地方発 ドキュメンタリー選▽最後の場所なくなる時〜釜石の悲劇 家族2年10か月 2014.03.11

土煙をあげながらトラックが行き交う被災地。
復興を進めて新たな町をつくるためこの冬取り壊される事になった一つの建物があります。
岩手県釜石市…「釜石の悲劇」と呼ばれる出来事が起きた施設です。
本来津波の避難場所ではありませんでしたが市の避難訓練でここを使っていたためあの日多くの人が逃げ込みました。
子供からお年寄りまで犠牲者は推定で200人以上に上ります。
その場所がなくなってしまう。
残された家族の心は大きく揺れ動きました。
結婚して僅か9か月の妻を亡くした男性です。
折に触れてこの場所に足を運んでいます。
生活の中でつらい事があったり苦しい事があったり一人が寂しい事があったり…。
そうするとここにきて…。
ここに避難した娘が今も見つかっていない夫婦です。
どこかに手がかりはないのか捜し続けています。
防災センター壊してる最中に周りから亡くなった人の骨が見つかるかもしれないし…。
最愛の人がいた最後の場所。
それがなくなる時。
家族たちの心の記録です。
およそ3,800人が暮らしていた釜石市鵜住居地区。
さら地が広がる町の中心に防災センターはあります。
去年秋。
住民たちが鎮魂の踊りを舞いここで犠牲になった人を供養していました。
震災以来防災センターに通い続け今も行方が分からない娘を捜す夫婦がいました。
鵜住居の幼稚園に勤めていた菜津子さんは防災センターに避難した事が分かっていますが今も見つかっていません。
どこに逃げたのかなと思ってね避難したのかなと思って…。
避難した場所は聞いてんだけどもそことは違う場所に避難してんじゃねえかなと思ったりしてね…。
菜津子さんが勤めていた幼稚園です。
そのすぐ隣に防災センターはありました。
菜津子さんは同僚や子供たちと一緒にここに避難したのです。
ほらこれ。
これが卒業式に…。
子供が好きで幼稚園の先生になるのが夢だった菜津子さん。
(疋田)ドジな事はドジなんだよ。
ドジだけども人の人一倍努力家でね。
会社勤めをしながら自分で学費を稼いで愛知県の短大を卒業しました。
夢をかなえた菜津子さん。
両親の事が心配だと一緒に暮らしていました。
(礼子)やっとなれた先生だったし本当に喜んでましたけどね。
昼寝させてて自分も一緒に寝てしまったとか。
防災センターに通っても通っても見つからない娘。
(疋田)毎日毎日書いてんだけど同じ事ばっかり書いてっから…。
生きている事を諦めず2年半以上帰りを待ち続けています。
(疋田)悲しいけども同じ文字なんだねえこれは。
頑張ってなんかいろんな事しなきゃとか思ってたけど日にちがたってくるとそういう気力がなくなってくるというのかななんか…。
もしかするとね壊して…防災センター壊してる最中に周りから亡くなった人の骨が見つかるかもしれないし…。
そういうの期待してんだけど…。
もし娘が亡くなっていたとしたら防災センターの解体で会えるかもしれない。
複雑な気持ちを抱えていました。
この場所がなくなってほしくないと願ってきた男性がいました。
防災センターに避難した妻を失いました。
結婚して僅か9か月だった…出産が間近で3月11日は産休前の最後の出勤日でした。
最も幸せだと感じていた時期に最愛の人を失ったのです。
理香子さんも鵜住居の幼稚園に勤めていました。
今も行方が分からない疋田菜津子さんは一番年の近い同僚でした。
片桐さんにとって特別な場所があります。
妻理香子さんが逃げ込んだと知らされた2階の部屋です。
震災から時間がたつ中で自然と足が向く事が多くなっています。
自分の本当に今の生活の中で一人がつらくてここに来たり今日みたいに素直に会いに来たり…。
う〜ん…。
いろんな思いで来てますからね。
片桐さんは釜石市内で美容院を経営していました。
津波で流され今は別の店で働いています。
2人が知り合ったのは妻理香子さんが髪を切りに来た事がきっかけでした。
笑顔にひかれ猛烈にアタックしました。
その最愛の人を助けに行く事ができなかった…。
自分を責め続けてきました。
(片桐)結婚式の時とか誓いの言葉とか言うじゃないですか。
「あなたを一生守ります」とか「大切にします」とか。
それが自分ができなかったんですよ結局は。
自分の命懸けても守らなきゃいけない人を守れなかったんですよ。
やりきれない思いを抱え続ける毎日。
生まれてくる女の子には太陽のように明るく彩りのある人生を送ってほしいと「陽彩芽」と名付けていました。
月命日の度に2人のお墓で手を合わせている片桐さん。
ここに来るより多く足を運んできたのが2人をもっと近く感じられるという防災センターでした。
震災から時間がたつ中で津波の爪痕をとどめ悲劇の教訓を伝えてきた防災センター。
釜石市はこの地区全体をかさ上げし新しい町をつくるため解体する事を決めました。
この日その方針を家族に説明する場が持たれました。
妻とおなかの子を亡くした片桐浩一さん。
娘が今も見つかっていない疋田礼子さんの姿がありました。
妻と娘が同僚だった2人。
互いの境遇について知っていましたが震災後言葉を交わした事はありません。
前に進んでいかなければならない。
市長としてもそういう苦渋の決断をさせて頂きました。
釜石市の判断の背景には保存を望む声がほとんど寄せられていなかった事があります。
壊してほしくないと願ってきた片桐さん。
この日思い切って自分の思いを伝えました。
解体が市長が決定してから正直私もそこで改めて解体について解体してほしくない思いが強くなりました。
今日まで過ごしてきた私のそして遺族の苦しさを経験してほしくないんです。
(片桐)それを伝えたいんですよ。
伝わらなきゃいけないんですあの場所で。
疋田さんは片桐さんの気持ちを初めて知りました。
しかしどんな言葉をかけたらいいか分かりませんでした。
防災センターの解体工事を翌日に控えた12月1日。
この日は疋田礼子さんの誕生日です。
(礼子)今日は菜津子の分の紫芋の…お芋が好きだったから。
震災の翌年死亡届を出しました。
しかし「いつかひょっこり現れるのではないか」その思いを持ち続けています。
携帯電話にお祝いのメッセージが届いていました。

(「HappyBirthdaytoYou」)送ってくれたのは娘の菜津子さんです。
去年もお祝いしてもらったね。
(信一)うん。
(礼子)セットしておいてくれたんだよね。
誕生日にお知らせメールが届くようにね。
震災の前菜津子さんが自分の携帯電話を譲ってくれた時母親を驚かせようと設定していました。
うれしいような悲しいような。
(信一)悲しい音楽に聞こえるよなこれすごく。
うん聞こえる。
同じ日。
それまで足を運べなかった防災センターに行こうと決意した人がいました。
防災センターから50mほどの場所。
花屋を営む…これとこれだね。
この2枚しかない。
防災センターに避難して亡くなった母親のキタさん。
その最期の顔を思い出してしまうと足を向けられずにいました。
普通だったらば穏やかにして亡くなってくじゃないですか。
やっぱりもがき苦しんですごい…何ていうんだろうそれが顔に出て…だったし苦しかったんだなというのがあって。
震災からおよそ2年9か月。
ずっと避けてきた母親がいた最後の場所。
解体されればもう二度とその場所で手を合わせる事ができない。
中に入る事にしました。
やっとこの日を迎えられました。
初めて見る母親がいた最後の場所。
じっと目に焼き付けます。
ゆっくりだけどこうやってゆっくり…中見たのも初めてだけどやっぱり今までの自分の気持ちとは違くて自分の気持ちもなんかすっきり。
どういうわけか分かんないけどなんか…。
今まで…何ていうんだろう複雑だった思いがなんか自分の気持ちの中ですっきりしたような感じ。
やっぱり…。
来てよかったかなって。
解体作業が始まりました。
残された家族の思いが詰まった祭壇が片づけられます。

(「浦島太郎」)建物の解体が始まりました。
行方が分からないままの娘を捜し続けている疋田さん夫妻です。
通う度に期待が裏切られ防災センターに足を運ぶのが日に日に苦しく感じるようになっています。
建物の解体が始まっても娘菜津子さんの手がかりは見つかりません。
この日はいつものように隅々を捜して歩く事なく立ち止まってじっと見つめていました。
(信一)ここの周りには絶対いるんじゃねえかなと思ってこの2〜3年…2年間思ってきたんだけどもこれなくなって何も出てこないとなるとやっぱりこの辺にはいないんだなって海の方なのかなと思ったりも…。
防災センターの解体が始まっても会えない事を手帳に記し続ける毎日。
「今日防災センターに行ってきた。
まだ半分くらいしか解体されていなかった。
早く解体されれば気持ちがいくらか楽になるんだろうか」。
そしてこの日も最後には…。
待つよ帰りは。
帰りは待つし死ぬまで待つから。
私たちが生きてるうちにね帰ってきてほしいけど…。
妻とおなかの子を亡くした片桐浩一さんです。
最愛の家族を一番近くに感じる場所がなくなろうとしています。
妻理香子さんが最後にいた部屋。
多くの時間を過ごしてきたこの場所の壁に心の内を書き始めました。
「忘れないでほしい」。
「ここで多くの命が失われたことを」。
「忘れないでほしい」。
「生きたかった命がここで絶たれたことを」。
「忘れないでほしい。
ここであった現実を」。
つらい時うれしい時いつも来た防災センター。
心のよりどころがなくなろうとしていました。
疋田礼子さんはずっと気になっていた片桐さんに会う事にしました。
娘菜津子さんと一緒に避難した妻理香子さんを亡くした片桐さん。
防災センターへの強い思いを知りいつか話をしたいと思い続けてきました。
どうも。
はじめましてですね。
話するのははじめましてだけどほんとに…。
互いの事を気にかけながら言葉を交わすのはこの日が初めてです。
疋田さんにはどうしても伝えたい事がありました。
娘菜津子さんと理香子さんは2人の園児を連れて避難していましたが2人とも奇跡的に助かりました。
その子の祖母に会った時にかけられた言葉です。
助かったうちの一人の子のおばあちゃんが私の同級生だったの。
「孫助けてくれてありがとう」って。
だから理香子先生と菜津子が命に代えて守ったんだなと思って。
その時はね片桐さんの事もね全然頭の中になかったしもうだんだんに時間がたってきたらもしや片桐さんや寺澤さんに会ったらねその事を伝えたいなと思って。
2人で守った命だって。
きっとその子たちも頑張って生きてくれると思うしね。
うちの主人です。
今日新年会でもし時間があったらって言ってたみたい。
(片桐)どうもはじめまして。
すみません遅くなって。
(片桐)どうぞどうぞ。
用事に行っていた信一さんが駆けつけました。
はじめまして…。
疋田です。
ほんとに…。
(片桐)ほんと妻がお世話になりまして。
こちらこそほんとにありがとうございます。
(すすり泣き)悔しいですよね…。
震災以来誰にもぶつけられない思いを抱え続けてきた2人。
どうしても自分の話ができなくなって誰にも話せない。
(礼子)ほんとだよね。
(疋田)もう他人事になっちまうからね。
ほんとだ。
これはねそうだっけね話してても他人事になってしまってるからね。
(片桐)ずっとそれをしまっちゃってて出せない。
今出しちゃうと全然町の復興とその話ばっかりやって自分の事はもう全くそれをしまったままにしないとなんか申し訳ないなって時もあるし。
どんどんどんどんそれがつらくなってきて。
(礼子)話せる人がいるといいけどね。
私も我慢しないで泣きたい時には泣こうとは思ってるけど…だから私も知らない人には話さないからね。
(疋田)つらいんだ一人ほんとに。
ほんとつらいよ。
つらいってば絶対に。
家族うちみたくいるんだったらまだあれだったって家族亡くしてるもの2人も。

(礼子)じゃあね。
また是非。
頑張って。
いつでも電話下さい。
気付けば走ってくる。
(疋田)ここ毎日見てるから。
仕事の帰りだ。
頑張って下さい。
ありがとうございます。
(疋田)体だけ大事に…。
これまで抱え続けてきた思いを伝え合った疋田さんと片桐さん。
震災から2年10か月。
ようやく持てた時間でした。
200人以上が犠牲になったと見られる釜石市鵜住居地区防災センター。
建物はなくなっても残された家族の大切な人への思いが変わる事はありません。
2014/03/11(火) 00:43〜01:26
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー選▽最後の場所なくなる時〜釜石の悲劇 家族2年10か月[字]

津波で200人以上が犠牲になったとみられる、岩手県釜石市の鵜住居地区防災センター。去年夏、解体が決まって以来、家族たちは複雑な思いで過ごしてきた。

詳細情報
番組内容
震災で妻を亡くした夫、娘が行方不明のままの両親…。残された家族たちが、今も複雑な思いで通い続ける場所がある。大切な人が「最後にいた場所」だ。岩手県釜石市にある鵜住居地区防災センター、津波で200人以上が犠牲になったとみられる。去年の夏、センターの解体が決まった。昨年末に取り壊されるまでの半年間、家族は何を感じ、どのように気持ちが変わったのか。震災から3年近くたつ中、家族たちの心情の変化を見つめる。
出演者
【語り】原田美枝子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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