民教協スペシャル 嗣治からの手紙 2014.02.11

(語り)「戦争が烈しい間はいいものが出来ます。
戦争がすんだらもう描けません」。
絵は日本全国を巡回。
その前には賽銭箱が置かれ人々は手を合わせた。
絵は祈りの対象だった。
その祈りは戦意高揚と敵がい心に姿を変え人々を戦いに駆り立てた。
戦後絵は人々の前から消え去り藤田は日本を棄てた。
終戦を挟み藤田がしたためた6通の手紙。
これまで人知れず友人の画家のアトリエで眠っていた。
「結局私どもは成すべき事をなして破れたので決して後悔はしません。
やはりああいう道を渡らなければならなかった運命に生れたのだったと思います」。
画家はなぜ戦争を描いたのか?山あいの「藤野」と呼ばれる集落に1944年の夏洋画家藤田嗣治が疎開した。
大概いらっしゃるときには自転車の後ろに籠をつけて野菜類や卵だとかそういうのを仕込むんですよ。
(取材者)それ藤田先生がですか?
(大房)そうですね。
大概いつも自転車で籠つけて乗っていらっしゃった。
進駐軍がトラックで画伯の絵を取りに来たときにはみんな村の人たちが驚いてこんな偉い人がここの村に疎開されてたっていうことをそこで改めてびっくりしたということをお聞きしてますね。
当時世界で最も知られていた日本人の画家。
疎開したときは57歳になっていた。
1945年6月藤田は疎開先から友人に手紙を出した。
「海軍記録画準備中。
頭の中に想をねってます」。
宛先は福岡県出身の洋画家…2人は画家として互いに認め合う仲だった。
ここに中村のアトリエがあった。
中村の養女馬目世母子さんが藤田からの手紙を見つけたのは1989年のことだった。
(取材者)アトリエには2階があったんですね。
(馬目)はい。
ここに研一が大事にしてた納戸がありましてその中に大事な書物がみんな収められてる。
その中に藤田さんの手紙も整理されてきちんと今まで残っていたということなんです。
(取材者)これ全部で6通あるんですね。
(馬目)はいそうです。
6通あります。
藤田から中村へ宛てた6通の手紙。
見つかってから四半世紀を経て初めて公にされた。
最も消印が早いものは1945年6月11日。
首都・東京が米軍の大空襲に遭い焦土と化した直後だった。
「とうとう君のあのシャボテンの家も灰となった由。
結局疎開されて負傷もなくてすんでよかった」。
中村の無事の喜びを短く結んだ藤田は意味ありげに言葉を続けた。
「八日陸美の理事会あり出席。
委しい事はかけぬ」。
「それで分るだろう」。
藤田は美術活動を統制する陸軍美術協会の理事長を務めていた。
軍部は画家に戦意高揚のための絵画を要求。
絵の具など必要な資材を管理した。
当時東京美術学校で絵を学んでいた。
絵の具がないからね…配給という言葉がよく誤解されるけど…
(砲撃音)陸軍も海軍も従軍画家を組織し戦地へ送った。
画家たちにはそれぞれ描くテーマが与えられていた。
藤田も中村も戦地を視察し戦争画を描いた。
派遣されて現地のそういう所で実際の様子を見てきて描いてくる。
その人たちは花形なんです。
だから当時その人たちはさっそうたるもんでしたよ。
「呑気にしていては駄目だ。
有史以来未曽有の大戦なりと思え」。
『哈爾哈河畔之戦闘』。
中国戦線に派遣された藤田が1939年の「ノモンハンの戦い」を題材に描き上げた。
縦1m40cm横4m48cmの巨大なキャンバスいっぱいに広がる戦場。

(砲撃音)これまでにない壮大かつ躍動的な戦争画。
藤田のこの絵は見る者の心を動かした。
軍部は戦争画の巡回展を全国で行い300万人とも400万人ともいわれる人々が詰めかけた。
「国民の戦意高揚に大きな役割を果たした」。
軍部は藤田の絵を絶賛した。
この絵で藤田は戦争画のスターとなった。
「素晴しい記録画かいて後世に残したい。
気重くして田園生活や茶道楽しむな。
もっと重大だぞ」。
26歳でフランスに渡った藤田。
乳白色の絵肌と繊細な黒い線を用いた藤田の絵はパリの画壇を風靡。
「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた。
おかっぱ頭がトレードマーク。
藤田はパリの社交界でも注目を一身に集めた。
しかし名声を得たフランスに比べ日本での評価は低かった。
「あんなものを日本の芸術というならそれは日本の恥である」。
「国の恥」とまで言われた藤田。
その事実は心に重く残った。
その藤田が戦争という題材を得て画風を大きく変えた。
藤田の『自画像』。
アジア太平洋戦争が始まる前年の1940年フランスから帰国したばかり53歳の藤田はトレードマークのおかっぱを切った。
海外で頑張れば頑張るほど自分のバックボーンを意識せざるをえないというところがあってそして日本に帰ってきて…それがおかっぱを切る行為に走らせたのかもしれないですね。
「日本が戦争に武力を以て勝ち芸術でも又米国をやっつけなければなりません」。
決意に満ちた思い詰めた表情。
この『自画像』を描いた年藤田は一世一代の戦争画を描き上げる。
1942年アメリカ領のこの島を2,600名余りの日本軍が占領。
翌年の5月1万人を超えるアメリカ軍の攻撃を受け全滅する。
「玉砕」という名のもとに死んでいった兵士たち。
藤田嗣治作…アッツ島の守備隊が全滅した1943年の夏。
藤田はひとつきの間アトリエに籠もりこの絵を描いた。
野見山さんは上野の美術館で『アッツ島玉砕』をそして藤田本人を見た。
そして…地獄のような殺りく図。
人々は賽銭をあげ手を合わせた。
すると藤田さんはお賽銭をあげる人にこうやってやってるんですね。
僕もお賽銭をあげたら…。
「ほんとに藤田さんがこうしたよ」何て言ってね。
藤田さんはほんとに厳粛にやってました。
人々の祈りの対象となった藤田の絵。
しかし当初軍部はこの絵に難色を示した。
「真に迫りすぎて戦意の高揚にならない」。
藤田は声を荒げた。
「悲惨でない戦争などありますか!」。
日本の敗色が濃厚となった1944年の夏藤田は戦火を逃れるため東京から神奈川県藤野町に疎開した。
この静かな集落には藤田が描いた絵が今も残されている。
実はおじいさんの時代酪農家だったんですね。
酪農家なんで搾りたての牛乳を藤田ご夫妻に4合瓶に2本ぐらいですか1日置きにプレゼントしていたそのお礼として描かれた…。
牛乳のお礼として藤田が描いた…藤田は気軽に絵を描いた。
(大房マサ子)主人の父が「こんな絵を残していってくれたんだよ」ってそれがこれなんですけど障子紙ですよ。
お野菜をもらったおうちにいろんなもの描いてったみたい。
空襲の心配もないのどかな疎開先でつましくもゆったりと暮らしていた藤田。
しかし戦争画は描き続けた。
畳4畳ほどもあるこの絵を藤田は疎開先で描いた。
戦局は悪化の一途をたどった。
サイパン島の日米攻防戦で日本は完敗。
民間人およそ1万人が命を落とした。
「本土決戦を間近に愈々吾等の戦争画も尤も傑作の時に入りました。
日本の勝利は確実であります」。
(砲撃音)1945年6月23日。
沖縄が陥落した。
「琉球も描かねばなりますまいが本土決戦の図こそ生れて甲斐ある大作としなければなりません」。
「生れて甲斐ある大作」それは本土決戦の絵。
しかしその機会はなかなか訪れない。
「近頃猫を飼いました。
とても悪戯で時々はタオルで包んで置きます。
皆ねずみ共は隠れて出なくなり大いに喜んでます」。
あの方の猫っていうのはいいですよね。
何となくね。
普通の猫って感じではなくて何か違う感じじゃないですか。
手紙に描かれた猫は絵筆を振るえない藤田のむなしさの表れだった。
藤田は疎開先で終戦を迎える。
「悪夢を見て居た様に足でけとばされた様に呆然とし失望して殆んど気ぬけした様になりました」。
敗戦後戦争画を描いた画家は戦犯に問われるといううわさが流れた。
藤田は描きためた戦争画をみずから焼いた。
諸角晋さんは絵を焼く藤田の手伝いをした。
(取材者)「焼いてくれ」と言うものだけを?そうそう。
「我家より軍事色を一掃して悉く棄て三日努力してやっと一通り落ち付いた処です」。
藤野で酒屋を営む諸角さんは子どもの頃一軒隣に疎開してきた藤田にかわいがられた。
藤田が絵を焼いたのは疎開した家の前だった。
(取材者)その絵を焼かれるときに藤田さんはその場にいらっしゃったんですか?ええいました。
大抵いたね。
(取材者)どんな絵だったんですか?「いろいろ私の手紙等焼いて下さい」。
多くの日本人と同じく戦争の痕跡を消そうとした藤田。
その一方で藤田は奇妙な行動をとる。
『アッツ島玉砕』の署名。
横文字で「T.Fujita1943」と書かれている。
こちらは写真に残された戦時中の『アッツ島玉砕』。
縦書き漢字で署名されている。
年号の「2603」は日本独自のものだ。
戦後藤田は署名を書き換えていた。
その様子を間近で見ていた女性がいる。
(取材者)一番右にいらっしゃるのが?
(野見山)矢田部さんですね。
野見山さんの知り合いだった矢田部艶さん。
女子美術専門学校を出たあと絵を描く藤田の手伝いをしていた。
矢田部さんは藤田に署名を書き換える理由を尋ねたという。
「どうしてそうするんですか?」と言ったら…「必死になって多少とも自信のある画をかいたと思ってます。
二三枚だけは残ればいいと思います」。
しかし戦争画を描いた画家は戦争協力者として非難が浴びせられた。
すごい反発があったんですね。
コロッと変わっちゃったんですよ。
(取材者)もてはやされてたのが急に?急にガタンですね。
(取材者)それは藤田も?
(馬目)藤田さんのほうがもっとすごいと思います私は。
「日本には始終敵が居ます。
もうこの上犠牲になるのも嫌だと思います」。
キャンバスに塗り込められた戦争。
人々は手を合わせ敵への憎しみを募らせた。
戦いが敗北に終わると喝采を上げていた世評は一変戦争の絵を描いたことは恥だとされた。
藤田は日本に日本人に失望する。
「強く美術の国へいきたい希望は旺盛です。
すべてお分りでしょう」。
敗戦の翌年藤田は日本を棄てる決意を中村に告げた。
研一はねちょっと…。
ちょっと驚いた。
いろんな相談は受けてアドバイスもしたりなんかしてお互いに分かり合ったんだけれどもでもフランスにいざ行くとなったら研一は驚いちゃった。
中村は日記にその驚きを記している。
「異常のショックをおぼゆ」。
敗戦から4年後1949年3月。
藤田は日本を棄てた。
「隠居にはなりたくない。
消極的にもなりたくない。
私達は創造者製作者であるから実行しなければならぬ」。
「戦争が烈しい間はいいものが出来ます。
戦争がすんだらもう描けません」。
戦争画を描き続けたいと願う藤田。
しかしそれは戦争を賛美していたわけではなかった。
疎開先に残された藤田の絵。
出征する少年兵に贈られた日の丸に描かれていた。
「マメにカエル」。
「元気に帰ってこい」という願いが込められている。
そういうことでもって藤田画伯が描いてくれたと思いますけどね。
生きて帰ることを望めなかった時代「元気に帰ってこいよ」と絵で呼びかけた藤田。
戦地へ向か2014/02/11(火) 09:58〜10:53
ABCテレビ1
民教協スペシャル 嗣治からの手紙[字]

「戦争と芸術」というテーマに立ち向かった画家・藤田嗣治。友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の、流転の生涯がにじむ…。藤田の心情を読み解く。

詳細情報
◇番組内容
「戦争と芸術」というテーマのもと、戦時中、多くの画家たちが国家のために戦争記録画を描いた。中でも、藤田嗣治は、敗色濃厚なときにあっても、このテーマに立ち向かい、そのために藤田は異国の地に去り、生涯日本に帰ることはなかった。敗戦後、戦争記録画は軍部のプロパガンダと貶められた。
◇番組内容2
藤田が友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじむ。渾身の力を込めた絵画が、そのまま戦争協力に短絡され、長らく批判にさらされ続けた藤田嗣治。その心情を読み解き「画家は戦争や国家とどう向き合ったのか」「敗戦を境に日本に何が起きたのか」その一端に迫る。
◇ナレーション
大沢たかお(俳優)
◇制作
企画:民間放送教育協会
制作著作:RKB毎日放送
◇おしらせ
番組HP

http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

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