ETV特集 アンコール「海の放射能に立ち向かった日本人〜ビキニ事件と俊鶻丸」 2014.02.08

港湾内の海水は1から4号機の取水路北側でトリチウム濃度が2,300ベクレル・パー・リットルまで上昇していると。
深くお詫びしたいと思います。
今年7月東京電力は福島第一原発の汚染水が今も海に流出している事を認めました。
更に8月には高濃度の汚染水がタンクから大量に漏れ出していた事も発覚。
その一部は海へ流れ出た恐れが出ています。
漁業に深刻な打撃を与え人々を不安に陥れる海の放射能汚染。
こうした事態に私たちが直面するのは今回が初めてではありません。
1954年アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験。
この時爆心地からおよそ160キロの地点で操業していた日本のマグロはえなわ漁船が被ばくしました。
静岡県焼津を母港とする…乗組員23人は空から降ってきた大量の「死の灰」を浴び急性の放射線障害に苦しみます。
被害は水産物にも及びます。
日本各地の港で放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされたのです。
しかし核実験を行ったアメリカは放射性物質は水で薄まるため無害になると主張します。
こうした中22人の若き科学者を乗せた海洋調査船がビキニの実験場へ向けて出航します。
船の名は…
(ナレーション)「東京の竹芝桟橋は見送りの人々でうずまり五色のテープも華やかに遠くビキニの海に向かう俊鶻丸に大きな期待を託しました」。
海の汚染の実態は当のアメリカも正確に把握してはいませんでした。
日本人の手で事実を明らかしようとしたのです。
2か月にわたる調査の結果海の汚染は容易に薄まらず放射性物質がマグロの体内に蓄積される事が初めて明らかになりました。
今から59年前世界に先駆けて海の放射能汚染に立ち向かいその実態を解明した日本の科学者たち。
私たちはそこから何を学ぶ事ができるのでしょうか。
(セリの声)全国有数のマグロの水揚げを誇ります。
世界の海から年間5万トンが水揚げされます。
今から59年前そのマグロが水爆実験により大きな被害を受けました。
太平洋で取れたマグロから強い放射線が検出されたのです。
汚染のレベルを調べるため港では「ガイガーカウンター」という放射線検知器を使って検査が行われるようになりました。
測っていたのは表面の汚染です。
マグロの体から10センチ離して測定し1分間に100カウント以下であれば出荷できます。
この基準を超えたマグロは廃棄する事が義務づけられました。
2か月もの命懸けの航海で取ってきたマグロを漁師自身の手で海に捨てに行かなければなりませんでした。
静岡県焼津市の市場で働いていた北原茂治さん。
当時港には漁師のやるせない顔があふれていたといいます。
船員もヤケクソだよな勝手にしやがれ好きにしやがれというようなもんでな。
口じゃそう思ったってね大苦労して釣ってきたもんでさ情けないと思ったと思うよきっとな。
ちっくしょうこれも駄目かっていうようなね。
自分の財産を削られるようなもんでな。
魚屋の売り上げも激減しました。
人々はマグロを買い控えたのです。
「放射能」とは何なのか。
十分な情報がない中で人々は目に見えない放射能におびえていました。
(ニュース音声)「うっかり原爆マグロを食べたらしいと病院に駆けつける人々も豊橋をはじめ各地に見られるなど日本中が時ならぬ大恐慌に見舞われました」。
日本中が放射能汚染に揺れていた時水爆実験を行ったアメリカは実験の影響は少ないと主張していました。
放射性物質は海流によって拡散され5キロも離れれば無害となる。
そして800キロ先では完全に検出できなくなる。
海水の汚染や魚への影響を否定したのです。
当時アメリカは日本からマグロの缶詰を大量に輸入していました。
アメリカは海の汚染を否定する一方で日本の汚染されたマグロが輸入され国内に流通する事を恐れていました。
東京のアメリカ大使館から本国に送られた報告書です。
「マグロの輸出について日本の当局と話し合った」。
「…という合意に達した」。
来日したアメリカ原子力委員会のメリル・アイゼンバッド博士はアメリカ向けに輸出するマグロの検査を視察。
エラや腹の中に3秒以上測定器を入れて計測するよう指示しました。
核実験による大きな被害を受けたにもかかわらず日本政府はアメリカの責任を追及しようとはしませんでした。
外務大臣の岡崎勝男は国会で厳しい質問を受けます。
岡崎外務大臣は日米の交流団体が主催したパーティーで駐日アメリカ大使などを前に次のように発言します。
汚染されたマグロが水揚げされる港は静岡県だけでなく宮城県の塩釜や神奈川県の三崎などにも広がっていきました。
マグロを廃棄する漁船の数は増え続け被害は拡大していきました。
汚染の原因として強く疑われたのは放射性物質を含む「死の灰」です。
空から降り注いだ「死の灰」がどのようにして海中のマグロを汚染するのか。
そのメカニズムはまだよく分かっていませんでした。
日本政府の中でマグロの汚染に対し強い危機感を持ったのが水産庁でした。
水産庁長官が外務省に送った文書です。
マグロ汚染の実態を明らかにするため生物学海洋学気象学など異なる分野から究明するべく調査船を派遣すると述べています。
水産庁の要請で調査の計画を立案する科学者のグループいわゆる顧問団が組織されました。
集まったのは生物学者海洋学者水産学者など海や魚を研究する第一線の科学者たち。
そして物理や化学の分野から放射線に詳しい研究者が選ばれました。
中でも中心的な役割を担ったのが…大気や海水の化学分析を専門とし放射性物質の分析にも通じていました。
三宅さんと40年近い交流のあった…川さんはビキニの放射能汚染に立ち向かう三宅さんの姿を見て以来師と仰いできました。
科学者は研究室に閉じ籠もる事なく社会に関わる事が大事だと度々聞かされてきたといいます。
核兵器を作ったのも科学者であるしですね。
それが社会的に悪い影響を与えないようにするために努力する特別な責任が科学者にあるんだという事を強調されたですね。
科学と社会との関わりというか科学者の社会的責任というかその点は最初から強調されておられました。
顧問団は解決しなければならない問題をいくつも抱えていました。
派遣する船は俊鶻丸588トン。
当時船員などを養成する学校で練習船として使われていました。
そして顧問団は俊鶻丸に乗り込む若手科学者22人を選びました。
気象班2人海洋班3人計測班3人など研究者として将来を嘱望された20代30代の若者たちが中心でした。
その中の1人岡野眞治さん。
当時27歳。
岡野さんは放射能測定の専門家として乗組員を被ばくから守る放射線防護の役目を担いました。
俊鶻丸が向かうビキニ環礁ではアメリカがまだ核実験を継続していたからです。
被ばくした第五福竜丸の展示館に岡野さんが俊鶻丸で使った放射線測定器が保存されています。
これは言ってみれば当時としては最先端の測定器ですね。
この測定器を船に積み込む事で乗組員の被ばく線量を刻々と知る事ができます。
岡野さんが部品を一つ一つ集め手作りをした当時としては画期的な装置でした。
(岡野)壊れちゃいないみたいですね。
多分ちゃんと整備すれば使えるのかもしれない。
岡野さんたちの向かう海域は1946年以来アメリカが核実験を繰り返してきた場所でした。
ボロボロで。
(取材者)これは何ですか?
(岡野)これは僕がビキニ調査に行く時にみんなが添え書きしてくれた。
(取材者)あ〜。
(岡野)これが傑作ですよ。
「ギニーピッグ」というのは要するにモルモットですよね。
実験動物だって話は結構原爆実験をネバダなんかやってる時に実験動物使ってやってますからね。
大量の実験動物使ってやってますからね。
下手すると沈められちゃうんじゃないかという噂があったくらいですからね俊鶻丸が。
(取材者)どういう事ですか?向こうがさ自分で具合悪い時はね福竜丸もそうですよ。
福竜丸見つかったら沈められたでしょう恐らく。
証拠隠滅ですよ。
あれがいっぱい情報を持ってるわけですからね。
第五福竜丸の被ばくから2か月余り。
(ナレーション)「昭和29年5月15日水産庁調査船俊鶻丸はこのごうごうたる全日本の不安とその科学的真相究明への要望を担って物理気象海洋など各方面の専門科学者を乗せ東京・芝浦を出発した」。
俊鶻丸顧問団の三宅泰雄さんは後に当時をこう振り返っています。
俊鶻丸が出発する2日前アメリカはこの年の核実験が終了した事を宣言しました。
しかし核実験場の周辺は危険区域に指定されたままでした。
船上では採取した水や魚の分析が行われました。
汚染の度合いを調べながら船は南へ進みます。
(ナレーション)「黒潮の流れを進むにつれて船内は30度の暑さ。
蚕棚と呼ばれる狭いベッドに体を横たえる調査団員たちにとっては苦しい船内生活の明け暮れです」。
海の汚染の解明には専門を超えた科学者たちの協力が不可欠です。
異なる分野への理解を深めるため日替わりで講師となり毎晩のように勉強会を開きました。
当初科学者たちは漁で取れたマグロが船の上で死の灰をかぶり汚染されたと考えていました。
そのため海水の汚染は重視していなかったといいます。
やっぱり空気ですよね。
空気を気にしてますよね。
(取材者)そうですか。
降ってきましたからね実験中は。
海の汚染はある程度は出てきてもしょうがないけどあまり出てくる事はないだろうという見方をしてますからね。
マグロの生態の専門家で解剖などを担当していた水産学者の本間操さんです。
実験から2か月たっていれば放射性物質は海中で十分に拡散しているはずだと思っていました。
船が出る前はですね海水の汚染なんていうのは日本のある有名な学者がですね琵琶湖にインクを1滴落としたような事だろうから太平洋は広いんだと。
だから汚染なんてあまり考えなくてもいいだろうというような事を誰しも調査員は思ったんです実際は。
その年の実験予定を終えたアメリカは俊鶻丸が出発して8日目危険区域を解除。
俊鶻丸はビキニ環礁により近づく事にしました。
そして出発から2週間余りたった5月31日。
乗組員に緊張が走りました。
後にまとめられた俊鶻丸の報告書です。
当時の観測記録を見るとそれまでゼロカウントだった汚染レベルが5月31日に突如450カウントにまで跳ね上がっています。
爆心地から800キロ以上も離れた地点でした。
船内では非常にその時緊迫した緊張しましたですね。
これは結構汚染してるなという感じがしましたね。
もう一つはねだんだん上がってくると一旦引き返さなきゃいけないのかもっと行ってもいいかという判断をしなきゃいけないわけです。
立場上ね。
ビキニ環礁から遠く離れた場所でしかも実験から2か月以上がたって海水の汚染がキャッチされた事は驚きをもって日本に伝えられました。
海水の放射線のレベルが上がると乗組員の被ばくが問題になりました。
(ナレーション)「船内では雨に当たらぬようにとの心得が出された」。
甲板にあまり出るなと。
もし必要な時出る時には鉛の入った雨ガッパを着ろと。
俊鶻丸はビキニ環礁に最も近づきました。
爆心地からおよそ180キロの所です。
乗組員の緊張もピークに達します。
その時の海水の放射線量の数値。
1分間に5,000カウントを超えました。
現在の単位に換算すると1リットル当たり1,200ベクレルになります。
俊鶻丸が明らかにした汚染の広がりです。
ビキニ環礁から1,500キロ以上離れても爆心地近くの15分の1程度と高い濃度を示しました。
海の汚染は簡単には薄まらなかったのです。
あれはべらぼうに大きいですからね。
あんなに汚れるとは誰も思ってなかったですね。
特に一番あれなのはビキニから流れた海水がかなり広範囲に流れて帯状になって存在してたって事はやっぱり非常な驚きですね。
俊鶻丸は海水だけでなくマグロを捕獲しその汚染を詳しく調べました。
マグロを解体し体の部位ごとに放射線の量を測り汚染の程度を調べます。
その結果は科学者たちを驚かせました。
内臓特に胃内容物とか肝臓だとか腎臓膵臓脾臓そういった内臓については非常に放射能が高いんですけど肉にあまりないんですね。
マグロの体の部位によって放射線の値は大きく異なりました。
脾臓や肝臓などの値は極めて高く食用にする筋肉の部分は比較的低い事などが分かってきました。
海水に接している皮やその下にある筋肉ではなくなぜ内臓から高いレベルの放射線が検出されるのか。
科学者たちが注目したのがマグロの餌です。
マグロが好んで食べるイカや小魚更にその餌のプランクトンの汚染を調べました。
その結果海水中の放射性物質がプランクトンに取り込まれる段階で大幅に濃縮されそれがイカやマグロに移行している事が分かりました。
食物連鎖を通じてマグロが汚染されていた事が明らかになったのです。
濃縮された主な物質は亜鉛である事も分かりました。
亜鉛は生物にとって不可欠な元素の一つで生体の中に取り込まれます。
その亜鉛が水爆を覆う金属に含まれていたのです。
爆発によって亜鉛が放射能を帯びプランクトンやイカに取り込まれたと考えられます。
繰り返される核実験がいかに海を汚染しその環境を破壊するのか。
未解明だった海の放射能汚染の実態に初めて光を当てたのが俊鶻丸でした。
太平洋に限らず核実験をやると環境汚染をするという事に対する一つの警鐘ですよね。
海洋汚染というのはこうやって測るんだよという事を俊鶻丸が世界に広めたんですね。
(ナレーション)「こうして全世界注目のうちに51日間にわたるビキニ海域の調査を終えた俊鶻丸は貴重な調査資料2,000余点を載せて懐かしの東京港に到着しました」。
俊鶻丸が帰国した時の三宅泰雄さんの言葉です。
俊鶻丸が帰国した7月。
日本で水揚げされるマグロの汚染は依然として深刻なものでした。
静岡県藤枝市に住む…枝村さんは焼津港に水揚げされた魚のうち汚染された魚がいつどこで取られたのかを調べてきました。
枝村さんが調べた汚染の推移です。
3月と4月。
汚染された魚はビキニ環礁に近い所で取れたものでした。
それが5月以降には小笠原諸島やその周辺に現れ日本近海に広がっていきます。
そしてマグロ漁が本格化する12月になると汚染の数と広がりが最大となります。
黒潮の流れに乗って汚染が拡大するという予想も大体してたけどそのとおりこういうふうに汚染が拡大していく事が分かったというのはね。
ああそういう事なのかなって海洋汚染というのは海洋全体が汚染されていくってねそういうのが分かっていく事で。
深刻な汚染マグロの問題が続く中東京で日米の科学者たちが会議を開きました。
目的は放射線についての情報を交換する事です。
日本側は三宅泰雄さんをはじめとする俊鶻丸顧問団のメンバーが中心です。
そしてアメリカ側は核兵器の開発を担う原子力委員会の科学者たちが出席しました。
会議ではウィリス・ボス博士が核兵器関連施設の排水が流れ込むアメリカのホワイト・オーク・レイクという湖の放射能汚染の実例について報告しました。
この後に発表したのが三宅泰雄さんです。
三宅さんは俊鶻丸の調査結果をアメリカ側に示しました。
一方アメリカ側からは放射性物質の人体への影響をどのように考えているのか説明がありました。
そこで示されたのは「最大許容量」という概念です。
最大許容量とは核兵器関連施設の労働者や周辺の住民に対してどこまでの被ばくなら許容できるかの限度量を定めたものです。
その値はアメリカの科学者団体が定めています。
空気や水の中に含まれる放射性物質についてどれだけの量までならリスクを無視できるか物質の種類ごとにその値が決められています。
安全性はこの値に基づいて議論すべきだというのがアメリカの立場でした。
この会議の1か月後日本の厚生省は突如港でのマグロの放射能汚染の検査を中止するという通達を出します。
その根拠として挙げられたのが日米会議で議論された最大許容量という考え方でした。
マグロを解体し筋肉の汚染を改めて分析したところ最大許容量を超えないのでリスクを気にしなくてよいという判断です。
マグロの汚染が続いている中でなぜ検査をやめるのか。
日本の科学者27人が公開質問状を厚生省に出しました。
最大許容量は職業的に放射線を受ける人たちを対象に作られたものであり一般市民にははるかに厳しい安全基準を考えるべきだ。
更に人体に対してどこまでの被ばくなら絶対に安全だという限界はいまだ明らかになっていないと主張しました。
物理学者の武谷三男さんは核実験による被ばくには何のメリットもない以上許容量ではなく「がまん量」と呼ぶべきだと主張しています。
突然中止されたマグロの検査。
検査をやめた事によって何が失われたのか今こそ問い直すべきだと考える人がいます。
当時国立の水産研究所でマグロの生態について研究し俊鶻丸の調査にも注目していた…やめるべきでなかったと思います。
だってそれ以後の状態が全く分からなくなっちゃうわけですね。
今の状態を考えてみると分かるけども宮城福島それから茨城沖で取った魚をずっと調べてますよね。
そうするとどのように放射能が減っていくかって事も分かるし汚染された魚の分布範囲がどのように変わるかも分かるし。
そういう基礎データが何もなくなるわけですね。
測定しないと。
マグロの検査中止から4日後。
日本政府とアメリカ政府は覚書を交わし第五福竜丸の被ばくに始まる被害と汚染の問題について決着を図ります。
支払われるのは被害に対する賠償金ではなく「見舞金」でした。
日米間の政治決着そこに至るアメリカの思惑を外交文書から読み解こうとしている歴史学者がいます。
アメリカの大学で研究を続ける…樋口さんが注目するのは第五福竜丸が被ばくして間もなく東京のアメリカ大使館が本国に宛てて送った文書です。
「直接的な被ばくではなく漁業関係者への間接的な被害の方が重要だ。
これが拡大すれば見舞金では済まなくなるだろう」。
ビキニ事件というのはまさに水爆競争の渦中にあったわけです。
その中でアメリカが海洋汚染のために過大な法的責任を負って損害賠償責任を負うという事は水爆競争に後れを取る事になるわけですね。
核実験が困難になるという事を恐れたんです。
米ソ冷戦のさなか核実験による海洋汚染の実態を初めて明らかにした俊鶻丸。
その貴重なデータは調査の翌年報告書にまとめられました。
これをどのように生かすのかは後世に託されたのです。
ビキニの実験の後核開発競争は更に激化。
核実験が繰り返されます。
その影響は世界各地で顕在化してきました。
アメリカでは核実験により放出されたストロンチウムが小麦やミルクなどの食品を汚染しました。
世界各地で核実験の停止を求める運動が広がっていきます。
こうした中で1957年科学者たちも立ち上がりました。
全ての核兵器の廃絶を目指しカナダのパグウォッシュで一堂に会したのです。
会議で科学者たちが発表した声明です。
気象研究所の三宅泰雄さんは俊鶻丸の調査の後も核実験への警告を発し続けていました。
海外の研究者とも協力しながら海の放射能汚染の調査を続けていたのです。
ビキニ実験の後も太平洋全体に汚染が広がっている事を論文で示し世界に発信していました。
科学的なデータの蓄積と国際世論の高まりを受けアメリカイギリスソビエトの三か国は部分的核実験禁止条約を締結。
大気圏宇宙空間そして水中での核実験が禁止されました。
1966年日本で初めての商業用原発…その翌年将来の日本のエネルギーの基軸を原子力と定め原発の建設や核燃料サイクルの推進を国策とする長期計画が策定されました。
これにより全国各地で原子力発電所の建設が進みます。
この急速な展開に危機感を抱いたのが三宅泰雄さんでした。
三宅さんを中心に日本学術会議の科学者たちは政府にある勧告文を提出します。
放射性物質の環境への影響を研究する専門機関環境放射能研究所を作る事を求めたのです。
それは原子力発電所で大事故が起き大量の放射性物質が出た時にも対処できる事を目指したものでした。
物理学化学生物学医学など専門分野を超えた科学者が集まり総合的に環境の放射能汚染を研究しようという構想です。
この構想作りに加わった…阿部さんはこの施設を共同研究の拠点として多くの研究者が利用できるようにしたいと考えました。
ところが国はこの時勧告を受けた研究所の設立に動く事はありませんでした。
日本学術会議のメンバーとして原子力政策の在り方について国と議論をしていた…核兵器と違って爆発などは起きない。
事故などは起きない。
むしろ漏れないようにやるんだというそれが基本でしたね。
放射能は出ないようにやるんだ。
学術会議は放射能の研究がとても大事だって事を研究所設立以外にも繰り返し繰り返し発言してるんですよ。
だけどそれは取り上げられるに至らなかったんだな。
残念ながら。
1970年代に入ると全国各地で原発建設は加速します。
国は原発周辺の海で海水や海底の泥魚を定期的にモニタリングするよう定めました。
原発周辺の海で漁をする漁業者の不安に応えるためです。
更に1975年には海の生物への影響を調べる研究所も設置します。
しかし大事故の際に科学者たちが連携する体制は整えられませんでした。
「俊鶻丸の経験を生かしたい」。
その願いが叶わないまま三宅泰雄さんは1990年にこの世を去りました。
2011年3月。
東日本大震災でメルトダウンを起こした福島第一原発。
海に流れ出した汚染水の影響を当初国は軽視していました。
(会見コメント)海水中に放出された放射性物質は潮流に流されて拡散していきますので実際に魚とか海草などの海洋生物に取り込まれるまでには相当程度薄まると考えられます。
ところが4月に入り茨城や福島で取れた小魚のコウナゴから暫定基準値を超える放射性物質が検出され水産物の汚染が問題化します。
こうした事態を受けて国は福島の原発周辺海域でモニタリングの場所と回数を増やし沖合での調査も始めました。
しかし水産物への影響を総合的に調査する体制は組まれませんでした。
海の汚染の実態が分からない中福島や茨城の漁師たちは漁を自粛せざるを得なくなりました。
漁師の不安に応えるため水産物の調査を始めたのが福島県水産試験場でした。
放射能を測定するための自前の設備や人材がないため集めた魚や水のサンプルを外部の分析機関に送りデータを集めました。
漁師さんたちは当然なんですけども調べてくれっていう要望がすごくあったんですよ。
魚を取るその海が今どうなってるのかというのをやはり知らないと不安ですよね。
原発事故の後海はどうなっているのか。
国の対策が後手に回る中2011年5月海洋研究の専門家たちからなる日本海洋学会は国に提言書を出しました。
指摘したのは観測体制が不十分である事。
大学や研究機関が持っている調査船を協調して投入し連携して観測する体制を構築すべきだと訴えました。
提言書の作成に加わった一人石丸隆さんです。
海洋生物学を研究している石丸さんは国が海洋調査全体の司令塔役を担ってくれる事を期待していました。
海の場合は例えば海水は文科省がモニタリングするとか原発の周りは東電がいろいろ調べたりしてましたし魚は水産庁の方で扱ってましたし。
測定するサンプルを採る場所は必ずしも一貫してなかったわけですね。
どこが要請してどういうふうに進めるかというのがきちんとできていればもっと初めからいろんな情報が取れたと思うんですね。
それがちょっとなかったんじゃないかと感じてます。
事故の4か月後石丸さんは大学の調査船を出しボランティアで調査を始めました。
福島の水産試験場と連携し漁師の協力も得ながら汚染実態の解明を目指しました。
ビキニの水爆実験の後俊鶻丸に乗り込んだ岡野眞治さん。
岡野さんも原発事故の後再び海の調査に乗り出しました。
俊鶻丸の調査から59年。
かつて三宅泰雄さんがいた…ここで海の汚染を研究し続けている青山道夫さんです。
青山さんは今回の原発事故の前に太平洋全体の放射性物質の動きに関する重要な事実を発見していました。
青山さんは他の研究機関の助けを借りながら6年をかけて太平洋全域から海水のサンプルを収集。
ビキニなど半世紀以上前に行われた核実験による汚染のその後を追跡したのです。
青山さんはまず太平洋の6つのコースに沿ってサンプルを集め半世紀余り前の放射性セシウムの行方を調べました。
深さを変えながらその濃度を測定しました。
その結果深さ500メートル付近に赤で示した濃度の高い部分がありました。
1リットル当たり2.5ミリベクレルと汚染レベルは低いものの海の表面より濃度が高い部分が見つかったのです。
更に分析を進めるとその部分はドーナツ状につながっている事が分かりました。
これはもともと知られていた太平洋上の大きな海水の循環と一致します。
1周にかかる時間はおよそ30年。
場所によって深さを変えて流れています。
日本の沖合では表面近くを流れその後水深600メートルまで沈み込んでいます。
さすがにそれは驚きでした。
世界中の人は表面が高くて深くなればどんどん濃度は下がっていくんだとみんな思っていたわけですからそれは違うという事。
福島第一原発の事故が起きると青山さんは再び調査・分析を開始しました。
さまざまな海域に向かう船に海水のサンプルの収集を依頼したのです。
原発から新たに放出されたセシウムの動きを調べるためでした。
日本の沖合2,100キロ。
太平洋の南北を横切るラインのデータです。
するとやはり深さ300メートル付近に周囲より濃度の高い所がありました。
表面だけを見ていては駄目でちゃんと海洋内部にどこにどのように分布してるかという事を知っておかないとこれからどうなるかという事が分からない。
がれきはどんどん風に吹かれて東へ行くんですけどアメリカまで行っちゃうんですがセシウム137のように水に溶けて存在しているものは潜ってしまって風の影響を受けなくなっているという事はちゃんと見ておく必要があります。
気象研究所ではかつて10人が放射能汚染の研究をしていました。
今は青山さんを入れて2人。
青山さんは来年の3月に定年退職となります。
この研究がどう引き継がれるのかまだ決まっていません。
事故があって海洋に出た放射性物質がどうなるかという事をちゃんと記録を残す記述する事は将来にわたっても大事なので。
今を知る事は明日を知る事だから。
今から59年前ビキニ水爆実験による放射能汚染に果敢に立ち向かった俊鶻丸。
かつて練習船として所属していた水産大学校のキャンパスに今その錨だけが残されています。
三宅泰雄さんと顧問団そして22人の若き科学者たち。
今その業績を思い起こす人は少なくなっています。
2014/02/08(土) 00:45〜01:45
NHKEテレ1大阪
ETV特集 アンコール「海の放射能に立ち向かった日本人〜ビキニ事件と俊鶻丸」[字][再]

今から60年前、ビキニ水爆実験の放射能汚染を調査するため、日本の若き科学者たちが太平洋に乗り出した。世界で初めて海の放射能汚染の実態を解明した科学者たちの物語。

詳細情報
番組内容
60年前、米国による太平洋ビキニ環礁の水爆実験で、日本のマグロ漁船が被ばくした。このとき日本は、海の放射能汚染を調査するため、独自に調査船を派遣。新進気鋭の科学者22人を太平洋へと送り出した。船の名は俊鶻丸(しゅんこつまる)。世界に先駆け、海水や魚の汚染実態を解明した。科学者たちを突き動かしたものは? そこから何を学ぶことができるのか? 福島第一原発の汚染水問題に直面する今、改めて当時を振り返る。
出演者
【出演】元・理化学研究所…岡野眞治,【語り】濱中博久

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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