生字幕でお伝えします。
福島の皆さん、西田敏行です。
お変わりございませんか?というのは通常のごあいさつです。
でも福島の皆さんには、あえて、お変わりはありましたか?というふうに問いたいと思います。
皆さん、復興の道筋はつきましたか?生きる希望は涌いてきましたか?楽しいことがいっぱい感じられるようになりましたか?そういう思いを持って、きょう、そのもし、お変わりないならば、そのへんの事情、都合は、なへんにあるのか、私もきょう、考えてみたいと思います。
よろしくお願いします。
特集・明日へ・支えあおう。
福島県出身の西田敏行さんが駆けつけてくださいました。
これから2時間は、福島のことを、西田さんと共にじっくりと考えていこうと思います。
ご覧の皆さんからも、たくさんの声が届いております。
ご紹介しましょう。
福島県の方からは、現状を訴える声が届いています。
65歳の男性です。
福島の震災は終わっていません。
除染も避難した住民の帰還も、まるで進んでいません。
風評被害は相変わらずで、漁業は壊滅状態のままで、生活の再建もままなりません。
全国の皆さん、どうか福島を忘れないでください。
という声です。
その福島なんですけど、私たちがなかなか立ち入ることのできない、東京電力福島第一原子力発電所の近くの状況を、上空、至近距離からつぶさに撮影した映像がありますので、それを見ていただこうと思っています。
今の福島の状況を地図でご紹介いたしますと、今、福島県は、放射線量に応じて、3つの区域に分かれています。
中でも、このピンク色の部分が、いまだ帰還のメドが立たない区域です。
こうした避難指示区域全体では、8万1000人もの方が、そして福島県全体で見ますと、13万5000人もの方々が、避難生活を今もされています。
立ち入りが厳しく制限され、暮らす人がいなくなった町を、上空から取材しました。
原発事故の影響で、ヘリコプターも周辺20キロの立ち入りが禁止されていた福島県。
事故のあと、現地の様子を空から間近に捉えることができたのは、およそ1年後のことでした。
明らかになったのは、全く手がつけられていない町の姿でした。
港の周辺を見ますと、建物や人の姿、全く見ることができません。
ところどころ、建物や住宅が残されていますが、大きな波が通り抜けたような様子が、今もそのまま見ることができます。
原発の事故によって、着のみ着のまま逃げたということを感じられます。
原発からおよそ7キロにある富岡町。
1万6000人の住民全員が避難しました。
学校の校庭には、牛がいます。
牛が2頭います。
あっ、牛、3頭います。
校庭脇の草を食べているのが見えます。
震災発生から1年の春。
人影のなくなった町に、地元の人たちの自慢の桜が、ことしも花を咲かせました。
ー2.5キロにわたって咲く、500本のソメイヨシノ。
震災前にはこの時期、毎年10万人が訪れていました。
震災から3年。
今、町はどうなっているのか。
先月、ラジコンヘリを使って、避難区域の状況を詳しく撮影しました。
福島第一原発のある大熊町。
かつては、およそ1万2000人が暮らしていました。
3年たった今も、住民全員が避難しています。
町の中心部には、許可を得た一部の人しか、立ち入ることができません。
原発事故によって、住民たちは慌しい避難を余儀なくされました。
屋根には穴が開き、瓦は崩れたままです。
その先には、潰れた建物が放置されています。
被害を受けた家屋は、修繕されないまま、傷みが進んでいます。
町の中心部です。
商店街に通じる道路に、足跡がありました。
足跡は、人影のない道路を進み、住宅地の中へと続きます。
正体はイノシシでした。
住宅の敷地に入り、物置や庭を荒らすなどの被害も出ています。
福島第一原発から北に6キロ。
漁業で栄えた浪江町請戸地区です。
1600人余りが暮らしていましたが、津波で120人以上が犠牲になりました。
避難区域が去年4月に見直され、日中であれば、住民の立ち入りができるようになりました。
しかし、がれきの仮置き場が出来ていないため、撤去作業ができません。
港で取れた海産物が人気だった旅館です。
津波で全壊した建物も解体されず、放置されていました。
漁協の建物です。
2階には、真っ二つに折れた船が、打ち上げられたままです。
今も13万5000人が、避難生活を続ける福島県。
あの日で時が止まったような風景が広がっていました。
西田さん。
いやぁ、3年たってね、なんにも変わってないですね。
本当に、なんか、悲しさと憤りがこう、なんか、絡み合って、自分のこう、気持ちの中にありますね。
西田さん、なんにも変わってないとおっしゃいましたけれども、柳澤さん、福島の方々、今どういう状況に置かれているっていうふうに考えますか?
今、特に原発事故の影響がある所を見てると、VTRのコメントでは、止まったようなっていうフレーズがありましたけれども、止まってるんじゃなくて、原発事故の影響って、今も続いているんですよねっていう、止まってるんじゃない、まだまだ午前中もお話しましたけど、震災が続いているのと同じように、福島は、まだまだ、どうしていいか分からない状況が続いているんだっていう、そこをもう一度、福島を見つめるときには、考える原点にしなきゃいけないんじゃないかなって、そんな気がするんですよね。
13万5000人ですか?避難されている方々。
一人一人こういう数字で言うんじゃなくて、お一人お一人名前を言って、なんか、声をおかけしたいって気持ちになりますよね、本当に。
皆さんその、よく言われる、帰りたいけど帰れないっていう、気持ちの上でもさいなまれていて、帰ると決断した人と、帰らないって決断をした人と、また分かれていく。
一人の気持ちの中でも分かれているし、たくさんの人の中でも、気持ちの隔たりが出来てきているという現実がね、居たたまれないような気がするんですね。
朽ちた建物と荒れた土地。
ずっと見てると、あそこに人の暮らしがあったときに、どんなに豊かなものがあったんだろうというふうに思うと、子どもの笑い声やなんか、そういうことがコミュニティーじゃないですか。
でも、帰りたいと思っているお年寄りの方もいらっしゃるでしょう。
でも、ちいちゃい子どもを抱えた、若いお母さんと子どもたちは、やっぱりあそこには住めないというふうに決断されている方も、大勢いらっしゃると思うんですね。
そこで、コミュニティーというのは、やっぱり老若男女そろって、初めてコミュニティーといわれるわけですから。
そこの矛盾ですよね、それをどういうふうに解消したらいいのか、これは福島だけの問題じゃなくて、日本が考えなきゃいけない、本当に日本中が考えなきゃいけないことだと思いますね。
福島の方々、福島から避難をされている方々が今、どのような思いでおられるか。
その声にじっくり耳を傾けてまいります。
地震と津波、さらに原発事故の被害も受けた、福島の人たち。
その声には、深い苦悩と憤りがにじんでいます。
やはり…。
もう今まではおおらかだ、夢も希望もあって、これから山も田も全部潤うと、野菜も家畜もなんでもパーでしょ。
夢も希望も捨てましたねというふうになるっていうの、気持ちは。
棄民ということば。
いやぁ、福島の方々のね、憤りが感じられますね。
重松さんは、実際に被災されたお一人お一人の声を訪ねる取材をされていますけれども、その声の中でも特に重松さんが心にぐっと響かれているのが、福島の子どもたちの声だそうなんです。
今回、重松さんは全村避難を続けているこちら、飯舘村の子どもたちにも、今回、直接会いに行かれました。
飯舘村の隣、12キロ離れた川俣町に、村の子どもたちが通う仮設の小学校があります。
校舎は2階建てのプレハブ。
グラウンドはサッカー場の5分の1ほどです。
失礼します。
重松さんを迎えたのは、3人の校長先生。
ここには飯舘村の3つの小学校が集まっています。
ここに通う村の小学生は、3校合わせて200人ほど。
震災前の6割弱に減りました。
登下校はスクールバスです。
避難先がばらばらなので、バスも10台に分かれています。
さようなら。
バスの時間が決められているため、授業を終えた子どもたちは、まっすぐ家に帰らなくてはなりません。
片道1時間余りの道のり。
楽しいはずの放課後ですが、バスの中では、できることも限られます。
避難先の多くは、集合住宅です。
3年生まで飯舘村で過ごし、その後は避難生活を強いられた6年生に、今の思いを聞きました。
庄司さんから行こうか。
じゃあ、お願いします。
春夏秋冬、春夏秋冬で、いつが一番いいですか?お勧めですか?って質問されたら、佐藤君はいつがいい?
冬ですね。
友達どうしでさ、今、庄司さんが書いてくれたみたいに、早く飯舘に帰りたいねとか、そういう話はすることはあるの?
ないです。
それはなんでだろうね。
しないようにしてるの?
飯舘村を有名にしたいっていうのは、それはどういう気持ち?
震災の村っていうんじゃなくて、ちゃんとメジャーリーガーが誕生した村だというふうに、みんながね、将来、覚えてくれたら、もっといいよね。
はい。
この中学校生活、4月から始まるさ、一番楽しみにしてることは何?佐藤君。
何に入るんだっけ?
そうだね。
もう部活は決めてるの?何に入るか。
はい。
何に入るの?
吹奏楽部だったら、どんな楽器やりたいの?
子どもたち、健気ですよね。
重松さんは、子どもたちに話を聞かれて、共通することがあるって気付かれたんですって?
あのね、6年生の子がね、中学校に入ったら部活が楽しみだ、それからもっと、みんなと遊びたい。
これは一見すると、当たり前の発言なんだけど、この子たちには放課後がないんですよ。
学校が終わったらすぐバスに乗って、1時間も揺られて帰る、で、うちに帰ったらもう真っ暗になってるし、こういう集合住宅で、寄り道をすることもできないし、大きな声を出して、はしゃぎ回ることもなかなかできない毎日を過ごしてるから、中学校に入ったら、思いっきり遊ぶんだ、部活をするんだっていうね。
でね、この小学校の先生方もね、子どもたちの運動不足、これを相当心配してらしてね、昔はもう走り回っていた子だから、だから本当にね、僕たちにとって当たり前の小学生が走り回っているグラウンドっていうものが、今ないんだっていうのを知っとかないと、さっきの夢がね、当たり前のことばで終わっちゃうんだけど、その背景は深いと思います。
深いね。
それって子どもたちの特権ですよね。
子どもの頃の思い出って、そういうところに詰まってるんですよね。
子どもたちの大事な仕事ですよね。
そうですよね。
でも、そうした状況の中、大内君、震災じゃなくて、メジャーリーガーになって、飯舘を有名にするんだ。
飯舘村をちゃんと有名にするんだっていう、そういう希望ですね、モチベーションは高いなと思って、やっぱり子どもたちに夢を託すというか、希望を見いだすっていうか、そういう意味では、やっぱり子どもたちっていうのは、ありがたい存在ですね。
本当に。
だからね、集合住宅ね、窮屈な集合住宅でやってるんだけど、駐車場に雪が積もるとね、そこでやっぱり雪遊びするんですよ。
本当は飯舘のほうが、広々とした、思いっきりできるんだろうけど、狭い所でもね、寸暇を惜しんで遊ぶって。
ほんのちょっとね、数分間だけでも、何かそのね、子どもたちのたくましさとけなげさ、いじらしさというものがね、胸に迫ったんです。
南さんも、何度もうなずきながらご覧になって、子どもたちの声、聞かれていましたけど。
飯舘村に帰りたいけれども、友達どうしで、その話はあまりしなくなったっていうのも、ちょっと気になるところではありましたね。
やっぱり、子どもたちが子どもたちなりに、今の状況にすごく順応しようと、一生懸命葛藤しているのかなっていうところも、ちょっとうかがえて、それはやっぱり、今は本当に前向きな部分と折り合いをつける部分とあると思うんですけど、それがなんか、後々ストレスになって出ないといいなという気がしますね。
福島の子たちは、明るい表情を見せてくれたんですが、柳澤さん、被災地の子どもたちが置かれている状況については、最近ちょっと気になる調査結果が出ましたよね。
厚生労働省が調査したんですよ。
そうすると、4人に1人、これ引きこもりの傾向が出てしまっていると。
よく言われるPTSD、これについてもかなりの数の子どもたちが、震災、その後の混乱した状況について、さいなまれている気持ちでいるんだということなんですよね。
子どもたちって、非常に感受性が強いですよね。
だからなおのこと、いろいろと考えるときに、子どもたちと、どう向き合えばいいかっていう目線もわれわれ大人たちは、絶えず頭の中に置きながら、考えていかなきゃいかんのかなって、調査結果を見たときに思ったんですよね。
天真らん漫のようだけど、実はすごく過敏に、周りの空気の変化を感じていますよね。
今見てても、そんなに子どもたち、悲壮な顔してるわけじゃないじゃないですか。
でもその顔の表情の中にあるんだということを、僕ら大人っていうのは、みんな、じっくりしっかり見つめて。
おっしゃるとおりだと思います。
重松さん、となると、逆に本当これからこそ、子どもたちのことしっかり見ていかなきゃいけない、大人たち、何をするべきか?
子どもたちをね、見ることももちろん大切なんだけど、それと同時に、今からいろんな選択肢が増えると思うんです。
帰る、帰らないとかね。
しかも、それは苦渋の選択なんですよ。
お父さん、お母さんが迷いながら、振り返り振り返りしながら、決めなきゃいけない。
そのときにね、やっぱりお父さん、お母さんが、子どものために考えて、決めたことをね、責めたりするんじゃなくて、みんなでバックアップする気持ちを持たないと、恐らくね、お父さんやお母さんの不安っていうものが、やっぱりお子さんにもいっちゃうと思うんですよね。
それ、非常に厳しくなってくるので、親御さんだけだと抱えきれない部分もあるかもしれないけど、何か子どもたちに、耳を傾けるなり、なんなり、きちんとした対応が求められていると思います。
そして、大人たちも、なかなか将来の見通しが見通せない中でも、日々をふんばって過ごしていらっしゃる方が、大勢います。
次にご覧いただきますのは、福島第一原子力発電所の南にあります富岡町の取り組みです。
いまだ暮らすことができない町の現実を、多くの人に知ってもらいたいと、町の人たちみずからが、バスツアーを始めました。
その訴えに、どうか皆さんも耳を傾けてください。
去年3月、一部の地域で立ち入りが可能になった富岡町ではそれをきっかけに町を案内するツアーが始まりました。
あの、やっぱり今までになかったことなのでね。
富岡町から20キロほど離れたいわき市に避難している遠藤義之さんです。
去年4月から仲間と共にツアーを始めのべ200人以上を案内してきました。
仕事の合間をぬって行うガイドはボランティアです。
この日も首都圏から来た会社員など11人が参加しました。
3時間かけて、まわるコースはすべて遠藤さんが決めています。
原発事故から、まる2年町は警戒区域に指定されていたため自由に立ち入ることができませんでした。
そのため、家の修復や町の除染は大幅に遅れ建物は朽ち果てていく一方です。
車から降りて住民と同じ目の高さで町を体感してもらいます。
この駅の向こう側にはかつて多くの家が建ち並び海は見えなかったといいます。
しかし、その風景を震災が一変させました。
このツアーでは富岡で生まれ育った遠藤さんの思い入れのある場所も巡ります。
遠藤さんが、小学1年生のとき初めて野球の楽しさを知ったグラウンド。
そこは今、除染で出た廃棄物の一時保管場所になっています。
遠藤さんが最も時間をかけて案内するのは、震災前に自分が勤めていた旅館です。
客足が伸び悩んでいた旅館を立て直そうと、奔走した日々。
そのお客がやっと増え始めていたときに震災は起こりました。
多くの思い出が詰まったふるさとを遠藤さんは失いました。
今回のツアーでは原発と共にあった町の暮らしを伝えることも目的の一つです。
富岡町で第二原発の工事が始まったのは昭和50年。
雇用が増え、町を出ていく若者が減った結果、10年間で人口は2割以上増えました。
しかし、あの日以来町から避難した人が原発とともにあった暮らしを語ることは、難しくなりました。
そんな時、遠藤さんの避難先で起こった地元住民との、あつれき。
原因の1つとして考えられたのは賠償金の違いによって人々の間に生まれた溝でした。
どうしたらその溝が埋まるのか。
遠藤さんは、積極的に自分たちの状況を理解してもらう必要があるのではないかと、考えました。
原発のことも含め自分たちの、ふるさとをきちんと伝えよう。
そのために、遠藤さんは原発の見えるこの場所をコースに加えたのです。
このとき、遠藤さんは自分自身が戻りたいかどうかを答えられませんでした。
遠藤さんは富岡の自宅で妻と2人の娘とともに暮らしていました。
今は、家族を妻の実家がある東京に避難させ自分は、いわき市の借り上げアパートで一人暮らしをしています。
離ればなれの暮らしまもなく、まる3年を迎えます。
富岡の家でまた家族と暮らしたいとは考えていても遠藤さんには、それを口に出せない現実があります。
ツアーの最後、遠藤さんが案内したのはそんな現実を知ってもらいたいと考えた場所でした。
もうちょっと先に行くと面白いっていうかね…ものが見えますけど
今も立ち入りが禁止されている帰還困難区域の境界線。
この先は、いまだ帰れるめどさえ、たっていません。
原発事故から3年がたってもまだ未来を描くことさえできない現実。
それが遠藤さんの伝える今の富岡の姿です。
戻りたいのかどうなのか、とっても複雑な心境が語られてましたけれども、実は、富岡町では、帰還をすることに対して、アンケート調査を何度か行っているんです。
ちょっとご紹介しましょう。
その結果です。
時間の経過にちょっと注目していただきたいんですが、平成24年、震災が起きたよくとしです。
戻りたいと答えた方は半分以上、半分近くいらっしゃいました。
それが、1年たちますと12%に減っています。
逆に、判断がつかない、戻らないと決めていると答えた方は増えている。
この数字、西田さん、どうご覧になりますか?
いや、本当に今、語られた自分の中に抱えている矛盾そのものが、数字で出てきているというふうに思いますね。
やっぱり、線量が高い所にはやっぱり小さな子どもを連れて帰ろうと思う親はいないと思いますしね。
かといって、俺のふるさとだ、あそこで骨を埋めたいと思っているご高齢の方もいらっしゃると思いますし。
本当に両方ともかなえてあげたいというふうに思うんですよね。
その変化がね、先ほど見て、おや?と思ったんだけど、柳澤さん、最近、急に大きくなっている感じがしますよね。
戻りたいが減って、どうしたらいいか迷っている。
これはどう受け止めたらいいですか?
線量が高くて、立ち入りすら厳しく制限されている帰還困難区域というのもあるんですけど、それ以外の所では、戻れるような、いわゆる除染作業というのをやってるんですよ。
ところが、これが、非常に効果的に除染をするためにはどうすればいいのか、それから除染をする人を確保するため、どうすればいいかって、計画よりも大幅にずれているんですよ。
3年ぐらいたったら、除染がだいぶ進んで、帰ることを現実のものとして受け止めていいのかなと思っていた人たちにとってみると、これはまだまだだめかもしれないという、そういう現実がやっぱり、除染を巡って出てきてますし、もう一つ、原発そのものが、一体今、どうなっているのか、30年か40年かけて、廃炉にするって言ってますけど、それもまだ先行きが見えないような状況だと、事故そのものに対する不安がやっぱりあって、時がたてばたつほど、先行きに対する不安が、逆に広がってきてしまってるんじゃないかなっていうのが、出てきているような気がするんですよね。
そういう中でどうするか?南さん、これ、判断って、なかなか難しいですよね?
難しいですよね。
だから、遠藤さんの取り組みは、すごいなって思いました。
直接、富岡町から避難されている方に、こうやって原発発電所が、見えていることを恐ろしく思っていましたか?という、そういうきたんのない質問って、なかなかする機会もないし、思っていても、聞く相手が身近にいなかったりすると思うんですけども、遠藤さんはやっぱりそういうものを橋渡ししようとしてますよね。
そうやって話し合うことによって、ああ、そうだったのか。
でも今はこうなんですねっていう、お互いの意見交換をやっていくと、少しずつ方向が、それぞれの方向が、避難されている方も、そうでない人間も、見えてくるような気がすごくしました。
皆さん、非常に難しい、苦しい判断を迫られています。
震災の発生から3年。
特集・明日へ・支えあおう。
盛岡市で行われています、失われた町を、模型で復元した、ふるさとの記憶展の会場から、生中継でお伝えしています。
そしてこの中に、福島の模型もあります。
町民全員が今も避難生活を送る浪江町です。
戻るのか、戻らないのか、戻れないのか。
浪江町の皆さんも、困難な判断を迫られています。
今、ふるさとにどのような思いを抱いていらっしゃるのか。
模型が完成するまでを追いました。
津波で失われた町並みを、模型で復元してきた学生たち。
去年12月、これまでとは全く違う模型の制作に取り組んでいました。
東京電力福島第一原子力発電所から10キロほどの場所にある福島県浪江町です。
かつて、この町には2万1000人もの人々の暮らしがありました。
しかし、3月12日。
福島第一原発1号機の建屋が爆発。
町民全員が避難した町は、あの日で時が止まったまま、3度目の春を迎えようとしています。
買い物に、デートに、人々が集ったショッピングモール。
祭りの日には、300を超える屋台が建ち並んだ商店街。
今回、この町が模型になりました。
浪江町の中心部、権現堂地区です。
この町に、どんな営みがあったのでしょうか。
人々は今、ふるさとへのどんな思いを抱いているのでしょうか。
浪江町から車で1時間半ほど離れた、福島県二本松市です。
ふるさとを離れ、およそ2400人が避難生活を送っています。
2月4日、この町に模型がやって来ました。
1週間にわたって模型を展示。
人々に思い出を語ってもらいながら、かつての町の営みをよみがえらせていきます。
家や商店には、そこに暮らしていた住民自身が、色を塗ります。
さらに、思い出を旗に書き込み、模型に立てていきます。
二本松市の仮設住宅に暮らす、2人の女性がやって来ました。
2人が語り始めたのは、浪江町の名物だった祭りの思い出です。
十日市は、田畑の収穫を終えた人々が、秋の実りを祝う祭りとして始まりました。
全国からやって来た商人が店を出し、年越しの買い物客でにぎわう商店街。
最盛期には、10万人を超える人出があったといいます。
浪江町に生まれ育った橋本由利子さんです。
商店街は、子どものころから通っていた思い出の場所です。
橋本さんは、商店街で喫茶店を経営していました。
原発事故が起きたのは、オープンの半年後。
ようやく常連客が増えてきたころのことでした。
浪江町には、住民が一時的に立ち入ることが可能です。
この日、橋本さんは、2年ぶりに自分の店を訪ねるため、商店街にやって来ました。
喫茶店には、裏手にある窓から入ります。
停電が続いているため、入り口のシャッターが開かないのです。
橋本さんはこれまで、荒れ果てた店内に手をつけられずにきました。
あの日から3年。
ようやくこの日、片づけを始めました。
模型の前では、町と自分のこれからについても語られました。
二本松市内の仮設住宅に暮らす青田宗夫さん、イク子さん夫妻です。
青田さんは、浪江町に戻れる日が来ることを待ち望んでいるといいます。
今、浪江町は除染や上下水道などの修理を進めています。
権現堂を含む一部の地域については、3年後をメドに暮らせるようにすることを目指しています。
しかし、町の調査によれば、20代、30代の半数以上が、現時点で、浪江町に戻らないと決めていると答えています。
国分明敏さん、照子さんと、孫ののどかさんです。
原発事故が起きるまで、国分さんたちは和さんの家族と一緒に、3世代で暮らしていました。
家の近所は、和さんにとって、たくさんの思い出が詰まった場所です。
和さんの思い出が詰まったどんぐりの木。
子どもたちの笑い声が消えた町に、今も残されています。
原発事故のあと、和さんは一度も浪江町に戻っていません。
離れ離れに暮らす幼なじみが、模型の前で再会しました。
会場にはもう1つ別の模型も展示されていました。
太平洋に面した港町、請戸地区です。
請戸地区は、津波で集落が壊滅し、さらに原発事故の避難区域となった場所です。
現在の請戸地区です。
地区の復興は、放射能による立ち入り制限などで遅れてきました。
あの日からまもなく3年。
浪江町の住民は、北海道、関東、九州、そして沖縄まで、全国各地に散らばって避難生活を送っています。
40年以上、請戸地区で暮らしてきた佐々木繁子さんです。
200年を超える歴史を持つという祭りの思い出を語り始めました。
田植え踊りの踊り子は代々、地域の子どもたちが担ってきました。
長年、踊りを教えてきたのが、佐々木さんです。
震災後も、東京や埼玉、新潟などに避難している子どもたちに声をかけ、田植え踊りを続けてきました。
毎年、安波祭りが行われていた2月には、浪江の人たちが暮らす仮設住宅を回って、踊りを披露してきました。
ことしは、2月16日に、福島県内の仮設住宅を訪ねる予定でした。
日本海側や太平洋側の山沿いなどがあすにかけて雪が降り続く見込みで、あすの朝までの…。
翌日、佐々木さんは、子どもたちが着るはずだった衣装を、片づけ始めていました。
離れて暮らす子どもたちは、雪で交通機関が動かず、集まることができませんでした。
震災から3年。
いつまで子どもたちと踊りを続けていけるか。
佐々木さんは考え始めています。
模型に刻まれていく人々の記憶。
展示終了まで残り僅か。
色が塗られていない建物が目立っていました。
各地で避難生活を送る浪江の人々にとっては、模型に色を塗りに来ることさえ、容易ではありません。
そして、学生たちが驚かされたのが、模型は白いままがいいという住民の声でした。
町で介護施設などを運営していた、川村博さんです。
川村さんにとって、この場所は、これからを生きる場所だといいます。
去年4月、川村さんは、この場所で再び農業を始めました。
住民の早期帰還を目指す避難指示解除準備区域となったことで、再開が可能になりました。
川村さんは、20種類を超える作物を育てながら、放射能の影響を調べ、再びこの町で農業をなりわいにできる方法を探っています。
国の基準値を下回り、出荷を待つばかりの野菜。
しかし。
この日、川村さんたちはキュウリの種をまきました。
育てても、買い手が見つかるか分からない作物。
それでも川村さんは、浪江町で農業を続けていきたいと考えています。
白いまま模型に残された川村さんの農場。
ふるさとはまだ失われていない。
川村さんの思いが込められました。
住民が学生たちと作り上げた浪江町の模型です。
色鮮やかによみがえった、かつての記憶と、手付かずのまま残された白い町並み。
あの日から3年を迎えた原発避難の町です。
西田さん、私、最初ね、この白いのは、この模型の所に来ることができないからかなと思ってたんですよ。
僕もそう思っていました。
ところがこれ、ご覧ください。
これ全部、いろいろな思い出の詰まった建物の名前とか、一つ一ついろんな思い出も書き込まれているんですよね。
つまり、皆さん、これを、この模型は見たけれども、今VTRであったように、色は塗りたくない。
あえて色は塗りたくない。
つまり塗ってしまったら、なんか現実を過去に追いやっちゃって、なくなってしまうんじゃないか。
でも確かにあるんだから、ここから始まるんだっていう気持ちが、この白になってると思ったときにね、やっぱり僕らがこう画一的に物事を考えちゃうんで、そうじゃないんだなっていうの、痛いほど感じたんですけどね。
本当にだから、浪江は捨ててないぞ、捨てないぞっていう思いがね、すごくインパクトがありますね、この。
決意みたいなものがね、絶対もう、過去のものじゃない、今もここにあるんだということを、あえて白で、アピールしているんじゃないかと。
ほかの地区で色を染めてるのも、それなりの思いで、皆さん染めていらっしゃるんですけれども、それと同じぐらいの思いでやっぱり、白で残しておこうというのがね。
これ、浪江の駅でしょ。
ずっと、これも、だから震災前はずっと列車走ったけど、絶対にここをまた走るんだぞという思い。
ここになんか模型もありますけどね。
そういう強い気持ちが、本当にひしひしと分かりますね。
同じようにふるさとの記憶とはいっても、やっぱり、地域によって、それからお一人お一人によって違うんだなっていうのを感じますよね。
本当に難しい問題を抱えていますね、われわれは。
向こうのほうに川が流れてるでしょ、こっちが下流らしいんだけど、これも川でね、ずっと向こうのほうにつながってるらしいんですけど、昔、あそこでね、アユを取ったんだそうです。
昔っていうか、今でもってことなんでしょうけどね。
暮らしの、ここにもう一度、色をつけるとしたら、もう自分たちが戻ったときだというふうに、思っていらっしゃる?
そうだと思いますね。
でも、この戻るっていうのが、町に戻るというだけじゃなくて、きっとね、そこでの暮らしを元に戻したいという気持ちがあって初めて、この土地に戻ることになると思うんですよね。
暮らしとか生きがいとかね、思いとか、営みですよね。
だから、放射線に対する不安があって、戻りたいのか、戻りたくないのかという話ありますけど、よく聞いてみると、やっぱりここでの暮らしがしっかりできるようになるかどうかっていうことも含めて、戻る、戻らないっていうふうな、そういう気持ちにつながっていくんだ、それがやっぱり若い人たちは今、なかなか戻ることに二の足を踏んでいるとか、そういう現実もあるということなんですよね。
その若い人たちの気持ちも、十分に分かりますしね。
しかも地域のことを考えると、若い人たちがいわば、これからの復興の担い手ですよね。
だからそういう若い人たちの思いを、どうやって生かしていくのかってことを。
本当ですね。
そのためには、やっぱり皆さんが早く帰還できるような状態にしてさしあげなければならないというふうに思うんだけども、それはどうなのかっていうことですよね。
家に戻るだけじゃなくて、そこでの暮らしに戻すために。
だから、もどかしくなるんですよね。
本当にもどかしい。
柳澤さん、西田さん。
今ちょうど浪江の方から、お便りが届きました。
ご紹介しますね。
61歳の福島県にお住まいの方、浪江の主婦と書いてあります。
家を造っても、私たちは何年そこで暮らせるか考えると、決心がつきません。
息子たちは、戻らないと言っています。
私たちも、戻ってこいとは言えません。
時間がたてばたつほど、先行きは見えません。
不安です。
そして、浪江に友達がいるという方からも。
44歳、三重県にお住まいの方。
先日、浪江の友人から、2年ぶりに、お子さんの成長や近況が書かれたお便りを頂きました。
気にはなっていたものの、お手紙を出すことをためらっていたので、大変うれしく思いました。
見守ることしかできませんが、いつも、思っています。
そして、こちら、神奈川県、福島の方ですが、今恐らく神奈川に避難されている方、56歳の男性。
福島県相馬市、海から1キロしかない距離にある工場内で地震に遭い、人生初めて腰を抜かし、ひざ下まで津波につかるも、なんとか脱出しました。
番組を最後までしっかりと見て、改めて自分で何ができるか、見つめ直します。
皆さんもどうぞ、今、伝えたいこと、そして思うことを、番組にお寄せください。
地震、津波で亡くなった方、それから行方不明の方もたくさんいらっしゃいます。
そして震災後亡くなられた、いわゆる震災関連死の方を含めますと、東日本大震災の犠牲者は2万1000人を超えます。
残されたご家族の方、恐らく時の経過とともに、悲しみというのは深まっていくのではないかと思います。
津波で亡くなった若い女性と、その両親の3年間です。
大津波に襲われた日から3年。
宮城県南三陸町の海です。
この海でワカメの養殖を営んできた遠藤美恵子さんと清喜さんの夫婦。
津波に娘を奪われました。
町役場の職員だった娘の未希さん。
最後まで防災無線で町の人たちに避難を呼びかけました。
ただ今、津波が襲来しています。
高台へ避難してください。
海岸付近には、絶対に近づかないでください。
未希さんが放送していた、町の防災対策庁舎。
津波は3階建ての庁舎の屋上にまで達し、多くの職員たちが犠牲になりました。
未希さんの遺体が見つかったのは、この辺りでした。
あの日から3年。
今も心に響く娘の声。
それに向き合おうと生きてきた、両親の歩みを見つめました。
1万7000人余りが暮らしていた町を襲った津波。
死者・行方不明者は800人以上。
町の中心部は、壊滅状態となりました。
家を失った多くの人たち。
避難所は、廊下にまで人があふれ返っていました。
震災発生から13日目。
避難所には、行方が分からない家族を捜す人たちも、次々と訪れていました。
その中に遠藤清喜さんと美恵子さんの姿がありました。
娘の未希さんを捜していたのです。
避難所から避難所へ。
どこかに、娘の手がかりはないか。
そんなとき、私たちが入手した津波の映像の中に、未希さんの声がはっきりと記録されていることが分かりました。
絶対に近づかないでください。
少しでも手がかりが欲しいと、その映像を見た両親。
娘の最後の声を、初めて聞きました。
未希だね、未希。
もう波来てたのに、言ってたんだね。
まだ言ってるんだ。
まだ言ってるよ、未希。
まだ言ってるのに、もう。
子どもっていうのは、親に笑顔を見せるだけで十分なんです。
それで十分だと思います。
未希さんが遠藤家の長女として生まれたのは、昭和61年。
未来へ希望を持って生きてほしいという両親の願いから、未希と名付けられました。
スポーツは得意なほうではありませんでしたが、父親に教えられた剣道だけは、10年以上続けた、しんの強い子どもだったといいます。
家の中でもいつもニコニコして、話の聞き役に回っていたという未希さん。
家族の輪の中心に、いつも未希さんはいました。
そんな未希さんが就職したのは、地元の町役場でした。
震災の前の年の未希さんの姿が、NHKが取材した映像に残っていました。
災害時の情報収集と、防災無線を担当していました。
いざというとき、防災対策庁舎に駆けつけられるよう、自宅に準備していた危機管理課のジャンパー。
仕事に責任とやりがいを感じていました。
どこかで生きていてほしい。
僅かな願いをかけ続けた両親。
その願いが絶たれたのは、1か月余りがたったあと。
未希さんは、自宅近くの海で見つかりました。
連絡を受けたその日、清喜さんは、仲間たちとがれきの片づけをしていました。
ようやく弔うことができた娘。
そのころから、いつもふさぎ込むようになり、外に出ることさえ難しくなった美恵子さん。
娘の死は自分にも原因があったのではないかと考えていました。
町役場への就職を勧めたのは、美恵子さんだったのです。
専門学校を卒業した未希さん。
別の就職先も決まっていましたが、母の願いを受け入れて、役場のほうを選びました。
震災発生から3か月。
南三陸町には延べ8000人近くのボランティアが入り、復興支援を始めていました。
天候が悪いんで、足元を気をつけて作業していただくように、お願いします。
2階まで津波につかった遠藤家にも大勢のボランティアが訪れ、がれきの片づけや、家の修復などを手伝っていました。
この日、美恵子さんは手伝ってくれるボランティアたちをねぎらおうと、炊き出しをすることにしました。
ボランティアの女性たちと一緒に準備をしていたそのとき。
突然、美恵子さんの表情が変わりました。
娘の未希さんと、同じ年頃の女性たち。
その姿が、未希さんと重なって見えたのです。
ふとしたことでよみがえる娘の面影。
復旧した防災無線から流れる女性の声さえも、娘がいなくなった現実を、突きつけてくるものでした。
自分はどうすればいいんだろう。
答えが出せない中で、美恵子さんが始めたのが、日記でした。
娘に語りかけることで、踏み出す一歩を探すためでした。
少しずつだけど、あなたに会う日まで、お母さんはすぐ忘れてしまうので、毎日の出来事、ノートに書いて、お土産に持っていくね。
それまで、お母さん、頑張ります。
少しずつ人が戻り始めた海。
特産のワカメの養殖も、ようやく収穫ができるまでに回復してきました。
周囲に促され、美恵子さんも仕事をするようになりました。
少しずつ、戻ってくる日常。
それを受け入れることに美恵子さんはためらいを感じていました。
お母さんは、少しずつ笑って過ごせるようになっています。
ああ、それもなんか寂しい。
少しずつ、あなたの顔がぼやけて見えます。
こうして、月日があっけなく、いつの間にかあの突然の震災から、むなしく流れていくのですね。
復興、復興といわれる中、心の中のむなしさだけが、大きくなっていくようです。
そんなある日、美恵子さんの気持ちを一変させるあることが起きました。
震災から1年半が過ぎ、未希さんの遺品を整理していたときです。
その中に初めて目にしたものがありました。
津波でにじんでしまった手紙。
未希さんが20歳の記念に、未希さん自身に宛てて書いたものです。
あなたもきょうから20歳だよ。
いつまでも輝く笑顔を失わず、すてきな女性へと成長してください。
つづられていたのは、未来への希望。
それだけでなく、思わぬことも書かれていました。
人生って楽しいことばかりじゃないけれど、苦しいことや、つらいことを乗り越えて、ほっとしたとき、いつも心に浮かぶのは、このひと言です。
母さん、私を産んでくれてありがとう。
母さん、私を産んでくれてありがとうですね。
とりあえず。
母への感謝を心の支えにしていた未希さんの思い。
それが、津波にも消えることなく、母に届いたのです。
娘に背中を押されたような気がした美恵子さん。
自分にできることをやろうと動き出しました。
訪れたのは、仮設住宅。
自宅を失った人にストレスケアを行う事業に参加したのです。
そんな中である出会いがありました。
生前の娘に、世話になったという人でした。
あら、ここでこうやってお会いするとは。
私ね、遠藤未希ちゃんにね、実はね、お世話になったの、役場の窓口で。
そうだったの。
未希は今でも、多くの人たちの中で生き続けている。
自分たちには、娘の分までやるべきことがあるのではないか。
そう思い始めていました。
そして、ことし2月。
未希さんの話を生徒たちに聞かせてほしいという学校からの依頼に、初めて応じることにしました。
自宅を訪れたのは、新潟県村上市の高校生6人。
社会科の授業で、未希さんのことや、震災の記憶をどう伝えていくかを学んだといいます。
いろんなことをお話していきたいなと思いますけれども。
初めは何を話せばいいのか、戸惑っていた2人。
まず、当時の状況を語り始めました。
目の前に結構、家あったんですけど、みんな流されて、ここまで津波来たというときには、町は皆さん今通ってきた町は全滅っていうのが、私たちには分かるんですね。
そのときに初めて娘のことを思うわけですよ。
どこかで助かってるだろうと思って行ったら、多くの人にね、最後まで放送していたのを聞いたと。
最後まで放送したというのは、最後っていうのは、たぶんそのときに流されたんだなっていうのが、そこで察して。
そして美恵子さんは、これまで決して自分から話したことがなかった、娘への思いを語り始めました。
最初はもう死にたかったんですね。
私はすぐ娘のところに行きたかったと。
早く、まだ娘がその辺にいる間に死にたいなって思ってたんですけど。
だんだん、娘に申し訳ないので、娘の分も、生きたいし、生きてたいし、多くのお土産を持っていきたい。
私たち生きるために、未希を感じて生きていきたいので。
高校生は真剣に聞いてくれました。
語り継ぐことこそが、残された自分たちの役割。
今、その決意を形にしたものが出来つつあります。
自宅裏の高台で工事が進められているこの建物。
震災のこと、未希さんのことを語る場所を作ろうと、借金をして、民宿を開くことにしたのです。
未希さんが好きだった、海が見える場所に建てられた小さな宿。
名前は、未希の家と付けるつもりです。
未希さんのご両親のお気持ちを思うと、もう察するに余りあるものがありますね。
本当に僕も娘がおりますんで、どんなにおつらかったか。
今も、本当におつらいと思いますが、どっかで一つその現実を受け入れようとなさってる、あの2人の葛藤といいましょうかね。
どう声をかけていいのか分からないけど、なんか、黙ってハグしたいです。
重松さん、お母様もやはり、日記ということばあるもので、少し。
これは本当、遠藤未希さんのご家族だけじゃなくてね、本当に2万1000人以上の方が亡くなられたら、2万1000人の悲しみ、それぞれの悲しい3年間というのがあったんだというのもありますし、その一方でね、まだ行方不明の方もいらっしゃるわけです。
本当に持って行き場のない、落ち着けようのないものをずっと背負いながら生きてらっしゃる、3年というのが、陸前高田に僕、取材に行ってたんですよ。
復興工事のね、ダンプカーがたくさん行き交っている中で、ちょうど雪が降ってるときにね、亡くなった場所に、花と線香を手向けに行かれた方の足跡がね、残ってたんです、雪の上に。
なんかこっちで町づくりも始まっている一方で、亡くなった人への思いをずっと持ち続けて、お墓参りという、お花を手向けている人もいらっしゃる、この2つっていうもの、両方見ておかないと、たぶんいけないんじゃないかなと。
お母さんは娘さんからの手紙が発見されて、それで救われましたけれど、その前に、復興の中での心のむなしさをすごく感じておられた。
復興、大きな町がどんどんいくに連れて、3年前のあそこで亡くなった自分の娘さんの死というもの、命というものがね、どんどん遠ざかっていってしまう、忘れられてしまうことに対する、寂しさってあったと思います。
そして周りには、南さん、今どういうことが求められていると思いますか?
遠藤未希さんのご両親は、本当に、この時間をかけて、本当は、本音を言えば、あのとき死んでしまいたかったという部分を、今は語れるようになっている。
それはもう、すごく大きいことで、そういう心の変化や、そういう気持ちに、本当に一緒に共鳴するということが、共感するっていうこと、私、すごく今、VTR見て感じましたし、お母さんが生きていこうって、そう思ったことだけでも、未希さん本当に、喜んでらっしゃるだろうし、もうそれは、この話をしてくださっただけでも、私たちはとても共感します。
本当に、こうやって、少しずつの変化を本当にこうやって語ってくださったことに、すごい感謝しますね。
お母さんが笑えば、お父さんが笑えば、未希さんは絶対に、天国でほほえんでいると思います。
復興の中での心のむなしさというのは、柳澤さん、私たちは忘れないようにしないといけないですよね。
先ほど、亡くなった方が2万人を超えて、それにこれまで寄り添ってきた家族の方のことを考えると、ものすごい数の方がいると。
悲しみを抱えていると。
1人の悲しみって、1つじゃないはずなんですよ。
たくさんのものを抱えてる。
しかも時がたつと、それぞれ皆さん、個人的に置かれている立場、変わってくるんで、なかなか一つにくくれないものになってくる、でもそこをなんか、国の政策とかで一律になんか、やろうと思っても、現実はもう違ってるんだということを、僕らしっかりそこを抑えないと、震災の復興に向かって向き合っているんだ、家族の方にも向き合ってるんだってことばが、むなしくなってしまうと思うんですよ。
一人一人が違うし、一人の中でもまた違うんだってことを、丁寧に考えていくという、そういう寄り添い方っていうのが必要なんじゃないのかなって思いますね。
一通だけちょっとメッセージを紹介していいですか。
というのが、実は未希さんについてのメッセージが番組宛てに届いているんですね。
埼玉県の65歳の男性からなんですが、遠藤未希さんのことをテレビで知ってから、未希さんのことを忘れないようにブログで感謝の気持ちをつづっていますということなんです。
お母さんの美恵子さんご自身も日記に、震災のことが忘れ去られる不安を何度もつづっていらっしゃるそうなんですけれども、お母様の美恵子さんには、娘さんにこうした声も、番組宛てに送られてきていることを、ぜひお伝えしておきます。
3時が近づいています。
西田さんの参加はここまでになります。
西田さん、被災地の皆さんに伝えたいことば、ひと言お願いします。
ともかく、現状はさほど変わってない。
皆さんは今、戦時の中にいると思います。
行政は何かというと、平時的な流れ、時間の流れでなんかなされているような感じがして、ともかく、今は非常時なんだということを、3年もずっと続いてるんだぞということを、改めて認識したし、改めて、それに対しての対応を、私たちはしなきゃいけないなっていうふうに、本当に思いました。
東日本大震災から3年がたとうとしています。
今、被災地は、どこまで復興し逆に何が取り戻せていないのか…。
現地を訪ねました。
お店は、シャッターが下りたまま。
どのお店も、シャッターが下りたままになっていますね。
私が訪ねたのは東京電力福島第一原発から16キロほどの商店街です。
このお宅は震災の時のままですね。
傾いて崩れそうになって…そのままです。
本当に3年なのかという気持ちがしてきますね。
1年半前、この町でいち早く再開した町工場です。
こんにちは。
三宅です。
本当、しばらくでした。
本居さんが経営するこちらの工場は大手電気メーカーの下請けで新幹線などで使うモーターを作っています。
1年半前、取材でお邪魔した時はまだ水が出ませんでしたが…。
おー。
いやー、出ますね。
いつごろ出たんですか?
これは12月の末です。
本当に、まるっきり末。
最近のことですよね?
そうです。
うれしかった?
うれしかったです。
本居さんは、自分たちが真っ先に工場を再開すれば周りの人も、それに連れて戻ってきてくれると期待していました。
しかし…。
誰も帰ってこないままです。
今はもう帰ってこないです。
帰ってきていませんから。
空き家になっています。
本居さんたちが戻ってくれば町にたくさんの人が戻ってくるんじゃないかってそのきっかけになればって。
そうそうそう。
ダメですね。
なぜ駄目ですかね?
帰ってきても何のメリットもないからじゃないですか?病院もないし、スーパーもないし。
だって3年たつんですよ?3年たって何の進歩もないって言ったら、ほとんどもう諦めるっていうかね何すればいいんだってこっちが聞きたいじゃないですか。
どうも、ご無沙汰してました。
佐藤良一さんは、南相馬市から委託を受けて、津波で荒廃した農地の再生に取り組んでいます。
ずっと活動を続けて?
やってます。
当初、80人だった仲間は今、140人に増えています。
津波の被害を受けた農地の、がれきを全て取り除き何とか元の姿に戻す活動です。
今、作業はどこまで進んでいるのでしょうか。
びっくりするような景色が現れました。
こういった状態なんです。
何とも言えない光景ですね。
まだ、田んぼの排水施設の復旧にまで手が回らないためことしのように雪が多いとこのように。
今、水が溜まっている所は農地なんですか?
そうなんです。
道路を挟んでこれは河川ですけども両脇、全部田んぼです。
農地の復活にはまだ程遠いと実感しました。
震災から3年経って家の解体が、今、行われています。
この家は、津波による痛みが激しく住むことが出来ません。
しかし、廃材の仮置き場が整っていなかったためこれまで解体することも出来なかったのです。
こんにちは。
佐藤さん。
農家の佐藤榮さん。
この家では8年しか暮らせませんでした。
佐藤さんは仮設住宅への避難を余儀なくされました。
その後仙台に引っ越しましたが…
1週間か10日くらいしたらどこに行って何をしたらいいかわからないですね。
仙台で?
仙台で。
こっちに帰ってくれば野菜を作ったりいろいろなことができるんですよ。
ところが仙台にいたらテレビを見るしかないですよ。
佐藤さんは、再び自宅に戻る決断をしました。
被害の少なかった倉庫の2階をリフォームして暮らす準備をはじめたのです。
中古のトラクターも購入しました。
農業を再開するためです。
しかし、農地は除染が必要です。
佐藤さんは国の支援を頼らず自分で新しい土を入れようとしていました。
自分のお金で土を入れて?
だって、3年たってもまだ何にもできてないんですもの。
現実に。
だからそんな事、言ってもなんですけど。
自分でやるほかない。
岩手県大槌町。
1年ぶりに訪ねました。
工事の音がこんなに聞こえなかったですもの何度か取材に来ても。
確実に工事が進んでいるという実感がありますよね。
道路を行き交う、多くのトラック。
町を、かさ上げする為の土が盛られていました。
お久しぶりです、伊東です。
以前、取材でお会いした菊池公男さん。
菊池さんはアマチュアカメラマン。
震災直後から徐々に復興する町の様子を撮り続けてきました。
今回、ぜひ見せたいものがあると港に連れて行ってくれました。
漁船を守ってくれる防波堤。
今月、完成予定です。
望鈴ちゃん、お久しぶりです。
高校2年生の釜石望鈴さんも1年ぶりの再会です。
釜石さんは被災した人たちを元気付けようと町の人の笑顔を撮影してきました。
仮説商店で働く人や、漁を再開しようと頑張っている人たち100人の笑顔です。
その写真は、思わぬ評判を呼び東京で写真展まで開かれました。
さらに、ある印刷会社が写真集にまとめ、無料で1000冊提供してくれたのです。
おー!きちんと、まとまっている。
いろんな方に見ていただくことでまた、そこから笑顔が広がっていくんじゃないかなって思って「笑顔の輪」っていうのを広げたいなって思ってて。
今、釜石さんはこの写真集を町の人たちに配っています。
こんにちはー。
高校2年の釜石と申しますけどこちらの店に何冊か置いていただけないかなと思って。
はい。
そうですか。
どうも。
できるだけ多くの人に見てもらいたい。
それが釜石さんの願いです。
望鈴さん自身は、去年よりも、明るくたくましくなっている姿はとてもうれしかったんですが、大槌は、工事の車両は動いていても、少しずつ、少しずつという実感でした。
そうですね。
一方、私が訪ねた福島のほうは、うーん、時間は止まっている感じですね。
そういう中、これからどうすればいいのか、この3時台、考えていこうと思っています。
これからを支える10代の女性から声が届いています。
宮城県の19歳の女性です。
どうか3月11日を忘れないでください。
私は普通に生活できる日常こそが幸せだと思うようになりました。
家族や大切な人が近くにいることに感謝したい。
そして震災への備えを忘れないで、同じことは二度と起きないように。
同じ10代の男性から、千葉県の18歳。
まもなく東北に春がやって来ます。
僕にとって、春はうれしい季節ですが、被災地の方は、あの日をまた思い出してしまうのかもしれません。
ただただ、見守り続けたいと思っています。
これから、どうしていけばいいのか。
若者たちの声に、耳を傾けていきます。
被災地に生きる若者たちの声、いかがお聞きになったでしょうか。
そうした若者たちの力を、岩手県の大槌町では、実際に町づくりに取り入れようとしているんですね、地元の高校生に町づくりのプランを考えてもらって、採用されたものには、予算をつけるという大胆な試みなんです。
高校生たちの奮闘を追いました。
岩手県大槌町。
人口1万2000のこの町では、震災で1200人以上が犠牲となりました。
高台にある大槌高校は、津波の被害を免れましたが、生徒のおよそ半数が、家を失いました。
去年5月、この高校に町役場から思いもよらないプロジェクトへの呼びかけがありました。
それは高校生が、町づくりの企画を考えるというプロジェクト。
よいものには予算をつける全国初の試みです。
企画の採用は、半年後に行う、町長の前でのプレゼンで決まります。
町づくりに取り組むのは、2年生110人。
17のチームに分かれて、企画を練ります。
この日、町づくりを考えるポイントとして挙がったのは、卒業後の進路でした。
では、自分が住み続けたくなる町って、どんな町?
みんなが若者に住みよい町づくりを考える中、お年寄りに思いを巡らせている班がありました。
リーダーは、古舘笑海さんです。
笑海さんがそう考えるのには、一人のお年寄りへの思いがありました。
こんにちは。
すみません、本当に。
こんにちは。
震災前、近所に住んでいた友達のおばあちゃん。
大の仲よしです。
笑海さんは、おばあちゃんたちの運動不足を解消したいと考えています。
おばあちゃんたちと楽しく過ごした家があった場所に案内してもらいました。
笑海さんの家は、明治29年創業の老舗の酒蔵。
お酒の甘い匂いが、笑海さんは大好きでした。
震災が起こる前は、酒造りを手伝っていました。
震災後、お父さんは盛岡に移り住んで、酒造りを再開しています。
笑海さんは、高校を卒業するまで大槌で暮らし、その後、お父さんのいる盛岡で、就職する予定です。
自分はこの町を離れるけれど、せめて今は、大槌の町づくりに関わりたいと考えています。
こちらもリーダーの一人、小林寿美さんです。
彼女のノートには、こんなことばが書いてありました。
もう時間がないよ。
町がなくなっちゃう。
自転車で走った道も、ばあちゃんと歩いた道も。
寿美さんは復興で町を新しくつくり替えるのではなく、昔のままに再現してほしいと願っていました。
寿美さんの大切な場所に案内してもらいました。
この道です。
寿美さんのおばあちゃんは、今も行方が分かりません。
思い出の品も、津波によってすべて流されました。
でも、この道に来ると、学校帰りの自分を迎えに来てくれていたおばあちゃんとの思い出がよみがえります。
しかし、この場所は計画により、埋め立てられることが決まっています。
大槌町では、海の周りに大きな防潮堤を造り、さらに埋め立ててかさ上げをし、津波に強い町をつくることになっています。
町づくりは、昔のままの町を再現すること。
頭の中は、そのことしか浮かびませんでした。
町づくりで、町のあるべき姿を考えるようになったことが、寿美さんの進路にも影響を与えていました。
この日は、2年生になって初めての三者面談です。
寿美さんは幼い頃から、ずっと地元で暮らしたいと思っていました。
しかし。
地元への思いは揺らぎ始めていました。
2学期。
町づくりのビジョンが、それぞれのグループで固まりつつありました。
お年寄りの運動不足を気にかけていた古舘笑海さんは、グループのメンバーと、あるアイデアを思いついていました。
それは。
お年寄りも含め、町民みんなが参加できる大槌大運動会です。
種目は玉入れやゲートボールなど、高齢者でもできるスポーツです。
一方、埋め立てで町が変わることに胸を痛めていた小林寿美さん。
町の人たちが復興政策についてどう思っているのかを聞くために、町と住民の意見交換会に参加しました。
役場も大変なのに、みんなが自分の要望だけを言っていることが気になりました。
役場と住民は、険悪な雰囲気になっている。
町は復興の情報を、ちゃんと伝えているのだろうか。
そう思った寿美さんは、ショッピングセンターの一角にある情報プラザを訪ねました。
ここは、住民向けに役場が復興の情報を発信する場所です。
しかし、寿美さんには。
堅苦しいことばが並ぶ掲示物に、寿美さんはがっかりしていました。
ノートには。
仮設住宅にも配られているものを拡大して貼っているだけ。
復興に向けての情報を、住民みんなで共有できるようにすることが大切だと感じました。
そして寿美さんは、あるアイデアを思いつきました。
それは。
町民が、復興について学ぶ、塾を作るというもの。
若い人でも興味を持てる、復興塾を作りたい。
寿美さんの提案がまとまってきました。
そしてついに、町長へのプレゼンの日。
17のグループの代表が、それぞれの提案を発表します。
高校生を迎えるのは、町長。
さらに産業、福祉など、それぞれの分野の幹部たちです。
トップバッターは生徒会長の東谷君。
全国の高校生を、大槌の海に集めて、スポーツの祭典を行う企画。
高校生が盛り上がることが、被災地には必要だとアピールしました。
続いては、佐々木さん。
建設は予算的に厳しいと言われることを想定し、さらにこんなアイデアを伝えました。
仮設のテントなどを建てて、とりあえず試してみることを持ちかけました。
そして、笑海さんの順番が回ってきました。
運動不足で年老いていく、大好きなおばあちゃんへの思いを込めました。
そして、ラストを務めるのが、寿美さんです。
この半年、町が新しく変わっていくことを、恐れながらも、新しい町になるために、何が必要かを考えてきました。
復興に苦しむ町から、投げかけられた高校生による町づくり。
生徒たちそれぞれが、精いっぱい思いを語った、2時間のプレゼンテーションでした。
プレゼンから3か月。
復興塾や大運動会などの提案は来年度以降、町と高校生が一緒になって、できるものから取り組んでいくことが決まりました。
さらに、改定される復興計画の中にも、生徒たちがプレゼンした考え方が反映されています。
彼らは、今回の町づくりを経て、何を感じたのか。
プレゼンをしたリーダーたちに集まってもらいました。
古舘笑海さんと小林寿美さん。
そして、消防士を目指す、吉田優作君。
看護師志望の菊地尋彌君です。
よい経験になったという一方で、以前よりも復興にもどかしさを感じるようになったといいます。
若い人が出ていく町のことも、心配だといいます。
今の2年生に進路を聞いてみると、地元に残る人は14%です。
地元で就職するべきか揺れていた寿美さん。
今の気持ちを初めて打ち明けました。
町づくりを経て、高校生たちは、震災前のふるさとと、未来のふるさとと、向き合いました。
そして、それぞれのあしたを、思い描いています。
安心できる町になってほしい。
公務員就職、一発合格目指して、頑張ります。
将来の夢は、石油会社で働くことです。
進学頑張ります。
就職頑張ります。
養護教諭になりたいです。
地元を出た人は、地元に戻ってきてほしいです。
将来の夢は、俳優です。
看護師。
消防士。
バスケットボールに関われる仕事に就くことです。
頑張ろう!大槌・釜石。
重松さん、実は一番ふるさとのこと、しっかり考えているって、こういう世代なんですかね。
すごくね、どんどん成長していくのがね、もうその表情も変わっていくし、大槌高校だけじゃなくて、その前のVTRに登場した若者たちもそうなんだけど、自分たちが主役なんだと、つまり自分たちが頑張る、自分が頑張る。
何かやってもらうとか、与えられたものではなくて、自分たちが作っていくんだっていうね、やっぱり主役を引き受けてくれてるねという感じが。
だからこそね、じゃあ、その引き受ける若者にとって今ね、仕事って、職があるっていうのは大事だろうと。
つまり就職ができなければ、残ってくれないわけだから、せっかく今ね、若い世代が、自分たちが主役になるんだっていう気持ちを持ってくれたら、何かそれに大人の世代が応えていってあげたいなと思った。
南さん、頼もしかったですよね。
いやぁ、もうすばらしいですね。
とにかくこう、分からなかったことを学んで、学んでみると、自分の意見が、方向が見えて、それでこうしたい、ああしたいって、すっごい自分の意見をはっきりああいう場で言える高校生たち、もうすばらしいし、大運動会なんて、本当にすぐできるアイデアが、たくさんあったり。
やっぱり役場の人たちも、高校の先生方も、やっぱりああやって柔軟に、若い意見をどんどん取り入れるっていう、そのキャッチボールが、もう本当にすばらしかったですね。
なんか逆転の発想というか、被災地は今、どこも若い人が離れていくっていう、心配があって、だから、その若い人たちの発想を聞いてるという。
改めてやっぱり、若い世代が担い手だってこと、みんな頭では分かってると思うんですけど、今、VTRで見たら、やっぱり、そうなんだと。
それでやっぱり、若者の特権というか、柔軟ですよね。
考え方がね。
そこがやっぱり違うという。
若者の発想で、お年寄りのために何かしてあげたいとか、その優しさっていうかね。
だから若者に任せれば、若者のことばっかりじゃないかと思われがちなんだけど、そうじゃなくて、あれだけお年寄りのことを考えてくれて、やっぱりね、損得勘定を超えた思いが、確かにあったと思う、すべてのアイデアに。
これ柳澤さん、これから非常に難しい町づくりなどをやっていくところはたくさんあると思いますが、何か参考になるものはありそうですね。
繰り返しになりますけど、若い世代がその地域で力を発揮できるようなことを、やっぱり第1に考えるべきだなと、それは一時的にふるさとを離れて、僕もいいと思うんですよ。
出もまた戻ってくるというふるさとにするために、どうすればいいか。
とにかく若者を頭に置いて、それをこれからの時代考えるっていう発想の転換はね、必要なんじゃないかなって思いますね。
人任せにしないっていうことばがあったでしょ。
それは被災地の人だけが問われてることではなくて。
私たちも。
僕たちだってね、やっぱり今からの時代、生きていかなきゃいけない。
僕たちの子どもたちの世代が頑張っていくわけで。
やっぱり同じ時代を生きていく若者どうしがつながっていったら、すごく僕、いいなと、やっぱり思うんですよ。
だから今回も、ボランティアなんかを通じて、どんどん若い世代が被災地に行ってきたし、もっと行ってほしい、3年後以降、もっと行ってほしいなと思いました。
改めて、大人、しっかりしろよっていう感じがしましたよね。
いやー、本当、背筋を正される。
さあ、被災地の未来、これからどうするのか、若者たちの声に耳を傾けて、考えてきました。
実は、このあとの4時からのEテレでも、その復興について、若者たちが本音で意見をぶつけ合う番組、東北発・未来塾が生放送であります。
東京・渋谷NHKの101スタジオと、中継がつながっています。
サンドウィッチマンさん。
東北発・未来塾、応援団長のサンドウィッチマンです。
宮城県出身の僕ら、そして震災から3年ですね、東北の若者たちと一体何ができるのか、4時からのEテレ生放送で考えていきます。
きょうのテーマは?
つながる。
気仙沼の高校生は、恋してつながる!
いいぞ。
そして。
福島の女の子は、かわいいでつながる。
つながった。
ものすごいかぶってくるね。
石巻の高校生は、食べてつながる!
ツイッター、メールでもつながれます。
冷静だな。
さらに番組でご紹介する活動がいいなと思ったら、テレビの前の皆さんも、リモコンの赤ボタンを使って、番組特製サンドゥボタンを、押してください。
小指で押してください。
それでは伊東さん。
東北発・未来塾。
元気があふれていた。
つながるということばは、震災直後から言われていたけど、きょうの話を聞いてると、今、復興の中で苦しさを感じている人が多い、それから溝も出来ている。
そうすると、つながるっていうことが非常に重要になってるような感じが。
恐らく震災によって、さまざまなものが断ち切られたり、ひびが入ったりしたものが、いっぱいあると思うんです。
それをもう一回つなぎ直すことって、大事だと思います。
さあ、Eテレで、若者たちがどんな議論をしてくれるか、楽しみにしたいと思います。
そして、きょうの番組には、被災された方々、そして被災地からたくさんの声を頂きました。
ありがとうございます。
時間が許すかぎり、ご紹介いたしましょう。
静岡県19歳の若い方ですね、女性からです。
去年初めて福島県に行かせていただきました。
現地の皆さんはとても温かく、私たちボランティアを迎えてくれました。
そしてきょうの夜から、また福島県へ向かいます。
自分にできることを精いっぱい、やってこようと思います。
そして宮城県の女川町の方。
被災前、私が住んでいる町は、交通の便が悪い町で、あまり好きではありませんでした。
でも被災後、私の町を訪れる人が、私たちの食べているものが、とてもおいしいものだと教えてくれたり、景色の美しさを教えてもらったりしているうちに、なんにもなくなった自分のふるさとであるこの町が、大好きになりました。
千葉県24歳の女性です。
番組を見ていると、涙がぽろぽろ流れてきます。
幼少時、神戸で震災を経験した私にとって、東日本大震災の被災者の声はひと事ではありません。
東北へのボランティアは、仕事の合間に時々しか行けないけれど、こうやって遠くから、東北の皆様を思っている人がたくさんいるということを、どうか忘れないでください。
岐阜県37歳の男性。
私は震災発生初日より、宮城県で、復興支援任務に当たらせていただいた警察官です。
実際の惨状に身を投じた他県民として、当時の体験、記憶を地元県に伝え続けることが、われわれに課せられた責任と感じております。
忘れません、忘れさせません、絶対に。
福島県13歳の女性から。
私は中学1年になりました。
この3年間、転校を繰り返し暮らしてきました。
ふるさとには年齢制限があり、帰ることはできません。
たくさんの人が、たくさんの涙を流してくれたけど、私にはもう、流す涙はありません。
これからは、笑って生きていこうと思います。
ありがとうございました。
明日へ・支えあおう、残り時間が、皆さんが自由に話せる時間が、まだ1分ちょっとあります。
一番印象に残ったことを話してください。
はい、どうぞ。
恐らくまだ、震災は続いているんだということだと思います。
震災から3年じゃないんですね。
3年目になって、みんなさまざまな形を変えながら続いていて、続いているんだというのを前提に、だからこそ今僕たちが、見なきゃいけないこと、考えなきゃいけないことがたくさんあるんだと思いました。
やっぱり震災といえば、津波の映像を一番に思い出すんですけれども、そうではなくて、刻一刻と被災された皆さんの心情も変わり、状況も変わりっていう、被災地に住んでない私たちは、そういう変わっていく姿を、本当に新鮮に受け止めて、こうやって移り変わって、次はどこにいこうとしているのか、どうお手伝いをすればいいのかっていうのを、本当にこう、いつも忘れないっていうことと、やっぱりいつも、それを見つめ続けるってことが、一番大事だなと思いました。
私はもう、ひと言で言うとですね、被災地、被災者、あるいは大きい数字でくくっちゃいけないっていう、一つ一つの生き方があり、一つ一つの死があって、そしてまた一つ一つの新しい生き方を選ぶ、そういうものがあるんだなということを、改めて自分の肝に銘じなきゃいけないと思いましたね。
私たちも、改めて伝え続けていかなければならない責任を強く感じました。
明日へ・支えあおうは、ここまでですけれども、このあとも震災の放送ありますね。
今夜9時からです。
NHKスペシャルでも、震災からの復興の計画について、独自の調査を交えて検証します。
どうぞこちらもご覧ください。
2014/03/09(日) 13:05〜16:00
NHK総合1・神戸
震災から3年 特集 明日へ−支えあおう−[字]
震災3年特番▽福島県出身の西田敏行さんが語る3年▽“原発避難の町”浪江町を模型で復元▽福島の今▽防災無線を発信し続け亡くなった娘へ▽大槌の高校生がまち作りに参加
詳細情報
番組内容
盛岡市で開かれている、町並みを模型で復元した特別展。その会場をキーステーションに、被災地の声や復興への取り組みを紹介する特集番組。午後の部には西田敏行さんも参加。作家・重松清さん、女優・南果歩さんとともに「福島のいま」「娘を亡くしたご両親の思い」、そして「未来へのいしずえ」を見つめる。生放送でみなさんからのメッセージも募集する。http://www.nhk.or.jp/ashita/311/
出演者
【ゲスト】重松清,南果歩,西田敏行,NHK解説委員長…柳澤秀夫,【キャスター】三宅民夫,伊東敏恵
おしらせ
<中断> 3:00−3:05 ニュース
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
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