渡辺謙さんが被災地の仲間と始めた、新たな挑戦。
福島の少女たちの祈りは、本場・ウィーンへ。
被災地に今なお重くのしかかる現実。
そして、立ち向かうべき課題とは。
宮城県気仙沼湾の現在の様子です。
東日本大震災の発生から今日で丸3年を迎えました。
こんにちは、膳場貴子です。
今日の番組では3年たっても、なお厳しい被災地の今と、そして、これからのために進もうとしている人々について、お伝えします。
東日本大震災では昨日3月10日の時点で全国で1万5884人の方が犠牲となり、今も2633人の方の行方がわからないままです。
この辺り、気仙沼の内湾地区も最も高いところで11mもの津波に襲われました。
かつて商店が建ち並んで賑わっていた場所は更地のままです。
番組では、構成上、必要最小限の地震や津波の映像を放送しますがご了承ください。
震災の発生から3年、被災地の風景や人々はどう変わったのでしょうか。
3年間の映像から見えてくるものがあります。
突如襲いかかった未曽有の地震と想像を絶する津波は私たちから多くのものを奪っていった。
この日から3年、被災地はどう変わったのか。
町の職員ら43人が犠牲となった防災対策庁舎。
保存か解体か。
町と県の意見が分かれ、結論は出ていない。
岩手県内でも最大の犠牲者が出た陸前高田市。
特に水田は、作付面積のおよそ7割が被害を受けた。
震災後、被災地には多くのボランティアが訪れ、瓦礫の撤去作業などをしていた。
あれから3年…。
後藤和利さんは、震災の被害に遭いながらもボランティアで田畑の整備をしている。
住民に頼まれ、およそ4000坪の土地を管理している後藤さんはこれまで多くのボランティアの人に支えられてきた。
しかし…震災当時に比べ、ボランティアの人数は年々減少傾向に。
寄付などの支援も減っている。
漁業を営む新田圭二さん。
当時、瓦礫の撤去作業のわずかな日当で生活をしていた。
あれから3年。
念願のホタテ漁を去年10月から再開。
今月いっぱい出荷作業が続く。
一見、震災前の状態に戻ったように見えるが…震災により、越喜来湾で漁業を営む人は半分に減少。
新田さんも、このままやめようか悩んだと言う。
気仙沼漁港のシンボルともいえる気仙沼女子高等学校。
先週、震災の年に入学した生徒18人が卒業を迎えた。
そして、卒業式の後には、特別なセレモニーがあった。
先週、18人が卒業を迎えた気仙沼女子高等学校。
その後、行われたのは閉校式だった母校がなくなってしまうのは、悲しいことですがこの場所での出会いや経験はこれからどんなに年を重ねても消えずに残るものです。
震災は、もともと少子化などで減少傾向にあった生徒数に拍車をかけた。
そして、2011年7月、急きょ閉校することが決まった。
卒業した18人は、希望を胸にそれぞれの新たな道へと旅立った。
宮城県気仙沼の内湾地区はようやくまちづくりが始まろうとしています。
最初にご紹介したいのは、新しい町のシンボルになりそうなこちら、去年の11月にオープンしましたカフェです。
高台から見てみますと、港に寄り添ってたたずむ五角形のテントのような建物です。
こちらのカフェのオーナーは、俳優の渡辺謙さん。
そしてカフェの灯台のマークには様々な思いが込められています。
被災地のこれからを見つめる新しい取り組みを取材しました。
気仙沼にオープンしたばかりのカフェ、K−port。
オーナーは、俳優の渡辺謙さんです3年前、壊滅的な被害を受けた気仙沼の港町です。
1カ月後、渡辺謙さんは避難所の訪問を始めていました。
その言葉どおり、時には国際会議の場で東北の現状を語り、そして、世界の俳優仲間に呼びかけ応援メッセージを送り続けました。
被災地に何度も通い、寄り添う中、いつしか気仙沼に友人の輪が広がっていきました。
仲間と一緒に考えたい。
きっかけは、鮮魚店を営む安藤さんの思いでした。
魚市場前で被災した店を再建し、何より町の明かりを早く取り戻したいと語りました。
何かここの一角に、例えばうちの会社がある、それで、隣に自転車屋があって上がジムになってるとか。
その隣がカフェであったりとか。
これを謙さんに話したら?店づくりを後押ししたのは、コーヒーショップのオーナー、小野寺さんです。
海沿いにあった2つの店は全壊し、仮設で営業する中、謙さんのサポート役を引き受けました。
仲間とカフェの構想を練り始めて1年半あまり。
謙さんが見ておきたかった場所があります。
気仙沼で長年愛されてきたジャズ喫茶です。
もうすっかり泥かぶっているもんで。
大体の泥は落としたんだけど、中はまだ洗ってないから。
店は泥まみれになりましたが、被災した翌日から、開店の準備を始めたと言います。
港町・気仙沼。
謙さんが仲間と思い描いた店は、様々な船を受け入れては見送る心の港のような存在です。
ここですね、わー、不思議な形をしていますね。
屋根がなだらかな曲線と。
うわー、なんかステキですね。
お邪魔します、今日よろしくお願いします。
ここ、お靴を脱いでいただくことになってるので。
いいですか、申し訳ないです。
珍しいですね?そうなんですよ。
なんで?小屋みたいな形がしますね。
ちょっとRもついてて。
ちょうどフェリーが今、入ってきました。
ホントだ、うわー。
最高の場所ですね。
何もそれ以上のことを求めようというよりかは、本当にちょっとした息抜ける場所というか。
Kーportは、くつろぎの時間と場所をもたらしているだけではありません。
謙さんは、自らキッチンに立って人々を出迎えることもあります。
カウンター越しに情報を交換しながら次のアイデアを温めています。
訪れていたのは、新たな名物をつくりたいと気仙沼に戻ってきた若者です。
カフェの常連になった高校生のグループは、積極的に町おこしに取り組んでいます。
ただ今、学生向けの気仙沼ツアーを計画中。
謙さんは、よき相談相手です。
どういう関係なんだろう?一緒に何かをつくりたい。
デザートを共同で開発しようと地元の菓子職人に持ちかけました。
津波に流されたコヤマ菓子店は明治時代から続く老舗でした。
店と自宅の跡地は手付かずのままです。
味を継いだ5代目は間借りした店舗で営業を再開。
謙さんの呼びかけに、新たな挑戦が始まりました。
オーブン皿いっぱいに並んだKの文字。
シュークリームの生地に思いを込めます。
期待と希望も膨らみます。
被災地に通い続けて3年。
謙さんが今、気になっていることがあります。
町は晴れやかな若者で久々の賑わいを見せていました。
気仙沼のカフェ、K−portではオーナーの渡辺謙さんが準備に追われていました。
招いたのは、成人式を迎えたばかりの若者です。
言ってみれば、この2年10カ月をどう過ごしてきたのかも聞きたいし。
みんなは気仙沼?帰ってきた?帰ってきました。
地元で働いています。
震災が起きたのは高校2年生のときでした。
混乱の中、それぞれが決断を下していました。
高校3年生のときって、結構やっぱり悩んだ?震災で親しい消防士が殉職したのです。
横田さんは、気持ちを奮い立たせ、地元で消防士になる決心をしました。
うれしいね。
これだけで、何か新チーム結成みたいだな。
被災地を見つめて3年。
今、仲間たちの変化が気になっています。
一緒にカフェをつくった友人で鮮魚店を切り盛りする安藤さんは復旧の遅れに憤りを隠せません。
町を支える水産業。
魚市場の岸壁は、1年前に補修を終えているはずでした。
市場全体の完成は2年後の予定ですが工事は、ずれ込んでいます。
Kーportが建つ内湾は、気仙沼の玄関口です。
更地が広がり、町並みは戻っていません。
菅原さんは、まちづくりのリーダー役を担っています。
経営する酒造会社は、地区のシンボル的存在でした。
町の再生に乗り出すと立ちはだかったのが県の防潮堤計画です。
当初、示された高さは6mを超え、安全か、景観か、住民の議論は長引きました。
先月、内湾地区の代表者が集まりました。
新しい町の全体像を、模型をつくり、考え始めたのです。
そして、町並みに合った防潮堤の姿を住民から行政に提言することになりました。
夕方最高でしょう。
だってさ、しゃべんなくてもいいんだもん、ぼ〜っと30分こうやって、黙って海、見ていられるもんね。
K−portの新メニューが完成していました。
謙さんと気仙沼の菓子店がやりとりを重ねた成果です。
いいね、かわいい、かわいい。
軽いじゃない、すんごい軽い。
うん、すっごいいいバランスだと思います。
支援ではなく、つながりを。
気仙沼を思う人と気持ちが繋がって新しい可能性が生まれています。
みんなの目につくし、何かが始まったなって思うそれは思ってほしいですね。
やっぱり0と1は違うので。
だから、そういう意味の1の大きさっていうのは、もちろん僕も大事にしたいと思うし、そういうふうには思っていただきたいとは思うんですけど、でも、1ですよ。
これから100まで育っていく町の?そのどこかを担いたいとは思いますよね。
今日もKーportは通常どおり営業しています。
とてもすてきなところなので中を少しご案内したいと思います。
お邪魔します。
中は暖かいです。
靴を脱いで入るんですけどもね。
入ってすぐのところに、わかりますか、こちら。
渡辺謙さんからのメッセージが届いています。
直筆のメッセージを東京、そしてアメリカからほぼ毎日、FAXで送ってきているんだそうです。
今日は息子の卒業式でそちらに伺えません、大切な日、離れていてもつながっています、ゆっくりゆっくり一緒に前に進んでいきましょう、謙。
このように今日のメッセージも届いています。
店内にはこちらのカフェの設立を一緒にやっていらっしゃいました、磯屋水産の安藤さんにお越しいただきました。
安藤さん、このKーportという拠点ができて町づくりのどんな力になっていますか?本当に気仙沼というのは、見てわかるとおり、内湾っていうか、海が顔なんですよそれで震災によって、海の施設がみんなやられちゃったわけですよね。
そこを何とか早く復旧したいという思いの中で謙さんがK−portということを立ち上げていただいたんで本当にうれしく思っています。
そして、これから、Kーportって、まだできたばかりなので、みんな素人で思いだけでやったわけですよ。
それを今から一つずつ、Kーportをすてきな場所にしていって、気仙沼で我慢して暮らしている人たちも、気仙沼の人とか、外から来た人にも本当にこの場所を使い倒していただきたい。
使い倒してほしいですか。
はい、だから本当にいい場所になってほしいなと思って、日々みんなで頑張っていろんなこと考えています。
そして、まちづくりなんですけれども、丸3年たって、復興の課題ってどういうところにあるとお感じですか?この3年目という言葉の中に、皆さん、いろいろボランティアとか特に阪神・淡路を経験した人たちが来ていただいて、お話をいただいたんですね。
3年目はきついよと、まだ見ない敵に対して、我々もどうしていいのかと思いつつも、やっぱり頑張るしかないと。
それで本当に頑張ってる我々と頑張っている姿を全国の皆さんに、1回でも来ていただきたいという思いですね。
ありがとうございました。
さて、時刻は2時30分を回りました。
間もなく始まる政府主催の追悼式では天皇陛下がお言葉を述べられます。
震災で傷ついた国民に心を寄せられてきた3年間を振り返ります。
天皇陛下は東日本大震災から5日後、被災者と国民に向けてビデオメッセージを発表されました。
被災者のこれからの苦難の日々を私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。
陛下がテレビを通して国民に直接語りかけるのは初めてのことでした。
両陛下は、避難所からお見舞いを始め、4月下旬からは東北地方を訪れました。
壊滅的な沿岸部を見た両陛下は犠牲者に対し、長く黙礼し、避難所では、多くの被災者の声に耳を傾けられました。
福島県相馬市では犠牲者を悼んで雨が降る中、そっと傘を畳み、黙礼されました。
この日まで、被災地への訪問は実に7週間連続で行われました。
翌年には、心臓の手術を受けることとなった天皇陛下。
しかし、手術のおよそ1カ月後の東日本大震災一周年追悼式に出席された天皇陛下。
心臓バイパス手術を受け、1週間前に退院されたばかりでした。
その後も福島県で放射性物質の除染作業について説明を受けられ、被災地支援のためのチャリティーコンサートなどにも積極的に足を運ばれました。
また、国際親善や各国の要人との会見の場では支援に対し、感謝の言葉を述べられてきました。
大震災発生から今日までの3年間、両陛下は、常に被災者に心を寄せ続けています。
震災が発生した午後2時46分まで、あと6分となりました。
あれから3年、政府主催の追悼式典の会場です。
天皇・皇后両陛下が間もなく入場なさる予定です。
会場には、ご遺族の代表を初め、閣僚、政府関係者、各国の大使などおよそ1200人が参列しています。
舞台上の式壇は今年も白い花で埋め尽くされています。
被災地・岩手のシラユリとスイセン宮城、福島のシラギクです。
式壇中央の標柱には、東日本大震災犠牲者之霊と記されています。
参列者が起立して、両陛下をお迎えします。
この1年も、両陛下はたびたび被災地を訪れ、被災した皆さんをお見舞いし、励ますとともに、後方支援に当たった関係者にねぎらいの言葉をかけてこられました。
そして今も作業現場で働く人々の安全を日々祈っていらっしゃるということです。
今、式壇中央の標柱に頭を下げ、そして、ゆっくりとお席に向かわれます。
国民皆が苦しい人々の荷を少しでも分かち持つ気持ちを失わず助け合い、励まし合っていってほしい、陛下は、この正月、そう国民にメッセージを送られました。
東日本大震災の死者は1万5884人、そして、いまだ2633人の方の行方がわかっていません。
震災後の避難生活での過労、自殺などによる震災関連死と認定された方は岩手、宮城、福島の3県でおよそ3000人いらっしゃいました。
あれから3年の月日が経ちましたがいまだ26万7400人あまりが避難を続けています。
菅官房長官の開式の辞です。
ただいまから東日本大震災3周年追悼式を挙行いたします。
追悼式が始まりました。
「君が代」斉唱の後、震災発生時刻の午後2時46分に黙とうが捧げられ、安倍総理の式辞に続いて、天皇陛下がお言葉を述べられることになっています。
国歌斉唱を行います。
皆様、ご起立願います。
続きまして、14時46分の時報を合図に東日本大震災によって犠牲となられた方々に黙とうを捧げます。
この14時46分に黙とうを捧げるため、この式典会場と、多くの県、市町村の式典会場とが画像中継により、結ばれております間もなく午後2時46分を迎えます。
東日本大震災の死者は1万5884人。
そしていまだ2633人の方の行方がわかっていません。
黙とう。
黙とう、終わります。
ご着席願います。
鎮魂の1分間が終わりました。
被災地で、そして全国各地であの日を思い、犠牲となられた方々への静かな祈りが捧げられました。
安倍総理の式辞です。
被災地の復興なくして日本の再生なし、就任以来、そう繰り返してきた安倍総理。
この1年、ほぼ毎月、被災地に足を運んできました。
本日ここに、天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ東日本大震災三周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、慎んで追悼の言葉を申し上げます。
かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から3年の歳月が経ちました。
この震災により最愛のご親族を失われたご遺族の方々の深い悲しみに思いをいたすとき今なお悲痛の思いが胸に迫ってまいります。
ここに改めて、衷心より哀悼の意を捧げます。
また今なお行方のわからない方々のご家族を初め、被災されたすべての方々に心からお見舞いを申し上げます。
被災地に足を運ぶたび、営農の災害や水揚げに沸く漁港、災害公営住宅に入居されたご家族の方など、復興が一歩一歩前に進んでいることを実感いたします。
しかしながら、今なお多くの方々が不自由な生活を送られています。
原発事故のために、いまだ故郷に戻れない方々も数多くおられます。
復興をさらに加速し、被災者の方々が一日も早く普通の生活に戻られるようにすることが天国で私たちを見守っている犠牲者の御霊に報いる道です。
同時に、大地震の試練から我々が得た教訓をしっかりと胸に刻み、将来の様々な災害から国民の生命、身体、財産を守り抜くため、産まずたゆまず災害に強い強靱な国づくりを進めていくことをここに固くお誓いいたします。
復旧、復興の前進も地元の方々のご努力、関係機関の尽力はもちろんのこと全国各地から多くの支援に支えられてのものです。
この震災では、本日ここにご列席の世界各国、各地域の皆様からも多くの温かく心強いご支援をいただきました。
改めて感謝の意を申し上げたいと存じます。
我が国の先人たちは、幾多の困難を克服し、そのたびによりたくましく立ち上がってきました。
今日を生きる私たちも、それにならい、手を携えて、前を向いて歩んでいくことを改めてお誓いいたします。
御霊の永遠に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を心から祈念し、私の式辞といたします。
平成26年3月11日、内閣総理大臣・安倍晋三。
総理の式辞でした。
復興をさらに加速し、被災者の方々が一日も早く普通の生活に戻られるようにすることが犠牲者の御霊に報いる道である、災害に強い強靱な国づくりを進めていくことをかたく誓うと総理は述べました。
また、昨日の会見では、これからはハード面の復興のみならず、心の復興に一層力を入れていくと強調しています。
天皇陛下からお言葉を賜ります。
80歳、傘寿を迎えられた天皇陛下そして、79歳になられた皇后さま震災と原発事故の被災者、被災地に心を寄せられ、その後の日々を案じてこられました。
今ゆっくりと犠牲者の霊の前にお二人で歩まれます。
震災から3年。
天皇陛下のお言葉です。
本日、東日本大震災から3周年を迎え、ここに一同とともに、震災によって失われた人々とその遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。
3年前の今日、東日本を襲った巨大地震と、それに伴う津波は2万人を超す死者・行方不明者を生じました。
今なお、多くの被災者が被災地で、また避難先で困難な暮らしを続けています。
さらに、この震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
この3年間、被災地においては人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々がこうした努力を支援するため引き続き、様々な形で尽力していることを心強く思っています。
被災した人々の上には、今も様々な苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう、長きにわたって国民皆が心を1つにして、寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同とともに願い、御霊への追悼の言葉といたします。
被災地を思う深いお気持ちが伝わってきます。
震災の風化も懸念されていますが、私たち1人1人がいま一度、胸に刻みたいお言葉でした。
この後、ご遺族代表などが追悼の辞を述べ、午後4時半からは一般の方の献花が予定されています。
東京の追悼式典の会場からお伝えいたしました。
ここからは、JNN三陸支局からお伝えします。
続いては福島の3年、その報告です東京電力福島第一原発の事故以来、福島県では、現在でもおよそ13万人の方が避難生活を強いられています。
去年、避難区域が再編されました。
立ち入りの規制が緩和された場所もあるんですけれども、7つの市町村にまたがる帰還困難区域には今でも自由に立ち入ることはできません。
そんな中、南相馬市で力強く歌う合唱団がいます。
南相馬ジュニアコーラスアンサンブルです。
原発事故の影響で遠くの町に避難したメンバーもいまして、離ればなれになりながら、歌い続けてきました。
子どもたちの3年間は世界へと届きました。
先月の終わり、ウィーンコンサートを前にした最後の練習。
ボイスリーダーの高野瑠名さんはまさかこうして歌えるとは、思ってもいませんでした。
合唱団の名は南相馬ジュニアコーラスアンサンブル、MJC。
今から3年前、MJCの指揮者、金子洋一さんは荒れ地のようになってしまった南相馬の一角に黙々とカメラを向けていました。
しかしこのとき、誰もが歌うことなど忘れていました。
南相馬市で写真館を営んできた金子さん。
地元の中学生や高校生を集めてMJCを結成したのは5年前。
けれど、震災後はメンバー19人のうち、12人もが避難生活を送っていました。
中には、津波で自宅が流され、仮設住宅で暮らすメンバーもいました。
大震災の後にMJCのメンバーになった斎藤彩夏さん。
避難所で聞いた合唱曲に心を打たれたのがきっかけでした。
しかし、薄い壁で仕切られた仮設住宅での生活は、声を出しての練習はできません。
大震災から54日。
久しぶりの再会。
避難先の仙台から、何とか瑠名さんがたどり着きました。
MJCは、かつての歌声を取り戻しました。
集まることができたのは10人。
あの日以来の再会でした。
当時、南相馬市の一部は避難区域に指定され、人口は2割あまりにまで減っていました。
南相馬の町角で歌い続けた合唱団は、世界中の支援に感謝の気持ちを込めて、歌声を届けました。
震災後に歌ったステージは50。
少女たちが交わした約束はどんなことがあっても歌い続ける。
あの大震災から2回目の夏。
金子さんは、かつて瓦礫に埋め尽くされていた場所にいました。
2年そこそこで、こんな状態でここに立てるとは思わなかったですよね。
そこ、船あったんですよね、でっかいのが。
あの風景は想像できないでしょうね。
その場所は、いつしか緑に変わっていました。
そして、MJC。
卒業したメンバーもいますが、新しいメンバーも加わり仲間は26人に増えました。
実はこのとき、大きなプロジェクトが進んでいました。
音楽の都ウィーンで南相馬、復興へのメッセージを込めて「第九」を歌うのです。
瑠名さんは、震災から3年の節目となるコンサートにある決意を持って臨んでいました。
宮城県仙台市、震災後に避難した瑠名さんがここで暮らし始めて間もなく3年となります。
瑠名さんは今、北海道芸術高校・仙台キャンパスに通う1年生。
夢いっぱいの瑠名さんですが、3年前には、つらい経験もしました。
その不登校になっているときに行っていたのがMJCなんですけど。
毎週末のMJCの練習にはバスと電車を乗り継ぎ、往復6時間をかけて通い続けました。
活動再開以来、練習を休んだのは数えるほど。
瑠名さんはウィーンで世界に向けて伝えたいことがあると言います。
今月2日、福島県南相馬市の合唱団MJCアンサンブルのメンバー22人はいよいよオーストリアへ。
着いたのは、MJCのメンバーもあこがれるオーストリアの首都ウィーン。
古代ローマ時代からの歴史を持つ街はベートーヴェンやモーツァルトなど世界的な音楽の才能が集まり、栄えました。
街並みだけでも絵になるってすごいな。
世界中の街角で歌ってきたMJCは平和への祈りを込めてウィーンの街角でも歌いました。
東日本大震災の復興支援の意味も込めた歌う第九コンサート前日。
リハーサル会場には日本から一般公募の合唱愛好家300人が集まりました。
MJCが共演するのは日本とオーストリアの有名なソリスト、そして合唱団や演奏家。
総勢500人が国境を越えて「交響曲第9番、第九」を奏でます。
天使の歌声と称されるウィーン少年合唱団は500年を超える歴史の中で、初めて「第九」を歌います。
オーケストラと声を合わせるMJCのメンバーの顔から緊張感が伝わってきます。
一夜明けて、コンサート当日。
会場は世界中の音楽ファンがあこがれるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、ウィーン楽友協会、黄金の間。
絶対に普通にさ、このまま合唱続けてても入る機会はなかったと思う。
ないよ、絶対ないよ、こんなとこ。
本番が近づくにつれてボルテージが上がっていきます。
しかし、MJCのメンバーは依然としてかたい表情です。
クラシック音楽を愛するたくさんの人たちが会場を埋め尽くしました。
クラシック音楽の聖地で、「歓喜の歌」が始まります。
MJCの出番。
今まで経験したことのない緊張感。
歌い出した瑠名さんは、笑顔でした「第九」に込められているのは、すべての人は幸せになれる、私たちはすべて兄弟。
東日本大震災、被災地の復興を願って全世界に届けられます。
MJCは歌いました。
力強く、世界中へ、3年間の思いを込めて。
鳴りやまない拍手。
歌の力が、人の心を動かしました。
大観衆に向かってこぶしを掲げる金子さん。
瑠名さんは、こみ上げてくる感情を抑えることができませんでした。
南相馬の合唱団が伝えたメッセージ、それは、南相馬は元気です。
さて、こちらは福島県は相馬市にあります相馬中村神社です。
そしてこちらにVTRにも登場していただきましたMJCアンサンブルの皆さんに集まってもらっています。
今回は、お母さんコーラスの方々にも参加をしていただきましてオリジナル曲の「Pray」をここで披露いたします。
さて、どんなことがあっても歌を歌い続ける、そんな思いを胸に、彼女たちは歌います。
ではお聞きください、MJCアンサンブルで「Pray」。
どうもありがとうございました。
ではメンバーの方に話をうかがおうと思います。
ご紹介します。
仙台に避難して、毎週末3時間かけて合唱の練習に通っているという高野瑠名さん。
そしてお隣が最年少の小学校5年生の沖沢優希子さんです。
高野さんは本当にいろんな経験をこの3年間でしたと聞いています。
それでも強くこの歌を歌い続けることができた、これはどうしてだと思いますか?震災が起きた年はつらいことや悲しかったこと、いろいろあったんですけれども、その中でもこのMJCに通うということで明るい気持ちや笑顔をいっぱい取り戻していってそのぐらいMJCは自分にとってとても大きな存在で、なので今でも楽しくここに通っています。
お隣、沖沢さん、どうしてこの合唱団に入ったんですか?合唱が好きで、どこかの合唱に入りたいなと思っていたときに金子さんが母に声をかけてくださってそれで入りました。
お姉さんたちとは仲良くやってる?はい、とても優しくしてもらっています。
笑顔が印象的な2人でございました。
2014/03/11(火) 14:00〜15:20
MBS毎日放送
報道特別番組「震災3年・復興と未来〜“これから”のために〜」[字]
俳優の渡辺謙さん、新たな挑戦。被災地・気仙沼で仲間と作ったカフェに込める思い▽福島の合唱団がウイーンへ▽復興の町づくりに誤算が▽原発作業員を救え…廃炉への難題
詳細情報
番組内容
宮城・気仙沼の港町にカフェ「K−port」を立ち上げた渡辺謙さん。出会った仲間と、新しい形の「拠点」をつくりました。一方、肝心な町の再建は遅れに遅れています。▽福島・南相馬の合唱団「MJCアンサンブル」。苦難を乗り越え成長した彼女たちに、ウイーンで歌う機会が舞い込みます。▽人口減少、産業の衰退…かつて災害からの復興事業が招いた「誤算」から、いま学ぶ教訓とは?▽原発作業員の実態▽東北から全編生中継
出演者
【キャスター】
膳場貴子
【VTR出演】
渡辺謙さん
【中継リポート】
長岡杏子 蓮見孝之(TBSアナウンサー)
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ニュース/報道 – 報道特番
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