ETV特集「94歳の荒凡夫〜俳人・金子兜太の気骨〜」 2014.02.22

金子兜太さん94歳。
兜に太いと書いて「とうた」。
本名です。
高校時代に処女作が認められ現代俳句の旗手として注目されています。
季語や五七五の定型にとらわれない自由な俳句。
花鳥諷詠ではなく生々しい人間を詠んできました。
今生き物の根源命の尊さを実感しています。
ほんとに人間を深く見社会を深く見る連中は命という事にぶつかってます。
これは間違いないですね。
やっぱり最後は命…。
まあ私もこの年になってきてやっとこう存在って事を見詰めてくうちに命って事を見るようになってそれは決して死なないという考え方を持ってますね。
今出来ましたよ。
「衰えしわが男根の朝湯かな」。
「衰えしわが男根…男根の朝湯かな」。
アッハッハ!どうですか。
関東平野の奥深く山懐に抱かれる秩父盆地。
金子兜太さんのふるさとは山国です。
9月23日。
94歳になった誕生日を祝い埼玉県皆野町で俳句の会が開かれました。
集まった俳句愛好家たちは秩父の自然に分け入り吟行します。
お気に入りの一句を生み出す瞬間に心が躍ります。
ちょっと渋があるんじゃない。
分かんない。
ああきれいな色になってる。
ねえ。
おいしそうだけど柿。
ほらクモ。
クモクモ。
何ていうんだろう。
東京に勤めていた兜太さんがふるさとに帰省し少年時代を思い出してため息のように詠んだ句です。
兜太さんは生まれ育った山や川そしてそこで暮らす人たちをこよなく愛しています。
これでやっと3個出来た。
(聞き手)できたかな?あと一個。
あと一個。
(聞き手)ちょっと見せてくれるかな?「月の夜光輝く星空かな」。
「晴れた日に見上げた空は鰯雲」。
「栗拾い大きい小さい家族かな」。
おばあちゃん家に栗があるから栗拾いした事があるからそうかなと思いました。
いいのがありましたよ長生きっていうのは天才だって。
「てんさい」違いのとこじゃないか?こっちの「災」だよ。
災害だよ。
そう役に立たないからね。
参加者はその日に詠んだ句を応募します。
それを3人の選者たちが選び人々の前で発表していきます。
「大きい小さい…」いいよね。
うまいや。
(拍手)金子兜太さんの誕生日を祝う句会が始まります。
全員の注目が兜太さんの一挙一動に集まります。
そこでおもむろに…。
いやぁ実はですね私のこの9月23日生まれというのはどうもねフィクションほんとじゃないと私は思ってるんです自分では。
おやじから電報が来た。
そして「名前はトウタとしてくれ」とこうなってた。
片仮名になってたんですね。
花の「藤」ですねそれと太いの「太」「藤太」だとこういうふうに戸籍の届けをしちゃったんですな。
そうしたところがおやじの所から手紙が今度は来ましてねそれを見たら「兜」なんですね。
それでおじきが慌てて町役場へ行って「実はあれは間違ってたんで直してくれ」と言ったらとんでもねぇとこれはもう重大問題だと。
生まれた時に付けた名前がですね途中で変わるって事はもう大変な事なんだぞっつってね脅かされましてねそれから結局1か月ぐらいかかったようですね。
何だか非常に私の生涯というのを考えますとね狐につままれたような生涯だと。
だから94になりましたけども何か94になったという感じがしないですね。
全然しません。
ほんとに不思議に。
じゃあ「おめえの年はどのくらいだと自分じゃ実感してるんだ?」と言われると大体70ぐらいじゃないかと。
こういう妙な生き物がいるんだという事を皆さん観察して頂くと案外自分の人生にも役に立つんじゃございませんでしょうかね。
それが前座なんでございますがどうも失礼しました。
(拍手)金子兜太さんは月に1回東京・信濃町の病院へ通います。
皮膚病の治療中にがんが見つかり手術を受けました。
執刀した田辺医師は90歳を超え何が起きるか分からないと説明しましたが兜太さんは「悪いものは取る」と迷わず決断しました。
お世話になります。
(天谷)お久しぶりです。
いかがですか?おかげでね調子がいいように思います。
血糖値も全然大丈夫です。
大丈夫ですか。
もう肝機能全く問題ないですね。
一番最近の値で全く問題ありません。
何だか治まったと自分で思えてるんですけどね。
あともともとの類天疱瘡の値も陰性のままですので問題ないです。
それで今日骨密度を測って頂きましたよね。
その結果が今出てるんですけどもあの〜骨がですね20代よりも若いんですよ。
え〜気持ち悪いな。
あそうですか。
ほんとなんです。
いやいやそれは気持ち悪いな。
まあ非常に失礼な言い方だけどいい先生にお目にかかれたんで俺もまだ大丈夫だってそういう気持ちっていうのあるんですよ。
何か自分でも自信があるんですけどね今の骨の話を伺うと余計そんな感じがした。
そうですねこの骨はやはり何かの…。
ちょっと化け物…化け物という感じ。
金子兜太さんのがんは肝臓から十二指腸への胆管の腫瘍でした。
デリケートな場所ですから簡単な手術ではありません。
天谷医師が恐れていた膵液が漏れるという合併症が術後に起き痛みを伴いました。
膵液自身はもともと消化酵素ですからいろんな物を溶かしてしまうので本来ある場所でないところに行くと周りの臓器を溶かしてしまうのでそれが痛みを発しますし炎症にもなりますしそういう状況に一時なってたんですね。
ほんとに合併症が起こって苦しんでらっしゃる時にそういう時でさえも自分が手術を選んだ事を感謝して後悔とかそういうものは一切お見せにならなかったし多分金子さんはほんとにそういう意味で潔さというか男らしさというかそういうふうなものをすごく感じました。
手術後の回復も順調に進み92歳の誕生日を病室で祝いました。
看護師さんも集まって金子さんと一緒にケーキをお祝いするのを楽しみにしてましたしやっぱりどんな形でも金子さんと時間を共有できる事を心のどこかでわくわくしてたようなところがあるんじゃないでしょうか。
8月14日。
ふるさとの人々が誇る「秩父音頭」の一日です。

(「秩父音頭」)金子兜太さんは自分は俳句と結ばれる運命の下に生まれたと感じています。
よく自分は子供の頃から「秩父音頭」という七七五を聞かされて育ったとかそういうものがしみちゃってるんで俳句っちゅうのがおのずからできちゃうんだという言い方を私は随分してますけどねそういうもんで自分の体が俳句人間に仕立てられちゃったとそういうふうに説明するんですけどね。
・「押せ押せ押せな」・「押してもいいから突っつくなットコラショ」兜太さんの9歳年下の弟金子千侍さん。
正調の「秩父音頭」を伝える中心人物です。
本業は医師。
父の病院を引き継ぎました。
開業医だった父は青年時代から俳句を詠み俳号は伊昔紅。
地元で俳句の雑誌を出すほどでした。
水原秋桜子をはじめ全国の俳人たちとも交流していました。
調度品もそのまま残るこの座敷で父は秩父の男たちを集めて句会を開いていました。
その場の生々しい熱気が幼い兜太さんの記憶に植え付けられました。
父を慕って集まってくる連中が20代30代のやっぱり俳句をやるぐらいですからなかなかの頭のいい青年たちですね。
その男たちがかなり東秩父の方から山越えでやって来るんですね。
それでここで集まりましてこの部屋です。
お酒が入ると軽くなるもんですから「俺の句をおめぇあんなふうに言ったけどあれは違うぞ」というような事になる。
それをこの陰の所で母と兜太が見ておったんだそうですね。
そうすると母が「またけんかが始まって嫌な事だな。
でもお父さんが好きで皆がああやって喜んで俳句に集まるんだからもうよせとも言えないし」と。
ただ「兜太お前俳句はねあのようにけんかばっかりしてるからあんなものやったら駄目だよ」と。
兜太さんの少年時代は昭和恐慌の時代です。
秩父の山里の主な産業生糸の相場が安定せず人々は食べるのに精いっぱいでした。
治療費が払えない患者も多かった時代です。
その父の楽しみは家で開く句会と「秩父音頭」でした。
音頭の歌詞を作り生糸を紡ぐ糸車の所作などを工夫しました。
右左でこうなります。
これが大きな鳥が空を飛ぶ様の形になります。
これは秩父人の山の中に育ってる人たちの願望だっていうふうに言ってますね。
空を睥睨したいっていう。
・「娘十九のアレサ厄落とし」・「すまないすまないすまないね」・「すまなきゃ女房にしておくれットコラショ」・「ハァーエ一目千本万本咲いて一目千本万本咲いて」兜太さんは1919年に金子家の長男として誕生。
祖父や祖母に囲まれた大家族の中で育ちました。
優等生ですがわんぱくでした。
母は17歳で兜太を出産しました。
兜太さんは若く健康な母から生まれた事を感謝しています。
中学から高校への多感な時期日本は満州事変二・二六事件日中戦争と戦争への歩みを進めていました。
1941年東京大学経済学部に入学。
その年に太平洋戦争勃発。
大学3年で繰り上げ卒業し日銀に入行しますが僅か3日で退職。
海軍に入り主計中尉としてトラック島勤務を命じられます。
25歳でした。
島に着任する直前にトラック島はアメリカ機動部隊による空襲で兵力の大半が失われていました。
連合艦隊の主力艦は情報を察知し島を捨てパラオに基地を移動。
残されたのは商船や巡洋艦などと航空機。
撃沈された艦船は40隻近くになりました。
この空襲からおよそ半月後に金子兜太さんは後方支援を絶たれたトラック島に着任します。
滑走路には真っ黒に焼け焦げた零戦の残骸が続きさんご礁の浅い海底には何隻もの艦船が沈んでいました。
島の惨状に驚きながらも俺の力で立て直したいという闘争心も湧いたといいます。
兜太さんはまず矢野中佐に着任の挨拶をします。
部隊長はペンネームを「西村皎三」という著名な詩人でした。
軍国主義の時代に本音を語れる個人との出会いは鮮烈でした。
来てくれてご苦労さんという。
で要塞構築再構築してまた攻め直すんだという考えでやってるんで君もその力になってくれという事で送り込まれたんだろうと。
だから頑張ってくれよと言ってしばらくしてからフフフンと鼻で笑ってね。
まあ金子君君なら分かるだろうけどねそういう事なんだよ。
まあそれよりもどうせサイパン島もやられるだろうしそのあとでこの島は孤立する。
完全に孤立させられる。
食糧事情もひっ迫するだろう。
全部補給路断たれるからね。
そうなった時に島が暗くなる気分が。
君は何か俳句を作るっていうからねまあ俳句会でもやってみんなを慰めてやってくれ。
士気高揚のために俳句を活用してくれハハハハッて笑ったのを覚えてるんです。
もう彼は完全に事態を見抜いてるわけだ。
もう駄目だって事を。
そこへだからこういう若い士官が送り込まれてきたっていうのを気の毒だぐらいに思ってるんですよ。
そうやってワハハハッて彼が笑ったのを覚えてます。
「強力な殺戮兵器である魚雷のてかてかした鉄の肌の上を蜥蜴が来て這い廻りサッと消えた。
あの生々しさ不気味さはこの句以外では伝えられないと思っている」。
矢野中佐の言葉どおり連合艦隊から見捨てられた島での主要な仕事は兵器や食糧の自給自足でした。
材料を寄せ集めて手榴弾を作る実験に立ち会います。
今でも名前覚えてますがタナベっていうんですがね体のがっちりした男で。
その男に「じゃあお前やってみろ」と言って。
それで彼が…。
私は何も知らないわけだから後ろから戦車壕の上にあぐらかいてこう見てた。
で海岸べりでその海岸のふちに鉄の何だか塊みたいなもんがあったんだよ。
そいつがあってそれをぶつけてやるんだって事でそれでそのそばへ行って。
それだけじゃ危ないから落下傘部隊がおりましてね落下傘部隊の少尉っていう年配の人がいて少尉の人がいてその人を借り受けてきてその人に指導してもらった。
それで一緒に兵隊さんがついてきて周りを警備してくれた。
それで始めた。
それでパンッとやった途端にバーンて爆発しちゃった。
失敗してるわけですね。
そうしてこうやって今でもまざまざと覚えてますけども右の腕がすっ飛んだんだね。
そしてデーンとちょっと上がってデーンと落ちたんですけどね。
背中に白い穴がカーッと空いてて血がまだ出ないで肉がえぐられたんですね。
破片で肉がえぐられてね血がまだ出ない状態。
私は運河と白い運河っていうんだけどねえぐられちゃったの。
それで即死してる。
そこひょいと気付いたら落下傘部隊の少尉もいねえんですよ。
で海の中にね落ちてねこうやってハアッハアッて立ち上がろうとしてる。
見たら…後から見て分かったんですけど心臓に破片が入ってる。
即死しましたねこれもね。
そうしたらやっぱり人間ってのはいいなあと私は思ったんだけど後から思ったんだけどねこの戦車壕の上に私はいて後ろにこう首だけ突き出して見てた連中がねワーッとねその死んだ男のとこに集まってきてね死んでるかどうか確かめもせんでねそのうちの一番背の高いがっちりした男がねそれを背負っちゃったんです。
皆それを当然のごとくにそのままの状態でね走れっちゅうんでねワッショイワッショイワッショイワッショイって。
第4…みんな「4」がつきますから海軍病院があります。
ちっちゃなもんですけどねそこまで走ってったの。
私もねほんとにね訳が分からなくなって後を走ってったの一緒に。
もちろん病院に着いたら即死ですからね血がバーッと出てきただけですけど。
それでもねそこまで担いで行ったんですよ。
あの時のみんなのワッショイワッショイワッショイって声が今でも私の耳の中に残ってますけども何でねもう死んじまった男を担ぎ上げてね一人の男が背負ってみんな周りを囲んでねワッショイワッショイワッショイワッショイって言ったの分からんですね。
人間というのは面白いですね。
そのいたわり合う…いざとなった時に死人を担いでワッショイワッショイと走っていくというあのいたわり合ってる温かい風景というのがね何かひどく斬新に思えてたんじゃないですかね。
そんな事体験した事ないですからね私は。
人間っていいもんだなと思った。
だけどその「いいもんだな」がね目の前でどんどん殺されていくという状態がねこれは許し難い事だとこう思った。
でそんな事を認めていって何が戦争に勝つかだ勝ったら何の利益だとこういう思いになりましたな。
そうです。
だから原点はそこから来る人間っていいもんだなっていう事が私の戦争拒否への原点だと見ていいでしょうね。
こんないい人間が殺し合いをするっていうそんな事があっていいのかっていう非常にヒューマンな気持ちだった。
理屈でも何でもないですね。
ちょうどあの最後の引き揚げ船で帰ってくる時の水脈の果てに夏島っていう島がありましてそこへ墓碑を我々で作ってたくさんの人が死んだ。
俺は妙に不思議に生き残ったっていうようなそういう思い多少慚愧の思いみたいなものがあってそれでそれをかみしめてずっと行ってその時にヒュッと出来たんですね。
で何とか帰ったらこの人たちのためになる事というか尽くせる事をやりたいなというふうに。
まあ若いですからね。
まだ26でしたからな。
そう6ですね若いもんですから必死にそう思っておったという事でしょうかねええ。
信州湯田中温泉。
金子兜太さんは夏のひとときをこの温泉で過ごします。
大好きな江戸の俳人小林一茶もこの湯で体を癒やしました。
兜太さんは一茶が日記に記した「荒凡夫」という言葉に惹きつけられました。
そこに自分の目指す生き方を重ね合わせています。
何ものにもとらわれず欲望のまま生きる平凡な男荒凡夫。
(聞き手)雷が鳴ってますね。
ええこれは珍しいですよ。
俺はあまり聞いた事なかった。
(雷鳴と雨音)関東平野の私のいる熊谷なんかだとガラガラーッと来てねガーッといなくなるっていう何だか歩き方が違うんですね雷様方の。
(聞き手)確かにね。
山の間をうろついてるって感じがしますな。
一茶が60の時あの人は毎日毎日日記を書いてる。
短い日記書いてる人ですがそれの正月の文にですね「自分はこれから荒凡夫で生きたい」という事を書いてるんですね。
まあそこから私はめっけた言葉なんですけども。
その煩悩に従って俺は生きた男で全く値打ちのねえやつだなと。
だからもうこんな男はこのまま死んじまえばいいんだからしばらく生きるだけ生かして下さい。
それで荒凡夫で生かしてくれとそういって書いてんですね。
そういう人間が自由なんでね。
「自由だ自由だ」って言ってる野郎にそらっぺが多いんだそらっぺが。
自分はきれいな人間だみたいなツラしてるやつでね自由だなんていうのはこれはうそに決まってんだよ。
俺はもう最近はそう思ってんです。
その割り切った彼の心情というのがね何か妙に私にはぴったり合いましてね。
歯ブラシ使った事がなかったんです。
戦場…戦争じゃもちろん使ってないですね。
そんな時間ないっていう気持ちですね。
帰ってきてからもそれが習慣になっちゃいましてねず〜っと歯ブラシ使ってなかったんです。
そしたらね歯茎がそれで腐っちゃったのね。
60の時に忘れもしません。
秋田へ行った時ね柿を持ってきてくれたんで喜んでガブッとかみついたらね歯が抜けちゃったの。
それで慌てて帰ってきて親戚の歯医者行ってそしたらこれはもうね歯槽膿漏で抜かなきゃ駄目だって全部抜いちゃった。
(聞き手)全部?それ以来入れ歯です。
これ総入れ歯です。
特に上ですね。
(聞き手)精神的に落ち込んだりしなかったんですか?あ〜それは私ないんですねそういう事が。
肉体的にないですね。
こんなのがんと言われて手術してもそれほど落ち込むって事はないんですね。
考えてみれば私が何かで落ち込むっていう考えは…手榴弾実験で吹っ飛ばされて死んだ男の時ぐらいかなあ…。
非業の死者にどう報いるか。
金子兜太の戦後はそこから始まりました。
(ホームアナウンス)「476号東京行きが10両編成で参ります」。
新しく生まれ変わった兜太さんは日銀に復職しますが職場の実態に失望します。
人事も賃金も不平等。
戦前と何が違うのか?そのいらだちを俳句にぶつけます。
戦後のインフレがどんどん進む中での生活の困窮というような事に対してつまり生活給という考え方がほとんどないわけです。
そういう状態を見て何となく不満でこれは何とかしなきゃいかんなというような気持ちがあったんだけどやっぱり自分一人の事だからね何をできるはずがないなと思ってシュッシュッシュッシュッと動いてる。
それも大したスピードも出ないで動いてる。
そういう何かモタモタモタモタして気負ってる自分というのはね今思うといとおしいです。
ハハハッ。
日銀に入り同郷の塩谷皆子さんと結婚します。
その後職場への不満から組合活動に熱中するようになります。
「この減点主義の職場でそんな事をしたら将来を棒に振る事になるぞと忠告されたのですが本気で立身出世主義を乗り越えて生活給を確保し学閥人事の廃止を目指しました。
私はそれを日銀の近代化と言っていました」。
組合の事務局長を務めますがレッドパージにより労働運動が弾圧されます。
1950年組合を離れた金子兜太さんは福島支店への転勤を命じられます。
本格的に俳句に専念する時代がこの福島から始まります。
戦後を生きる生々しい人間の真実を17文字で伝えると決意するのです。
それは花鳥諷詠と呼ばれる伝統的な俳句とは一線を画すものでした。
「福島支店から神戸への転勤が決まり安達太良山に登って送別会をやってもらった。
勤め先への期待感は既になかったが俳句といわず何かがある。
何かがやれる。
軽い酔いとともに一人で山を下りてきた」。
福島神戸長崎。
家族3人の地方生活は10年に及びます。
当時の神戸は既成俳句を批判しもっと現実と取り組む俳句を求める「俳句前衛」と呼ばれる人々が集まっていました。
金子兜太は俳句によってこの世の在り方自分の在り方を問いかけようとしました。
「被爆から13年たっていたが爆心地はいまだ黒焦げの感じで痛ましかった。
私の中で映像が動きだす。
マラソンの一団が走ってきたのだが爆心地に入った途端たちまち体がゆがみ焼けただれて崩れてしまった。
そういう映像」。
立身出世とは無縁のサラリーマン生活を送りながら金子兜太の俳句は一つの頂点を迎えました。
詩というものの本当を目指してた。
そして詩の一番短い形式が俳句ですからねええ。
これは世界中探してもないわけだから。
これ一番短い形式の詩でね人間と社会というものと取り組んでねどれくらい十分な事が書けるかというのが私のひそかな念願というかねらいだったわけですね。
お〜今日は野鳥が多いや。
日銀を定年退職。
年齢を重ねるとともに金子兜太の目は人間に対する見方命の捉え方を大きく変えていきます。
人間も社会も自然の一部命ある生き物であるという感覚です。
一輪。
記念すべき一輪。
8年前に世を去った妻皆子さんの勧めでふるさとに近い熊谷に家を建てました。
土の上での暮らしが兜太さんの俳句世界を広げました。
これが春先咲く…。
「戸を開けると白梅。
気付くと庭は海底のような青い空気に包まれていた。
春が来たな命満つと思った時海の生き物で一番好きな鮫が庭のあちこちで泳いでいたのである」。
これですね。
これがカリンです。
(聞き手)これも思いがあるんですよね?これは思いがあります。
私がカリンという木が好きなんです。
「木肌」っていいますよね。
あの木肌っていう感じが分かりますね。
それで私なんかね個人的にはこの辺が木肌なんですね。
この辺になってくると「幹肌」って私は言うんですけどね。
ちょっと感じが違うんだ。
こっちはごつい。
こっちがいかにも木肌って感じで幼げなとこがありますね。
五七五のこの理屈なしの音数律で出来上がってる世界というのはこれはもうねアニミズムの世界です。
私は小学生の頃ね漆ってやつにかぶれやすかったんです。
それであのころは戦争ごっこというのがはやってましてねもうすぐ戦争ごっこして。
戦争ごっこすると林の中飛び回ったりなんかしますから漆がたくさんあってその汁がたかってね「かせる」と私たちは言ったんですがかぶれるんですね。
あれはひどいんですよ。
手からね男の子だと男根にうつるわけ。
小便するから。
するとね男根がねラッパみたいに膨れちゃうんですよ。
それで私の叔母がね面白いのがいてね「兜太すぐちょっと来い」って引っ張ってかれてね漆の木の前に行ってね「お前この漆と結婚しろ」って言うんです。
それで両方へこう私も酒をなめてね彼女漆の木にもかけてね「一緒になったよ。
一緒になったよ」って。
「さあもう一緒になったんだからお前ね漆の木にはかせないよ」って俺に言って。
そしたらほんとにあのあとねそれからあんまりかせなくなっちゃった。
あの事はね私にとってはね最初の神との出会いですかな。
「ああこういう命の働きがあるんだ」と…今で言うアニミズムってやつですかあるんだっていう事をね感じた初めですね。
この25年間週に一度自宅のある熊谷から東京へ通い朝日俳壇の選者を続けています。
今の俺の状態じゃあこれ1週間の区切りなんですよ。
金曜の朝日新聞に行くという事が。
まあこれができなくなったらおしまいって事でしょうかね。
朝日俳壇で長く俳句を見てきた金子兜太さん。
俳句に投影される時代を強く感じてきました。
3年前から気付いた事があります。
東日本大震災後に生と死を詠んだ作品が多く寄せられるようになった事です。
2011年3月11日金曜日。
兜太さんはこの会議室で地鳴りのような地震を経験しました。
兜太さんが震災後に公募された俳句から選んだ作品。
私はあの時期というのは非常に大きな時期だったと私の頭の中にはあるんですけどねそれまではだからあんまり大した変化はなくてそれで相変わらず短歌の側からの意見として俳句というのは時事に対する反応が鈍いと。
非常にゆっくりかかってやっとジワジワジワジワ俳句に出てくると。
短歌は早いという事をよく言われてましたけどね。
それから結構大胆に批判を句にしてるというそういうのを私の見る目では増えてる感じがあります。
問題が問題ですからね。
原発がありますから。
朝日俳壇をきっかけに全国の俳人との出会いも広がりました。
お久しぶりです。
お久しぶりです。
遠いところを寒いところをありがとうございます。
いやいや楽しみにして来ました。
県立福島西高等学校の国語教師中村晋さんもその一人です。
中村さんは金子さんが主宰する俳句同人誌「海程」のメンバーです。
何年生ですか?2年生です。
結構いるんだ。
40人ですね。
すいません。
あの…サインお願いします。
ああええ。
お茶飲んでる時に何かすごい…。
こういうのを「お茶を濁す」っていうんだよ。
ああそういう事か。
アッハッハッハッハッ!この辺に書いとくか。
(聞き手)中村先生ってどういう先生?
(笑い声)いい質問であると。
(聞き手)ほんとの事言って下さい。
すごく面白い先生で先生に会ってなかったら俳句作っていないです絶対。
あまり俳句は中村先生に会うまで作った事はなかったので。
…という句が書けました。
(聞き手)どうです?金子先生。
大人の句ですな。
あなたの俳句…。
ああ見た見た見た。
何か事あるごとに「放射能あるんじゃないの?」という会話がたまになりますね。
食べ物にしてもね。
(聞き手)何?食べ物にしても…。
さっき柿の話とかになったよね。
あんぽ柿が食べれないっていう。
妹大好きなんですけどここ2年くらい食べられなくて今年から久しぶりに作ったんですけどいつ食べれるのかなって話しながら「放射能大丈夫かなあ」「大丈夫だよね」って会話してます。
いやこれ「春の牛」がいいんだよ。
これで悲しみがあるね。
悲しみがね。
だから「秋の牛」とか「冬の牛」なんかじゃあそれほどじゃないんだなあ。
この句俺最初にあなたが発表したのを見てねちょっとこの句感心してるんですよ。
記憶してるんです。
それからなかなか春っていうこの季節感と悲しみの感じが使えないなあ普通の俳人だと。
まあそれとあなたの中に切実なもんがあるからでしょうね。
今回の事故がね。
震災があってからしばらく俳句出来なかったんですね。
もう何か出てこなかったですね。
2か月ぐらいほとんどなかなか出てこなくて「もう俳句無理かなあ」なんて正直思ってた事もあったんですけどもこの句が出てきて…ポッとこう…何かポッと出てきて。
まあでも金子先生には…夢にも先生よく出ていらっしゃったんですけど「こんなの俳句じゃねえんだ」と夢の中で先生怒ってるんで「やばいなあ」なんて思いながらいたんですけどでもこれは自分の中から間違いなく出てきたんでこれは出すしかないと。
でもそう思ったら何とか俳句が少しずつ戻ってきたかなあと。
そういう点では一回死んだけど生まれ変わったもう一回生まれ直した一句かなと自分の中では記念になる…でもこういう句が記念になっちゃいけないんだなと思うんですけど。
いやいやそんな事ないでしょう。
どうですか?学生たちの反応は。
(中村)これはね子供たちには受けますね。
この句は何か受けます。
何か笑いますね。
お〜。
ちょっとこう笑うというか。
笑ったあとシーンとするような感じがあって。
「牛だけじゃなくて自分たちもああ被爆しちゃったんだよな」みたいなちょっと笑いのあとの悲しさみたいなのが…。
感性だね。
(中村)そうですね。
感性。
感性の問題大きいですね。
理屈だけじゃなくて。
だからそういう点がね教育の場合は難しいだろうと思うんだけど何か俺は俳句がもっと有効に働く場面はあるんじゃねえかと思って中村先生なんかそのモデルの一つだと思って見てんだけどねずっと。
(中村)いや有効だと思いますね。
ねえ。
どうもそう思うんだなあ。
短歌とか詩だとうまくいかんでしょう。
(中村)俳句のあの短さが…。
短さが。
俺もそう思うんだ。
14万も放浪している同じ県民がいるとかねそのうちの5万人ぐらいは県外にいるとかそういう人間にとっての悲惨な事実というかその事実が分かりますかね?ピシャッと。
(中村)子供たちに?子供たちに。
(中村)う〜ん…まだピンときてない子もいるかも分からないですけれどもただ今の生徒たちの中にもやっぱり一回避難して仮設だったり借り上げ住宅だったりに通いながらっていう子はいますんでこういう事が分かるのが案外卒業してから社会に出ていろんな人たちともまれる事によって「片仮名のフクシマだったんだな」という事が後から分かってくるかもしれないのかなと。
片仮名で書くフクシマというものの中身をねピーンとくるようになるとすごいと思うんですけどね。
まあこんな自然の美しい福島なんだからね。
漢字で書いた福島はそれだからね。
こっちはこんなに困ってるフクシマだ。
これはこれだっていう事がピシャッと分かればいいんだがなあ。
金子兜太が震災直後に詠んだ俳句。
命を抱き締めるような兜太さんの祈りの句です。
テレビで映像を見た途端に出来たんです。
おばあさんと少年がいて津波のあとに取り残されて僅かに残った冷蔵庫の食べ物を2人で食いながら幾日も幾日も生きてたんですね。
少年はいつも屋根の上に登って手振ってたという。
それで人が気付いて行ってみたらおばあさんも生きてたという。
そういう非常に涙の出るような話が。
あの時私感動しましてね思わず出来ちゃったんですけど。
(聞き手)みずみずしいですね金子さんの感覚というのは。
そう言ってくれますか。
だから今度は3.11なんかもこういう句が欲しいと思ってんですけどね。
大勢の人から。
94歳の荒凡夫金子兜太の言葉。
「俳句だけで来た人生に悔いはなし。
これしか取り柄がないと潔く割り切りありのままに生きたい」。
今編集者が熱い。
2014/02/22(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「94歳の荒凡夫〜俳人・金子兜太の気骨〜」[字]

94歳の今なお現役で活躍する俳句界の巨人、金子兜太。戦中・戦後の激動の時代、常に「天地に生き自由人である」ことを貫いてきた金子。その奔放な老いの世界を描く。

詳細情報
番組内容
94歳を迎える俳句界の巨人、金子兜太。今なお現役の俳人として句を作り、全国を飛び回り続けている。戦時中には南洋のトラック島の激戦で生死の境をさまよい、戦後は日銀に勤め、高度成長を経験した。激動の時代、常に句作を心の支えとした金子が貫いたのは「天地に生き自由人であり続けること」。小林一茶にならい、自らを「荒凡夫」と呼び、本能のままに日本を見つめてきた。その奔放な老いの世界を描く。
出演者
【出演】金子兜太

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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