私の名前はヨタスズです。
地震でけがはしましたけど今は痛くありません。
3月11日は忘れられない日になりました。
東日本大震災です。
僕たちが釣りをしていた閖上の大市場の港は陥没してしまいました。
あっいた!カニだ。
こけ食ってんのか?これが流されてきた船です。
うわぁ〜。
ここは橋だったんですけどこんなふうになって橋が折れました。
私の愛犬レミは東日本大震災で死んでしまいました。
でもいつまでたってもレミは大好きです。
レミも私の事いつまでも忘れないでね。
これめいちゃんのなのかな。
あっお母さん写真!あっめいちゃんだ。
じじへ。
海好きだったんですけどおじいちゃん。
最期は海に裏切られちゃったんですよね。
お〜一本松が見えてきました。
こんな細い木も津波に勝ったんだよ。
東日本大震災で原発が爆発しました。
僕らは日々…「野田総理へいつになったら原発はなくなるんですか?」。
すみません。
ただし!震災から3年。
子供たちの環境や心のありようはどう変わったのか?6通のビデオレターを通して被災地の「いま」を見つめた。
被災地の皆さんへ笑顔を送ります。
イエイ!がんばっぺし!福島県いわき市の学夫くんは震災当時小学6年生。
あのサッカー選手に宛ててビデオレターを作った。
「僕はサッカーが大好きで楽しいです」。
「僕のプレーをしている時の写真です。
これは全日本少年サッカー福島県大会の時のです。
僕たちは優勝できました。
これで金メダルは8個目となりました。
だけど…」
(学夫)ここがサッカーで使っていたグラウンドですけどがれきの山になっちゃいました。
あ〜。
う〜ん。
がれきの山だぁ。
結構ショックですね。
近くで見るとやっぱ相当ひどい。
何年ぐらい使えないんだろう…。
学夫くんが生まれ育ったいわき市小名浜は津波で港湾施設が全滅。
壊滅的被害を受けた。
3月11日は…ちょっと何してんの?みたいな事はやっぱり言われました。
その日もサッカーする予定があったんでひょっとしたらサッカーできるんじゃないかなあと思ったりしたんで。
幸い津波の被害は免れ帰宅。
しかし翌日原発事故が発生。
30キロ圏外の小名浜にも影響が及んだ。
水素爆発したあとはまず外に出なくて部屋にずっと籠もってました。
あと暖房も空気から入ってきてしまうのでそういうのもつけないでずっと部屋に籠もってました。
不安でしたね。
何が正しいのかよく分かんなくてすごく不安で不安と過ごしました。
学夫くんのビデオレターは震災の半年後中学1年の秋に作ったもの。
「3月11日の震災以来サッカーの事がいろいろ変わりました」。
このように雨が降ると放射能の影響でサッカーができません!残念です!なので僕はこのダンベルでトレーニングをします。
更に小名浜は津波などの被害があり僕らのグラウンドががれきの山になりました。
このようにグラウンドが変わってしまいました。
とても悲しいです。
だけど僕は絶対くじけません。
絶対負けません。
絶対プロになります。
僕は頑張りますので長友選手も頑張って下さい。
それから中学3年間学夫くんは練習場を転々とした。
最近は受験勉強が忙しく室内サッカー場で夜間練習。
得意なポジションは長友選手と同じ左サイドバック。
小柄で俊敏なところも一緒だ。
3年ぶりにビデオレターのグラウンドを訪ねた。
おっ…あったあったあったあったあった。
変わった?う〜ん変わんねえな。
ひでえな。
がれきがやっぱなくなってほしいなぁ。
あとちょっとなんだけどな〜。
サッカーができない環境ではまだありますね。
多分土がもう駄目になってますね。
放射能への不安とそれでもサッカーをやりたいという強烈な欲求。
学夫くんの葛藤は続いたという。
…をグラウンドでしてそっから練習という形でやっぱすごい歯がゆくて練習したいのに全然練習ができてなくて忘れたくはないですね。
サッカーができなかった時の感情を味わえたというかけがも何もしてないのにサッカーができないという悔しさ。
今震災でできなかった分を取り返してる感覚はまだあります。
それでその悔しさをバネにして生かして頑張ってます。
中学2年の秋学夫くんはよりレベルの高い環境を求めて東京のサッカー強豪校への受験を決め猛然と勉強した。
学業も優秀なら特待生として授業料が免除される。
2か月ぐらいはサッカーを我慢してずっと勉強してました。
夏休みはほとんど朝9時から7時まで塾だったので夜ランしたり夜にボール蹴ったりしてたんで大丈夫でした。
ずっと支えてきてくれた母のためにもやっぱり負担かけないように。
そのプレッシャーがあったからこそすごく頑張ってこれたのかなと思います。
1月23日は合格発表の日。
学夫くんはお母さんと2人で高校にやって来た。
合否の結果は封書に入っている。
(職員)中に証書入ってますのでご確認下さい。
待って。
どっち入ってんの?あ〜破っちった。
(弓枝)落ち着いて。
落ち着くよ。
おっ…良かった。
あ…良かった〜!おめでとう!良かったね。
なに落としてばっかり。
違う。
なんか緊張して。
緊張しちゃうね。
合格おめでとう学夫。
良かった。
良かった。
はぁ〜。
ここが4月から学夫くんの新しい練習場だ。
夢に向かって大きな一歩を踏み出した学夫くん。
改めて手紙を書いてもらった。
「僕の中では夢に一歩近づいたと思います。
僕は長友選手のようなサッカー選手になる事が夢です。
そしていずれは長友選手を超す事です。
努力をし続けこの夢をかなえようと思います」。
(学夫)すごく悲しいという事ではあったんですけど普通に生活していればプロとかも簡単に諦めてたかもしれないですけど…すごく悪い出来事であり僕にとってはいい出来事でした。
岩手県陸前高田市の稜太くんのビデオレターは東京に住む親戚に宛てたもの。
仮設暮らしの楽しさをつづった。
「のぞみちゃんお久しぶりです。
この間はありがとう。
ディズニーランドに初めて行った時ど派手だなって思ったよ」。
(稜太)折り紙は自分の考えた事を作れる。
だから僕は折り紙を始めたんだ。
わぁ〜デカい。
(稜太)紙飛行機。
だって飛ばすとたくさん飛ぶから。
思いっきり投げます。
はい姉ちゃん。
おっお日様を描いてます。
「太陽みたいに姉ちゃんはきれいですね」。
(取材者)あれが一番いいところだよね。
(浩)うんそうだよね。
よくないよ。
だって今はプツプツプツ。
陸前高田市は津波による死者行方不明者は1,758人に上り最も被害を受けた地域の一つ。
海岸べりの2万7,000本あった松の木の中でたった1本津波に耐えて残った松の木は「奇跡の一本松」と言われた。
稜太くんが暮らしていた荒町地区はほぼ全滅。
3年前から仮設住宅で暮らしている。
僕は今から一本松を作りたいと思います。
これはチャレンジです。
はい。
出来ました。
僕特製一本松。
行くぞ〜。
おおこんなに目の前で見たの初めてだ。
これが一本松です。
デカい。
何だあれは。
お〜!あそこにも一本松だ。
これは一本松じゃない。
二本松だぞ。
(美穂)じゃ〜ん荒町復興!陸前高田市の町が復興。
はい。
(稜太)「がんばっぺし!」と書いてある。
「ここにもディズニーランドより面白いものがいっぱいあります。
あとで是非こっちにも来て下さい」。
これスゲエ。
あんなに飛んだんだ。
(浩)うん。
(取材者)どうですか?2年半ぐらい前なのかな。
何か変だなって思うよ。
(取材者)変?何が?今見ると何か恥ずかしいね。
(取材者)美穂ちゃんはどうですか?「荒町復興」って書いてくれたじゃない。
あまり進んではいませんね。
(取材者)復興できそうですかね?難しい。
(取材者)お父さんとしてはいかがですか?この時は…でもあれから2年3年近くたつんであのころに比べればいろいろと変わってきた分もあるのかなと。
(取材者)問題とかもあったりするって事ですか?やっぱり大きくなったんだね。
ウザい。
問題はいずれこっから出て本当のというか自分のうちを建てたいなっていうのもあるしお金あればすぐどっかに建ててもいいなというのもあるしその先立つものがないんで。
稜太くんはおばあさんを入れて4人家族。
仮設住宅を案内してもらった。
(稜太)ここが僕とばあちゃんと姉ちゃんで寝てる部屋です。
3人で寝ています。
ここには収納スペースがほとんどない。
夏はこれでもね半分になるからいいけど。
かばんも置き所がないもん。
捨てればいいべさ。
間取りは4畳2間。
こっちが御飯を食べている場所です。
お父さんが一人で悠々と寝ています。
今まで仮設住宅に住んでた人が家を建ててどんどん引っ越していく。
僕も早く建てたいなと思った。
お父さんに言うと…
(取材者)稜太くん建てられる?もうかれば。
まず家建てたあと復興のためのお金にする。
公園とかお店を造るためのお金です。
稜太くんの自宅があった…だんだん建ってきた。
えっと…ここが僕のうちの跡です。
もう分かんないんだよね。
流された家は2階建て7部屋。
仮設住宅の10倍広かった。
ここいら辺が遊び場になってました。
もうちょっとそっち。
もうちょっとこっち。
姉ちゃんがいる所が玄関の辺りです。
早く仮設住宅を抜け出して家を建ててそこで暮らしたい。
まあ小さい時だからバカみたいな事言ってたけど…改めてビデオレターを作ってもらった。
「震災前の家は部屋がたくさんあって広いし周りは寺店床屋友達の家などがとてもたくさんありました。
そこを友達と一緒に自転車で走り回りました。
あのころはとても楽しかったです。
でも今は家は跡形もなく消えてしまいました。
周りにはがれきがれきがれきです。
今でもたまに震災前に戻りたいなと思う事があります。
やっぱり周りはにぎやかで同級生の友達がたくさんいる所に住みたいです。
今から何年かかってもいい。
いつかはそんな所で住めればいいなあと思います」。
宮城県名取市の美紀ちゃんは震災当時小学1年生。
不自由な仮設暮らしなのに驚くほど前向きなビデオレターを作った。
イェイ!イェイ!やっぱり楽しいね。
う〜ん何しよっかな。
フフッ!フフッ!こんにちは美紀です。
皆さん頑張って下さい。
負けないで下さい。
ずっとずっと笑顔でいて下さい。
応援しています。
(美紀)撮ってもいいですか?いいですよ。
笑顔笑顔笑顔出た。
笑顔出た。
・「”ありがとう”って伝えたくてあなたを」みんなが助かればそれでうちはいいかなって思うから。
美紀ちゃんが暮らしていた閖上は在宅者のほぼ5人に1人およそ800人が津波の犠牲になった。
美紀ちゃんのご家族は無事だったが自宅は全壊。
お母さんの職場も流された。
震災当日は下校時間に地震と津波発生。
みんなで校舎の屋上に避難し助かった。
体育館に行って集まったんだけど先生が「津波が来たぞ」って言ってそれで屋上に行って津波が来てそのあとに教室とかに入ってみんな夜過ごして何日かずっと紙のやつで寝ててそれでチョー寒くて夜がこのままずっとこんな感じなのかなと思っててちょっと不安でした。
5月ぐらいにここに来てそれからずっとこのままです。
(美紀)私も津波でつらいけどみんなといれてうれしいです。
(美紀)最初は津波で怖かったけどあとからだんだんみんな復興してきて支援物資が来て学校も始まってうれしいです。
・「拝啓この手紙読んでいるあなたは」・「どこで何をしているのだろう」「離れ離れになった人たちも元気にして下さい。
一生懸命働いている人も忙しいと思いますがいつも笑顔でいて下さい。
遠くから応援しています。
美紀より」。
つらい状況の中飛び切りの笑顔を届けてくれた美紀ちゃん。
現在は閖上から7kmほど内陸の仮設住宅で暮らしている。
3年たって同じ年頃の友達が引っ越していった。
遊び相手は年下の男の子たち。
よろしくお願いします。
はいよろしくお願いします。
ここは仮設住宅内の集会所。
子供たちのために週2回学習塾が開かれる。
今日の生徒は美紀ちゃん1人。
今までいた友達が1人2人と抜けていくっていうのは子供たちにとってはかなりショックで。
この子らにとっての大変な試練であると思うんですけどもただそれ越えていかないとね。
美紀ちゃん一家はいつ仮設を出るのか?閖上に戻れるのか?何も決まっていないという。
うちはほんとに何にもまだ決まってなくて。
狭い所でやっぱりストレスもあると思うんですよ。
(小百合)そういうの絶対あんまし見せない子なんだけどそれはびっくりしましたね。
だから閖上に戻っていきたいんだかも逆に聞きたいんですよね。
私もずっと生まれ育ち閖上なんで。
見ちゃうと逆に落ち込んじゃうみたいなところもまだあるんで。
考え事しちゃってつい眠れなくなっちゃう。
(取材者)どういう事考えちゃうの?元の閖上に戻れるのかなとか元の家に戻れるのかなとか思っちゃう。
閖上小学校のみんなが一緒にいると楽しくてでも震災になってからみんなばらばらになっちゃってそれでちょっと今寂しいんだけど…原発事故は福島の子供たちの運命を変えた。
唯人くんのビデオレターには宛先が2つある。
タイヨウくん元気ですか?3月11日以来ずっと会っていないね。
タイヨウくんは新潟に避難しているとだけ聞きました。
(唯人)ここが今の僕たちの学校です。
もともとは体育館なのですがシオミダイ小学校が使えないため今はこの体育館で勉強しています。
ここを教室としています。
中の人数もかなり少なくなってしまいました。
最初は離れ離れになった親友への手紙。
しかし後半は…。
なんで東京の人の電気を福島県でつくっていて東京の人は放射能放射能と言って福島県の人から逃げるんですか?そんなに安全だ安全だって言うんだったら東京に建てればいいじゃないですか。
東京の人々への憤り。
それから2年余り南相馬市に住む唯人くんを訪ねた。
こんにちは〜。
唯人くんは中学1年生。
お父さんの社宅に両親と妹の4人で暮らしている。
(取材者)今身長どれくらい?163cm。
吹奏楽部でトロンボーンを吹いている。
(取材者)買ったの?いや学校のやつですね。
今は避難して吹くという事もあんまりできないんで。
やっぱりここだとすぐそっちもこっちも家がつながってて大きい音とか出すと隣の音とかもすごい聞こえてくるんですよ。
そういうのもあるんでやっぱりあまり練習できない。
震災当時は小学4年生。
原発事故発生の困惑を鮮明に覚えているという。
小学校の時に原発の人たちが学校に来て…なのに爆発したっていうので。
危険だっていう事は分かるんですけどどんなふうに危険とかは全然分からなくてパニックですよね。
逃げなきゃいけないって事しか分からない。
唯人くん一家は相馬市山形県高畠米沢市また相馬市と避難先を転々。
住んでいた家の周囲は年間20ミリシーベルトを超えるホットスポットになり帰宅を断念した。
それからずっと社宅住まい。
そんな境遇からビデオレターは生まれたのだ。
東京の人たち。
あなたたちの電気をつくって放射能で苦しめられるのはおかしいと思います。
それに放射能や地震がなければ友達と離れ離れにもなりませんでした。
僕たちはこれからどうしたらいいのか分かりません。
どうしてくれるんですか。
最初は本当にタイヨウくんに向けてだったんですけど何でこんな離れ離れにならなきゃいけなくなったのかというのはやっぱり原発が原因なので東京の人たちのせいでこうなっちゃったっていうのがずっとありました。
ビデオレターで言っている事も正しいっていえば正しいけどやっぱり訂正っていうのをしたいなっていう事もありますね。
(取材者)そうなんだ。
ええ。
震災の翌年家族でディズニーランドに行った事で東京の人たちへの認識が変わったという。
その当時あったんですけど…ニュースとかで見た事があったんで自分たちの車も福島ナンバーでイタズラされるんじゃないかなと家族もみんな心配してて行ったんですけどそんな事はなかったし福島の人だっていうふうにホテルの人とかも分かっても別に対処を変えるというか他の人と同じように接してくれたんで…その当時はやっぱ怖がってた。
放射能って初めてだったんで東京の人も怖がってたと思うんですよ。
今はだんだん分かってきてそこまででもないのかなあっていうふうに。
東京の人たちへの憤りは徐々に薄らいでいった。
現在伝えたい事は何なのか改めて撮影してもらった。
(唯人)今は近くの公園に来ています。
どこにでもこのモニタリングポストが置いてあり放射線の事を気にしないようにしていてもどうしても気になってしまいます。
実際は今の数値は0.086でいつもに比べると低いんですが…降ってる時は怖いなっていう気持ちになるんです。
気持ちの問題なんですよ。
実際はそんなでもないんですけどやっぱり降ってくるからっていうふうに言われるとなんか気持ち怖い感じですね。
数字では計れない漠然とした不安。
次に唯人くんが向かったのは友達遥人くんの家。
室内で遊ぶ事が多くなった。
遥人くんにも聞いてみた。
(唯人)やっぱり放射線が高い所には近づきたくないという気持ちはあるよね?うん。
そんなに高い所には行きたくない。
遥人くんは元の自宅で暮らしている。
フフフ…。
そうだねうちは避難というか…遥人くんと唯人くんの家はもともと同じ学区内にあった。
しかし唯人くんの自宅は特定避難勧奨地点に含まれる。
避難は住民個々の判断に委ねられるが妊婦や子供のいる家庭は特に避難を促される。
(唯人)え〜この家が僕が生まれ住んでいた家です。
今はホットスポットになってしまい住む事はできなくなっています。
この家を見ていると友達と遊んだ事や自分で住んでいた時の記憶がよみがえってきてやっぱり帰りたいなと思います。
何でこんなに避難者とかが出てるのに原発無くす気にならないの。
電気が足りないからっていったって人に害加えてまで発電する必要があるのかとは思います。
人を便利にするために電気つくってるのにそれで人避難させたら元も子もないんじゃないかと思う。
やっぱり自分も避難してるよりは元のうちに戻って生活したいと思いますねやっぱり。
もう少し原発の位置がずれてたらどうだったんだろうとか思ったりします。
僕たちは避難していて家に入れないという人もいますがみんな明るく前を向いて生きています。
これは雪かきをしている時に遊び半分で作ったかまくらです。
(唯人)楽しいか?
(真子)楽しいよ!
(唯人)こういうふうに楽しく生きている人がいるという事も分かって下さい。
岩手県陸前高田市の瑞基くんは震災がきっかけでおじいさんの仕事に強く憧れた。
(瑞基)じいちゃんの服。
じいちゃんです。
どこ行ってきた?
(瑞基)船見に行ってきた!
(瑞基)じいちゃんの手ほんとなんか硬い…。
(修一)しわくちゃの手だべ。
(瑞基)硬い。
(修一)漁師になるとこんな硬い手なの。
(瑞基)じいちゃんこの網のここって何で穴が開いてんの?穴開いてたらカニとかが逃げる…。
(修一)穴がなきゃカニこの中に入っていかないでしょう。
ここに餌つけておくとここから「おなかすいたな」って入ってくるでしょう。
餌食べてまた下に下りると出れなくなるの。
分かった?うん。
津波の時?津波の時ね…。
あしたの漁の準備しようとしてたら地震が来てさ…次の日夕方帰ってきてみんな見たらじいちゃん涙出たよ。
当時瑞基くんは小学1年生。
広田半島の突端で民宿をしているおじいさんの家で暮らしていた。
現在一家は内陸部で暮らし月に一度ぐらい車で2時間かけて遊びに来る。
瑞基くんはご両親と妹弟の5人家族。
震災当日は風邪で学校を休んで寝ていたという。
布団に寝てたら地震が来てすごい揺れて少したったら…すっごい減って渦を巻いてそれで少したったらゆっくりバーッて来て…いなかった。
それでおじいちゃんが海に行ったんだって事を知って…。
おじいさんは津波が港を襲う前に船を出しはるか沖合にいた。
船が壊されるのを防ぐためだ。
今までは…これは鉄則みたいな感じで。
半端じゃない津波が来るなと思いながら出たけどうちの屋根とかいろんなの流れてくるわな。
(修一)お昼ごろかな。
まだ津波がひどくて船着けられなくてね。
夕方5時ごろかな。
今入らないとまた今晩一晩海の上だと思って。
頑張るぐらい頑張ってもう精も根も尽き果てて…確かその日にじいちゃんが帰ってきたんだっけか…。
それでみんな泣いてた。
帰ってきて泣いてた。
「じいちゃんへ」。
(瑞基)「津波の中沖に出て船を守って2日後に帰ってきたじいちゃんがすごくかっこいいと思ってたから僕は前よりもっと漁師になりたいと思うようになったよ。
津波は怖いけれど…」「じいちゃんいつまでも元気でかっこいい漁師でいて下さい」。
あれから3年漁師になる夢はどうなったんだろう?う〜ん…。
(取材者)何で迷ってるの?
(取材者)そうか…。
おじいちゃんに「今夢が2つあるんだ」みたいな事をさ話した事ある?言いづらいとこある?迷っているとはいえ訪ねてくる度瑞基くんはおじいさんの仕事を手伝っている。
(取材者)それ何?瑞基くん。
アワビ。
挟まれんなよ。
トラックに籠あるから先に籠持ってこい。
(取材者)瑞基くんは何が好きですか?
(修一)じいちゃんのだったら何でも食べるよな。
取れたてみたいな感じがする。
早速取れたての魚介類で民宿のお客さんの夕食を調理する。
お風呂。
お風呂。
バイバーイ。
(幸子)かわいそう。
震災後は家事を進んで手伝うようになったという。
角を…角を斜めに。
(修一)久々に帰ってくると…
(修一)まだ子供は遊びたいだろうに。
でも一緒に魚積んだり揚げたりする時顔見ればまだ楽しんでやってるようなというのかな…。
結果的に自分の思い出が大きくなって自分の仕事につながっていけばこれが一番いい事だし自分で良さを覚えれば…じゃあな。
じゃあね。
(修一)じゃあまた春休み来いよ!バイバーイ!次に来るのは春休み。
おじいさんはその日を心待ちにしている。
宮城県石巻市の哲也くんは津波で友達や家族を亡くした。
ビデオレターは亡くなったおじいさんに宛てたもの。
おじいさんは川でシジミをとる漁師だった。
「おじい僕はおじいと川へ行くのがとても楽しかったです。
一年に一度は必ず川へソウタと未捺と一緒に川へ行きシジミをとったりして遊びましたね」。
(哲也)みんなは川が憎いというか嫌だなという人もいるけど…やっぱり川はなんて言うのかな親って言ったら変だけど厳しさを教えてくれるというかやっぱりおじいさんおばあさん漁してたから冬でも寒い中川に氷張っても川の氷壊しながら行ってたらしいから…。
つらい事があるかもしれないけど頑張らないと生活していけないみたいな。
逆に…まあ強くなってないですけど。
哲也くんが暮らしていたのは石巻市大川地区。
北上川を逆流した津波にのみ込まれ壊滅的な打撃を受けた。
哲也くんはお母さんと妹未捺さんも亡くした。
(哲也)「きっとおじいは北上川になっているんだと思います。
おじいはいつも飲み過ぎているので控えめにして下さい。
おじいまたどこかで会いましょう。
それまでしばしの別れです」。
3年前小学5年生だった哲也くんは中学2年生。
現在はお父さんおばあさんと3人石巻の市街地で暮らしている。
カメラが好きな哲也くんは今も生まれ育った大川地区を定期的に訪れ復興の進み具合を映像に収めている。
(哲也)やっぱり震災後1年2年とたっていて今後どういうふうに変わっていくのかなと思って撮ってます。
哲也くんは母校大川小学校をとりわけ丹念に撮影してきた。
自分たち5年間いた学校なんでケンカしたりケガしたりとか楽しい思い出とかいろんな思い出が詰まった校舎で…。
思い出す事っていったらやっぱりここ…俺足遅かったから体力なくて「みんなはえ〜な〜」と思いながら行ってまあ一番最後かビリを争いながら嫌なようなよかったような思い出を思い出しますね。
大川小学校の児童たちは108名のうち…避難誘導が適切だったかどうか今も遺族と学校側で問題になっている。
今年最初の月命日。
その日も親子で校舎内を撮影していた。
(哲也)只野哲…「也」が見えない。
(哲也)自分のロッカーまだ名前うっすら見えたから椅子撮って黒板撮ったりしていたのはここで勉強してたよみたいな。
そのうち…残ってるうちに撮れるだけ撮っとこうと…。
哲也くんの思い出がいっぱい詰まった校舎は多くの犠牲者を出した忌まわしい記憶の痕跡でもある。
遺族の間で取り壊しを望む声も高まっている。
思い出を壊される感じがして自分的には嫌なんですけどもし壊されてしまった時にやっぱり映像だったり写真だったりで津波がどのくらい怖ろしいものでというのを伝えていきたい。
でも映像を見てもどれくらい怖いのかなというのは分かんないわけじゃないですか。
津波のすごい音だったり津波の威力だったりは…こんなコンクリートの建物がゆがんだり壊されたりするんだなと思ったら水の力ってすごいんだなってそこに行けば体験できる。
大川小だけじゃなくていろんな所に行ってみてもっと津波っていうのが怖いというのをみんなに知ってもらえればなって思います。
(取材者)震災から3年たって…
(哲也)今一番いろんな人に言いたいのは…やっぱり自分も震災直後はもうなんか苦しくていろいろ…。
友達もいっぱい亡くなって自分一人で全然知らない人たちのところにいったんで正直友達できなかったらどうすっかなと思ってましたが話しかけてくれる友達がいていい先輩たちにも会って震災あったのはつらいけど…だからやっぱりいじめとかそういうつまんない事やめてみんな仲良く出会いを大切にしてほしいと思いますねほんとに。
震災から3年。
哲也くんは改めてビデオレターを作った。
「皆さんそちらは暖かいですか?こちらはだいぶ寒くなってきました」。
「皆さんはどう思いますか?みんなとの思い出の詰まった校舎が壊されて悲しくはありませんか?壊したい人の気持ちも分からないわけではないけどもし壊すのであればもっと多くの人に見てもらいたいです。
大川小の校舎を見て地震の怖さや津波の恐ろしさを知ってもらいこれからの防災に役立ててほしいと思っています。
最後に…」「僕は今を大切にしていろいろな人たちとの出会いを大切にして生きていきたいと思います」。
3月11日あの日哲也くんは76人の友達と一緒に津波にのみ込まれ奇跡的に助かった。
その瞬間を今も鮮明に覚えているという。
う〜ん…。
まあ…津波かぶった時は「あっ死んだな」。
死んだっていうか「あっ終わったな」と思ったけどでも生きてたわけで…。
その…本当だったらベッドには…上のベッドには妹がいて横の布団にはお母さん寝てたんだけどもういない。
すごいなんか真っ白な感じがして…で気付いたら倒れてたみたいな。
多分生かされたんだなって感じがしましたね。
妹だったりお母さんだったりおじいさんだったり友達だったり近所のおじちゃんおばちゃんだったりがなんか…多分…よく分かんないけどそんな感じ。
2014/03/08(土) 17:00〜18:00
NHK総合1・神戸
未来への手紙2014〜あれから3年たちました〜[字]
映画監督の是枝裕和ら、複数のディレクターたちが紡ぐ被災地の子どもたちの物語。人生の試練に早くもぶつかった子どもたちが強く成長していく姿は、見る者の心を揺さぶる。
詳細情報
番組内容
映画監督の是枝裕和ら、複数のディレクターが紡ぐ被災地の子どもたちの物語。震災から半年後、被災地に暮らす100人の子どもたちがビデオレターを撮った。亡くなった家族や友人などに向けて自分の思いを語った。あれから3年。子どもたちの境遇や暮らしは、どう変わったのか? いま何を思うのか? 人生の試練に早くもぶつかることになった子どもたちが、周囲との関わり合いの中で強く成長していく姿は、見る者の心を揺さぶる。
出演者
【出演】井浦新
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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