ゆうどきネットワーク▽女優の小山明子さんに、大島渚監督との波乱の人生を伺う。 2014.02.10

生字幕放送でお伝えしますこんばんは。
「ゆうどきネットワーク」です。
今週は一柳亜矢子アナウンサーです。
一柳⇒1週間よろしくお願いします。
山本⇒まずは「人生ドラマチック」です。
きょうのゲストは女優、小山明子さんです。
この1週間で起こったドラマチックな出来事はなんでしょうか。
大雪ですね。
生まれて初めて玄関の門が開かなくなって、ドアが開かなくなって雪かきをしました。
30分ぐらいスコップを使ってやりました。
体は痛くないですか?大丈夫です。
昭和の銀幕を飾った女優小山明子さん。
二十歳でデビュー。
5年間で60本近い映画に出演する売れっ子女優でした。
新進気鋭の映画監督大島渚さんとの結婚は当時大きな話題に。
女優と監督夫婦二人三脚で活躍を続けました。
しかし…。
小山さんが61歳のとき大島監督が脳出血で倒れ生活が一変。
小山さんも介護のストレスでうつ病を発症。
みずから命を絶つことさえほのめかすようになりました。
女優として妻として夫を支え続けた小山さん。
その、ドラマチックな人生に迫ります。
改めまして、きょうのお客様女優の小山明子さんです。
小山⇒よろしくお願いします。
雪は驚きましたよね。
初めてでした、あんな雪。
大島渚監督がお亡くなりになって1年ということですがこの1年は小山さんにとって本当に慌ただしかったんじゃないですか。
あっという間でした。
私自身体の不都合があって、足を手術したり、目を手術したり、いろいろあったんです。
振り返ってみると、あっという間に過ぎたかなと思いました。
いろいろお話を聞かせてください。
簡単に経歴をご紹介します。
小山明子さんは、1935年千葉県市川市に生まれました。
1955年二十歳のときに女優デビュー。
5年後撮影中に知り合った大島渚監督と結婚します。
生活が一変したのは1996年。
大島監督が脳出血で倒れました。
それ以降、17年にわたって献身的に介護され去年11月大島監督が亡くなります。
この年、小山さんご自身も18年ぶりとなる主演の舞台に立たれました。
ではまずは結婚までの若い日々を振り返ります。
1935年千葉県市川市に生まれた小山明子さん。
3人の兄の下に生まれた末っ子の女の子です。
10歳のとき母親を胃がんで亡くします。
そのため家事はきょうだいで分担。
小山さんは家族の食事作りを任されました。
中学・高校の同級生だった鈴木全代さんは、小山さんが一家の主婦のように切り盛りしていたのを覚えています。
高校を卒業して進学したのは洋裁の専門学校。
外国の映画女優のドレスに憧れデザイナーを目指していました。
そのころ、たまたまモデルとして雑誌の表紙を飾ったのがこの1枚。
映画会社の目に留まり女優デビューが決まります。
第2の岸惠子という呼び声で青春映画のヒロインには欠かせない看板女優となっていきました。
そして、運命の出会いが。
助監督だった大島渚さんと知り合います。
しかし当時、女優の恋愛はタブー。
清純派女優にとっては命取りになりかねません。
交際が発覚しないよう手紙に熱い思いをつづって送り合います。
その数は360通にもなりました。
そして出会ってから5年小山さんは25歳で結婚。
夫婦二人三脚の始まりです。
360通、ラブレター。
行ったり来たりよ、それは。
2で割っていいですか、180?それはちょっと分からないんですけど。
何を書いたんですか?会えなかったんですね。
5年つきあっていたんだけど結局彼と1年間に10本映画に出ていたの結婚するまでね。
どこかに行くとかできなかったでしょ手紙なんですよ。
便箋に何枚ぐらい書くんですか。
1回。
そんなに長々は書いていないです、2枚ぐらいです。
拝啓で始まるんですか。
拝啓とかは書かないですね。
なんて書いたんですか。
大昔のことですから、忘れました。
ある出版社が出せと言ったんですが、私は絶対に出さないって物置に入っていますけどね。
たまに見ることは?全然ないですね。
昔何かの番組でラブレターを出してくださいと言われて大島からきたのを一通出したことがあるんですが、そのぐらいですね。
やっぱり結婚に至る決め手になったのが手紙の文面だったとか?手紙の文面ではないけど1枚のはがきがきてけんか別れをしていたんですね。
1本撮ることになりました。
誰よりも先にあなたに喜んでいただきたくて、お知らせしますという1枚のはがきだけで結婚しようと決めました。
小山さんが出る映画でしたか?全然です。
愛と希望の町、第1回彼が監督になったばかりの作品です。
一柳⇒女優と監督という間柄です。
指導するということもありますか。
助監督のときは、やっぱり演技指導がつくんですよ。
映画の監督さんについている助監督さんは、お部屋に呼んでそれはずいぶんと指導されましたが結婚してから大島の映画に出たときは一度もないですね。
おつきあいしてるときは周りの人に見つからないように、ということですか。
おつきあいというと、お茶を飲みにいくとか舞台を見にいくとかどこか2人でレストランに行ったこともなければ5年間のおつきあいの間一度もそういうことがないの。
おつきあいと言えるんですかね。
手紙だけですね。
今はインターネットもあるしスマートフォンもあるし。
電話も当時は父親がうるさかったから男から電話がかかってきてもだめだし手紙はどうしてよかったかというのか。
ファンレターに紛れて入ってくるんです。
お父さんはファンレターと思っているんですか。
父親は見ていないですからその中に紛れて入ってくるんです。
だからあまりチェックされなかったですね。
当然ご家族にも黙って?もちろん秘密でしたね。
おつきあいを秘密にすることによる、2人の絆が高まるということはありましたか?今みたいなつきあいじゃないからどこかに行くとかそういうのはないからたぶん、そうね空想じゃないけど「有楽町で逢いましょう」。
フランク永井さんの曲ですね。
胸が痛くなって、会いたいのに会えないね、みたいな思い出の曲が2人とも「有楽町で逢いましょう」だったんです、当時はね。
純愛ですね。
本当に昔はそうだったんじゃないんですかね。
女優をなさっていて、おつきあいをしているやっぱり好きな人が近くにいてというか会えないけど心が高鳴ると仕事、演技に集中できないんじゃないかなと思うんですよね。
当時は映画作りに追いまくられていました。
2本立てとか花シリーズというのに出ていました。
どれだけメロドラマで忙しかったか。
そもそも女優になろうと思ったわけではなくデザイナーのお仕事だったんですよね。
自分から進んで入った道ではないですよね。
大島さんとおつきあいをなさって女優としてやっていけるということの手助け支えにはなったんですか?どうでしょう。
仕事がおもしろくなったのは事実です。
大島さんとつきあって?彼がアドバイスしてくれるようになって大島がおおば組というのについていたんですね。
演技のと私のために作ってくれていたんです。
お芝居はこうやるんだというのが分かって女優として欲が出たというところはありますよね。
たぶん大島が私のことを気にいったのは、2本目の映画で京都に行ったときロケーションが終わって旅役者みたいな一座で打ち上げがあったんですね。
スタッフもみんなお酒を飲むところなんですがスタッフも女優さん私も若手で出ていってお酌をしろと言われたんです。
私は女優で芸者ではありませんと言ってその席を断って撮影中有名になったんです。
あいつは生意気だと。
それで私お酒の席に出なかったんです。
それが大島は気に入ったそうです。
どう気に入ったんでしょうね。
いわゆる女優を辞めるということを意味していることですよね。
お酌をしないということは。
そういうところが気に入ったみたいですね。
私ははっきりと終わりという感じなので大島は困ったと思いますよ。
何でもはっきり言う、あこちゃんと有名でした。
大島さんというと結構民放の番組ですがちょっと怖いのかなと思っていました。
ご家庭ではどうですか。
優しいですね。
これがなかなか信じられないですね。
とても優しい父親でした。
今お話を聞いているとひょっとしたらおつきあいをなさらなかったら、結婚なさらなかったら女優という仕事が前に進んでいくということにならなかったかもしれないですね。
辞めていたかもしれないですね。
うちはサラリーマンの家庭でしたから父がサラリーマン兄も医者だし私も普通のところにお嫁にやりたいと思っていたでしょうね。
女優と監督としてそれぞれ活躍の場を広げていた2人。
子どもも独立して、これからは2人でゆっくりとと思っていたやさきに思いもよらぬ出来事が起こります。
1996年、ロンドン。
旅先で、大島監督が脳出血で倒れました。
10年ぶりの映画「御法度」の制作発表をした直後のことです。
仕事のため、現地に駆けつけられなかった小山さん。
大島監督が東京に戻って入院中もそのことを気に病み精神的に不安定になっていきます。
やがて、うつ病と診断され小山さんも入院しました。
30年来の親友の山本富士子さんにみずから命を絶つことをほのめかしたこともありました。
大島監督は入院から3か月後に退院。
小山さんは家で夫を支えたいと治りきらないまま自宅に戻ります。
自宅でのリハビリが始まると小山さんは再び追い詰められていきました。
慣れない介護にどうやって夫を支えればいいのか思い悩み、うつ状態が悪化。
入退院を4回繰り返しました。
よーい、はい!小山さんが回復に向かい始めたのは発症してから3年目。
大島監督が映画「御法度」の撮影を始めたころです。
大島監督が撮影に出かけている間時間ができた小山さん。
ふと目にした水泳教室の広告を見て通い始めます。
これを機会に少しずつ、介護以外のことにも目を向けられるようになっていったといいます。
4年にわたる闘病で小山さんはうつ病を乗り越え以前のような夫婦の生活が戻ってきました。
今、改めてうつ病になったときのことを考えてみるとどうしてああいうふうになっちゃったんだろう、と?なるべくしてなりましたね、私の場合はしょうがなかったです。
映画という仕事です。
現地に行けなかったということも私が女優であるためにそれは山本富士子さんは、あなた仕事なんかいいからすぐ行きなさいよと、電話で言ってくださったのね彼女は。
それも、行けなかったし私は妻として何の役にも立っていないと、自分が苦しみました。
女優じゃなかったらすぐに行けたし付き添いもできたでしょうね。
それもあったし映画の製作のこともあったし「御法度」を発表したばかりでした、もしできなかったら多額の負債になるとかいろんなことが、私はうつ病に追い込んだから、これはしょうがなかったと思います。
例えば、ああすればその道は変えられたかもしれないとかありますか。
それは、私の場合は変えられなかった。
うつ病になるきっかけは皆さん違うんですが、私のときは、大島が海外で倒れたこと製作を持っていたということです。
私が妻として何の役にも立たなかったということです。
抜け出したのはプールです。
プールに行くということが、いちばん私にはよかったですね。
泳ぎに行く人前に出たくなかったんですね。
うつ病のときは。
うつから、抜けた原因は大島についていたときは15kgぐらいやせて白髪ですごい格好をしていたんですね。
ある女性が私に奥さん、あそこにいるのは大島渚よと言ったんです。
私の夫と言えないじゃないですか。
鏡を見たらどこの老婆がいるのというぐらいしわしわでこんなことしていてはいけない、というのはうつから抜け出すきっかけでした。
友達もいないし自分で献立をして大島の世話をしているくらいですね。
だからお料理教室に持ち込んだり水泳教室に行ったりいろんなアクションですね。
やり出して少しずつ自分が普通に戻りました。
普通の生活になれました。
一歩踏み出すきっかけがあればいいのね。
町で出会った女性のひと言があったんですね。
リハビリのところにいらした方に言われたのね。
そのひと言で私は目が覚めたというか、こんなことしていてはいけないと自分で思ったんです。
その人には何も言わなかったんですか?何もしゃべらないですよ。
それでまた落ち込みはしなかったんですか。
ならなかったですね。
うつ病はちょっとしたきっかけなんですよね。
だから、そういうことで水泳教室に通ったりいろんな、外に出て行きました。
「御法度」を撮ってカンヌに行きました、それまでは薬のお世話になっていました。
私はここで抜けなければいけないと自分で決心して一切、薬は持っていかなかったんです。
17年間の大島さんのことを介護されました。
抜けるというのは私たちが勝手に想像してることで失礼かもしれませんが抜けることで言えば女優であるわけですから自分が女優に復活して介護を誰かにお願いしようとか?それはなかったです。
私がこの人とともに生きると思っていたからそれはなかったです。
一切仕事はしなかったですね。
また大島も私がそばにいなくちゃ嫌で、どんなにいい看護師さんがこようと介護人がこようと彼は私にそばにいてほしかったんですね。
その気持ちが分かったから、私は一切仕事をしなかったです。
17年間、うつから回復されて暮らしていらっしゃる中で、1回も思わなかったですか。
思わなかったです。
一度お話があって瀬戸内寂聴さんの朗読のお話をいただいて博品館劇場で源氏物語の朗読をしました。
そのときに、作家の方が小山さん、すごくよかった女優に未練はないの?とおっしゃったんです。
私はありません、って。
その1日だけ女優でしたね。
舞台に立った1日だけだけど、女優をやるためにはすごく稽古があったり犠牲にしなければいけないんですね。
大島のそばを離れることそれはできなかったです。
翌日から病院に行って車いすを押していました。
それが私の普通だと思っていましたから、未練はなかったです。
でもお話をいただければ地方に講演という形で北海道にでも九州にでも日帰りで行きました。
朝早くいって今は帰れますからね。
介護があったりそういう話ですね。
拝見していて添い遂げるという話なかなかできないと言ったらあれですけどなかなか難しいのに、なぜ小山さんはできたんだろうと思います。
愛とか単純なことかもしれないですけれど私は大島を尊敬していました。
今でももちろん尊敬していますが彼がうちの息子たちにパパがいちばんと言い続けてパパよりすばらしい人間はいないと言い続けました、息子たちは一人前になったら偉いねと言ってあげようかと思ったんですが今でも大島はいちばんだと思っています。
体が不自由になったから、何もしゃべらなくなったからこの人はだめというのではなく、私の尊敬する夫は永遠に変わらなかったんです、私の心の中で。
だから続けられたんでしょうね。
大島渚、小山明子どんな夫婦と言えばいいですか。
どんな夫婦でしょうね。
結婚して50周年を無事に迎えることができました。
50周年まで一度もスキャンダラスなことうわさをたてられたことはなかったので、仲よし夫婦ではあったでしょうね。
50年添い遂げたし、私は、今亡くなった今でも彼のことは思い続けています。
すばらしい人だと思っています。
今は毎日、どういう会話をするんですか。
私の部屋隣は仏間になっています。
毎朝ごはんを炊いて、お線香をあげて、おはようと始まっていろんなお話をします。
在宅でずっと見ていましたから皆さんお参りに来てくださってお線香あげてくださいます。
お便りが来ています。
小山明子さんの出演に感銘しています。
大島監督のリハビリにいつも付き添っていらしたときは何度かお見かけしています、大変な介護生活を続けられ今、美しい姿、演技を拝見し、心からエールを送りたいです、と神奈川県70代の女性からいただきました。
明子という名前はご両親が太陽の日照らし続ける長生きしてほしいということでつけられたそうですね。
姉がいてすぐなくなったのでほしことつけたそうです。
今度生まれた子には日と月で、永遠であれという話でした。
これからどうしますか。
新しいことにチャレンジしたいですね。
今は朗読のお話とか三島由紀夫さんのお話をいただいているんですけれど今まで自分がやらなかったことをやってみたいしボランティアで大熊町の教育委員長さんとお友達になったのでそちらでも、私にできることでお手伝いができればいいなとそれを自分の生きがいにしたいなと思っています。
隣で拝見してると目が輝いています。
そうですか。
本当にありがとうございました。
お宅にいらっしゃいます大島さんによろしくお伝えください。
伝えます。
以上、「人生ドラマチック」小山明子さんでした。
女子スキージャンプ競技のホープ高梨沙羅選手。
彼女に憧れ、ジャンプを始める子どもたちが増えています。
スキーの名所、山形県蔵王で初めてのジャンプに挑む少女を取材しました。
今開かれているソチオリンピックの先の先ですかね。
一柳⇒今回のオリンピックでメダル獲得が有望視されている1人が、女子スキージャンプ高梨沙羅選手です。
彼女に憧れてジャンプを始める子どもたちがいるそうなんです。
今回、取材した場所はことし1月に、女子スキージャンプのワールドカップが開催された山形県の蔵王です。
ここでは将来のオリンピック選手を育てようと小学生を対象に、ジャンプ教室が開かれています。
高梨選手のように遠くへ飛びたいとジャンプを始めた少女を取材しました。
年間40万人のスキーヤーが訪れる、山形県蔵王。
ここでは20年ほど前から地元の小学生を対象にジャンプ教室を開いてきました。
高梨選手の活躍もあり今、参加者に女の子が増えています。
今年度は35人中8人が女の子です。
その中の1人小学4年生の高橋藍さん。
ジャンプの経験はゼロ。
でも、高梨選手の活躍を見て自分もやってみたいと参加を決心しました。
目標はワールドカップ蔵王大会でジャンプを披露することです。
青信号になったら10秒以内でここからスタートしなさい。
ワールドカップの表彰台に立つ選手を山形から出すのがこの教室の目標です。
ジャンプ教室、初日。
子どもたちにビッグサプライズがありました。
憧れの高梨選手に会えたんです。
そのうえ高梨選手からじきじきに指導してもらえることになりました。
子どもたちの最初の課題はストックなしで斜面を滑ること。
高梨選手が一人一人にアドバイスしてくれます。
いきます。
藍さんも憧れの高梨選手に滑りを見てもらいます。
競技用ジャンプ台の脇にある高さ8mのジャンプ台で子どもたちは練習します。
この日は、いよいよジャンプ台を使っての練習です。
踏切地点と着地点の高低差は1m。
しかし、初めての藍さんには何倍にも感じられます。
藍さんの初めてのジャンプ。
バランスを崩してしまいました。
怖さが先に立ち2回目のジャンプに挑戦できません。
藍さんが見学する間も仲間たちは次々とジャンプをしていきます。
20分後。
迎えに来てくれた友達と一緒に藍さんはジャンプ台へと歩き始めました。
この日、2回目のジャンプ。
ワールドカップ蔵王大会の前夜。
藍さんが会場でジャンプを披露することを家族も楽しみにしています。
この夜、藍さんは本番に向けて何度も何度も練習を繰り返していました。
ワールドカップ当日。
世界のトップ選手のジャンプを間近で見る子どもたち。
大会は、高梨選手の2連勝で幕を閉じました。
続いて、子どもたちのジャンプが始まりました。
藍さんの番です。
着地成功!家族、そして大勢の観客の前で転ばずに飛ぶことができました。
ジャンプ台を飛んだ子どもたち一人一人に渡された金メダル。
いつか、世界へ。
山本⇒いやあ、本当に拍手ですね。
オリンピックってこういうところから始まるんですね。
一柳⇒1歩が8mのジャンプ台から始まっているんですよ。
高橋藍さんですが、来年以降もずっとジャンプを続けたいというふうに話しているそうです。
いつか高梨沙羅選手のように100mを超えるジャンプを飛んでみたいと、今も週に1回2時間の練習を重ねて確実にステップアップしているそうです。
次は高さが15mのジャンプ台に挑戦するそうです。
山本⇒20m、30m飛ぶかもしれませんね。
藍さんの憧れ、高梨選手ですがあさって水曜日の朝が決勝戦です。
山本⇒高梨沙羅選手のソチオリンピックです。
期待しましょう。
一柳⇒女王なるかですね。
山本⇒みちのく仙台からです。
仙台でも記録的な大雪になったということです。
「被災地からの声」津田喜章アナウンサーです。
津田⇒こんばんは。
よろしくお願いします。
こちら被災地も大変な大雪となりました、特に仮設住宅は通路が狭いので雪のやり場がないということで雪かきが大変苦労したという声も聞かれました。
特に1人暮らしのお年寄りはずいぶん大変な思いだというようなふうに聞いています。
あと1か月で震災からちょうど丸3年となります。
東北地方で毎週お伝えしている「被災地からの声」という番組の中から月に一度全国の皆さんにも被災地の声を聞いていただいています、きょうお伝えするのは宮城県の塩釜市とそのお隣七ヶ浜町です。
どちらも漁業と水産加工業が盛んな町で特に塩釜市は市街地を中心に大きな被害が出ました。
一方で七ヶ浜町はこちらはのりの養殖が重要な産業となっています。
それでは塩釜市、七ヶ浜町の声です。
再開できるかどうかという時期もあったんですか?親子みたいだという話です。
どんな漁師になりたいですか?見てもらいたいのがあるんですけどこれでございます。
津田⇒長生きしなくても早く逝きたいとふと漏らしたおばあちゃんがいましたが、こうした方々の生活が前進するかどうかというのがこれから真の復興を図るうえでの重要な物差しになるというふうに感じます。
「被災地からの声」でした。
山本⇒きょうはニャンカメが出ています、ソチオリンピックが始まりまして、こんなところも注目されています、東京渋谷区宮崎大地アナウンサーです。
宮崎⇒東京・渋谷にありますロシア料理のお店に来ています。
こちらでソチオリンピックに向けて新たな期間限定メニューというものを作りました。
それがこちらです。
シャシリク、といいます。
ソチの郷土料理です、実は羊肉の串焼きになっています。
と言いますのもこのソチは遊牧民が非常に多いため羊の肉を食べます。
この機会に少しでもソチの食文化を感じてもらおうということでメニューを加えました。
私も早速いただきます。
うん、羊肉おいしいです軟らかくて、またスパイシーなソースとあっています。
宮崎⇒お客さんもロシア料理に対して関心が高まっているということでこちらオリンピックを見たあと、ロシア料理をネットで調べて食べに来ましたという女性の意見です。
ロシア料理店の代表の横地さんです。
宮崎⇒それにしても2、3割オリンピックが始まってお客さんが増えたということですが反応はどうですか。
去年はさほどでもなかったんですがことしに入ってお問い合わせがあります。
日に日にオリンピックが進むにつれて熱気が高まっています。
熱が高まっているんですねありがとうございました。
ロシア料理店でもオリンピックの熱が盛り上がっていますよ。
東京・渋谷でした。
明らかにオリンピック効果の1つなんでしょうね。
きょうは小山明子さんをお迎えしました。
大昔の話ですが墓参りに行った際偶然に大島夫妻と学生服の男のお子さん2人がお参りしているところにお会いし4人に写真を撮りたいのでシャッターを押してくださいと頼まれたことがあります。
今もってうまく撮れたか心配しています。
そんなことありましたかね。
写真を探すとあるかもしれませんね。
今朗読のお稽古をしているんですか。
しています。
三島由紀夫さんの作品です、難しいですけれども。
これからの活躍を祈っています。
あすは祝日であさってのゆうどきです。
あさっての「人生ドラマチック」はブルース歌手としても活躍する女優の根岸季衣さんです。
夫の死を乗り越え、6年前に再婚に踏み切った根岸さん。
その心の軌跡に迫ります。
2014/02/10(月) 17:12〜18:00
NHK総合1・神戸
ゆうどきネットワーク▽女優の小山明子さんに、大島渚監督との波乱の人生を伺う。[字]

女優の小山明子さんをスタジオに迎え、大島渚監督と共に生きた波乱の人生について伺う。特集は、山形のスキージャンプ教室で