日曜美術館「画鬼と呼ばれた絵師〜弟子・コンドルが見た河鍋暁斎〜」 2014.02.23

維新の激動が続いていた明治10年イギリスから一人のお雇い外国人が日本にやって来ました。
24歳の若き建築家ジョサイア・コンドル。
鹿鳴館や丸の内の三菱一号館神田のニコライ堂など西洋建築を次々と手がけ文明開化に貢献しました。
そのコンドルが弟子入りをした絵師がいます。
明治になり多くの絵師が路頭に迷う中暁斎は才気あふれる絵で人気を博しました。
文明開化の波は不動明王の世界にまで押し寄せ神妙な顔つきではやりの雑誌を読んでいます。
こうした戯画で世相を皮肉ったかと思えば…。
霊気と共に立ち現れうらめしや〜とばかりにギョロリと目をむく幽霊。
こちらは見目麗しい遊女。
炎のような赤いサンゴの衣装を着たその名も地獄太夫。
こんな妖艶な絵で大向こうをうならせました。
師匠となった暁斎は弟子のコンドルの家に出向き絵を教えました。
正座ができず腹ばいで描くコンドル。
コンドルの絵を見る暁斎。
師弟の関係は暁斎が死ぬまで続きました。
生涯を絵にささげ「画鬼」と呼ばれた暁斎。
その人生と驚異の技を弟子のコンドルの目を通して見つめます。
埼玉県蕨市。
河鍋暁斎の作品を展示する美術館があります。
館長で暁斎のひ孫に当たる…暁斎の功績を広めようとこの美術館を設立しました。
河鍋さんには大切にしてきた一冊の本があります。
(楠美)これはコンドルさんから直接頂いたと思うんですけれども私がしょっちゅうこれをお見せしたり何かしゃべるのにこれ使ってるもんだからなおボロボロになっちゃって。
お雇い外国人として明治の建築界を牽引したコンドル。
晩年の58歳になった時絵の師匠暁斎の事を一冊の英文の本にまとめました。
ここにコンドルが弟子として学び知った暁斎の人生や絵の技法が克明に記されています。
コンドルの本を朗読しながら「画鬼」と呼ばれるようになった暁斎の伝記をたどりましょう。
「8歳の年のある日大雨のあと溢れ出した神田川の流れを写生しようとその岸辺を歩いていると何やら毛むくじゃらのものが押し流されて来るのが目についた。
流れの中に立ち入ってこれを掴まえてみると何とそれは人間の生首であった。
びっくり仰天したがすぐ恐ろしさを忘れて気をとり直しこれこそ画家がめったに引き当てることのない当りくじだこれを利用してやろうと決心して急いで紙に数枚の写生をものした」。
後に暁斎はこの経験を生かしたおどろおどろしい幽霊図を描いています。
頭髪が抜け痩せ衰えた幽霊。
口にくわえているのは青白い生首です。
「画家としての生涯を通じて暁斎は不気味で慄然とするようなものに心惹かれていた。
後年時おり刑場に足を運んで断末魔の苦しみや死の様々な形相を写生することもあった」。
15歳の時暁斎の住んでいた付近が大火に見舞われました。
「折からの強風に煽られて火は燃え広がった。
大きな小鳥屋があった。
むざむざ焼き殺してしまうのもかわいそうだと主人は籠をあけて鳥を逃がしてやることにした。
鳥たちは赤々と燃える空に一斉に舞い立ち呆れたことに燃え盛る炎を目指して飛んで行くのであった。
当時15歳だった暁斎は様々に変化する火勢を熟視し一心にそのスケッチを始めた。
父に見つかり我が家が危険にさらされているのに呑気に絵を描いているとは何事だと厳しく叱責された」。
燃え盛る炎は後年暁斎が得意とした地獄極楽図に生かされます。
閻魔大王の裁きによって亡者たちは罰を受け地獄で炎に焼かれます。
暁斎の地獄図なんかに見られる炎の面白さっていうのはやっぱり…これは僕らからすると当たり前ですけども燃えるっていう事はそこに空気が入って風が起こるんですよ。
暁斎の炎っていうのはものすごくある方向性があるんですよね。
いわゆるそこに炎をそぎたてるといいますか追い立てるような風の向きそれが必ず裏にあってそれを表現するために単なる朱だけじゃなくてちょっとだいだい系の色とかいろんな色を加えて。
そして場合によって煙の黒い墨まで入れてそこにある動きをもたらすんですね。
ですから暁斎の炎ってほんとにこっちに来そうなものもありますしそういったリアリティ−があるんですね。
暁斎は子供の時狩野派に入門。
大勢の門人たちと切磋琢磨しながら本格的に絵を学びました。
18歳という異例の若さで修業を終え絵師として活動していた23歳一騒動が持ち上がります。
「23歳のとき筑前侯の邸で壁画の仕事に従事していた。
たまたま外を眺めていると御殿女中がそろって通りかかった。
彼は画帖をひっつかんで部屋を抜け出し女中たちの尻についてしばらく廊下を歩いた後ようやく仕事場に戻ってきた。
この無作法な行為はたちまち邸中の騒ぎとなり即刻追放師や両親からも厳しい非難を浴びた」。
実は暁斎が御殿女中の尻を追いかけたのは帯の模様を写生するためでした。
これはその時見た模様。
暁斎は珍しい図柄に魅せられ写し取ってきたのです。
暁斎は終生着物や帯の模様にこだわりました。
「彼の作品における装飾的部分の細部描写は常にその綿密な注意の賜物であった。
歴史上の人物を描く場合衣装やその装飾物についての驚くべき知識また故実に即した正確な描写は他の画家の到底及ぶところではなかった」。
絵師として人気が高まっていた34歳の時長野にある戸隠神社で暁斎は見事なパフォーマンスを披露し喝采を浴びます。
「戸隠山の中院に辿りついたとき折から落成したばかりの社殿のためその天井に揮毫してほしいと依頼があった。
描くべき天井は十間四方すなわち百坪の広さであった。
暁斎はまず筆をとる前に酒を要求し大盃でゆっくりと三杯傾けたのち一気に巨龍の輪郭取りにとりかかった。
門人留吉に手伝わせて各部分の濃淡や仕上げを完成させた」。
この時描いた龍の天井画は昭和17年火災のため焼失してしまいました。
その天井画が11年前残っていた画像をコンピューターで処理し実物大に復元されました。
(拍手)暁斎がおよそ150年前に描いた龍がよみがえったのです。
人前でのパフォーマンスを得意とした暁斎。
これぞパフォーマンスアートとも言うべき一世一代の傑作があります。
縦4m横17mに及ぶ歌舞伎の舞台の幕。
尾上菊五郎や市川団十郎など人気役者の顔をした妖怪が所狭しとうごめいています。
暁斎は2〜3本の酒瓶を傾けた後おもむろに筆をとって一気呵成に仕上げました。
「このような巨大な画面になると画家は太い筆を縦横に走らせるため画面の上を走ったり濡れたままの筆跡を踏み付けぬよう始終敏捷に動き回らなければならない。
したがって画家の頭の中には描こうとする正確な構図があらかじめ明確に記憶されていなければならない」。
(安村)あんな大画面無理でしょう普通は。
それは描けませんよ。
構図がとれないんです。
何を描いてるか自分の目の前で分かんないんですから。
それこそ5mぐらいの天井から見て初めて分かるわけですからね。
これはかなり下絵をしっかり作ってますけどもだけども観戦者がいるんで見てる人がいるんで描いたのは2時間か3時間でしょ。
あの中でもうまさに太い筆で一気呵成に描くわけですからこれこそパフォーマンスですよまさにね。
当時「書画会」と呼ばれるパフォーマンスアートの催しが人気を集めました。
暁斎は客の注文に応じその場で絵を描く席画の名手として鳴らしました。
注文が殺到して喜々とする暁斎の姿です。
しかし39歳の時こうした書画会で暁斎は筆禍事件を起こします。
「暁斎は滑稽で風刺的な作品を多く描いた。
新鮮で独創的なユーモアを使い古された画題の中に盛り込むことも多かった。
このような風刺的な調子を彼は時として軽々しく表現しては到底無事におさまりそうもないほど重要視された政治的事件にまで広げることがあった。
彼はある席画がもとで投獄された」。
これは書画会で暁斎が捕えられた時の様子です。
原因は酒に酔って描いた戯画が高貴な人々を嘲弄したからだとも言われていますが真相は分かりません。
暁斎はむち打ち五十の刑を言い渡され牢屋に入れられました。
しかし事件のあとも暁斎は時代を風刺する戯画を描き続けました。
明治5年全国に小学校が置かれます。
化け物の世界にも学校が出来鬼の子は鬼用語を覚え河童の子はローマ字を勉強しています。
文明開化の嵐は不動明王まで巻き込みます。
雑誌を読んで新たな時代にふさわしい知識を仕入れる不動明王。
従者が庶民の間で普及した牛鍋を作ろうと肉を刻んでいます。
なんかこうユーモアでくるんじゃうところがあってだけど政府の…世の中の大勢の動きに対しては苦々しく思ってるというその苦々しさを笑いに包んでるところが面白いですよね暁斎の場合はね。
暁斎が50歳になった時コンドルが入門してきます。
きっかけは暁斎のある絵を見た事だったといいます。
明治14年博覧会に出品し最高賞を獲得した作品です。
「枯れ枝にからすのとまりけり秋の暮れ」という芭蕉の句の世界を生き生きとした筆遣いで描いています。
「暁斎は鴉の画に百円の売値をつけた。
審査官は暁斎を呼び付け鴉一羽を描いた画にしては法外な値段ではないかと難詰した。
これに対し暁斎は答えた。
これは単に鴉一羽の画につけた値段ではありません。
このような迫真の筆を揮えるようになった筆者五十年にわたる研鑽修業の成果でありこの値段はごく一部に過ぎませぬと。
鴉の画は結局その値段で売れた」。
暁斎に弟子入りした時29歳だったコンドル。
親子ほども年の離れた師弟の関係が始まりました。
交流の様子は暁斎が毎日のようにつけていた絵日記からうかがい知る事ができます。
暁斎は週1回人力車に乗ってコンドルの家に出稽古に行きました。
コンドルの修業はまず暁斎の描く様子をよく見る事でした。
食事も一緒に楽しみました。
女性がナイフとフォークを持ち暁斎も椅子に座ってグラスを手にしています。
コンドルは正座が苦手なため腹ばいになって描きました。
そして描き上げたコンドルの絵を暁斎が見る。
そんな修業を経てコンドルはめきめき腕を上げていきます。
「数年間少なからぬ肉体的な困難と戦いながらも暁斎の指導のもとに日本画の技法を実践し得た。
私の受けた指導とは師の制作を見学すること師の話・説明を聴くことそして細部の仕事で師の助手をつとめることこれがほとんどであった」。
これはコンドルが描いた百舌の絵。
暁斎の教えを習得したコンドルは展覧会で賞を受けるまでになりました。
コンドルはもう熱心にもう日本画の習得にものすごい熱心で。
それはやっぱり暁斎に伝わってきてるんでしょうね。
暁斎はお弟子を非常に評価してましたね。
「暁英」という雅号を与えるでしょ。
暁斎の「暁」に英国の「英」ですよ。
「暁英」という雅号を与えて人には「英国の暁斎です」って自慢してたっていうんですよ。
コンドルの事をイギリスの暁斎だと。
自分とそっくりのものがいくらでも描ける人間だというような事で自慢してたっていう話がありますね。
やがて師弟を超え強い絆を結ぶようになった暁斎とコンドル。
何度も一緒に写生旅行に出かけました。
日光に行くため上野駅に集合した暁斎とコンドルです。
暁斎はその旅行でたくさんのスケッチや絵を描きました。
連なる日光の山々。
岩場の渓流に架かる狭い橋を渡る一行。
先を歩くコンドル。
その後ろから背中を支えられ杖をついて歩くのが暁斎です。
コンドルは日光の宿で絵を描く暁斎の姿をスケッチしています。
その日見た景色を記憶だけを頼りに描く暁斎の才能にコンドルは改めて驚きました。
「メモやスケッチを参考にしている姿を私は見た記憶がない。
かつて実物を前に写生した綿密な模写やスケッチは細部をことごとく心の中に焼き付けるという目的にたった一度だけ役立てばそれで終わりというように思えるのである」。
暁斎はじ〜っと見て覚えちゃうんですね。
それからおもむろに紙に落としていくという。
西洋人は小鳥なんかをすぐ鉛筆でスケッチするけども次の瞬間小鳥が違ったスタイルするとどうするんだと。
無駄になるじゃないという事で言ってますよね。
暁斎は「あなたはどうするの?」と言われた時にはじっと見るんだと。
前の方向を向くまでじっと観察してるんだと言ってますね。
観察して頭の中に完全に入り込んだ時に初めて筆に手をやってスケッチしていく。
それがいろんな鳥の形が頭の中に入ってるから「じゃあこういう鳥を描いて下さい」って言ったらすぐ描けるんだと言ってますよね。
視覚的な記憶能力が抜群だったんでしょうね。
まさに天才的というもんですよね。
コンドルは暁斎から学んだ技法を丹念に記録しました。
最初にコンドルが学ばなければならなかったのは墨であらゆる線を生き生きと描く事でした。
「暁斎は無形のほとんど捉えどころのない対象さえ線描のみで表現し得るようになった。
その表現に必要な線を直感的に捉える事が出来たようだ。
流水波浪水泡焔風の動きさえ彼は明確な線描に置きかえている」。
自然描写の中でコンドルが着目したのは岩の描写法です。
「ごつごつと角ばった裂け目のある岩を勢いよく描く時にはまず刷毛を寝かせ次に刷毛を立てる描法を繰り返すのが常道である。
この技法を『斧描き』と呼ぶ」。
コンドルが躍動感あふれる筆遣いの秀作として挙げた暁斎の絵。
強風にあおられ大きく揺さぶられる木々。
鋭く切り立った岩肌。
剣で斬りつける素戔嗚尊。
そして荒れ狂う波。
激しく動く人物を好んで描いた暁斎。
人物の描写にも独特の工夫をしていました。
「衣装をまとう大きな人物画を精密に仕立てようとする時暁斎はまずその人物のヌードを線描で描き正確な身体の比率や姿勢を把握しようとする方法をとった。
次いで彼はこのヌードの輪郭の上に衣装を墨線で描いて身体を覆う」。
この技法は「着服図法」と呼ばれます。
人の姿を自然に見せるため暁斎がこだわった描写法です。
暁斎は技法の奥義をコンドルが身に着けられるようにこの鯉の絵をコンドルの前で描いて見せました。
上から見たり正面から見たりさまざまな鯉の姿が生き生きと描かれています。
これらの鯉を暁斎がどのようにして描いたのかコンドルは克明にメモしました。
そのメモに従って画家の大竹卓民さんに鯉の絵を再現してもらう事にしました。
まず下絵をなぞり鯉の輪郭を絹地に写していきます。
「頭部や顔の細部はやや薄い墨を含ませた極めて細い線で写し尾や鰭の輪郭はゆらゆらと動くような線で薄織物のような感じを出している」。
(大竹)こっちの方がやや重みがある。
この絵のとおりでね。
この部分は力が抜けて水の中にふらふらしてる感じを出してます。
次に胴体の鱗を細い線でかたどっていきます。
(大竹)見た目はすごく簡単だけどその全ての線は同じような気持ち同じような筆の流れをする。
背中の鱗を描く時は別の技法を使っています。
輪郭線を使わず面でかたどるのです。
いわゆる「付立て」の技法です。
魚を描く鯉を描く鱗を描くのこの技法にはないものね。
そこで彼が付立ての方法でそういうふうに表現してるのね。
それでその付立てと次の線描の鱗とをミックスして2つの方法でまあ一つの魚を…鯉を描いてるね。
その辺がすごく今でも不思議に思うんです。
これは中国にもないどこにもない描き方なんです。
暁斎の描き方なんです。
今度は2本の筆を使います。
暁斎はいつも片手に2本の筆を持ってぼかしを入れました。
「つぎに鯉の形体どり。
これは淡墨を何度か塗って隈取りをする。
二本の丸筆を用いるが一本は墨をつけ他の一本はただの水をつけて墨の色調をぼかすために用いる」。
鱗一枚一枚にぼかしを入れ立体感を出していきます。
その上で今度は鯉の背中全体にぼかしを入れます。
暁斎はこのぼかしを何度も繰り返しました。

(大竹)隈取りは立体を一生懸命出してる。
それで今の状態を抑える。
それでまた出してまた抑える。
それの繰り返し。
それで深みがどんどんどんどんどんどん出ます。
「最後に鯉の目に瞳を入れるがこれは筆に硯の濃墨を直接つけて描き込む」。
「金粉をやや泥状にして鯉のもっとも光った鱗の部分に塗りきらきらと輝く様を表している」。
輪郭線と「付立て」によるかたどり。
それに幾重にもぼかしを施し出来上がりました。
一般的には線描というものはみんな模写模写でその模写のうちに元の生きてるものの意味がなくなってただ輪郭線だけ取る。
そこが暁斎の絵を見ていると元の線描の意味に戻したと。
生きている形。
人物にしても生きている形。
魚にしても生きている形。
それをもっと生き生きとしてる姿をねそれを考えて出してるでしょ。
暁斎の代表作鮮やかな色彩が躍る…暁斎はコンドルのためにこの屏風を描きました。
「右側の図は始めから終りまで筆者の目前で制作されたものであり狩野派および土佐派による極彩色の手法を学ぶ上で貴重な実習となった」。
髪を結い上げたふくよかで色白の美人。
着物は華やかな朱で彩られツタの葉や楽器などの紋様が細かく施されています。
背後には屏風が置かれそこには農作業をする大勢の人々が細密画のように描き込まれています。
「これらの細描はすべて何ら予備的スケッチや修正を試みることなくあたかも暁斎が絵画ならぬ文章を草するがごとくに淀みなく直接的にただの一回で描き上げたものであった」。
コンドルの記述に従いこの絵がどういう順序で描かれたのかたどってみましょう。
最初に墨で人物の輪郭が描かれます。
彩色はまず顔から。
口目髪を描き着物に移ります。
地色を塗り分け葉や楽器などの紋様を加えます。
そして最後に背景を描いて出来上がります。
この絵で暁斎が特に力を注いだのは色鮮やかな着物です。
そこでこの着物の部分を再現してみる事にしました。
日本画の技法を研究してきた荒井経さんにコンドルの記述に沿って再現してもらいます。
暁斎は着物の赤い地色を描くのにまず薄いだいだい色を塗りました。
そして次に製法の違う2種類の朱を塗り重ねました。
まず熱を加えずに作った朱を塗りぼかしていきます。
(荒井)この赤を塗るのを墨の線のちょっと手前で止めてそしてその際のところをぼかせと。
隈取れっていう事ですね。
朱の1回目の塗りが終わりました。
(荒井)2回目は線の上から塗っちゃっていいと。
こういう事ですね。
暁斎は火にかけてやや赤みを強くした朱を墨の線の上にも塗り重ねました。
(荒井)2回目の塗りの時にほとんど見えなくなってくるところなんで本当に微妙な違いというか微妙なところに気を配ってるっていう事ですね。
立体感とか柔らかさみたいなものを少しでも出そうという事なんだと思うんです。
わざわざ1回目ぼかしをきつくして2回目にそれを抑えるような塗りをするっていう二度手間ですからそれはまあ手が込んでるって事ですよね。
続いて着物の地の上に柄を描いていきます。
着物の柄の一つ太鼓には小さな竜の模様がありますがそれも緑色の胴体の上に更に濃い緑色の鱗を重ねます。
楽器の笙の模様は赤みを帯びた金と青っぽい金を塗り分けています。
着物のこの部分をコンドルの本の記載どおりに再現するのに丸3日かかりました。
現代の我々が読んでも非常によく分かる。
そういう作業の記録をした文献って恐らくないと思うんですよね。
狩野派なり土佐派なりあるいは浮世絵肉筆浮世絵なりの自分が学んできた事の一番ベストをちゃんと基本に忠実にやってったっていう感じですからそれを晩年の暁斎がするという事はよほどコンドルが日本絵画の技法を今の言葉で言うとアーカイブしようとした事についてものすごく協力的だったんだと思うんですよね。
興味があった。
残していくって事に興味があったんだろうなと思いますね。
暁斎はこの丹念に描き上げた「大和美人図屏風」を惜しみなくコンドルに与えました。
コンドルは本の中に暁斎の伝記や技法だけでなく代表作を数多く載せ暁斎の画業を広く伝えようとしました。
恩義というそれだけを感じてやって下さった事だと思いますね。
自分もいずれ亡くなるからだからこういうのを書いた日本の本もないしそれから誰も知らないですし密に教わったわけですから週一ね。
だからこれをどうしても残したいという恩義が大部分だと思いますよ。
暁斎とコンドルの師弟の交流は暁斎の死によって打ち切られました。
臨終の時暁斎はコンドルの手を握りながら息を引き取ったといいます。
「暁斎の死はその力量の絶頂期にあったと言えるかもしれない。
彼の晩年の作にはそれ以前の作に見られる綿密洗練の描写力がいささかも衰えることなくしかも雄渾にして独創的な構想力はさらにこれを凌駕しているからである」。
2014/02/23(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「画鬼と呼ばれた絵師〜弟子・コンドルが見た河鍋暁斎〜」[字]

明治維新の激動期に活躍した河鍋暁斎。暁斎に惚れ込み弟子になったお雇い外国人の建築家、ジョサイア・コンドル。異邦人の弟子から見た天才絵師・暁斎の姿を紹介する。

詳細情報
番組内容
明治維新の激動期に活躍した河鍋暁斎。暁斎にほれ込み、弟子になったお雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルは、日本画の技法を学ぶとともに、人間的にも親しく交わり、暁斎の業績をたたえた本「河鍋暁斎」を著した。そこには“画鬼”“反骨絵師”のエピソードとともに、代表作「大和美人図屏風」などの技法が克明に記されている。天才絵師・暁斎と、異邦人の弟子コンドルの交流を描きながら、コンドルが見た暁斎像を紹介する。
出演者
【出演】美術史家…安村敏信,河鍋暁斎記念館館長…河鍋楠美,東京藝術大学非常勤講師…大竹卓民,東京藝術大学准教授…荒井経,埼玉大学名誉教授…山口静一,【司会】井浦新,伊東敏恵

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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