生字幕でお伝えします。
震災で失われたふるさとが、模型でよみがえりました。
被災した方たちと学生たちが一緒に作り上げた町です。
かつて一軒一軒の家に、当たり前でも掛けがえのない日々がありました。
東日本大震災から3年。
どこまで暮らしを取り戻せているのでしょうか。
おはようございます。
特集・明日へ・支えあおう。
これからニュース、のど自慢を挟みまして、午後4時まで生放送でお伝えしていきます。
津波で被災した農地に、再び水が張られています。
東日本大震災からあさってで3年です。
しかし今も26万7400人以上もの方が、避難生活をされています。
何が変わって、何が変わっていないのか。
きょうは被災地と関わりの深いゲストの皆さんと共に、考えていこうと思います。
重松清さん、南果歩さん、そして柳澤解説委員長です。
どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
私たちがいますのは、岩手県盛岡市です。
今、この盛岡の駅前のビルで、震災に見舞われた町を復元した模型の展示会が開かれているんですね。
その会場に、今回は場所をお借りいたしました。
ふるさとの記憶展といいます。
模型は建築を学ぶ学生と被災した人たちの共同作業で作られました。
模型の型を作ったのは学生さん。
そして、そこに被災した人たちが色を塗って、それぞれの思い出までこうしてていねいに描き込まれています。
この模型に、どのような思いが込められているのか、このあと11時台や、午後の時間にも詳しくお伝えします。
さあ、この3年間で、何が変わって、何が変わっていないのか。
まず震災以降、NHKが撮り続けてきました、上空からの映像でご覧いただこうと思います。
地震発生直後、宮城県の海沿いに向かったNHKのヘリコプター。
最初に捉えたのは、仙台市若林区が津波に襲われる様子でした。
津波は海岸から4キロの内陸まで達し、300人以上が亡くなりました。
震災の前、水田が一面に広がっていた、仙台市の沿岸部。
津波で農地の8割に当たる1800ヘクタールが被害を受けました。
完全に水に取り囲まれています。
震災発生から1年後。
若林区では、至る所でがれきを取り除く作業が行われ、かたわらには、壊れた農機具が山積みになっていました。
その一角で、いち早く農作業を再会していた人がいました。
専業農家の渡辺茂美さんです。
毎朝来られてるんですか。
渡辺さんは、津波で自宅と3ヘクタールの田畑を流されました。
震災発生直後の映像には、渡辺さんの農地が津波に襲われる瞬間が記録されていました。
仮設住宅から通い、自分でがれきを取り除いた渡辺さん。
少しでも元の暮らしを取り戻そうと、野菜の栽培を始めていたのです。
震災発生から1年の春。
津波で被災した農地に、再び水が張られています。
比較的被害の少なかった内陸の田んぼで、米作りが再開されました。
そして、震災発生から2年。
海に近い水田でも田植えが再開され、被災した農地の8割が復旧しました。
用水路や排水設備などの復旧を急ピッチで進めた結果です。
渡辺さんも、震災後初めての田植えをしていました。
知り合いに農機具を借りての再出発です。
沿岸部の主力産業、水産業も大きな打撃を受けました。
岩手県山田町です。
震災前、山田湾には4000台近くのカキの養殖いかだが広がっていました。
湾に面した町から、白い煙が上がっています。
町は壊滅状態です。
およそ2万人が暮らす町を襲った津波。
800人以上が犠牲になりました。
海にはたくさんのがれきが散乱し、養殖いかだも、ほとんどが流されてしまいました。
ヘリコプターは今、岩手県山田町の上空です。
震災発生から2か月。
まだ津波の傷跡が残る湾の一角に、整った列を見つけました。
地元の漁師たちが、少しでもできることをしようと、がれきの中から使えるものを集め、いかだを作り直していたのです。
カキを出荷するまでには、2年から3年かかります。
漁師たちは毎日、避難所から通いながら、作業を続けていました。
震災発生から半年。
津波ですべてが流された海に、カキの養殖いかだの姿が戻ってきています。
これまでに設置されたいかだはおよそ800台。
震災前の5分の1にまで回復しました。
さらに震災発生から2年半。
いかだの数は、震災前の6割近い2200台まで回復していました。
いかだでは、品質をよくするために欠かせない温湯という作業が行われていました。
およそ60度のお湯にくぐらせ、カキの殻をきれいにし、出荷に備えます。
そしてこの冬、山田湾では、震災後に種つけをしたカキの水揚げが行われました。
やや小ぶりですが、甘みの強いカキが育ったといいます。
一方で、課題もあります。
水産加工場などの復旧が遅れているのです。
震災前に6億円を超えていたカキの出荷額は、今シーズン、30分の1の2000万円ほどにとどまる見込みです。
壊滅的な被害を受けた町をどう再建するのか。
震災前、およそ1万人が暮らしていた宮城県女川町。
津波で800人以上が犠牲になり、建物の7割近くが全壊しました。
避難をしている人たちと思われます。
震災発生から7か月。
女川町では、高台の野球場のグラウンドに、仮設住宅が作られ、入居が始まりました。
佐藤彰一さんです。
このとき、81歳。
津波で自宅を流され、不自由な避難生活を続けてきました。
そして震災発生から3年。
町の中心部はまださら地のままです。
一方で、3年前にあった山の一角が削りとられ、なくなっていました。
山から削り取られた土が、巨大なダンプによって運ばれています。
町では、この山の土を使って、市街地を最大18メートルかさ上げする工事が進められていました。
東日本大震災クラスの津波が来ても、住宅地は浸水しない想定です。
工事の面積は226ヘクタール。
終了まであと5年かかる見通しです。
今も仮設住宅で暮らす佐藤さん。
町の再建に時間がかかる中で、ほかの自治体に移り住む人が、相次いでいるといいます。
南さん、まずは暮らしを支える漁業、水産業や農業と生活の基盤、町づくりの変化と現状、上空からご覧になっていかがでしたか。
私が最初に被災地を見た姿っていうのが、本当にがれきが本当に山積みになってる姿だったんですけれども、でもその中から、もうお一人お一人の前に進むエネルギーで、本当に農地をいち早く復旧させたり、カキのいかだもそうですけれども、お1人ずつの前向きな姿に、3年たって改めて、よくあんなに早い時期に前向きな形で、進められたなと思って、本当にもう、そのマンパワーですね、やっぱり、すばらしいなと思いました。
重松さんもじっくりとご覧になって。
そうですね。
やっぱり空からの映像だと、本当に被災地って広いんだっていうのが、本当によく分かるんですね。
広いからこそ、前に向かって進んでる人もいる一方で、もう待ちきれないっていう人もたくさんいらっしゃるんだろうなって、今ね、本当にもう3年なのか、まだ3年で進んでないのか、何か入り交じっている感じが非常にしたんです。
もうなのか、まだなのか。
進んだなと思う気持ちと、いや、でもまだまだなんじゃないかっていう気持ちがね、本当に入り交じりながらVTR見てました。
その3年の現実、柳澤さん、どう見てますか?
3年たってね、復興が進んでほしいというふうに期待していた人の気持ちが、後半のほうにあったように、なかなか思うようになってないっていう現実に向き合わざるをえない状況になっているというのが、非常に複雑だと思うんですよ。
例えば、災害で被災に遭った方の住宅、公営で災害公営住宅というのを作ってるんですけれども、完成しているのが計画全体の僅か3%なんですよ。
970戸ぐらい。
高台への移転もありましたけれども、集団移転にしても、計画の5%ぐらいしかまだ出来ていない。
そうするとやっぱり、この難しい現実に向き合って、一体これからどうすればいいかっていう、希望が、ひょっとすると失望に変わっちゃうんじゃないかなっていう気がするんですけど、決して失望に変えないように、われわれ、この3年っていう節目のところで、なんか考えなきゃいけないのかなと。
そこらへんのところ、南さん、被災地で活動してらっしゃって、皆さん、正直な気持ち、どう思ってらっしゃいます?
本当に柳澤さん、おっしゃったみたいに、被災されてすぐのときって皆さん、本当に、とにかく前向きに自分たちが頑張るんだっていう気持ち、すごく強かったと思うんですけど、気仙沼に何度か伺っている間に、いろんな方にお話伺うと、もう私たち本当に頑張ってきたから、もう頑張れないんですっていう、もう本当に本音が出てくるんですよね。
それだけやっぱりこの3年っていうのは、長かったんだと思います。
だから本当にもう希望、私、言いましたけれども、人の力もありますけども、やっぱり行政だとか、いろんな人のバックアップがなければ、この先っていうのはやっぱり人だけの力では、ちょっと立ち行かないんではないかなと、本当に思いますね。
番組では、そうした被災された方々から、またその被災地に寄せる声、皆さんの声もじっくりとお伝えしていきます。
まずは、被災された方から3年の現実、このような声が届きました。
宮城県の51歳からの女性からです。
私の家は津波の被害は免れましたが、いまだ仮設住宅に住んでいる方たちの話を聞きますと、想像以上に悲惨な生活です。
被災者はもう忘れられたのでしょうか。
同じく宮城県の42歳の女性。
被災地はただただ頑張り、ふんばり続けています。
そして岩手県55歳の男性から。
被災地が置き去りにされていると感じるのは、私だけなのでしょうか。
オリンピックに使うお金があるのなら、復興に回していただけないでしょうか。
私たちは切り捨てられるのでしょうか。
福島の方からも、49歳の女性です。
風評被害で観光客も減って大変です。
福島にも安全な場所はたくさんあるのに、全部危ないと思っているのでしょうか。
そんなことはありません。
怖がらずにぜひ来てもらいたいです。
こうして原発事故による苦しみは今も続く福島県の現状については、このあと午後1時5分からの第2部で、じっくりとお伝えします。
長野県の82歳の男性から、こうした思いが届いています。
満3年という時間が過ぎようとしているのに、完全復興にはまだまだです。
復旧・復興が遅いこと、申し訳なさを感じます。
番組は4時までの生放送です。
今最も伝えたいこと、被災地へのメッセージをどうぞお寄せください。
お待ちしています。
宮城県気仙沼市の上空です。
カツオ漁船の姿が戻ってきました。
きょうも朝早くからカツオの水揚げが行われています。
黒い煙を吐きながら、被災地、石巻へ。
SL宮城・石巻復興号が走っています。
鋭く切り立った岩が並んでいるのが見えます。
浄土ヶ浜です。
特集・明日へ・支えあおう。
この3年で何が変わり、そして何が変わっていないのか。
続いては重松さんの取材です。
実際に重松さんが、被災地を訪ね、一人一人の声に触れてきました。
今、一番伝えたいことを書いてください。
被災地の人たちのことばを伝え続けている番組があります。
震災直後から東北地方で放送を続けている番組、被災地からの声です。
震災から3年。
これまでに声を聞かせてくれた人は、2300人を超えました。
長引く仮設暮らしの苦労。
先の見えない不安。
一人一人のことばに、被災地の現実が映し出されています。
この番組に震災直後から関心を寄せてきた重松清さん。
今回の取材に先立ち、その製作現場を訪ねました。
皆さん、こんにちは。
被災地からの声です。
この日は157回目の番組収録が行われていました。
キャスターは被災地、石巻出身の津田善章アナウンサーです。
重松さんは、この番組の取材の蓄積から、震災3年の月日をたどりたいと考えました。
これが今まで放送したテープで、たぶん2200人弱ぐらいの声がこの中に入っていると思うんですが。
注目したのは、3年分のスケッチブックです。
123冊あります。
123。
データとか、情報じゃない、何か物の迫力というか、これデータじゃないもんね。
データじゃないですね。
これ持って避難所へ行って回ってたんですよ、最初のころはね。
震災直後のスケッチブックには、日用品にも事欠く切実な声が記されていました。
早く家に帰りたい。
電気、水道、電話。
寝たきりの家族も限界です。
あー。
おうちが欲しい。
時を追うごとに、スケッチブックのことばは、多様化していきます。
その中で、重松さんにとって気にかかることがありました。
先行きを嘆くことばや、将来への不安を訴えることばが、目立つようになってきたことです。
あー。
震災直後は本当に家族や、それから自宅、財産を失った悲しみっていうのが、本当にストレートに、本当に悲しみだったのが、時がたつにつれて、何も変わっていない。
もう何かね、疲れましたとかということばがね、本当にこのスケッチブック一冊の中に、何度も出てきてしまうというのが、ちょっと驚いてたんですけど。
スケッチブックとVTRを見返す中で、重松さんの印象に強く残った人がいます。
大学を卒業後、厳しい選択を迫られていた女性です。
体育教師を目指し勉強していたさなか、被災し、家を失った斎藤綾さん。
このまま教師になる夢を追うべきか、悩んでいました。
父も職がなくて、妹も東京のほうに行ってしまうので、家族を支えるのは、
家族支えるのは?
自分しかいないかなと思って。
震災から3年。
斎藤さんは今、どうしているのか。
こんにちは、斎藤さん、こんにちは。
お元気そうで。
斎藤さんは今も宮城県岩沼市の仮設住宅で、家族と暮らしています。
あのとき書いたスケッチブックを、改めて見てもらいました。
これ、今見て、どんなこと思いますか?
だいぶ変わったなあと思います。
このときと比べて。
斎藤さんは今、地元のメーカーで、正社員として働いています。
体育教師になる夢は諦めました。
それについては、もう自分の中で、その一つの区切りというか、ついてる?
ついてます。
それはどんなふうにつけてみた?
やっぱり自分の夢より、家族のほうが大事かなと。
そっか。
やっぱり家族のこと、あるいは家のことっていうのは、震災で、すごく考えるようになったようなことなのかな?
なりました。
それはどんなふうに考えるようになったの?
やっぱり家族亡くしてる人もたくさんいて、自分はみんな大丈夫だったので、そのときに今までのことを振り返るとやっぱり…。
そっか。
斎藤綾さんは、両親と祖父母、3世代で仮設住宅で暮らしています。
どうもごめんください。
失礼します。
懐かしい、懐かしい。
自分の夢よりも、家を建てるという現実を優先させた綾さんに、母親の洋子さんの思いは、複雑でした。
本当はね、正社員で決まったとき、私の中では、本当に申し訳ないんだけど、8割が、ちょっと、ちょっとがっかりした部分で、その夢をかなえられずに、このうちを建てるっていう方向の収入を得るっていう方向を選んでしまったというか、選ばせてしまったというか、そのへんでは、私は後悔があるんですけどもね。
このうちを建てる希望は持てたけど、夢を諦めたのもあるから、ひっくるめれば難しいですね。
そうか。
綾さんが就職する道を選んだことで、家の再建は着実に進みました。
建築資金の調達のため、綾さんもローンを組むことができたからです。
本格的になるね。
ほら、重松さん、綾邸ですから。
そうか。
名義がね。
名義がお父さんと綾さん。
そうなんです。
でもそれ思うとさ、2年前に書いた、スケッチブックに書いた2つの夢のさ、1つはもう本当にやっちゃったじゃん。
ね、家を建てるって。
ねぇ!諦めるとか、断念するって、やっぱりマイナスなあれになるけど。
こっちを選んだんだっていうことかもしれないよね。
はい。
こっちでよかったと思います。
綾さん、こっちでよかったと思いますと、こう絞り出すようにね、答えてくださいましたけれども、南さん、いかがですか?
あの若さで、2つの夢、家族のために家を建てるっていうほうを選択して、後悔はないとおっしゃってましたけども、そのお母さんの気持ちもね、こちらを選ばせてしまった、8割はちょっと、それでいいのかっていう。
でも、その2つ同時にっていう夢はかなわないのであれば、そちらを家族のために、そちらを選ぶっていう、すごい決断だと思います。
25歳のあの若さで。
そうですよね。
ちょっと自分の20代のころを考えると、本当に考えられないような。
まだ25歳だから、夢はまだ捨てなくてもいいんじゃないかなっていう気持ちにもね、なかなか2つは実現できないのかもしれないけど、ずっとなんらかの形で持ち続けてほしいなっていう気持ちもしましたね。
そんな綾さんに、今回、重松さん、また声を書いてもらったんですよね。
今の綾さんの気持ち。
それがこちらです。
これなんです。
ありがとうございます。
志、一文字。
これね、先生になるっていう1つの夢を諦めた代わりに、その家族のために頑張るぞっていう志を自分は持つんだと。
この一文字をね、書くまでの間に、何十分もかかったんですよ。
ずっとね、真っ白なスケッチブックをね、にらみつけながらね、本当に絞り出したことばだと思うんですね。
この志を自分が持って、これからローンを背負いながら、頑張っていくんだっていう、だから夢の代わりに、その志を持つこのなんだろうね、一つの覚悟というものを書いてくれたんだと思います。
自分に言ったんですかね。
すごい力強い字ですね。
しっかりした。
一回ね、普通に書いたの、何度も何度ももう太くして。
一度に書いたんじゃなくて?
何度も塗ってね。
だからやっぱり、何十分もかかって何度も塗り重ねてゆく、そこに僕、いろんな思いがね、こもってんじゃないかと思うんです。
夢と志の違いってなんだろう?
あのね、夢は、諦めることができるけれども、志は捨てちゃいけないんだっていう、まさに自分への覚悟ですよね。
そうしないと折れてしまうかもしれないという、そのぎりぎりのところ。
折れてしまうものもあるかもしれないですね。
覚悟なのかもしれませんね、本当に。
本当に、恐らく、これ僕たちのために書いてくれたんだけど、本当はね、綾さんご自身のために、言ってることばなんじゃないかなと思ったんです。
恐らくみんなね、若い人たちもみんなそうだけど、それぞれの志みたいなものを、自分の中に持ってないと、折れてしまいそうなのが、この3年目っていうものなんじゃないだろうかと。
何気ないこのことばの中に、被災された方々の本当に厳しい心が凝縮されて出てるんですね。
だからまさに復興するんだっていう志かもしれないし。
いろんな志があると思うんです。
改めて、これがその被災地からの声、ごく一部ですけれども、ありがとうございます。
こちらにお持ちしましたこのスケッチブック、3年で120冊以上あります。
本当にいろいろなことばがありましてね、さまざまなことばにはっとする、ぐっとするんですけれども。
中でも、特に重松さんが、心に響いたことばというのが、このことばなんです。
お名前だけ。
ないんですよ。
書かれていないんですよね。
ここの空白にどのような思いがあったのか。
今、3年の今、どのようなことを感じていらっしゃるのか。
重松さんの心に刻まれることばを記したお2人の方を訪ねました。
岩手県陸前高田市。
津波で壊滅的な被害を受けた町では、復興事業が本格化しています。
140世帯が暮らす仮設住宅の一室。
ごめんください。
きょうはよろしくお願いいたします。
去年、スケッチブックに何も書けなかった熊谷宏子さんです。
ここで長女と2人、暮らしています。
熊谷さんは津波で夫を亡くしました。
40年近く連れ添った夫の桂嶽さんです。
町内会長を務め、お祭りでは先頭に立って盛り上げる、地域の世話役でした。
あの日、避難の誘導にと町に出たまま、帰らぬ人となりました。
ちょうど1年前に、1年前にこの番組で、覚えてらっしゃいますか?
ことばが浮かんでこないっておっしゃってて、本当にお名前を書いていただくのが精いっぱいだった。
なんかね、ことばっていうものに関しては、この1年前の、この何もなかった状態から変わっていないということですか?
夫を亡くして以来、塞ぎ込みがちになっていた熊谷さん。
娘から贈られたパソコンを使って、始めたことがあります。
以前からの趣味だった短歌を詠むことです。
キーボードで文字を入力する方法なら、ことばにすることができました。
題材のほとんどが、震災と夫の記憶です。
私はこれに逃げたっていうのはおかしいけど、これに、これだけものを考えなくて済むんですね。
その時間が過ぎるのも。
日記のつもりで、いつかと思って、娘たちが、私が亡くなったあとにあのときこうだったなって思い出してくれればいいかなと思って。
だから本当、いろんな思い出の品も全部流されちゃって、残すものがないときに、あの時お母さんがこんなことを思ってたんだっていうのを書く、短歌にして残しておくって、すごく大事かもしれないですね。
文章でつづれない分。
短歌という形でだよね。
家族や友人を亡くした人たちの深い悲しみ。
被災地からの声では、3年たった今も多く聞かれます。
そうした声に耳を傾けようと、重松さんは、震災直後から通い続けている、ある場所を訪ねました。
宮城県名取市の閖上中学校。
あの日の津波で、14人の生徒の命が奪われました。
この机が置いてあったんです。
机に書かれたメッセージ。
初めて見つけたとき、重松さんは強い衝撃を受けました。
死んだら終わりですか?
死んだら終わりですか?っていうね、この問いかけが、ずっと僕の胸に残っていて、亡くなった人と僕たち生きてる人間はどんなふうに関わり合っていくのか、時には思い出したり、時には忘れてたりしながら、でも手を合わせるって、どんな意味なんだろうとか、そういうのを感じるんです。
重松さんは、このメッセージを書いた人と、初めて対面しました。
どうもはじめまして。
はじめまして、よろしくお願いします。
丹野祐子さん。
閖上中学校の1年生だった息子のこうたくんを亡くしました。
机のメッセージを書いたのは、半年後。
丹野さんが震災の風化を感じ始めた時期でした。
この町ががれきがだんだん片づいて、きれいになっていくのをずっと目の前で見てて、このまま何もなかったことにされてしまうんではないかってとっても不安になりまして。
ここにはうちの息子をはじめ、14人の子どもたちの笑顔があった場所だ。
ここにはたくさんの人が生きてたんだよっていうのを、誰かに知ってほしくて、本当にもうつたない落書きで、勝手にこのように書かせていただいたんです。
風化にあらがい、わが子の記憶をここにとどめたいというメッセージ。
机のメッセージ、本当に目が吸い寄せられるんですよ。
ここには被災地の外からも多くの人が訪れるようになりました。
そして丹野さんの気持ちも、少しずつ変わっていきました。
少しずつ時間がたつにしたがって、私から忘れないで、忘れないでって言わずとも、ちゃーんと忘れないよって言ってくださる方が、本当に、日本はもとより世界中からいらしたということが本当によく分かったので、今はあえて忘れないでとは、自分からはもう、言わなくなりました。
震災から3年。
丹野さんが今、伝えたいことばです。
この思いだけで、この3年間は生きてます。
この悲しみっていうのは、ずっと残るものですか?
残します。
残すんですね。
はい。
じゃあやっぱり、こうた君とずっと?
そうです。
共に生きます。
こうた君とともに生きますということばでしたが。
南さん、いかがでした?
この悲しみを二度とということばには、本当に、熊谷さんもおっしゃってましたけれども、時が癒やしてくれるものっていうのはあるかもしれないですけども、子どもを亡くされたり、お母さんを亡くされたりした方の悲しみというのは時とともに薄れていくことはたぶん、ないと思うんですよね。
でも、最初の熊谷さんも本当に正直に生きてらっしゃるなと思ったんですね。
そのとき、ことばをって言われたら、何かしら私だったら取り繕って何か書いてしまうと思うんですけども、それをやっぱり空白のまま、本当にご自分の心と本当にずっと向き合ってらっしゃって、今はああやって、短歌で本当にこう、表現するすべを娘さんから勧められたって、本当にやっぱり家族の支えって大きいなと思うんですね。
丹野さんに関しては、本当に息子さんの年はやっぱりずっとそのときで止まってると思うんですけれども、やっぱり一つずつ年を重ねたその息子さんの姿を、自分の中で育てながら、ああやって本当に笑顔で、それでやっぱり周りの人の悲しみも起きないようにという願いに変わってるっていうのは、やっぱりもう、やっぱり母の強さだなって感じますね。
あのね、僕はね、恐らく熊谷さんのように、ことばにはできないんだというお気持ちも、それから丹野さんのように、机に落書きしてでも何かことばにして、息子を忘れないでくれという思いね、これ、どちらも本当の心からの叫びだと思うんです。
本当に僕たちは、特に僕なんかは、ことばで生きてる人間なんで、逆に似たような表現で、このあたりだろうなと、自分の気持ちはと、取り繕ったりするんだけど、恐らくそのことばには収まりきらないいろんな悲しみや、喪失感があるんだっていうのを、改めて教わったんですよ。
熊谷さんの場合、今もことばがなかなか出てこないっていうのは、やっぱりこの苦しみっていうのは、相当深いっていうこと。
深いでしょうね。
これはだから、もう3年たったら少しはね、別のことばが出るかなと思って伺ったんですよ、僕は。
しかし、そんなものじゃなかったんだっていうのを改めてね、思い知らされたというか。
人によって、かなり時間が。
それはわれわれニュースでも、テレビでもお伝えするときに被災者っていうことばを使うじゃないですか。
被災者っていうことばでなんかくるんでしまってるような気がするんですけど、実は被災した一人一人のことを考えると、違うんだと思うんですよ。
そういうことをもういっぺん、こういうVTRを見てると、突き刺さるように、ことばでくくらずに、やっぱり一つ一つを見ていく大切さみたいなものを、どうすればわれわれできるのかなっていうのを実感させられるような気がするんですよ。
3年というのは、その違いが出てきてる。
ー出てきてる感じがありますね。
時がたつごとに、それぞれ一人一人の抱えている問題とか、悩みとか苦しみっていうのがね、ことばで、一つのことばでくくれなくなってる、いろんなものが出てきてるっていう時期なんじゃないですかね。
マラソンで言ったらね、みんながひと固まりで競技場を出発して、公道に出ると、いっぱいいろんなグループに分かれますよね。
先頭集団から。
その先頭の人たちだけを見て、こんなに復興したんだと思っていたら、まだまだでも後ろにね、もしかしたらまだ走り出してない人もいらっしゃるかもしれない。
だからよけいに僕たちの側の想像力っていう、もう3年もたったんだからっていう発想は、本当に持っちゃいけないだろうと。
たぶんまだ3年の方もいらっしゃるだろうし、3年という月日すら実感できない方もいらっしゃるだろうし。
本当にね、今からどんどん僕たちの側の想像力が、問われるんじゃないでしょうか。
なるほど。
今も行方が分からないという方さえもまだまだ多くいらっしゃいますので、本当に悲しみも、一人一人違うということが、しみじみと改めてよく分かりますよね。
さあ、午後は福島の皆さんのことを集中的に考えていこうと思ってます。
福島出身の西田敏行さんも駆けつけてくださる予定です。
特集・明日へ・支えあおう。
今、盛岡市で開かれています津波などで失われたふるさとを、模型でよみがえらせようという、ふるさとの記憶展の会場から、生放送でお伝えしています。
多くの方がじっと見入っていらっしゃいますね。
震災によって失われた岩手や宮城、福島の町が、詳細によみがえっています。
今、この模型が被災した方たちにとって、大切なものになりつつあります。
津波が奪っていったふるさと。
震災から、丸3年。
人々は変わり果てていく風景を見つめながら復興の日々を歩んできました。
そこにあった、穏やかな日常。
時の、うつろいはその記憶さえも容赦なく奪い去っていきます。
かけがえのないふるさとの思い出を形として残すことは出来ないか…。
被災地ではかつての町並を模型で復元しその記憶を保存するプロジェクトが進められています。
取り組んでいるのは全国の大学で建築を学ぶ学生たち。
岩手・宮城・福島をはじめすべての被災地をよみがえらせる計画です。
そこに人がやっぱり何十年暮らしてきた。
そういった日常がずっと続いて来たことでそれが街になってきたので。
街に記憶が宿っている。
街っていうのは、物だけ建物とか物だけじゃなくて記憶で出来ていると考えているですね。
津波によって1600近い家々が失われた岩手県宮古市田老地区です。
去年4月、この街に真っ白な模型が運び込まれました。
1週間にわたって展示を行い人々が語る思い出を記録していきます。
語られた思い出は、旗に記し模型に立てていきます。
さらに自分の家や思い入れのある場所には色を塗ってもらいます。
この女性が熱心に塗っているのは37年間、勤めあげた保育所。
保育所には、見事な桜が植えられていたといいます。
模型との出会いが思いがけない出来事に発展する事もあります。
林本ソノさん。
被災した食料品店を改修し営業を続けています。
林本さんの悩みは震災前の暮らしが思い出せない事。
津波のショックでその記憶を失いました。
田老の街と共に歩んできた人生を取り戻したい。
この日、林本さんは模型を見るために会場に足を運びました。
しかし、模型を目にしてもかつての暮らしが思い出せません。
模型と向き合うこと10分。
林本さんの表情が変わりました。
パーマ屋さんとかよく行かれたんですか?
(笑い)
あふれ出る記憶。
ゲームやっているみたい。
この街で積み重ねてきたかけがえのない記憶が林本さんに戻ってきました。
失われていた記憶が、わーっとよみがえるきっかけに、こうした模型がなってるんですね。
すごいですね。
でも、この立体的で、本当に山の姿もそうですけども、一軒ずつの本当に表札が出ているようで。
そうなんです。
私たちが今立ってるのは、大槌町の模型の前です。
と言いますのも、ちょうど去年の1年前、この番組でここに訪れて取材をさせていただきました。
こんなにたくさん店や家があったんですね。
本当にもう、暮らしがこの模型から伝わってきますね。
すばらしい。
大槌はなんと、サケがそ上する自然豊かな所だったそうなんですが、分かりますか?
サケ、帰ってきてます。
そうなんです。
本当に大槌の豊かな営みが、詳細に、かつての営みが分かりますね。
個人的な思いでも橋桁の下に船をつないでいましたとかね、皆さんの思い出がこうやって集まって、復元されてるって、これはやっぱり、ここに私たちはいたんだっていう、確かな記憶ですね。
よく大槌の活動の様子が分かります。
これはひときわ大きな模型ですが、陸前高田ですね。
陸前高田ですね。
どんな気持ちになりますか?
町並みもそうなんですけど、この思い出がいっぱい書いてあるんですよ。
この川の堤防をマラソンしたとかですね、釣りをした、それから花火がきれいだったっていうね、その思い出を見ることによって、この町の歴史、記憶が、この自分たちにも、僕にも伝わってくる感じがして。
あちらのほうでご覧になっている方々、陸前高田から避難しておられる方、ちょっと伺ってみましょう。
すみません。
陸前高田からいらっしゃったんですよね?
そうですね。
陸前高田のどの辺りにご自宅があったんですか?
うちは、ちょうど市役所の裏手のほうにあったんですけども。
僕なんかね、拝見していても、今までの震災以前の陸前高田が分からないので、ピンとこなかったんですが、やっぱりこうしてご覧になると、懐かしいですか?
そうですね。
やっぱり生まれ育って、先ほどは目を閉じて町なかを歩いたんですけども、小さい町ですけれども、やっぱり本当に思い出がいっぱい詰まった、青春時代を過ごした町ですのでね。
どんな気持ちになられました?
本当になんか、3年しかたってないですけど、本当に懐かしい気持ちっていうのがあって、例えば松原ですと、高校時代に高田高校では、1年に1回、松原清掃っていうのがあったんですね、全校生徒で。
すごくこれが懐かしくて。
どんなお気持ちになられた?
そうですね。
まあ懐かしいもさりながら、3年間の時間の長さですか。
これまでの。
記憶が途切れてく。
忘れていて?
忘れて。
思い出すのに大変です。
なるほど。
この模型はそういう陸前高田の方々が思い出し、自分の人生を振り返り、色を付け、旗を立ててこられたものなんですね。
ふるさとの記憶、陸前高田の物語をこれからご覧いただきます。
3000を超える家々が津波にのまれた岩手県陸前高田市です。
およそ1800人が犠牲になりました。
人々でにぎわっていた駅前の商店街。
400年を超える歴史が刻まれた町並み。
思い出の風景は、ことごとく失われました。
去年9月、陸前高田に、プロジェクトで最も大きな模型が運び込まれました。
縦5メートル、横4メートル。
巨大な模型を前に、どんな思い出がよみがえるのか。
大工一筋40年以上。
佐々木守弥さんです。
手がけた家々とともに思い出したのは。
山車と山車とをぶつけ合うけんか七夕。
900年の伝統を持つこの祭りの山車を、佐々木さんは40年以上にわたって手がけてきました。
用意、始め!
佐々木さんの自宅は、山車をぶつけ合う地区の中心部にありました。
そこは祭り見物の特等席。
七夕の夜には、仲間と朝まで飲み明かしました。
若い2人のお目当ては。
町のシンボル、高田松原。
大切な思い出がよみがえりました。
町の自慢だった白い砂浜と、緑に輝く7万本の松林。
子どもからお年寄りまで、人々はこの松原と共に、人生を重ねてきました。
還暦を迎えた2人組。
青春の証しを見つけました。
町の野球少年たちを60年以上にわたって見守り続けてきた球場。
思い出話に花を咲かせた2人は、球場に色を塗り始めました。
高田松原の松ぼっくりを模した照明灯も建てられました。
夢中で白球を追った青春の日々が、模型に刻まれました。
未来を生きる子どもたちの手で、かつての姿を取り戻していく高田松原。
懐かしい風景との再会に、ある歌がよみがえりました。
陸前高田で行われたプロジェクト。
商店街で老舗の布団屋を営んでいた、菅野さん夫妻がやって来ました。
あの日、2人は息子の引っ越しで陸前高田を離れていました。
その晩、戻ってみると、町は跡形もなく消えていました。
商店街にあった30軒の店もすべて流され、親しくしていた仲間の多くが、命を落としました。
模型と出会ってから1週間後。
仮設の商店街に布団屋を再開した菅野さん夫妻の姿がありました。
この町並みが、皆さんの記憶や思いでや、いろんな思い出すきっかけになるって、その、それを見ると悲しみもまた思い出すということもあると思うんですけれども、やっぱりこのプロジェクトのすばらしさっていうのは、ああ、この町角であそこのおうちの相手の方のおうちがあったねとか、初めてデートした松原だったねとか、やっぱりそうやってお互いに思い出せるいい思い出が、胸の中であふれてくるっていうことが、やっぱりすばらしいなと思います。
なんかね、町、ふるさとってね、一人一人の思い出が降り積もるようにして出来上がってきたんだなっていうのを思うんです。
それはたぶん、陸前高田だけじゃなくて、すべての町、僕たちが住んでる町だって、みんなそうだと思う、みんなの思い出があって、思い出を語り合う仲間や家族がいて、それが一瞬にして奪われてしまったその悲しみ。
今ね、このプロジェクトによって、もう一度思い出を見つけ直して、組み立て直していくっていう、このすばらしさっていうのを、考えていくと、本当に決して被災地が、僕たちの生活から全く遠い存在ではなくて、僕たちの町にだって、みんなの思い出があって、僕たちの思い出があるわけですから、何かそれを思うとね、一つの町の成り立ち、このふるさとや絆っていうものもね、思い出を一緒に分かち合う関係が、本当に大切なんじゃないかと思うんです。
実際に模型を作った学生が興味深いことを言ってまして、このプロジェクトの意味は、街を見送る、とむらう、お葬式のようなものなんじゃないかということを実際に言ってた学生さんがいる。
これって柳澤さん、印象的なことば、興味深いですよね。
どこかで皆さん、心の中で、一つのなんて言うんですかね、ギアチェンジというか、シフトチェンジというか、気持ちを切り替えたいっていうところがあると思うんですよ。
でもなかなかそれって、頭で考えててもできない。
でもこうやって、震災でなくなった町並みの一つ一つを思いを重ねていくことによって、いわばなんて言うんですかね、心の儀式をしてるのかなっていう気がしましたね。
それでなんか新しいところに一歩踏み出していく。
決してあのときのことを思い出したくないんだけど、絶対に忘れちゃいけないっていう覚悟みたいなものも感じますよね。
そう、あの日までの歴史をもう一度、自分の中にたどり直すことによって思い出を、それで先に進むというか、一つのお別れもできるのかもしれないなと思うんです。
ちょうどふるさとの記憶についてお伝えした、大槌で生まれた方からお便りが届いたので、ご紹介しますね。
埼玉県、52歳の男性からです。
夏休みに大槌に帰ると、貧乏ながら温かく迎えてくれた祖母は、砂糖を加えてお湯で練った麦の粉、こうせんを作ってくれました。
はったい粉のようなものでしょうか。
のどが渇くと、泳ぎながら水を飲んだ、大槌川の思い出も忘れられません。
以前の姿に一日も早く戻ることを祈っています。
番組では、皆さんからの声もご紹介しています。
被災地から今、伝えたいこと、そして被災地へ送りたい言葉、どうぞお寄せください。
特集・明日へ・支えあおう。
午後の時間は、福島の模型をご覧いただこうと思っています。
そこでどのような思い出が語られたのでしょうか。
さて、東日本大震災で被災をしましたのは、ご覧をいただいている岩手、それから宮城、福島だけではございません。
東日本大震災っていう名前にあるように、東日本の沿岸、太平洋沿岸が広く被害を受けました。
これから茨城、千葉、青森のリポートを続けてご覧いただきます。
茨城県では福島の原発事故の影響が漁業と農業で続いています。
福島との県境に近い大津漁港では、港の倉庫に名物のしらすが在庫としてうず高く積まれています。
かつてここは、県内有数の水揚げ高を誇る港でした。
しかし、いまは魚が思うように売れず震災前のおよそ3分の1にとどまっています。
茨城県では風評被害を、ふっしょくしようと国より厳しい放射性物質の基準を設けて魚を検査してきました。
しかし、原発事故の余波はまだ収まっていません。
一部の魚種については残る出荷制限。
漁は再開したものの先の見えない不安が続きます。
一方、茨城県を代表するシイタケの産地でも苦境が続いています。
県内一の生産量を誇る常陸大宮。
しかし、店にある乾シイタケは、全て他県産です。
2年前。
乾シイタケにする露地栽培のものから国の基準を超える放射性物質が検出された為です。
それ以後全体の3割にあたる20軒のシイタケ農家が廃業しました。
それでも産地の明かりを消すまいと残った農家は露地栽培をやめハウスで生産を続けています。
40年以上のベテラン河西和文さん。
肉厚で香りが高いシイタケをPRするために新たな取り組みを始めました。
きっかけは、去年開かれた料理コンテスト。
ここで妻の明美さんが作ったシイタケの五目めしを出したところ見事グランプリに輝いたのです。
思い切って、初めて加工品として売り出してみると…評判は、すこぶる上々。
産地が元の姿に戻れる日まで努力が続きます。
千葉県浦安市です。
町の85%が液状化の被害を受けました。
3年たった今復旧工事が進み、その痕跡を目にすることは少くなりました。
今、急ピッチで行われているのが下水道の工事。
町全体を液状化から守りたいと市は新たに対策を始めています。
住民達も動き出しました。
木村勝規さん。
液状化で家が大きく傾き住めなくなったため去年9月、老後の蓄えをはたいて家を新築しました。
新しい家は、地中深くの硬い地盤まで、380本もの杭を打ち込む工法を選びました。
液状化を抑制する効果があるからです。
しかし、ここにきて新たな負担がのしかかろうとしています。
木村さんが新築の契約を終えた半年後、市が新たな方針を打ち出したのです。
町全体に、格子状に柱を入れ地中に壁を作る対策。
工事には、原則全員の合意が必要で100万〜200万円の新たな費用がかかります。
想定外の負担ですが、木村さんは同意することにしました。
子や孫に安心して暮らせる町を残したい。
その思いが決断をうながしました。
こちらは千葉県旭市。
最大7メートルを超える津波で16人の死者・行方不明者が出ました。
そんな旭市に、明るいニュースが。
まもなく復興住宅が完成し来月から入居できることになったのです。
今、仮設住宅に暮らしているのは70世帯。
その中の1人濤川きよ子さんです。
仮設に入ってから、写真撮影を熱心に続けています。
沈みがちだった毎日に、彩りを取り戻したいと考えたのです。
道端で見つけた、たんぽぽ。
夫と一緒に驚いた一面の銀世界。
そして、仮設住宅から眺めた夕焼け。
3年間の仮暮らしの中で見つけたかけがえのない瞬間です。
来月から復興住宅に入居する濤川さん夫婦。
新しく始まる暮らしの中でも日々の感動を写真に残していきたいと考えています。
震災で大きな被害を受けた青森県八戸市。
あの日、6メートルを超える津波が押し寄せました。
あれから3年。
町は以前の様な活気を取り戻しています。
港湾設備は全て復旧。
被災した三陸の主な漁港の中で最も早いものです。
観光客の数も震災前の99%まで回復しました。
県内最大級の市場も賑わいを取り戻しました。
その一方で課題も見えてきました。
復興に立ち上がる自営業の人たちに公的な支援が届きにくいのです。
海辺にたつ、被災したレストラン。
経営する佐藤一弘さん。
息子と一緒に厨房に立っています。
震災から時間がたつにつれ町の復興との格差を強く感じるようになりました。
佐藤さんの店は津波で1階部分のほとんどが流されました。
店は私有財産であるため公的な支援を受けるためには条件が厳しく、修理が進みません。
かつては観光シーズンになると予約でいっぱいの人気店でした。
店は、震災から半年後に再開しました。
でも客はなかなか戻ってきません。
去年の売り上げは、200万円。
震災前の1割ほどです。
貯金も底をつき将来に大きな不安を抱えています。
そんな佐藤さんの支えとなっているのは震災直後から足しげく通ってくるお客さんたち。
以前と同じ場所で同じ味を守ろうとする佐藤さんを応援しています。
復興の影で取り残されている自営業の人たち。
震災から3年を迎える八戸の現状です。
茨城、千葉、青森から、前に進んだ部分と、そうでない部分、現状をご覧いただきました。
さて、きょうののど自慢ですけれども、その被災地の一つ、青森県の八戸からの番組なんです。
中継がつながりますかね。
できればおなじみの歌手の皆さんから、直接、メッセージがもらえるといいなと思うんですが、木花さん。
このあとのど自慢が行われます八戸市の会場に来ています。
今、ステージ上では、舞台監督による本番前の説明が行われています。
会場には1400人の皆様がお越しいただきました。
ありがとうございます。
きょうののど自慢、地元、八戸出身の方が20組中12組いらっしゃいます。
被災した地元を盛り上げようと、皆さん、元気に頑張っていらっしゃいます。
きょうのゲストご紹介します。
吉幾三さんと坂本冬美さんです。
どうもこんにちは。
よろしくお願いします。
吉さん、青森出身ということですが、この3年間、どういうふうに見てきましたか。
そうですね、何回も行きましたけどね、なんか復興がまだね、正直言って、まだ何が復興なのかっていう、先にやっぱり住まいと、それからお年寄りの生活復興、これをまず先にやってもらいたいなと思います。
寒いとね、仮設住宅のお母さん、お父さん、大変だと思うので、もう3年ですか、わー、早いね。
時のたつのだけ早くてね。
もうちょっと急いでもらいたいな、いろんな意味で。
坂本さんも歌を通して、復興を応援されてきましたね。
そうですね。
私も何か所かお邪魔して、慰問に行かせていただきましたけれども、歌で勇気をと、元気をと思って行ったんですが、逆に皆様から、冬美ちゃん、歌頑張ってねとか、かぜひかないでねっていうおことばを頂いて、逆に励まされて帰ってきました。
ありがとうございます。
最後に吉さん、東北の皆さんにエールをお願いします。
そうですね。
僅かな時間ですが、のど自慢で楽しんでください。
私ども、一生懸命歌いますので、ね、楽しいときもなきゃいけませんから。
このあと八戸市から午後0時15分からお伝えします。
お楽しみに。
俺、着替えてこ。
吉さん、坂本さん、ありがとうございました。
それでは、番組に寄せられた声をご紹介いたしましょう。
茨城県の25歳の男性からです。
被災地は東北だけではありません。
茨城や千葉も被災地です。
一緒に復興への道を歩んでいきましょう。
一方で、こうした声も。
岩手の38歳の女性です。
頑張ってるね、復興してきたねと言われると、ありがとう、頑張ってるよと答えています。
でも本当は、言われれば言われるほど、落ち込み、なんだか見通しが持てません。
私だけなんでしょうか。
埼玉県から、62歳の男性です。
あの日、漁師のおじが津波に遭い、まだ戻っておりません。
それでも戻ってくることを今も祈り続けています。
あれから3年がたちますが、もう3年という気持ちにはなれません。
そして19歳の女性からは、こんなメッセージが。
震災を乗り越えようとしている地元。
それが私の誇りです。
一方、東京の女性からはこんな胸の内も届きました。
40歳の方。
早く震災前に戻れるよう祈っています。
でも、東京にいる私たちに何ができるのでしょうか。
何をしたら復興に役立つのでしょうか。
南さん、どうでしたか、今の声。
やっぱりVTRでもおっしゃってたように、数字だけで復興を計ってくれるなっていうのが、私たちもやっぱり東京に住んでいますと、新聞やニュースでその数字を目安にしてしまいがちなんですけれども、やっぱり皆さん個々に進み方が違って、本当に時間の流れが違う、状況も違うということをやっぱりこうやって、いま一度、見て、触れて、感じるっていうことがすごく大事だなって、きょう本当に思っています。
重松さん、今のお便りの中で震災から3年、本当に私たち何ができるのっていう声も届きました。
震災から3年なんだけど、これは2011年3月11日に震災が起きて、それから3年って意味ではなくて、震災は今でも続いてるんだと、今もなお震災は続いてるんだっていう意識を、まず僕たちが持っていなければ、本当に歴史年表の中の出来事ではなくて、あるいは数字の統計だけを見て、安心できるものではなくて、一人一人の今生きている人たちが、まだ震災の中にいるんだっていう意識を持つことから始めないと。
そこからもっと知りたい、もっと寄り添いたいっていう気持ちに向くんじゃないかと思います。
震災から3年っていうのは、本当によく使われていることばですが。
一言で3年って、やっぱり言えないなって、今、VTR見てて、つくづく思いました。
それと続いてるっていうのは、例えば福島の場合ですと、福島の第一原発の事故が、ずっとその後も影響を及ぼしてるっていうことを考えますと、まさに今、重松さんおっしゃったとおり、まだ、今そのまま、あの現実が続いているという意識をわれわれどこかで持ち続けなきゃいけないんじゃないかなっていうふうに痛感させられますね。
2014/03/09(日) 10:05〜11:54
NHK総合1・神戸
震災から3年 特集 明日へ−支えあおう−[字]
震災3年特番▽5時間生放送▽津波で失われた町並みを模型で復元▽よみがえる記憶・復興への決意▽NHKが撮りだめた3年の空撮映像▽重松清が訪ねる“被災地からの声”
詳細情報
番組内容
盛岡放送局が開催している被災した町並みを模型で復元した特別展。その会場をキーステーションに、被災地の声や復興への取り組みを紹介する5時間の特別番組。ゲストは作家・重松清さんと女優・南果歩さん。午前の部では「復元した模型を見た被災地の方々のあふれ出す思い」「NHKが3年間撮りだめた空撮映像」「東北地方で毎週放送している“被災地の声”の特別編」「千葉・茨城・青森の3年」などを、生放送で伝える。
出演者
【ゲスト】重松清,南果歩,NHK解説委員長…柳澤秀夫,【キャスター】三宅民夫,伊東敏恵
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:21033(0×5229)