未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第26回は宮城県名取市です。
太平洋に面した名取市は震災で大きな被害を受けました。
中でも名取川を挟んで仙台市の南隣にある閖上地区の被害は甚大でした。
海に沿って平たんな土地が広がる閖上。
伊達政宗の命で造られた貞山堀が町を貫いています。
人々は貞山堀を越えて津波は来ないと信じていました。
あの日閖上の指定避難所の一つ閖上公民館におよそ300人が避難していました。
そこに「10mの津波が来る。
公民館では危険だ」という情報が入ります。
人々はより高い3階建ての中学校に移動します。
しかしその時公民館と中学校を結ぶ通りの先で大きな事故があり大渋滞が起きていました。
町に迫る津波。
目撃した男性が渋滞の車に注意を呼びかけます。
押し寄せた大津波は中学校に向かっていた多くの人や車をのみ込んでいきました。
想像を超える津波に襲われた閖上の町。
津波は来ないと信じていた人々の証言です。
かつて2,500余りの住宅が軒を並べおよそ7,000人が暮らしていた閖上の町。
津波でほとんどの建物が流され3年近くたった今も人は住んでいません。
震災後閖上の人々から注目を集めた場所があります。
水の神弁天様を祭る富主姫神社。
社は津波で流されましたが石碑が残っていました。
その一つに閖上を襲った津波の記述がありました。
昭和8年3月岩手県沖で地震が発生。
40分後水の高さ10尺およそ3mの津波が閖上を襲った。
閖上の町で生まれ育った…震災後初めて石碑の事を知り驚きました。
そして今回のような大津波が初めてではない事も分かりました。
「地震があったら津浪の用心」。
80年余り前の先人たちの言葉は忘れられていたのです。
2011年3月11日閖上地区を震度6強の地震が襲います。
単身赴任していた東京から家族の住む閖上の自宅に向かう途中バスの車内で地震に遭いました。
小齋さんは持っていたカメラでバスの中から被害の様子を写します。
商店街の店。
壁が崩れ落ちています。
地震の揺れで地面から水が噴き出す液状化現象も起こっていました。
何とか自宅に戻った小齋さん。
この日家族は町外に出かけていました。
小齋さんは自転車で町の様子を見に行きます。
被害の大きさとは反対に町は異様な静けさに包まれていました。
避難が必要なのかどうか情報を得ようとします。
名取川から貞山堀へ水を引き込む水門前で作業をしている人がいました。
担当者が貞山堀の変化に気付きます。
(取材者)引いてました?町では住民が避難を始めます。
閖上地区には3か所の指定避難所がありました。
その一つ閖上公民館。
この日中学校と幼稚園の謝恩会が行われていました。
地震のあと避難してきた人々が加わりおよそ300人が集まっていました。
公民館があった場所は今さら地になっています。
当時公民館の館長だった恵美雅信さん。
大きな津波が来るとは全く考えていませんでした。
公民館の前には防災無線が設置されていましたが津波警報やサイレンなどは鳴りませんでした。
この映像は震災から5か月後に撮影されたものです。
恵美さんはその時の状況を克明に語っていました。
閖上地区には公民館を含めた5か所に防災無線が設置されていました。
名取市役所から発信される津波の情報が伝えられるはずでした。
しかし地震の揺れで発信機器が故障し情報は流れなかったのです。
公民館の近くに住んでいた…地震の揺れのあと公民館に避難していました。
自分も周りにいた人もほとんど危機感は無かったといいます。
公民館のグラウンドで丹野さんと中学3年生の娘は同じ場所に。
中学1年生の息子は少し離れた所で友人と遊んでいました。
閖上公民館の前には大通りがあります。
内陸におよそ600m行くと五差路の交差点があり更に仙台市と名取市を結ぶ閖上大橋へと続いています。
五差路に向かって大通りを走る1台の車がありました。
取引先での仕事が終わり仙台の会社に戻る途中でした。
五差路の手前で渋滞に巻き込まれます。
吉田さんは五差路から閖上大橋へ向かいました。
そこで事故が起きているのを目撃します。
地震の揺れでトレーラーが積んでいた大きなコンクリートのくいが落下し対向車を直撃していました。
間もなくレスキュー隊が到着すると吉田さんは救助を手伝います。
この事故が渋滞の原因でした。
地震の揺れが引き起こした防災無線の故障と交通事故。
不測の事態が重なる中公民館に10mの津波が来るという情報が入ります。
恵美さんはより高い3階建ての中学校に移動するように声をかけます。
家族3人で公民館のグラウンドに避難していた…その声にいち早く反応しました。
小齋さんは公民館から閖上中学校に向かいます。
丹野さんは公民館にとどまっていました。
この時も津波は来ないと考えていました。
地震からおよそ1時間がたった頃名取川の河口付近に渦のような流れが現れました。
そのころ小齋誠進さんは水門で作業を手伝い続けていました。
窓からふと外を見た時です。
逃げるのを諦めかけた小齋さんは海にレンズを向けました。
カメラのファインダーを通して津波がどんどん迫ってくるのを実感しました。
慌てて駆け下り少しでも津波から遠ざかろうと必死で自転車をこぎました。
公民館前の大通り。
そこで大渋滞を目にします。
(取材者)それはどこに向かってた…?事故による渋滞は公民館から中学校へ移動する車が加わりひどくなっていました。
小齋さんは避難を呼びかけます。
中学校に向かってくる車を撮影した映像です。
ほとんど動いていません。
小齋さんは車に声をかけながら内陸の五差路に向かいました。
五差路の先の閖上大橋では吉田さんがレスキュー隊の手伝いを続けていました。
レスキュー隊から10mの大津波警報が出た事を聞きましたが信じていませんでした。
しかしその直後吉田さんは名取川の異変に気付きます。
津波が名取川の河口から遡上してきました。
巨大な波頭が閖上大橋に向かっています。
吉田さんは全速力で橋を駆け下り五差路に止まっている車に津波が来たから逃げるようにと伝えて回ります。
一方五差路まで来た小齋さんは津波の様子を確認しようと橋の上に上がります。
名取川の水位は堤防を越す寸前にまで上がっていました。
小齋さんは名取川の堤防を指さしながら車に乗っている人たちに避難を呼びかけます。
小齋さんも自転車に飛び乗り近くにある閖上小学校へと避難します。
そのころ公民館にいた300人の多くは中学校へ向かっていました。
館長の恵美さんは寝たきりの人たちを移動させるため車の準備をしていました。
その時空の異変に気付きます。
恵美さんの見た煙は津波が次々と家屋を押し倒す時に出たものでした。
津波はもう目の前に迫っていたのです。
恵美さんたちは体の不自由な人たちを連れて必死で公民館に駆け込みました。
寝たきりのお年寄りは6人掛かりで担ぎ上げます。
津波が来る寸前2階に上がる事ができました。
公民館のグラウンドの端にいた丹野さんの耳にも津波を知らせる声が届きます。
息子の公太さんは友人と共に中学校に向かって走ったと言われています。
水位はどんどん増し公民館の2階に迫ってきました。
公民館の2階に逃げ込む事ができたのは54人。
寒さをしのぎながら夜を過ごしました。
津波は中学校にも押し寄せていました。
公民館から中学校へ向かう途中で巻き込まれたどりつけなかった人も多かったといいます。
五差路にいた吉田さんにも津波が迫っていました。
とっさに五差路に架かる歩道橋に駆け上がります。
歩道橋に上がると同時に五差路は濁流にのみ込まれます。
吉田さんは歩道橋の近くに流れてきた女性に気付き助けようとします。
(取材者)そう言われて吉田さんはどうしたんですか?その後寒さで震える女性のために皆で服を分け合い着替えさせました。
歩道橋の上で津波を逃れたのは58人。
夜11時ころ水が少し引き吉田さんたちは避難所へ移動しました。
内陸にあった閖上小学校にも津波は押し寄せました。
指定避難所となっていた小学校と中学校には合わせて1,670人が避難する事ができました。
あの日閖上の町はほとんどが津波にのみ込まれました。
津波で亡くなった人は754人行方不明者は40人に上ります。
震災から3年およそ7,000人が住んでいた閖上の町はほぼさら地となっています。
あの日多くの人が避難した閖上中学校です。
校舎の前に亡くなった14人の生徒の名前が刻まれた慰霊碑があります。
丹野さんたち生徒の遺族が建立しました。
丹野さんの息子の公太さんは震災から2週間後閖上中学校近くのがれきの中から発見されました。
丹野さんは慰霊碑に子供たちをそして震災の被害を忘れないでほしいという思いを込めています。
元公民館館長の…あの日公民館から中学校へ避難するように指示した事が最善だったのか。
住民の中にはその判断を問う声もあるといいます。
閖上には県内外から多くの人たちが視察に訪れています。
丹野さんは震災から1年後震災を語る語り部の活動を始めました。
津波で全てが変わってしまった町並みと失われた多くの命。
丹野さんは閖上の人たちが払った大きな犠牲を無駄にしてはならないという気持ちで語り続けています。
(丹野)ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
とんでもないです。
はい。
うわっ冷たい。
冷たいですよね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
そう言って頂ける事が本当にありがたいです。
昭和8年に建てられ忘れ去られていた教訓。
「地震があったら津浪の用心」。
「今回の津波の記憶こそは忘れてはならない」。
閖上の人々は痛切な思いで次の世代へと伝え続けようとしています。
海の近くは津波の危険があるという事そして万一の時はいかに早く安全な場所に避難できるかどうかが生死を分ける。
その事が閖上の皆さんの証言からひしひしと伝わってきましたね。
またその教訓を次の世代に引き継いでいく事が被災された方々の思いに応える事にもなるという事も分かりました。
さて東日本大震災から間もなく3年になります。
大切な人を亡くし心の傷が癒えないという方たくさんいらっしゃると思います。
時とともにその悲しみというのは強まっていく面もあります。
そういう思いに応えようと始まった「こころフォト〜忘れない〜」。
亡くなられた方行方不明の方の写真そしてご家族からのメッセージが係に届いております。
その中からご紹介します。
ご案内は仙台市出身の鈴木京香さんです。
宮城県気仙沼市の芳賀トミコさんは自宅で一人でいて津波に巻き込まれました。
次男の勝司さんからのメッセージです。
福島県新地町の志藤彰太さんは友達と一緒に通っていた自動車学校の送迎バスで津波に巻き込まれました。
高校卒業後は仙台市の専門学校に進学が決まっていました。
母親のとし子さんからのメッセージです。
岩手県陸前高田市の菅野智之さんは祖母を避難させたあと津波に巻き込まれました。
父親の一則さんからのメッセージです。
「こころフォト〜忘れない〜」番組はホームページでご紹介しています。
引き続き写真やメッセージの提供もお願いしています。
よろしくお願いします。
詳しい事はホームページをご覧下さい。
それでは被災された方々の声に耳を傾けて頂きます。
ここ小友町は震災から3年たって復興がだいぶ進んでいるように見えます。
しかし出ていった人が戻ってくるような計画は立っていません。
このままでは過疎の集落になってしまいます。
ここの地域では私の孫はじめ多くの子供たちが津波で亡くなりました。
縁あって大阪のボランティアの方から地蔵様を頂きました。
月命日には中尊寺の和尚さんが来て下さいます。
この仮設に入って2年半。
全国からの多くのご支援ありがとうございました。
(修子)高台移転や新築の話はどんどん出てきてます。
(2人)待ってま〜す。
2014/02/23(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録東日本大震災(26)名取市〜誰も想像できなかった[字]
宮城県名取市では、多くの住民が「津波は来ない」と信じていた。さらに防災無線の故障と交通事故が重なり住民の避難が遅れた。津波に襲われた人々は何を考え行動したのか。
詳細情報
番組内容
宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区。昔から「遠浅の閖上の海には津波は来ない」と信じられていた。あの日、閖上では防災無線の故障と交通事故という不測の事態が起きていた。地震からしばらくたった頃、指定避難所の公民館に避難していた人々は、より高い中学校に移動するよう指示される。しかし、住民の危機感は薄く、交通事故による渋滞も加わり避難が遅れた。想像をこえる大津波に襲われた人々は何を考え、どう命を守ったのか。
出演者
【キャスター】三宅民夫
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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