いつか来る日のために「証言記録スペシャル まだ先が見えない」 2014.03.08

(テーマ音楽)越えた越えた越えた!大震災が東日本を襲いました。
あの日何があったのか。
私たちは多くの被災者を取材してきました。
被災した人たちは今何を思いどんな暮らしをしているか再び訪ねました。
津波で父親を亡くした男性です。
原発事故でふるさとに帰れない多くの人たちがいます。
震災で大切なものをなくした人々。
3年目の証言に耳を傾け被災地が直面する課題を見つめます。
東日本大震災から3年NHKでは被災された多くの方々の証言を取材し「あの日わたしは」と題して放送しています。
これまで番組で伝えた生の声は350人以上になりました。
今回被災された方を再び訪ね今被災地が抱える問題を考えていきます。
今日は長年地域医療に携わってこられている…ミュージシャンの高橋ジョージさんにお越し頂きました。
どうぞよろしくお願い致します。
(2人)よろしくお願いします。
鎌田さん震災のあと鎌田さんは独自に医師団を組織されて医療の面からのサポート支援活動をされていますよね。
3年がたつ中で今どんな事を考えていらっしゃいますか?かなり精神的には被災地はピンチですよね。
阪神・淡路大震災の時もちょうど二番底といって震災後3年目から4年目にかけて不安感やうつ病やあるいは自殺念慮だとかが多くなったっていう事がかつてあったんですね。
そういう意味では今こそ被災地東北の事をみんなで考えてサポートをしてあげなくちゃいけない時期に来ているように思います。
高橋さんは宮城県のご出身ですよね。
震災直後から支援物資を運んだり被災地でコンサート活動をされていますよね。
高橋さんはこの3年ご覧になって今どんな気持ちをお持ちでしょうか?少しは進んでるんじゃないかなという面はあるんですけども僕から言わせるとすごく大きなマイナスがまあまあそこそこのマイナスになっただけでまだゼロというスタートにも立っていないっていうね。
やっぱりまだかなり厳しい状況が続いているなっていう気さえしますね。
ではまず初めに今被災地ではどのような事が問題になっているのかこちらをご覧下さい。
岩手県釜石市の…震災の日家族と経営する魚の干物工場で津波に襲われました。
大きな揺れが収まったあと父親と3階に避難します。
当時の様子を携帯電話で撮影していました。
魚市場の建物は2階まで浸水。
猛烈な勢いで津波が迫ってきています。
そして津波はついに3階にまで達しました。
水は3階まで入ってきましたがすぐに引いて雁部さんと父親は助かりました。
何て言うのかなもう…これホントにね…津波で大きな被害を受けた雁部さんの工場は翌年になっても改修が進まず仕事を始める事ができていませんでした。
工場の改修には1億円以上かかります。
震災後雁部さんは手を尽くしてなんとか国の公庫から3,000万円の融資を取り付けました。
しかしまだ資金が足りません。
そこで県に復興支援の補助金8,500万円を申請し受ける事ができるようになりましたが問題がありました。
補助金には条件がついていたのです。
1個10万円以下のものは消耗品と見なされ補助金の対象にならないというものでした。
水産加工業では魚を冷凍保存する金属製の箱など10万円以下の資材が多いのです。
そのほかにも作業台や魚を保存する冷凍棚などが対象外となってしまいました。
雁部さんの工場の周りはほとんどがさら地になっていました。
雁部さんは加工場を改修し平成24年6月に干物作りを再開させていました。
補助金を使えなかった資材は残っていた自己資金や融資をかき集めて購入しました。
震災前は10人いた従業員も現在は家族4人とパートタイムが1人だけです。
雁部さんは岩手県内のスーパーや小売店などの配送から会社の経理まで1人で切り盛りして数千万円の借金を返し続けています。
しかし雁部さんの前に今大きな壁が立ちはだかっています。
釜石市は震災で1mほどの地盤沈下が起こりました。
そこで港周辺の土地を1m以上かさ上げする計画が進んでいます。
市から去年の10月工場の立ち退きの打診がありました。
かさ上げの話は以前からありましたがなかなか具体的な計画内容が決まらなかったため雁部さんは工場を再建していたのです。
いまだ市から補償や代替地などの提案がなく今後どうなってしまうのか雁部さんは不安を抱えています。
ご覧頂いて鎌田さんいかがでしたか?雁部さん偉いですね。
絶望的な時にやっぱり何もしてないと気持ちがどんどんうつうつとしてきますから立ち上がる事は大事ですし働く事ってすごく大事でそれの割には国の支援とか地域の支援とかがものすごく弱くて1人で何か…頑張り過ぎてて倒れちゃうんじゃないかって心配になりますよね。
高橋さんはどうご覧になりました?やる気があってね最初にやっちまおうってこうやって頑張っていらっしゃる方がまた移転を余儀なくされる。
これはちょっとかなり…ちぐはぐな感じになって逆にまた被害を被ってますよね。
こちらは釜石市の事業所の現状のデータなんですね。
被災した事業所が565軒ありました。
そのうち3年がたち再建した事業所が410。
一方で再建を断念して廃業をしたのが107となっています。
再建した410。
この数字が一見多いように思うんですがこの中には人手不足や震災の土地計画による立ち退きを迫られていたり売り上げがいまだ少なかったりと大きな問題を抱えている事業所もあります。
この数字ほど決して順風満帆ではないという事なんですよね。
働く場がある雇用が地域に広がるって事は地域がものすごく元気になっていくんですよね。
ですからこういう再建した事業所が多ければ多いほど活気は出てくるしこういう働く場がもっともっと増えなくちゃ東北の復興ってホントは建物だけじゃなくて働く場の復興ってすごく大事なのにこれだとお寒い数字だなというふうに思いますよね。
そうですね。
自分の財産を失いそして職場を失いましてや家族も失った方がやっぱり一度ならまだしも二度三度と極めて悲痛な現実にぶつかる訳ですよね。
事業をされてる方でもともと借金のある方もいっぱいいた訳ですよ。
なのにそれを失ってまた新たに作らなきゃいけないってまた借り入れし…。
だから支援がなければ絶対できないって方の数字の方が多いと思うんですね。
はるかにね。
そこは大問題で…。
国がホント優しい目で一つ一つ細かく事情を聞いてそれで支援していくっていう対策を取らないとやっぱりこの復興っていうのは程遠い二文字になってしまうような感じがしますよね。
大震災で問題になっているのが心のケアです。
家族や友人大切な人を亡くして心に大きな傷を負って苦しんでいる人たちがいます。
高橋ジョージさんが訪ねました。
宮城県七ヶ浜町に住んでいた…津波から逃げる途中祖母の手を離してしまいました。
渡邊さんの家は海岸のそばにありました。
大きな揺れに襲われたあと渡邊さんと祖父母は津波の事が心配になり避難場所になっている裏山に避難します。
すると海の様子が変わりました。
渡邊さんは祖母の手を引いて必死に走ります。
渡邊さんは木にしがみついて辛うじて助かりました。
祖母は5日後遺体安置所で確認されました。
津波から3週間後流された自宅の屋根が1km以上離れた田んぼの中で発見されました。
そこには祖母の思い出の品が残されていました。
(渡邊)そこにアルバムとかそのおばあちゃんからもらったご祝儀袋をちっちゃい頃からためててまさかそれも紙なので残っていると思わなかったんですけど残ってました。
ご祝儀袋が…。
渡邊さんは今隣の多賀城市で暮らしています。
現在大学3年生。
おばあさんってどういう方でした?おばあちゃんはそうですね…震災後渡邊さんは津波にのまれた時祖母の手を離してしまった事を悔やみ続けました。
渡邊さんはしばらくの間震災の体験を話す事ができませんでした。
しかし平成25年4月渡邊さんの心を変える出来事がありました。
スマトラ島沖地震があったインドネシアのバンダアチェの被災者との交流のため現地を訪れたのです。
2004年インドネシアスマトラ島沖で発生したマグニチュード9.1の地震によって大津波が押し寄せ亡くなった人行方不明者は23万人以上といわれています。
しかし渡邊さんは現地に残されている津波の跡を直視する事ができませんでした。
それを聞いた時どう思いましたか?渡邊さんはその後アメリカのホームステイ先や大学の講義の時に自分の体験した事をみんなの前で話す事ができました。
ホントに後世に残そうとこの苦しみと悲しみを背負ってでも生きてる。
おばあさん喜んでいらっしゃるんじゃないですか。
ホントは…。
どうですかね。
そうですね…。
自分と同じ悲しみをほかの人には味わってほしくない。
渡邊さんはこれからも語り続けていこうと考えています。
時間がたつにつれかえって心の痛みが増している人がいます。
茨城県北茨城市の海岸沿いで両親と食堂を営んでいた…渡辺さんは避難しようとした時に津波に襲われ父を亡くしました。
あの日両親と店で調理している時大きな揺れに襲われます。
渡辺さんが先に車に乗り込んで両親を待っていた時でした。
大きな津波は防波堤を乗り越え渡辺さんの車をのみ込みました。
車は津波にのまれ近所の家の柱にぶつかって止まります。
津波で壊れた家の前に戻ると母親がはだしのまま立ち尽くしていました。
壊れた家から1枚の絵が見つかりました。
妹が食堂の調理場に立つ父と渡辺さんを描いたものです。
渡辺さんはこの絵を携帯電話に入れていつも持ち歩いています。
大震災から3年がたちました。
現在渡辺さんは市内の内陸部にある団地に母親と2人で暮らしています。
どうぞよろしくお願い致します。
高橋です。
こちらの生活って慣れましたか?まだ慣れてないですか。
高速道路のゴ〜ッて音が波の音に…。
親子3人で食堂をされててそれで今再建という事は考えてらっしゃらないんですか?しかし渡辺さんは震災後すぐに店の再建を諦め臨時の事務職として働きだします。
やっぱりまた調理場に立つというのはつらかったですか?震災後渡辺さんは包丁を持つ事ができませんでした。
これは去年の3月。
父の三回忌の時の映像です。
渡辺さんは震災後初めて刺身を作りました。
津波のあと1枚だけ流されずに残った刺身を載せる板に盛りつけます。
(お鈴の音)父への思いに区切りをつけこれから母と2人で歩いていこうと決意したつもりでした。
しかし3年たった今もつらい気持ちが消える事がありません。
自宅の居間にある父正雄さんの遺影はふだんは見えにくい仏壇の一番高い所にありました。
渡辺さん親子は自宅があった場所に戻り暮らす事はないと決めています。
やっぱここ来るといろんな事思い出しちゃいますか?でも数としてみたら楽しい思い出とか家族の思い出とかの方が多いんじゃないですか?あっもちろんそうです。
そうですよね。
4月から正式に職員としての内定をもらった渡辺さん。
気持ちを前に向けようと努めています。
高橋さんお二人に会っていかがでしたか?やっぱり僕被災地に行って必ずこれ避けられない現状なんですけどもご家族とその寸前までですね一緒に行動されてた方をやっぱり亡くされてるっていう。
それも目の前でですね。
そういうトラウマっていうかですねその心の傷がですね癒えるどころかどんどん増えていってるという現実と。
それからただその中でもホントに唯一救いがあったのは英莉さんのスマトラの方に行かれてですねその思いを共有できた。
それでいろんな事と心を通じ合えた。
これはすごく彼女が語り部になろうとした一つの決意で非常に大きな事だなというふうに思ってます。
そしてまた修さんもお母さんと2人で生きていこうという決意。
これが一つの曲がり角というか大きな起点になってるような気がしますね。
語る事によって悲しみがもう一回戻ってくるんだけども語る事によって不思議に人間ってその悲しみが少しずつだけど薄まっていくんですよね。
だから語る事の大事さというのがあるんじゃないかなと思うんですけど。
英莉さんは自分を癒やすために語りだしてるんじゃなくて次の世代の若者たちにこの事を伝えていくという事で誰かのために人間は動き出すと何か元気が出てくるのかなって。
絶望の中にいる被災地での一つのヒントかなという気がするんですけどね。
修さんのように大切な家族を亡くしてまたそのご遺体を目の前で見てしまったショックを抱えている方たくさんいらっしゃると思うんですが。
それはかなり心に大きな傷として残っていると思うんですよね。
修さんが立ち上がっていくのにはものすごく大変な事だと思うんだけどもそれでもいい兆候があるというのはフロイトという精神医学者がこういう事言ってるんです。
「死ぬほどの困難な状況に陥った時この2つがあれば大概立ち直っていく」って。
それは何かと言うと「愛する人がいる事と働く場がある事」。
そこを通して彼が立ち直っていってくれるといいなって。
修さんだけじゃなくて被災地の若い人だけじゃなくて中年の人にもお年寄りの人でも働きたいと思う人たちに働く場が広がるような国のサポートがあったらいいなって思いますよね。
そうですね。
僕なんかは歌を歌うって事に対して最初は抵抗があったんですね。
被災地で。
特に僕の代表曲というのはちょっと悲しい歌なものですから抵抗があったんですけど。
ある日70ちょっと過ぎのご婦人がですね「こういう歌歌って!」と。
「私たちは歌によって歌のせいにして」ね悪い言い方だけど「泣きたいんだ」と。
「ずっと我慢してるんだ」と。
「だけど泣く事によって楽になるんだよ」って。
「泣きたいんだよホントは。
でもみんな私たちよりもつらい人がいっぱいいるから泣けないんだ」って。
「そこにとどまっちゃいけない」って。
何か行動する事によっての起点があれば人は少しずつ動けるんじゃないかなというふうに思うんですけどね先生ね。
僕たち周りがねそういうものを作ってあげる事も大事ですよね。
そうですね。
今回の大震災で大きな問題となったのが原発事故による放射能汚染です。
いまだふるさとに帰れない人たちがいます。
福島第一原発からおよそ40km離れた福島県飯舘村は深刻な放射能汚染に見舞われました。
平成23年4月計画的避難区域に指定され住民や業者も避難を求められました。
住民が避難したあとも村にとどまり営業しているガソリンスタンドがありました。
北原博史さんは残っている人が村にいる限り自己責任で営業を続けようと決断します。
警察や消防の車両除染業者の車など多くの車が給油に訪れていました。
ただ屋外で作業を続けている従業員たちの被ばくが気がかりでした。
飯舘村は今も全村避難が続いています。
北原さんは隣町の伊達市のアパートから通いながら営業を続けています。
この地区は平成24年7月昼の間だけ一時帰宅ができる居住制限区域に再編されました。
北原さんの店も国から営業が認められました。
ガソリンスタンドは妻と母そして男性従業員3人の6人で営んでいます。
北原さんは従業員が休んでいる間も仕事に出かけます。
店の売り上げのもう一つの柱だったプロパンガスの補給点検です。
住民が戻っても昼間だけのため店の経営は苦しいといいます。
避難が長引くにつれて飯舘村では大きな問題が起きています。
若い世代と親の世代でふるさとに帰るかどうか意見が分かれているのです。
震災前北原さんは飯舘村で子どもと両親合わせて6人で住んでいました。
しかし現在一緒に暮らせる大きな住居に入る事ができず夫婦と両親は別々に暮らしています。
2人の子どもがいる北原さん夫婦は飯舘村の除染が終わったとしても帰らないといいます。
しかし北原さんの両親はふるさとの飯舘村に帰りたいと思っています。
飯舘村は当初2年で帰村する目標を立てましたが除染が進まず見通しははっきりしていません。
こちらは飯舘村の皆さんにアンケートをした結果なんですが「除染が終わったら村に戻りたいかどうか」というものです。
20代までの方は戻りたいと考えている方が2.4%。
非常に少ない割合です。
一方で戻らないともう決めているという方が63.4%いらっしゃいます。
これが年代が高くなるにつれ逆転していくんですね割合が。
やはり60代の方は3割近くの方が除染が終わったら戻りたいと思っているという事なんですよね。
福島から外へ出た人と残ってる人の分断とそれからこの飯舘村のようにお年寄りと若者との分断とそれから20kmゾーンの中で補償がもらえている人と20kmのほんのちょっと外のために補償が違うというそういう分断と。
福島は見えない放射能のためにいくつもの分断が起きてまとまりがあったふるさとが今大変な土俵際にいる。
でも人間にとってはものすごくふるさとって大事なものだからここをなんとかしてあげないといけないって感じがしますよね。
何かコミュニティーがなくなってバラバラになったような気がするんですよね。
だからやっぱりその…仮に一緒に住まなくても幸せな家族の在り方ってあると思うんですよね。
世代によってね。
だから例えば若い人たちはある程度の何十km先に一つの集団的なアパート住宅がありそしてまたそこにつなぐバイパスみたいな車で本来は1時間かかるところを20〜30分で行けるようなねそういう計画を立てていくのも一つのコミュニティ−の在り方じゃないかなっていうふうには思いますけどね。
高橋さんねチェルノブイリに飯舘村の若者が行きたいっていうんで僕連れてったんですよ。
その若者がおやじやおじいちゃんの世代とは絶対考え方が一緒にならないって初めはケンカ別れみたいになりだしてたんだそうです。
だけど飯舘村のよさは自分たち若者もよく知ってておやじやおじいちゃんたちがつくってきた文化を継承していかなくちゃいけないんじゃないかって若者たちが言いだして。
でおじいちゃんたちが何か冬野良作業をする時にほっかむりしたりするそのほっかむりのしかたが何種類もあるらしくてそれを教わっておこうじゃないかとかおばあちゃんからどぶろくやみそ造りのしかたをちゃんと教わってその教わる事を通して飯舘村に残ってきた大切な文化をね若者とおじさんの世代とおじいちゃんの世代たちが共有し合おうっていうムードが出だしてきてこれはとってもいい事かなあって。
だけどどこに住むかは違うんだって言うんですよね。
でも先生が今おっしゃるとおり文化っていうものを中心に持ってくると距離感っていうよりも心の絆っていうんですかね距離では分断できない家族の絆ってあると思うんですね。
自発的に親のカルチャーいろんなものの伝統を引き継いでいく。
またそういう親のしつけとかそういうものを教わっていくっていう姿勢っていうのはすばらしいですよね。
もう一つ大事なものがあって家が大事なんじゃないかなって思うんですよね。
今3年たって二番底が危ないって言ってるようなのはやっぱりまず家がちゃんと与えられていなくていまだに仮設住宅に多くの人たちが住んでて少なくとも公営復興住宅ってまだ2%ぐらいしか出来てないって…。
そうですね今復興住宅の完成が2%という数字になってます。
2%ですからね。
あの…2つの面が必要だなと。
先生がおっしゃった家。
絶対必要だと思うんですよね。
もう一つ精神的支柱っていうのか何て言うかその支えていくものこれがやっぱり家だとしたら家族。
この家族の絆。
そして共有していくそして支え合っていくっていうこの家族だけはなんとか分断しないようにしていくって事って大事じゃないかって思ってます。
そうなんですよ。
被災地ものすごく心が疲れてるだけじゃなくて体も疲れてる状況でこの体と心を癒やしてくれるものは何かっていったらやはり3年たった被災地でどう生きがいを持ち続けどう絆をもう一回豊かに結び直していくかという事が大事なんじゃないか。
その事を僕たち全国の人たちが東北の人たちを見守りながら応援できる人たちがやっぱり応援し続ける事ってのが今こそ必要なんじゃないかなって気がするんですよね。
あの…「東北人は我慢強い」。
確かにそうですけどもやっぱり3年もたつともう我慢しなくていいんじゃないかなってある意味で。
側面で考えると逆にリクエストしてね「東京の方にはこういう事してほしいな。
大阪の方にはこういう事してほしいな。
九州からこういうの送ってほしいな」。
どんどんこうリクエストしていくぐらいの事でいいんじゃないかなって僕は同じ東北人としてねそう思いますね。
東日本大震災から3年。
改めて証言者の方たちと会って皆さんの置かれている現状や被災地の抱える問題を考えてきました。
鎌田實さん高橋ジョージさんありがとうございました。
ありがとうございました。
2014/03/08(土) 16:00〜16:45
NHK総合1・神戸
いつか来る日のために「証言記録スペシャル まだ先が見えない」[字]

東日本大震災の証言記録「あの日わたしは」で紹介した人々を再び訪ね、再建の険しい道のりや癒えない心の傷など、震災から3年たった今、被災者が抱える問題を見つめる。

詳細情報
番組内容
東日本大震災に襲われたとき、人々は何を思い、どう行動し、生き延びたのか。「証言記録・あの日わたしは」では、これまで350人余りの貴重な体験談を放送してきた。震災から3年たった今、その証言者を再び訪ね、どんな暮らしをしているのか取材した。被災者たちは険しい再建に奔走し、放射能と闘い、そして癒えない心の傷と向き合っていた。先の見えない厳しい状況が続く中で、被災地が直面する課題を見つめ、対応策を考える。
出演者
【出演】諏訪中央病院元院長/医師/作家…鎌田實,高橋ジョージ,礒野佑子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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