじめない子どもが多い中、翼君は学校に溶け込んでいました。
佐藤さんは、別の土地に移ることで、翼君に再び負担をかけることはできないと感じています。
一方、佐藤さんの両親は、いわき市のアパートで暮らしています。
避難生活のストレスから、健治さんは睡眠障害を患い、仕事も辞めざるをえませんでした。
富子さんも一時期、うつ状態となりました。
2人の支えとなっているのは、避難後に親しくなったいわき市の友人でした。
どうぞ。
避難してきてからだもんな、お付き合いするようになったのは。
奥さんのこととみこさんで、旦那さんのこと健ちゃんだもんね。
避難先での慣れない生活の苦労や悩みを、打ち明けることができました。
うんと助かってる。
なんでもできるしね。
不動産賠償の不足で、移住に踏み切れずにいた佐藤忠一さんです。
先月開かれた町の会合で、国が打ち出した移住支援策の説明を受けました。
新たな土地で住宅を再建する際、現在の賠償の不足分が、東京電力から補填されます。
支払いの時期はまだ示されていませんが、佐藤さんは妻と子どもが住む大玉村に家を再建する決断をしました。
佐藤さんはいわき市で暮らす両親のもとを訪ねて、大玉村に来てほしいと伝えました。
両親は大玉村への移住に同意してくれました。
しかし、佐藤さんだけは仕事を変えることができないため、たとえ家を再建しても家族一緒に暮らすことはできません。
佐藤さんが望んでいるのは、家族で一緒に暮らしたいという当たり前のことですよね。
そうですよね。
その当たり前のことが、どうしてこんなにも難しくなっているのかという、本当にやるせない思いがします。
避難した住民の中には、佐藤さんのように仕事の都合などで家族離れ離れに暮らしているケースも多いということです。
長期化する避難については、東京電力による賠償だけでは解決できなくなっています。
住民に寄り添った支援ができるかが、国などに問われています。
次です。
3年前のきょう、被災地では道路網が寸断され、携帯電話も通じなくなりました。
救助を求めたり、避難所の場所を知らせたりする情報発信も一時、できなくなりました。
そこで注目されたのが、こちらです。
インターネットの短文投稿サイト、ツイッターです。
ツイッター・ジャパンによりますと、震災が起きた3月11日のツイート・つぶやきの数は、全世界で合わせておよそ1億8000万ツイートで、当時の1日の平均の1.8倍に上ったそうです。
その3年前の実際のつぶやきを見てみます。
こちらです。
子どもたちが取り残されています。
救助が可能であれば、子どもたちだけでも助けてあげられませんか。
ツイッターでのつぶやきをきっかけに、人命救助が行われたりしました。
またこちら、毛布・座布団などが全くなく、必要としているとのことです。
毛布などの救援物資を求める声も。
さらに、子どもが募金に協力する姿に心を動かされたといった、震災に関する思いをつづった文章に共感が広がりました。
震災から3年となるきょうは、どんなことがつぶやかれているのでしょうか。
番組の中で紹介していきます。
まずは震災からの復興、そして復興の課題をテーマにしたつぶやきです。
被災者用住宅は最優先。
一日も早く全員が移れるように、国や自治体は注力してほしい。
それではここで、東京の国立劇場で行われる追悼式の模様を中継でお伝えします。
東京・千代田区の国立劇場です。
東日本大震災から3年。
政府主催の追悼式がまもなく始まります。
犠牲となった人の遺族や各界の代表者、各国の大使などおよそ1200人が参列します。
式檀の中央には、東日本大震災犠牲者の霊と書かれた標柱が立てられています。
まもなく天皇皇后両陛下がご臨席になります。
天皇皇后両陛下が会場に入られました。
先導役は古屋防災担当大臣です。
天皇陛下は去年、80歳の誕生日を迎えられました。
天皇皇后両陛下は、この1年も岩手県や福島県を訪問されました。
津波被害の大きかった沿岸部や、原発事故で住民の避難が続く地域を訪ね、被災した人たちに励ましのことばをかけてこられました。
追悼式では、天皇陛下がおことばを述べられることになっています。
皆様、ご着席ください。
開式の辞、菅義偉内閣官房長官。
ただいまから、東日本大震災三周年追悼式を挙行いたします。
式壇の中央にある標柱の周りには、花が供えられています。
被災地で育てられた水仙やゆりです。
この式壇には、被災したすべての人との強い絆という意味が込められています。
国歌斉唱を行います。
皆様、ご起立願います。
前奏に続いてご斉唱ください。
続きまして、14時46分の時報を合図に、東日本大震災によって…。
まもなく東日本大震災が発生した午後2時46分になります。
震災で犠牲となった方々に黙とうをささげます。
画像中継により結ばれております。
それでは皆様、標柱のほうをお向きください。
ここに東日本大震災により、犠牲となられた方々に対し、追悼の意を表するため、1分間の黙とうをささげます。
黙とう。
黙とうを終わります。
ご着席、願います。
式辞、安倍晋三内閣総理大臣。
本日、ここに天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災三周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して謹んで追悼のことばを申し上げます。
かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から3年の歳月がたちました。
この震災により、最愛のご親族を失われたご遺族の方々の深い悲しみに思いを致すとき、今なお、悲痛の思いが胸に迫ってまいります。
ここに改めて、衷心より哀悼の意をささげます。
また、今なお行方の分からない方々のご家族をはじめ、被災されたすべての方々に、心からお見舞いを申し上げます。
被災地に足を運ぶたび、営農の再開や水揚げに沸く漁港、災害公営住宅に入居されたご家族のお姿など、復興が一歩一歩前に進んでいることを実感いたします。
しかしながら、今なお多くの方々が、不自由な生活を送られています。
原発事故のためにいまだふるさとに戻れない方々も数多くおられます。
復興をさらに加速し、被災者の方々が一日も早く、普通の生活に戻られるようにすることが、天国で私たちを見守っている犠牲者のみ霊に報いるみちです。
同時に、大地震の試練から、われわれが得た貴重な教訓をしっかりと胸に刻み、将来のさまざまな災害から、国民の生命、身体、財産を守り抜くため、うまずたゆまず災害に強い強じんな国づくりを進めていくことをここに固くお誓いいたします。
復旧・復興の前進も地元の方々のご努力、関係機関の尽力はもちろんのこと、全国各地から多くの支援に支えられてのものです。
この震災では、本日ここにご列席の世界各国、各地域の皆様からも多くの温かく心強いご支援を頂きました。
改めて感謝の意を申し上げたいと存じます。
わが国の先人たちは、幾多の困難を克服し、そのたびによりたくましく立ち上がってきました。
今日を生きる私たちもそれにならい、手を携えて前を向いて歩んでいくことを改めてお誓いいたします。
み霊のとわに安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を心から祈念し、私の式辞といたします。
平成26年3月11日。
内閣総理大臣安倍晋三。
天皇陛下からおことばを賜ります。
本日、東日本大震災から3周年を迎え、ここに一同と共に、震災によって失われた人々と、その遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。
3年前のきょう、東日本を襲った巨大地震と、それに伴う津波は、2万人を超す死者・行方不明者を生じました。
今なお多くの被災者が、被災地で、また避難先で、困難な暮らしを続けています。
さらに、この震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。
いまだにみずからの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます。
この3年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々が、こうした努力を支援するため、引き続きさまざまな形で尽力していることを、心強く思っています。
被災した人々の上には、今もさまざまな苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして、寄り添っていくことが大切と思います。
そしてこの大震災の記憶を、決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に一日も早く、安らかな日々の戻ることを、一同と共に願い、み霊への追悼のことばといたします。
天皇陛下のおことばでした。
天皇皇后両陛下は、遺族の向かいの席に戻られます。
このあと追悼式では、岩手、宮城、福島3県の遺族の代表が、ことばを述べることになっています。
国立劇場からは、後ほどそのもようを中継でお伝えします。
再び情報まるごとです。
追悼式は、このあと、遺族代表の方々のことばからお伝えします。
被災地でも、午後2時46分に合わせて、各地で黙とうが行われました。
では、被災地の今の様子を再び中継でお伝えします。
まずは、宮城県名取市の様子です。
仙台放送局の津田さん。
宮城県名取市の閖上地区です。
先ほど2時46分、ここでは100人ほどの方が海に向かって1分間の黙とうをささげました。
その1分間、強かった風が静かになりました。
ここ名取市の閖上、地元の人が日和山と呼ぶ小さい丘の上に建つ慰霊碑には、朝から多くの人が訪れて、花を手向けています。
一面が土色の景色の中では、鮮やかな花の色が一層映えて見えます。
一人手を合わせ、小さな声でお経を上げる人もいました。
津田さん、3年たつ中で、住民の皆さんの暮らしや胸の内には、どんな変化があるんでしょうか。
漁師町の閖上は、戦後は住宅地も広がって、多くの人が夢のマイホームを建てました。
家族ぐるみで隣近所とつきあう、つながりが深い町でした。
その町に最大8.5メートルの津波が押し寄せ、7100人いた住民のうち700人以上が亡くなっています。
この地区では今も40人の行方が分かっていません。
先週、そのご家族の皆さんが復興に向けた工事が始まる前に、大がかりな捜索を行うよう、およそ2万4500人の署名を市に提出しました。
その場で1人の男性は、震災から3年がたちますが、家族の行方が分からないままでは、気持ちに区切りをつけることができません。
自分勝手なお願いなのは分かっていますが、せめてなきがらだけでも構わないので、どうにか見つけてほしいと言いました。
前を向き、復興事業を模索を続けた3年。
そして愛する人を思い、気持ちに区切りがつかなかった3年。
どちらも被災地の3年です。
続いて、福島県いわき市からの中継です。
福島放送局の羽隅さん。
津波で60人以上が亡くなった、福島県いわき市久之浜町です。
集落の中で唯一残った建物、秋義神社には、避難先の仮設住宅などから住民が訪れ、朝早くから犠牲者の冥福を祈る姿が見られました。
そして午後2時46分には、いわき市の防災無線を通じて、追悼のサイレンが鳴り響きました。
この時間に合わせ、訪れた人たちが黙とうをささげていました。
この神社は、復興を目指す久之浜の人たちのシンボルになっています。
神社の前にはけさ、ご覧のようなボードが立てられました。
花の写真が飾られています。
分かりますか?
分かります。
なぜ、本物の花ではなくて、花の写真なんでしょうか?
これは、復興の花と名付けられたものなんです。
全国から送られてきました。
地元の仮設商店街で販売されている花の種を、訪れた人が購入して、自分の家に持ち帰って栽培したものなんですね。
花の写真にはメッセージが添えられています。
追悼と復興の思いが込められているんです。
ここ、久之浜町では、去年11月からかさ上げ工事などが始まり、ようやく復興に向け、歩みだしています。
地元で40年、水産加工業を営んでいた男性は、久之浜はいろんな魚があがる所だった。
早く仕事がしたい。
漁業が戻れば人が戻ってくる。
一日も早く活気ある町を取り戻したいと話していました。
福島県いわき市久之浜町でした。
続いて、岩手県陸前高田市からお伝えします。
盛岡放送局の魚住さん。
2時46分になりますと、地元の住民およそ40人が、海に向かって黙とうをささげました。
その中で、自宅を流された70代の女性は、3年は早かったです。
喪失感は消えません。
生き残った者として、震災の記憶を風化させてはいけないと、改めて感じましたと話していました。
私が今いますのは、陸前高田市米崎地区の仮設住宅です。
こちらには80世帯208人の方が生活をしています。
入居が始まったのは震災の年の7月。
それから2年8か月がたちました。
3度目の冬、住宅の傷みがあちこちで見られるようになりました。
こちらのお宅では、玄関の上がり口の板がしみこんだ雨水によって腐っていました。
一方、こちらでは。
玄関の天井部分から雨漏りがしているといいます。
ほら、分かった?
建物と玄関の風よけスペースとの間に隙間が出来ていました。
こちらのお宅では、床がふやけて抜けそうだといいます。
1年ちょっとぐらい前だね。
床材を剥がしてみると、地面からの湿気を受けた床板が腐って、黒いカビが生えています。
今、この仮設住宅で修理を希望しているお宅は20軒です。
岩手県から委託された業者が作業に当たります。
玄関は真新しい板に交換されました。
魚住さん、仮設住宅の傷みに3年の年月を感じますね。
そうですね。
そしてまだまだ仮設住宅で生活を続けていかなくてはいけない人、大勢いらっしゃいます。
そうした中で、この仮設住宅では、住民どうし支え合おうという活動が行われています。
こちらは、住民たちの血圧測定を行う健康サロンです。
平日の午前中に2時間、毎日開かれています。
一番の楽しみはお茶を飲みながらのおしゃべり。
世話役を務めるのは、同じ仮設住宅に暮らす女性たちです。
お互いに励まし合うとともに、体調の変化に気付くことができるようにしているということです。
ではそのサロンを始めた自治会長の金野廣悦さんです。
よろしくお願いします。
どうぞよろしくお願いいたします。
どういう思いでああいったサロンを始めたんですか?
…仮設では、仮設を卒業しようという合言葉があるんです。
その精神でスタートいたしました。
気力といったものを大事にしたんですよね?
そうですね。
やっぱり目標を持ってやっていきましょうということで始まりました。
金野さん、東京のスタジオの小澤と申します。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
こうした活動を続けていくのも大変ではないかと思うんですけれども、どんなことに気を配っていらっしゃるんですか?
スタッフの皆さんが、本当に真心込めて、感謝の気持ちで、ベテランの方々の対応に当たっておりますので、義務感もなくスムーズにいっております。
あまり負担をかけないということもポイントなんですよね。
そうですね、だからスタッフの皆さんがね、楽しみながら、一緒に楽しみながらやってるっていうのが、うまくいっている要因だと思います。
そして震災から3年となりました。
これから仮設住宅でどう暮らしていかれますか?
3年も経過しまして、だいぶ疲れも出てきております。
でもこれを乗り越えるためには、やっぱりみんなで力を合わせて、今までやってきたこの自治会活動を続けていくことが、みんなで元気で仮設を卒業できるということにつながると思いますので、続けていきたいと思います。
自治会長の金野さんにお話を伺いました。
岩手県陸前高田市からでした。
ここまで、各地の様子を中継でお伝えしました。
きょうは東北だけでなく、各地で午後2時46分に合わせて黙とうが行われました。
黙とう始め。
福島県双葉町から避難してきた人たち。
遠く離れたふるさとの方角に、祈りをささげました。
復興できる場所があるんだったらそこでこれからの双葉町つくりたいななんて今は考えてます。
黙とう、はじめ。
新潟県柏崎市。
今も福島県浪江町などから、900人余りが避難しています。
もう3年なのか。
ちょっと複雑な気持ちなんですが、思い出を胸にこれからまた生きていきたいと思っております。
福島県との境にある茨城県北茨城市。
慰霊塔が整備され、きょう、完成しました。
黙とう。
近くに犠牲者が住んでいた函館市の朝市。
黙とうが行われました。
黙とう。
黙とうは四国・高知でも。
四万十市は南海トラフ巨大地震で、20メートルを超える津波が押し寄せると想定されています。
黙とう。
毎年1月17日に、阪神・淡路大震災の追悼行事が行われる東遊園地。
きょうは東北の被災地に向けて、追悼行事が行われています。
忘れないってことが大事かなっていう。
ちゃんとこの日を覚えてますよっていう思いです。
では再び、東京で行われている東日本大震災の追悼式のもようを、国立劇場から中継でお伝えします。
東京・千代田区の国立劇場です。
午後2時40分過ぎから、追悼式が行われています。
続きまして、ご遺族代表のことばをお願いいたします。
岩手県、宮城県、福島県のご遺族代表の方は、式壇標柱の前にお進みください。
この震災で亡くなった方と、行方が分からない方は、避難生活などで亡くなったいわゆる震災関連死を含めると、2万1432人に上ります。
遺族を代表して、岩手県の淺沼ミキ子さん、宮城県の和泉勝夫さん、福島県の田中友香理さんです。
それでは、岩手県のご遺族を代表して、淺沼ミキ子様、お願いいたします。
もう顔を見られなくなって、3年もたつのですね。
私たち夫婦に初めて授かった子どもとして、25年間、時には大笑いし、時には一緒に涙し、考えて、当たり前のように過ごした日々。
そんな日常が、こんなにもいとしい日々だったことをかみしめる毎日です。
地震の直後にお客様を避難誘導してきたあなたと会うことができました。
生き生きとした顔で仕事を遂行しているあなたを頼もしく思い、ことばをかけ合ってお互い安心して別れましたね。
あれが最期になることなど思いもせず、3月11日、停電になった家であなたの帰りを待ちました。
元気よく、ただいまと帰ってくるものだと、翌日も、その翌日も。
10日後、200体以上のご遺体が並ぶ中であなたを見つけたとき、目視では確認しても、頭の中は認めようとしませんでした。
そんな中、一日一日をどう過ごしたのか、思い出すことができません。
ただ、たくさんの方が支えてくれました。
どれだけのお力を頂いたのか、物心両面での全国、全世界のお心寄せに感謝の思いでいっぱいです。
多くの愛しい命が人を助けたい一心で頑張ってくれました。
大好きだった陸前高田の人たちを守りたかったでしょう。
皆さん、お疲れさまでした。
生かされた私たちは、亡くなった方々の無念さと、その数倍もの遺族の悲しみと悔しさを、未来へと語り伝えていかねばなりません。
あなたが大好きだったこの町を、安心して暮らしていける町になるように、復興へと歩んでいきますから、ずっと一緒に見守っていてください。
母はあなたを誇りに思います。
私たちのもとに生まれてきてくれたこと、ありがとう。
最後に、東日本大震災で亡くなられたいとしいみ霊のご冥福をお祈り申し上げます。
平成26年3月11日。
岩手県代表、淺沼ミキ子。
続きまして、宮城県のご遺族を代表して、和泉勝夫様、お願いいたします。
あの大惨事から3年がたちました。
私が住んでいる宮城県東松島市においても、震災により千余名の尊い命が奪われ、いまだ二十数名の方々が行方不明となられております。
地震直後、私は地域の集会施設に駆けつけ、避難所準備に追われていましたが、その後、津波が押し寄せていることを聞き、近くの小学校に逃げ、難を逃れました。
私の母は自宅で、そして妻は地震後に、訪問先の姉の家から、年老いた母を思い、自宅に駆けつける途中で大津波に遭い、帰らぬ人となりました。
妻とは退職後の生活を、お互いに楽しみ、有意義な日々を過ごしておりました。
特に妻は、きょうだいとの旅行、コーラスグループでの活動、絵手紙教室では地域の友人と仲よく手紙のやり取りをしておりました。
一方、婦人防火クラブ員としての活動や、小学校での朝の読み聞かせ活動など、地域貢献にも熱心な一面もありました。
未曽有の災害とはいえ、一緒にいてやれなかったのが残念でなりません。
しかし、残された者、生かされた者の使命として、亡くなられた人たちの分まで、精いっぱい生きていかねばならないと思っております。
今、被災地では、復興に向けた整備が行われておりますが、私の地元、東松島市野蒜地区においても、集団移転団地の造成や、森に囲まれた学校施設の整備などが急ピッチで進められており、一日も早い復興の実現を望んでやみません。
最後になりますが、この震災に際し、日本全国、世界各国の皆さんから、たくさんの温かいご支援を頂きましたことに対し、心から感謝いたしますとともに、震災により犠牲となられた皆様のみ霊が安らかなるよう心からご冥福をお祈り申し上げ、追悼のことばといたします。
平成26年3月11日。
宮城県代表、和泉勝夫。
続きまして、福島県のご遺族を代表して、田中友香理様、お願いいたします。
私の住んでいた福島県双葉町は、人口約6400人、小さな町ですが、田畑が広がり、自然豊かでのどかな町でした。
そんな穏やかな生活を送っていた私ですが、平成23年3月11日、あの東日本大震災で、私は父を失いました。
原子力発電所事故による避難命令が出されたため、すぐそこにいるかもしれない大切な家族を残して、避難しなければならなかったあの悔しさは今でも忘れられません。
捜しに行けるもんなら自分たちで捜したい。
そんな気持ちで避難所生活を送っていました。
震災から40日後、やっと捜索が入り、父は流された自宅の屋根の下で見つかりました。
もしかしたら生きていたかもしれないのに、見つけてあげられなかった。
その思いが消えることはなく、ただただ、胸が締めつけられる思いです。
私の父は優しく家族を一番に考える人でした。
そんな父だったからこそ、私たち家族を残して逝ってしまったこと、きっと悔やんでいると思います。
3年たった今でも、あの震災は、私たち残された者にとって、悲しくつらいものですが、私の父を含め、皆さんの尊い命が犠牲になってしまったことを教訓に、二度とこのようなことが起きないよう、一生忘れてはならず、向き合っていかなければなりません。
これまで被災者である私たちに対しての、全国からの多くの心温まる善意に、心より深く感謝を申し上げます。
最後にこの震災により亡くなられた方々の、安らかなるご冥福をお祈りいたしますとともにいまだ見つからない方々が一日でも早く家族の元へ帰れることを願い、追悼のことばといたします。
平成26年3月11日。
福島県代表、田中友香理。
岩手県の淺沼ミキ子さん、宮城県の和泉勝夫さん、福島県の田中友香理さんが遺族代表のことばを述べました。
天皇皇后両陛下が、ご退席になります。
天皇皇后両陛下が退席されます。
東日本大震災から3年となるきょう、追悼式では、地震が発生した午後2時46分、およそ1200人の参列者全員が、1分間の黙とうをささげました。
会場ではこのあと、献花が行われることになっています。
皆様、ご着席ください。
東日本大震災から3年。
政府主催の追悼式のもようを、国立劇場からお伝えしました。
政府主催の追悼式を中継でお伝えしました。
ではここで気象情報をお伝えします。
気象予報士の加藤さんです。
きょうも北日本では、寒さが続いています。
まずはこの時間の気温の様子です。
仙台ではこの時間、5度4分しかありません。
この時期としては低い気温です。
一方、関東から西の地域では、10度以上の所もあって、寒さは和らいでいます。
あすは各地、きょうよりも気温が高くなりそうです。
関東から九州、15度以上の所が多く、春本番の暖かさとなりそうです。
では予想天気図です。
あすは南にある高気圧から、日本海を進む低気圧や前線に向かって南風が吹きます。
南から春の暖かい空気が流れ込んで、気温が上がる気圧配置です。
東日本や西日本では3月下旬から4月の上旬並みの暖かさの所も多くなりそうです。
一方、天気はこの低気圧や西に新たに発生する低気圧の影響で、北日本、それから西日本で崩れる所がありそうです。
それではあすの全国の天気です。
ここで再びツイッターの声をご紹介します。
地震が起きたのと同じ午後2時46分、きょうそのとき、どんなことがつぶやかれたのでしょうか。
きょうの情報まるごとは、被災地の今を中心に時間を延長してお伝えしました。
2014/03/11(火) 14:05〜15:30
NHK総合1・神戸
情報まるごと[字]

▽東日本大震災から3年 ▽被災地の祈りと願い ▽政府主催追悼式中継 【キャスター】小澤康喬,堀友理子,【気象キャスター】加藤祐子

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【キャスター】小澤康喬,堀友理子,【気象キャスター】加藤祐子

ジャンル :
ニュース/報道 – ローカル・地域
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 天気

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